序幕

 

 

 面会は月に一度、十分間だけ、五人まで。

 面会室に立会いは居ない。でも中央の仕切りはすりガラスに声を通すための細かい穴が開いているだけで、面会者は相手の顔を見ることも手を握ることも出来ない。

 その日は義兄も実兄も、姉も甥姪も来なかった。親戚に不幸があって、という理由はあったが、もしかしたら彼の親族たちは気を使ってくれたのかもしれない。いつも面会室の後ろで彼らに遠慮しながら、彼らと話す声を寂しそうに聞いている若者に。女の子みたいに優しい顔立ちをして、少年期を脱したばかり、まだ線の細い容姿の若者は初めて、面会室の椅子に腰をおろした。

 いつもは勧められても立ったまま、挨拶くらいしかしない。身内の前では出来ない話があるのだろう、と、親族たちは薄々察していた。

「ひじかた、さん」

 向こう側に居る人が世俗を棄てて、じき一年になる。

「あんたいつまで、こんなとこに居るの?」

 自分を、仲間を、棄てて修道僧になんかなろうとしている薄情な裏切りを、憎んで恨んで、でも、なのに。

「俺のことまだ怒ってんのかよ」

 恋しい。

「元気だったか?総悟」

 聞こえてくる声は朗らかで優しい。

「病気でさ。寂しくて死にそう」

「彼女つくれよ。誰かに紹介してもらえ。じっとしてたって女は出来ねぇぞ。そういう意味じゃ近藤さんは、アテにならないからな」

 部下にカワイイ女の子を紹介したり、見合いを持ってきたりする甲斐性はない。

「自分で言ってて白々しくって、舌噛みたくならねぇ?」

「俺はもう、なんにもしてやれねぇんだ」

「簡単だよ。出てきてくれりゃあいい」

 そこから、こっちに。手が届くところに。

「ハンセーしたよ。もー二度と逆らわないから」

 帰ってきて。

「一生なんでも、言うこときくから。……頼むから」

 戻ってきてくれ、と、願う若者は憔悴しきっている。二十歳を越えたばかり、人生で一番華やかな時期の一年を苦いばかりで過ごした。

「総悟」

 擦りガラスの向こう側で苦笑する気配。若者の胸には憎しみが湧いた。苦笑いでも誤魔化し笑いでも、笑うのだこの人は、こんなに苦しんでる自分を。

「お前がそんなに俺を好きだとは思わなかったよ」

「……ウソでしょ」

「いや本当に。シャバに居た頃、もっと可愛がってやりゃあ良かったよ」

 ウソだ、嘘つき。白々しいにもほどがある。そんなこと少しも思ってないくせに。

「出てきて、くだせぇ。頼むから」

 でも糾弾はしなかった。それどころではない。

「あんたの片思いあざ笑って悪かったよ。俺の指でも首でも、詫びにやるから、考え直してくだせぇよ……ッ」

 若者が必死なのには理由がある。今はまだ俗世の姿で仮出家。でも一年を経過して本人の決意に揺るぎがなくて、素行に問題もないと寺院側が判断すれば正式な出家者になる。なってしまえば、もう後戻り出来ない。こんな面会も許されず、ほぼ一生を寺の中で過ごす。

「俺ぁただ、あんたがあんまり……、だったから、ヤキモチ焼いただけなのに、こんな仕置きは、ひでぇよ……ッ」

「総悟」

「ごめんなさい。……許して」

「お前に怒ってこんな真似してんじゃない」

「……ウソだ」

「自覚のきっかけだったこたぁ確かだが、お前は嘘を言ったんじゃなかった」

「あの時の」

 一年と、もう少し前の出来事。

「自分を縊り殺したいよ」

 舌先に乗せた短い言葉が相手の胸の弱みを刺し貫いて、こんなことになった。

「お前は本当のことを言っただけだ」

 硬質な半透明の板の向こうで、想い人はまた笑う。

「怒ってない。むしろ感謝してる。お前のおかけで、思い切りがついた」

「やっぱり、オレのせぇ、ならもう、頼むから……ッ」

「泣くなって総悟。お前にもいい区切りだ。性質の悪い遊びは止めて、ちゃんとした女捜せ」

「あんたを好きだよ」

 泣きながら喘ぎながら、この一年で嫌というほど思い知った事実を告白する、若者は必死。

「あんたのタメならナンでもするから、もーこんな仕置きは止めてくれよッ」

「総悟泣くな。目が腫れるぞ」

「そんな返事を聞きたいんじゃねぇよッ」

「さよならは出て行く時に言ったろ」

 責任ある地位に居た。だからキチンと、退職願を提出して引継ぎを済ませてから俗世を出た。若者はその数ヶ月間、イヤミを言いながらも退職を止めはしなかった。翻意させようと必死だった近藤勲や山崎と違って、にこにこ送り出すような素振りさえ見せた。

 どうしていいか分からなかったからだ。

 サドだから打たれ弱い。ガキだから経験がなくて、どんな態度をとったいいか分からない。出て行くとこの相手が言い出した原因は別にある。でもきっかけが自分だという事は分かっていた。出て行くことを勝手に決めた腹立ちに臍を曲げているうちに引継ぎの期間は過ぎて、あっという間に、別れの時が来て。

 ガキだった。だから拗ねているのに自分の機嫌をとってくれない相手を恨んだ。それでも隊を出て、故郷に帰るだけだと思っていた、のに。

 真撰組の屯所から真っ直ぐ、こんな所に入られて。

 顔さえ見れなくなるなんて想像もしていなかった。

「ごめん、なさい……」

「だから、お前が謝るこたぁねぇって言ってるだろ。俺はただ、俺の女々しさにうんざりしただけだ」

 自覚したのはこの若者に指摘されてだったが。

「あんたが居ないと、俺生きていけねぇよ?」

「なにらしくねぇナキゴト言ってんだ」

「打ちのめされたから。夢の中でも後悔して、いつもあんたに、泣きながら謝ってる」

「何をそんなに悔いてるのかいまいち分かんねぇが」

「あんたを傷つけちまったことをでさァ」

「許してやるから、もう思い詰めんな」

「帰ってきてくれなきゃ許してくれたことにはなんねぇよ」

「それとこれとは別の話だろ」

「おンなじだよ。俺にとってはサ」

「一度決めたことだ。帰らねぇが、俺もお前を愛してるし」

「ウソつくんじゃねぇよ」

「好きだし、可愛かったぜ」

「一生アンタに尽くすから帰ってきてくれよ」

「そんな台詞は、もっといい女にとっとけ」

「このまんま、本気で墓に入るつもりなのかよ」

 一生もう、二度と会えなくなる。それは死と同じ。

「近藤さんがあんたのこと選ばなかったからって、そんなのひでぇあてつけなんじゃねぇの。近藤さんだって言葉にしないだけで内心、あんたに見捨てられたって思って落ち込んで、あぁいうお人だから理由は分からないけど自分が悪かったんだろうなって、ずっと苦しそうで」

「違うって言っといてくれ」

「ことば、なんか……ッ」

 なんの意味もない。

 それは自分のこの、謝罪も同じだろう。

「ごめんなさい」

 でもこの人を思い詰めさせたあれも言葉だった。それも短い、ほんの一言だった。

「ごめん、なさ」

 震え声の謝罪を鐘の音が覆う。

 十分間は余りにも短い。

「元気で。みんなによろしく伝えてくれ」

 そんなありきたりの挨拶を残して席を立つ、むかし馴染みで、情人だった人に。

「あんた俺を殺すんだね」

 言わないでおこうと思ったのに。

「何年も俺を身代わりに使っといて、玩具みたいに、俺を棄てるんだね」

 唇から恨み言が零れる。それが本音だった。

「許さねぇよ。一生怨んで、呪ってやるからなぁ、ヒジカタ……ッ」

 冗談ごとではすまない怨念が篭もった恨み言を。

「ちゃんと覚えとくよ」

 あっさり受け止めて、そのまま部屋を出て行こうとされる。

 ガラスは防弾。叩いても割れない。

 絶望は、拒まれている分、姉の死よりも深かった。

 

 

 トカイッテホントハヨロコンテルクセニ。

 

 寝床の中で、事後の甘い倦怠を堪能しながら、煙草を吸う横顔を眺めながら。自分がたった今抱いたオンナの美貌に見蕩れていた若者は、その唇から別の男の名前が出てイラっとした。

 近藤勲が女に振られた。いつものことだった。それを話すオンナの表情が柔らかくて、いつものことだが内心でほっとしているのだと分かったから。

 オンナは返事をしなかった。若者は気にせずそのまま眠った。そこはオンナの部屋だったのに夜明け頃、目を覚ましたらオンナは隣におらず、あれ、と思って部屋を見回すと、夜着のまま部屋の奥、机の前で壁にもたれてぼんやり、物思う風情。

 寝巻き代わりの長襦袢のまま、そうしている姿はつやっぽくて、長い睫が障子越しの朝日を受けて深い翳を作っていたことまでありありと覚えている。

 眠った様子もないその姿に違和感は覚えた。

 寝床の中からどうしたんですかぃと尋ねた、返事は別にと、たった一言で。

(嘘つき)

 夜中、一人で考えて決意して、覚悟を決めたに違いない。

 証拠に陽が昇り屯所が動き出すなり、非番の局長の部屋を訪れて、退職を申し入れた。

 それきり、部屋にも入れてくれなくて。

 年上の情人に何年も甘やかされてきた若者は、ダメだと言われればくちづけも出来ないのだと、理解するまでに時間がかかった。棄てられるのだと分かって、ショックを受けて萎縮している間に、目の前から消えられた。

 たった一言の失言。その罰にしては重すぎる罰だ。

 ひどい、と怨んでいるのは本当。呪ってやりたいのも本心。でもごめんなさいという悔恨も決して嘘ではない。

 まだ信じられなくて、夢なんじゃないかと時々は思っている。子供の頃から知っていて、甘えればなんでも叶えてくれて、欲しいと言ったらカラダまで好きにさせてくれてた人に、こんなにあっさり棄てられてしまうなんて。

 

 ふらふらしながら面会室から出て、建物の外に出た。駐車場では車と一緒に観察の山崎が『副長代行』の若者の戻りを待っていた。警備員らしい男となにやら喋りながら。

「沖田代行、お疲れ様です。土方さんは、どう……」

 でしたかと、続きは聞けなかった。聞くまでもなかった。この強情でしたたかな若者が近づくなり肩に手を掛けて、額を押し当てて、ぼろぼろ。

「沖田、さん」

 声も出さずに泣いている。

「……」

 慰める言葉もなくて、山崎は若者の背中を撫でてやった。