罪・4

 

 

 初めて抱いたときは内心、ぎくりとした。

相手が『はじめて』かと思って。

そうでない事は事後の落ち着きで分かったが、男を戸惑わせる無垢さは何年たっても変わらない。ウブというよりも素直過ぎ、ふわりと自身を委ねてくる様は歳のいかない生娘の度胸にも似て男を戸惑わせる。

 今も。

 男の腕の中で男の肩に軽く手を掛け、狭間に楔を受け入れながら喘いでいる。眉根が寄って少し苦しそう。だが圧倒的に気持ちがいいのだろう。目尻が蕩けて薄く開いた唇からは、声というほどではないが色づいた息が漏れている。

 初めて抱いた日からはもう十年近くが過ぎた。互いの状況も立ち位置も変わった。変わらないものもある。ぎくりとするほど骨細のカラダは少しも変わらない。本当の女ならどんなに細身でも持っている曲線の幅がこの相手の骨格にはない。

したたかで豪腕、時代の凶兆児にして起爆剤、敵も多いが熱狂的な支持者も多いこの相手だから、抱きしめた肩の細さに毎回、はじめてのように驚く。腰骨は片手で一掴み出来るほどの薄さだ。

昔の事は、あまり話さない相手だが。

政敵だった桂が何処か甘かった、理由はこの辺にもあるんじゃないかという気がする。二人とも年齢不詳で実年齢を未だに知らないのだが、態度は明らかに桂の方が年上。反目と裏切りを繰り返してきたかつての『仲間』に、攘夷穏健派頭目として今では政府高官に成り上がった桂が見せる態度は甘いほど優しい。

今は病弱ではなく、知っている十年間で具合を悪くしたことは、風邪をひいて寝込んだのが二・三度しかない。

もっと昔は身体が弱かったのかもしれない。その頃の癖が桂からは抜けていないのかもしれない。この相手に対する桂の態度には庇う過保護のウザさがあったし、今もある。旧師の法要や記念館の竣工、顕彰活動の式典があるたびに自筆の招待状が届く。優しい誘いの言葉とともに。

受け取るたびに数日は眺めて、静かに何かを思っているこの相手が不安だ。いつも返事はしないし、この寺から出ることも絶えないけれど、何を考えているのか男にはよく分からない。

「……、ン……」

 波が高まって縋りつかれた指先に力が篭もる。応えてぐっと肩に力を入れると鍛え上げられた男の筋肉の束に抗しきれず、指先が皮膚で滑った。シーツに落ちた片手を素早く捕らえて指を絡める。もう一方の手を背中に廻して胸を重ねる。腰を引き寄せる。泣きじゃくるのに構わずもっと深く、この刹那だけは本音の欲望をぶつける。

 昔のことは知らない。今の心の中も分からない。ただ一つだけ噛み締める奥歯の隙間でギリギリと軋む本心は。

 俺のオンナだ。

 そうしてもう一つ、踏み込んだところでは。

逃がさない。

 という、凶暴な決意が牙を鳴らす。

 手離さない。何所にも行かせない。一生ずっと、ここに居ればいい。どうせ『外』はこの相手を傷つけるのだから。

 あんなに一生懸命、旧師とやらを愛していたのに。復讐を諦め現実を生きていくかつての仲間たちを、まるで身食いするように痛がりながら憎み切り捨ててきたのに。

 時代が掌を返せば、『英雄』の周囲で甘い蜜を吸うのは遺族や縁者ばかり。亡くなった当時は五歳にも満たなかった甥っ子が得々として叔父を語り、攘夷志士の取締りが厳しかった頃には息を潜めていた妹婿が一番弟子だったような顔でのさばる。罪を得ていた時代には義絶の届けをだし連座を免れた血縁者たちが、口を拭って時代の寵児として扱われる様は、男から見れば笑止だ。

 が、歴史はいつも、そんなものかもしれない。

 その思想も信念も理解しない者たちが、文句を言えない死者を派閥の象徴として都合よく扱う。桂は旧師の顕彰活動には参加しつつ、あまりの神格化に反発もして、らしい反撃を試みている。旧師の遺稿や遺文を編集・出版した分厚い背表紙の本は学術的評価が高く研究者には歓迎された。が、『世間』には小難しい理論派の演説より三文芝居じみた分かりやすい小話の方が、ウケル。

 同じ愛弟子でも、桂には反発するだけの正義感も元気もあった。旧師の名声が利用さていることに明敏に気づき、しかしそれを喜ぶ遺族の心情を理解して顕彰活動には参加しつつも方向転換を試みている。目端も利くが気配りもきいた桂らしい対応。

「ン、っ、ぁ……ッ」

 熱を、注ぐ。

 身悶えながら泣きだす、この相手の、場合は素直すぎた。

 松陽塾では桂に次ぐ二番手もしくは三番手、少なくとも五指に入る俊英だったのに、顕彰活動では圏外に置かれて。

 桂が気を使って自分の隣に招いても、その席自体、遺族席よりも下で。

 そこで桂は活動の本質を見抜き反発した。この相手は現実を事実として受け入れてしまった。一途にあんなに旧師を愛していたのに、旧師からは自分が思うほど愛されていなかった、のだと。

 思って絶望して、過ごしてきた時間もやってきたことも、自分自身さえ意味のないものと感じて。

 消えそうになっている腕を掴んで引き止めた瞬間、なんとなく続けていた情事は抜き差しならなくなった。肌を重ねて情を交わす行為は同じでも意味が以前とは全く違っていることに。

「……重い」

 この相手は気づいているのか、どうか。

「あぁ、申し訳ない」

 全身で押さえつけていた男はわざとだった。が、苦情を言われて気づいたふりをして、肘をつき上体を起こす。繋がっていた楔をそっと引き抜いて、使ったゴムを外す。

「よせ……」

 慣れた仕草で片手で後始末しながら男は頬を寄せる。相手は嫌がって顔を背けたが表情は不快そうではない。今夜ははじめからひどく機嫌がいい。証拠に腕の中から離したがらない男を押し退けず大人しくしている。

「写真をとってもよろしいか?」

 枕元に置いた煙管を手に取ろうとしていた相手の、指先を捕らえて引き寄せくちづけた。代わりに煙管を自分が手に取り、咥えて火を点け、煙がのぼったところで渡してやる。煙管はふかすのに手間がかかるので、吸いつけはよく行われる。

「……売れるのか?」

 敷布の上に腹這い、裸の肩越しに振り向く顔には独特の華と毒があって、ただ綺麗なだけの若い女には到底望めない迫力、凄みがあった。高値で売れるだろう。

「何を考えておられる。来島殿が来れなくて残念がっていたからでござる」

「お前らまだ姓で呼んでんのか」

 煙管を吸いながら細める隻眼の目尻は赤い。片目の傷跡も上気しているせいで真っ赤に浮かび上がり、痛々しくも扇情的に見える。

 男はそっと生唾を飲みこむ。

「おかしな夫婦だ」

「艤装結婚でござるからな。すくすくと育っておりますよ太郎殿は。ちょっと今日は熱を出しておりましたが」

「ホントにその名前つけやがる、お前らは面白い」

「よい名ではござらぬか。簡単で覚えやすくて、何よりも晋助とのがつけてくだされた名だ」

 腕の中で肌がゆっくりと冷めていくのを、男は惜しみながら撫でる。

「名づけ『親』としてでよろしいので、会ってやってくださらぬか。一度だけでも」

「会わない方がガキの為だと思うぜ。会って似ちまったらおおごとだろ」

煙管の紫煙を美味そうに吸った相手は白煙を勢い良く吐いた。その先には大きな花瓶が床の間に置かれている。

「いい匂いでござるな」

 花瓶の開口部いっぱいいっぱいに、黄菊の束が突っこまれている。多分、突っこんだのはこの部屋の主人だろう。他の者ならばもう少し考えた活け方になる筈。

「また子に持って帰れ。食っても美味いらしい」

 それは葬儀の花。女子供に贈るには相応しくない。けれどこの相手の子を産んだ女は受け取って悦ぶだろう。愛した相手がくれるものだから。

「西農場にお気に入りがおられるとか」

「あぁ。見てて飽きない」

「危険ではござらぬか。アレでござろう?真撰組もと副長の」

「昔馴染みの、もとイロなんだ」

 以前は決してしなかった『むかし』の話を時々だが、懐かしそうな顔で話すようになった。

「趣味変わったなぁあいつ、と思って最初は眺めてた。けっこうでかいしな、あれでネコかよ、って」

「遠目に拙者も眺めもうしたが、確かにカラダはよろしい。二尺八寸の長太刀を振り回していただけのことはござる。本物の目にはたまらぬ腰つきでござろう」

「たまらなかったか?」

「……多少」

 男の言い方がおかしかったらしい。相手はくっくと喉の奥で笑った。

「よく見りゃ似てる」

「どなたに?」

「バカがつくぐらい真面目な努力家だ。結局、そういうのじゃないと、なんにもできやしねぇらしい」

 最後の言葉が意味深長だった。自分はそうではなかった、と言っているように聞こえて。

「晋助殿」

「ちょ、よせって、もう」

「願い入る」

「バカかお前は……」

 再度の抱擁を求める男から逃れようと身体を浮かした相手は、自分を乞う男の声音があまりにも真剣で、つい、動きを止めてしまう。

「日に一度は西農場に顔を出して言葉を交わして」

「……、ん」

「楽しそうに笑っておられると聞き申した」

「……、ゆ、かいにはチガイ、ないさ……。フツーに話しかけたら返事する、んだぜ、狗が」

「手元に置かれるおつもりか。拙者よりあの二枚目をお好みか」

「バカ、な……、っあ……ッ」

「うらめしゅうござる」

「ち、が……ッ」

 重なったカラダの隙間で男の手が動いている。何をされているのか、かぶりを振りながらのけ反った相手を、男は許さず、追いかけて唇を重ねた。