うさうさ物語・22
「はよございますー」
平和な朝に、あっけからんとした若い男の声が、した。
「親父さーん、はよございまーす!」
「……聞こえてるよ、待ちな」
地元では知られた豆腐屋の主人が、のっそりと姿をあらわした、午前八時。
豆腐屋にとっては朝の一仕事を終えて、休息の一時。
それは、農家のあんちゃんにとっても同様だ。
「早いな、にーちゃん。朝メシ喰ってんだ。ちょっと待ってくれ」
「いや、俺ぁ、これを届けに来ただけですんで」
JAの長靴姿の、日光麓の大規模農園の跡とり息子は大きな買い物袋を左右に二つ、計四つ、提げていたのを主人に差し出す。袋はそれぞれパンパンに膨れ、林檎や白菜、大根、ニンジン、ゴボウにブロッコリー、青菜がぎゅうぎゅうに詰め込まれはみ出していた。
「いいけどよ、あんたもアレだな、奇特なこったぜ。うさぎに野菜、届けるために週一で、栃木から通って来るたぁな」
「いぇ、俺ぁ週一で、軽井沢に、野菜届けに行ってんです。長い付き合いの旅館さんが碓氷にホテル、建てまして。そのついでに寄らせていただいてます」
「あぁ、なるほどな」
「あと、これ、親父さんに、どうぞ」
「あん?」
「地酒です」
足元に置いていた一升瓶を持ち上げて差し出す。『吟醸・中禅寺』と書かれたラベルに、主人は頬を緩める。そして。
「朝メシまだだろ。一緒に食っていかねぇか」
「いえ、俺は」
「腹、減ってる運転してっと、事故るぜ」
「ご迷惑じゃねぇですか?」
「朝メシぐれぇ、どーってこと、ねぇよ。上がりな」
「は。じゃあ、御邪魔させてもらいます」
店の上がり口に長靴を脱いで、清二は古ぼけた木造住宅の中へ。振り向いて長靴を片寄せ……、そして。
茶の間で、中座した主人をちょこんと、座布団に座って待っていた、
「うさぎぃ〜」
毛玉を見るなり、顔がとろける。目鼻が崩壊して、目尻が二センチは下がった。
「うさぎ、うさうさぁ〜。元気だったかぁ〜?」
ん〜?と、清二はうさぎを抱き締めようとした。
が、うさぎはそれを拒むように、自分の前に置かれていた子供用の茶碗を清二に前脚で押し遣る。
茶碗の中は、空になっていた。
「お代わりかぁー!よぉし、ついでやるぜ!いっぱい食べろよぉー!」
いそいそとお櫃のフタをあけ、清二はうさぎの茶碗にゴハンを盛ってやる。清二のために豆腐とネギの味噌汁を温めなおしていた主人の、
「……うちの息子の知り合いにしちゃ、まともなアンチャンだと思ったんだがな……」
ぼそっと、低く呟いた声は、
「うさうさー、ゴハン、うまいかぁ?ン?んんー?」
豆腐のおカラとゴハンを交互に、食べるうさぎに夢中で話し掛ける清二の声に、紛れた。
「寂しくなったら、すぐ電話、しろよなぁー!迎えに来てやるからな!いっぱい野菜、持って来たから、可愛がってもらえよぉー!」
「ほら、メシだぜ」
主人が盆に載せてきた、味噌汁と漬物、納豆に海苔、生卵とシシャモを受け取り清二は、
「ありがとうございます」
礼儀正しく、頭を下げる。いただきますと手をあわせてから箸をとる。
うさぎは、耳を揺らしておからを食べ続けていた。
豆腐好きの近所の住人が朝食用に、作りたての豆腐を買っていくのは早朝六時から八時くらいまでの間。それから昼まで、店は開けているが客は殆どおらず、暇になる。糸目の豆腐屋の主人は茶を煎れて、茶の間のちゃぶ台の前で新聞をひろげた。と、片隅で手足を舐め、毛並の手入れに余念のなかったうさぎがぽてぽて、畳を踏む小さな音をたてよってくる。
「ん?」
主人が顔を上げると、うさぎは手前で立ち止まり、耳を揺らしながら尻尾をふるふると震わせている。
「なんだ……?」
主人が問い掛けると、うさぎはいっそう、激しく耳を揺らす。近くに行っていいですか。そんな許可を、願っているように見える。
「来な」
主人は新聞を持ち上げ、胡座をかいた自分の膝を叩いた。うさぎは嬉しそうにトテトテ、小走りで主人の膝に納まった。柔らかな毛皮と温かさが伝わる。
「まぁ……、カワイイがな」
読みにくくなった新聞をちゃぶ台の上に置き、目を当てながら主人はうさぎの背中を撫でる。うさぎは嬉しそうに体の力を抜いて、全身で甘ったれる。
「あんた、昔、赤城でブイブイいわしてた美形サンのトコのうさぎだって?」
うん、そでし。そん風に、うさぎは頭を主人の膝にこすりつけた。
「うちのが随分、美形サンには世話になったんだぜ。いろんな意味でな」
糸目の奥に、過ぎた時間を懐かしむ色が浮かんだ。
「俺も昔はちったぁ、あの世界の水を飲んだが、俺は俺の時代の水場しか知らねぇ。時代が違えば流れも違ってる。何処が甘くてどう苦いか、もな。あいつぁ苦い水も飲んだが、甘いだけじゃないこともあんたの飼い主に、教えられて、でかく育ちやがった」
うさぎは興味深そうに、主人の話を聞いている。
『このうさぎ、言葉が分かるんだぜ』
預かってくれと持って来た小動物を手渡しながら、息子は父親にそう言った。馬鹿いいやがれ、動物が人間様の言葉をわかるかよと、本気にしなかった父親に向かって、
『世間が狭いぜ、親父』
生意気な息子は自慢そうに言った、。
『動物は人間の言葉が分かるんだぜ。それを人間が、なかなか分かってやらねぇだけ、さ』
『ま、おめぇのヘッタクソな英語が世界中で通じるぐれぇだからな』
父親の言葉に怒って、うるせぇよッと怒鳴った息子は気づかなかった。生意気なセリフを投げられた瞬間の父親が、とても優しく、糸目の奥で笑っていたことに。
そして、実際。
話し掛けると、うさぎは理解した。しているように、確かに見える。メシだと言えば駆けてきて、寝るぜとい言うと布団の中に来る。朝、起きると一緒に起きようとするが、寒いからまだ寝ていろと告げるとごそごそ、暖かな布団の中に戻る。二日目の朝、湖の上への配達に行こうと豆腐を積んでいると、起き出して来たうさぎがまるで、連れて行けと抗議するように廊下の床で後足を跳ねさせて大きな音をたてた。
「うちの拓海にも、あんたみたいにちっこくて、俺の膝に懐いてきた時代があったんだぜ。生まれた時はなんにも知らなくて、な」
うさぎは、耳を揺らした。自分もそうだと、言っているようだった。
「教えてやったさ。知ってることは全部。親だからな。でも親が教えてやれねぇこともある。時代ってやつがソレだ。あいつぁあいつの時代の中で生きてかなきゃならねぇ。それは、自分でナンとか、知んなきゃなんねぇんだ」
煙草吸っていいかと主人は問いかけ、うさぎはどうぞ、という風に腹を見せる。胸ポケットから取り出した煙草を咥えた後で主人がライターを探していると、うさぎは膝からぽてんと降りて、ちゃぶ台の下におちいてたライターを拾って主人に差し出す。
「ありがとよ。いいうさぎさんだな、おめぇさんは」
美味そうに白い煙を吸い込んで。
「親に世間を、教えれるよーになりゃ上出来だ」
かすかに頬を緩ませながら、呟く。
「親以外からナンかを、教えてもらえるよーになりゃ、一人前さ。なぁ?」
煙は白く、緩く古ぼけた天井に上っていく。
ある日のうさ日記・うさうさ、文太パパと仲良し。