W・W



 油断していた、というべきか。甘ったれていたか。

 愛や将来を誓い合ったわけじゃない情人。だけどセックスフレンドというには寄り添っている感覚。情愛はなくても信頼は深い。もしかしたらこの世で一番、信じてる相手。
 だから乗った。招き入れられた車内に。無理強いされるなんて夢にも思わなかった。体の関係が出来上がってそろそろ十年。波風も嵐もあったが我儘を、いうのはいつも自分の方だった。身体も気持ちも歪んだかかわりの中で、いつも、この男は不利を背負ってくれたから、いつしかそれが、当然のことに思えた。
「……、いち、京、一」
 だから信じられなかった。半ば以上、強引に連れ込まれたホテルで、一方的に服を剥がれても。だってその前に確認をされたから。弟が日本に帰って来ているということ。多分、今日か明日か明後日か、顔を合わせるだろう事。
 半年振り、くらいに日本に戻った弟と、会えばベッドに入るだろう。だから今日はヤバイと、そんなのは今更、言葉にしなくても分かってくれている筈だった。
「止め、なぁ、頼むから」
 今日はやめてくれ。今日だけでいいから。
 多分もう、こんなことは、ないから。
 華やかなレースの世界に身を投じ、マスコミにも頻繁に登場するようになった弟。野性味の強い端整なマスクと長身の体躯とで女性に、とても人気がある。女をスキで女に好かれて、恋人の噂が絶えない。今日は女優、明日はモデル。
 アニキが好きだアニキだけが好きだと、言い続けていたのは昔まだ、あれが雛だった頃。柔らかな羽根が生え変わり翼が伸びて、飛び立った今、自分だけのものにしておくことは、出来ない。それは最初から分かっていたことだ。禁じられた恋などいつかは終わるもの。その時が来ただけ。たぶん今日か明日か明後日か、あの愛しい相手とは別れる。
どんな形になるかはまだ、分からない。彼女を紹介されるか、止めるとはっきり言われるか。どんな形でも良かった。歪みも不利も、全部自分が引き受けるつもりではじめた関係、超えた一線だった。たとえ最初に乞うたのが弟であったとしても。
 弟はあの時、十九だった。そんな歳の言葉で一生を、縛れるなんて想っては居なかった。受け入れた自分にこそ責任が、あると想っていたから、弟が望むときに望むように、終わらせるつもりだった。けれど。
できればもう一度だけ夢を見たい。半年前の別れ際、そっけなかった背中に既に別離を予感していたけれど、最後にもう一回だけ夢を見たかった。一生抱いて暖めるための記憶。でもそんな、悪女の深情けみたいなのは、弟にはうざいだけだろうか。
でも、とにかく。
今、この男と寝れば痕跡が残る。女と違うこの身体は、雄を刻まれれば数日は消えないあとが残る。そんなものをつけて会うのは嫌だった。最後の逢瀬の機会さえ逃すことになるから。
「イヤ、なぁ京一。頼むから……」
 怒っているのか、当たり前だけど。
 お前を都合よく利用していた俺を。
「今日だけは止めてくれ。……たのむ」
 後は好きにしていいから。
 この身体をどう扱ってもいい。必要なくなるものだから。あの弟に愛してもらえない肉体に価値はない。要るなら、やるから、頼む。
 今日だけは、ヤメテ。
「泣くな。目が腫れちまうぞ」
 囁く声の低さ。暴れる以前の予備動作の段階で押さえつけられる身体。肩も腕も背中も逞しくて、どこもかしこも頑丈で堅い男。あの弟さえ居なければこれと愛し合っていたかもしれない。愛し合えていたかも知れない。たぶん今より幸福だったろう。けれど。
「暴れるな。痕のこっちまう」
 ひくっと身体が震えた。一番奥の、一番脆い場所に指が差し入れられて。
「……キョー、」
 子供のように甘えた声が出た。
「力ぬいてろ。俺が痕、残すようなヘマ、すると思ってんのか」
 男の動きが止まる。力を抜くのを、まってる。
「あと、残らないか……?」
 辛うじて泣いてはいないけど潤んだ瞳で涼介は問い掛けた。愛されている事を承知の、ずるい動作だった。ずるさを京一は穏やかに受け入れる。
「弟にゃバレねぇようにする。力、抜け」
 傷が入っちまうと呟かれ、努力して涼介は腰から強張りを消した。緩んだ中に指が深くを侵略する。あぁ、と耐え切れず熱い吐息が漏れるのは、止めようのない反射。
 身体でいうなら、こっちの方が、イイ。半身みたいな弟よりも、快楽が深いのは裏切りのような、自分がひどく淫乱なような気がするけれど……、真実。だって扱われる丁寧さが違う。服を脱がす段階からするりと、まるで果物の薄皮を剥くように自然で、うまい。前戯も本番も後始末も、多分本職でもここまではやらないだろうという親切、あるいは恥知らず、綺麗に言えば情熱で、楽だ。わらって寝ていれば気持ちよくなって、あとは身体まで清められて。
「脚はこう……、ちょっちと力、入れてみろ。ん」
「……ッ、んあ、ッ」
「腰浮かせて捻れ、このまんま。……そう」
 けれども今は恨みたい気持ちも少しだけ……。こいつがこんな風だから、与えられる快楽に慣れた身体に、……飽きられた。若い弟にオンナをゆっくりと緩めていく趣味はなく、俺はどう応じていけばいいのか分からず、互いに戸惑って。
 それでも何年かはうまくいった。うまく……、誤魔化せた。弟はその頃も『アニキだけ』というのは口だけで、けっこう女をつまんでいた。隠すつもりでも、身体で分かった。でも黙っていた。自分にも弱みがあったから。愛しい弟が、初めての男じゃなかったから。
 涼介が実の弟を愛している事を、京一は最初から承知していた。だから切れたいと言われた時も頷くだけで、それきり二度と電話はかけなかった。そのくせ五年たって涼介から、唐突な呼び出しがあったときも、
「何処に何時だ」
 三年前と、同じ問をした。それが半年前。別離を予感した時。

あんたって自分からはナンにもしないのなと、弟がはっきり口に出した。血の気が引くのが、自分でも分かった。なにさせたいんだしてやるよと笑えたのは奇跡だ。
「して欲しいんじゃなくってさ。俺にナンか、したいと思わねぇ?」
 愛が足りねぇよと、弟はふざけて笑った。けど、目は、少しも笑っていなかった。
 その時はそのまま、口でくわえて、咽喉で絞ったけれど。弟の不満がそんなことではないのは分かっていた。
 空港で見送って、そのまま京一に電話した。やつ当たりしたかった。ホテルのロビーで待ち合わせ、上に行くかと言われて頷くと、京一はカードキーを差し出し、
「三分したら上がって来い」
 読んでいた新聞を畳んで譲っていった。豪華ではないが機能性に溢れたビジネスホテル。人目につかないためにばらればらに入室。三分のタイムラグの間にあの男はバスの湯をため空調を適温に整える。涼介がやって来れば手を伸ばし上着を脱がしてハンガーに掛ける。そんな男に十八の時から仕えられてきた。
 何も問われず、答えず、ベッドに転がった。美術品を扱う鄭重さと、こっちに満足にほくそ笑む余裕を残した強引さをあわせた手は変わっていなかった。大きな、無骨な、なのに驚くほど器用で繊細な手に慰撫され翻弄され、とかされさされて失墜する。素敵な快楽だった。
 弟と別れたのかと、問われたことはない。ただ弟の派手な女関係は週刊誌を騒がしているから、大体の検討はつけているだろう。言葉にしなくても察していく頭のよさがスキだった。弟に恋さえしていなければ多分、十八で大当たりしたこいつを選んだろう。

 抱かれた、というより弄りまわされた感覚の残る体。
 一度もイかされずに、熱がさめるまで押さえられた。体温と呼吸が平静に戻っていく。
「……なんの、つもりだ」
 尋ねる涼介の声は掠れている。途中で何度も耐え切れず乞うた。もう……、いいからしてくれと。願いはかなえられなかった。男はただ、涼介の項を撫でているだけだった。
「弟と会えば分かる」
 その答えに涼介は顔色を変えた。どこか、見えない場所に痕でもつけられたのかと。
「服を着ろ。送っていく」
「……必要ない」
 涼介の答えに京一は眉を上げた。涼介が笑って、
「このホテルで、今夜、待ち合わせだ」
 答える。部屋は違うけど。
「……」
 京一は吸っていたタバコを消す。ベッドに裸の上半身を起した涼介を、慰めるように抱いた。ふりほどくつもりで上げた手。意志と裏腹に、その手は縋りついた。優しい肩に、逞しい背中に。自分が泊まっているホテルではなく別の場所に、呼び出した弟。多分、滞在中の部屋には呼べない理由があるのだ。あいつの別の、たぶん今は一番可愛がっているオンナが、居る。
「チャンス、とか思うなよ」
 唇から漏れる強がりは不安と悲しみの裏返し。
「あいつに捨てられたからって、俺がお前の掌に落ちると思ったら大間違いだぜ」
「こんな極上品が丸々、手に入るなんざ思ってやしねぇよ」
 嫌味ではなく心から、本心の響きのある声。掌は優しく背を撫でてくれる。二股かけていることを悪いと、唐突に涼介は思う。一応は愛を誓い合った『恋人』の弟より、この情人の方にがきっと悪い。こっちの方がたぶん真剣に、愛してくれているのに、裏切る。
 弟との別離を耐える、為に利用する。
「嘆くな。後で阿呆らしくなるぜ。お前みたいなオンナを棄てれる男なんざ居ねぇ」
きっぱり断言されてようやく、少しだけ笑った。気休めだって分かっているけれど、それでも。

結論から、いえば。
今回の勝負は涼介の負け、だった。
何故ならば。
「もぅ、イヤだって。……酔っ払い」
 須藤京一の言うとおり、弟は涼介にまとわりついて、離れようとしなかった。
慕い寄る大型犬を押しやるように肘で、引き離す。力そのものよりも容赦のない意志に怯んで弟は一旦は身体を離した。けれど暫くたつと、そろそろ機嫌は直っただろうかという風にそっと、鼻先を押し付けてくる。
 うるさく、払った。
「冷たくねぇ?半年振りなのにさ」
 身体でくどく作戦を変更し、おねだりモードに入った弟が甘えた声を出す。懐かしい響きを涼介はベッドで背中を向けたままうっとりと、聞いた。この声を聞くのは何年ぶりだろう。
「ようやく会えた恋人に一回だけの義理寝で終わりは、ひでぇよ」
「義理寝はお前だろ。日本に帰って来て何日たってる」
 さっきまで言えなかった、言う気もなかった苦情が口をついて出る。
「しかも酒なんか飲みやがって」
「スポンサーの義理でよんどころなく、だよ」
「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」
「ちょっとだけじゃねぇかぁ」
「嫌いなんだよ、お前、酔うと、力加減がきかなくなるんだから」
 見せ付けるために起き上がり、シーツの下の腰を晒した。獣の姿勢で貪られたさっき、白い細い腰を捕らえられた指の跡がくっきり残っている。第一関節と第二関節の継ぎ目まで、はっきり。
「分かるだろ、痛いんだ。今日はもー終わり」
「俺が悪いの、それともあんたが白すぎるから?」
「お前が悪いに決まってる。寝るぞ、俺は」
「こんなに指痕、残るの初めて見るよ」
 反省を促すための裸の腰は見事に逆効果。乾ききった獣の飢えを宿らせて、それでも手だけはそろりと、伸ばされる。膨れ上がる相手の衝動を察知しながら気づかないふりで、涼介はもう一度、背中を向けて寝転ぶ。
 復讐だった。半年前の。別れがたくて朝まで抱き合っていたかった涼介に、弟は背中を向けてそれを拒んだ。仕方がなくて背中に頬を押し当てて眠ったあの夜の、復讐。
「色白でやーらかいからかな。身体は締まってんのにあんた、不思議と柔らかいもんな」
 手が伸びてくる。シーツを剥がれる。裸の涼介の背中と腰、真っ白な尻の丸みに正直な舌なめずり。危険を告げる信号を涼介は、天上の福音のように聞いた。
「……大好き」
 伸ばされた手で身体を仰向けに返される。顔も胸も股間も何もかも、視線にさらされて、でも俺は平気だった。平気じゃないのは、見ている方だった。
「……ッ」
 感嘆を通り越した絶叫と同時に食いつかれる。膝を担がれ、脚を開かされる。我ながら無惨な格好だった。それでも……、嬉しかった。
「離せ。痛い」
 なるべく冷たい声で告げる。ふるふる、弟は頭を横に振る。出来ない、と。
「いた……っ、けい、や……」
「ゴメン」
「あ、あぁッ」
 先端が入り口に押し当てられる。昂ぶりきった欲望はさっき一回、吐き出されたのが嘘だったみたいに堅く、熱い。苦痛を予想して涼介の眉が寄せられる。楔が涼介の、なかを引き裂いて埋まっていく。
「……ん、……ンッ」
 痛い。それは確か。でも別の充足感もある。震える手を伸ばし弟の肩に縋る。弟は抱きやすいよう身体をおろしてくれた。結合がそれで深まって苦しみは増したがそんなの……。肉体の苦痛は大して、意味はない。
「あ、あ……ん、ッ、ハッ」
 さっきは指でさんざんに弄られた乳首を今度は、唇にくわえられる。舐められ、吸われ、齧られるたびに全身が跳ねた。動きにつられて弟のモノも身体の中で踊りだす。キツク、激しく。
 キュッ、と。
 それをなかで、包んで、絞り上げた。
 どくんと、それから鼓動が、なかの粘膜に伝わる。
 膝を微妙に曲げて、腰を少しだけ浮かせて。
 ……須藤京一に、教えられた、通りに。
 悲鳴は弟の口から上がった。
「なんで、あんた、ンなに……」
「あ、……ッ、ん」
「キモチイーんだよ、チクショウ」
「ん……」
 きつく抱き寄せられて中に、注ぎ込まれる情熱と執着。こんなに熱いのは久しぶりだった。最初に寝たあの頃、以来だったかもしれない。
「スキ。大好き」
 ぎゅうっと抱く腕を離さないまま告げられる言葉を。
「うん……」
 涼介は素直に受け入れた。身体だけ、とかは思わなかった。その間に区別はつかないから。雄は、とくに。終わっても腕を緩めない、萎えてもすぐにたちあがる、これが愛情でなくてなんだろう。
「スキ」
「うん」
「うんじゃねぇよ。返事は?」
「俺も好きだとお前が困るだろ」
「ナンデ」
「お前が飽きたときに棄てにくくなくなるから」
 ぎくり、抱き合った腕が揺れる。そのつもりがなかった、なんて言わさない。いいよと涼介は、揺れた腕を優しく抱いてやった。
「いいよ。許してやる」
「……ホント?」
「もう、二度とお前とは会わないから」
「許してねぇよそれ」
「だって、飽きたろ?」
「あんたみたいないいオンナ、ドコにも居ねぇよ」
 謝罪の言葉と愛の告白を交互に聞きながら、涼介は、不意に笑い出す。ほっとして弟は彼にキスした。それからもう一度、腕を広げさせ深々と抱きあって……、犯す。
「……ン」
 受け入れながらしかし、涼介は内心で、
(……ガキ)
 呟く。悪意は、少ししかなかったけれど。
 粗暴に快楽を、奪っていくだけのセクス。
 こんなのダケを繰り返していれば、オンナの身体が荒れて肌が乾くのは当然。
 自分が水気を潤いを、与えられないのは棚に上げてオンナを責めることしかしない。だからお前、どんなイイのとも長続き、しないんだ。
 自分が荒らして乾かしてかしておいて飽きた、なんて言語道断の勘違い。
 毛並みを舐めて戻すことを知らないお前の暴虐を……、許してやるよ、俺は。
 別口に舐めさせるから。ちゃんと、もとに、戻しておくよ。お前のお気に入りに。
 キモチイイだろう?
「サイッコー。こんなのスッゲー、久しぶり。死ぬかも」
 うん。俺も。
 だいぶ久しぶりだ。お前にこうやって、痛いくらいの情熱で求められて。
 嬉しい。痛みも苦しみも超えた、それが正直な、気持ち。

「携帯、鳴ってるぞ」
「ン……、いい」
「良くない。うるさい。出ろ。じゃなきゃ電話ごと追い出す」
「……オーボーオーニキ」
「なにか言ったか?」
「いいえ。……もしもし、あぁ、ナンだよ。……うるせぇ」
 弟の怒声を聞いていたくなくて涼介は起き上がり、バスへ向かった。湯をひねり水音で、物音をかき消す。なにか言いたそうな目で弟は見送ったが、こっちが先決とばかりに携帯に怒鳴り散らす。備え付けの浴衣姿でバスのふちに腰かける涼介のもとへ、彼が来たのは一分後だった。
「入ってくるな。狭い」
ビジネスホテルのツインルーム。浴室も相応の広さだ。でかい男二人が入れるスペースではない。
「部屋変えようぜ。一緒に入りてぇよ、久々」
「違う女を追い出したばかりの部屋でか」
 何も言えずに弟は俯く。構わず涼介は浴衣を脱いで湯船に脚を入れた。我ながら白い足首に、きつい指痕が真っ赤に残っている。
「……すっげー綺麗。色っぺー」
 その赤が目を引いたらしい。感嘆する弟に答えず、涼介は手を差し出した。
「……?」
「握れ。手首より、上な」
 手首には同じく真っ赤な痣。そこを避けて言われるままに、弟は腕を掴む。
「もっと力入れろ。もっと」
 要求されるとおりにしたが、とうとう。
「ごめ……」
 従いきれず放り出す。骨細でしまった、しなやかな感触の腕にそれ以上、力をこめることが出来なくて。かなりきつく掴んでいた。プロドライバーの握力で。
 離された腕を涼介は引き戻した。もう一方の手で掴まれていた場所を、撫でる。うっすら赤くなっているが、指痕が残ったりうっ血したりはしていない。血行がもとに戻れば赤みも消えるだろう。
自分が前夜、どれぼどの力で、痛みで、相手を掴んでいたか気づいて弟はしゅんと、湯気にあたってへたった紙みたいにしょぼくれる。
「皮膚の下で血管が圧迫されて、潰れて出血した跡だぜ、これは」
「……ごめん」
「痛かった。すごく」
「ごめん。もうしない。酒を飲んでは、抱かない」
「頼むぜホント……、お前、どんどん」
「……嫌になってく?」
 恐る恐る、尋ねてきた弟に、涼介は暫く焦らして笑ってやった。
「強くなってるよ」
弟は、撫でられた子犬みたいな顔をした。

「ここから直で病院、行けばいいじゃん。送ってやるよ、朝」
「馬鹿。こんな痕つけて直接、行けるか」
 着替える必要のない、白衣を纏えばいいだけの服で出勤しなければ。それでも手首は隠すのが難しい。包帯でも巻くか、いやそれではかえって別の医師に、見せろと言われてしまうだろう。カフスボタンのきついシャツを買うしかない。そんなこんなで、もう、時間。
「また、な」
「またっていつ」
「啓介。俺がこうやって久しぶりに会えたお前と」
 台詞の途中で口付ける。……したくなったから。
「時間前にサヨナラしなきゃならないのは誰のせいだ?」
「……俺、です」
「今度は気をつけろよ」
「だから今度っていつだよ」
 まとわりつかれながら駐車場へ降りる。降りたところで、
「あ……」
 肝心なことに気づいた。車がない。なくて当然だ。ここには、別の男に乗せられて来た。
「どしたの、アニキ?」
「しまった。そういえば直接、来たんだった」
「え、ナニが」
「患者の転院に付き添ってそのまま、ここに来たんだよ」
 ウソはするりと、唇から漏れる。
「お前が少しでも早く来れたらと思って二時間も前から。馬鹿だろ。酔って三時間も遅刻する相手をさ」
 待っていた。ウソだった。だまされて弟は、いたたまれないほど申し訳ない表情。
「送るよ、家まで」
「いい。途中で買い物がある」
「なに、それ。一緒に行く」
「いい」
「なんだよ。まさか彼女になんか買ってやるんじゃねーだろーな」
「こんな痕、つけて女と、会えるか」
「じゃー俺が一緒でいいだろ。何が悪いんだよ」
「天下のF1レーサー様をアッシーに使うなんて滅相もない」
「欠片も思っちゃ居ないくせに、そんなの」
 最終的には力ずくで、ずるずる引き摺られ弟の、相変わらずど派手なスポーツカーに乗る。FDは実家の車庫に置いてあるから、これはスポンサーから進呈されたものだ。
「……なんか、アニキの隣だとキンチョーするぜ」
 キーをまわしてエンジンに生命を吹き込みながら、呟く横顔が昔どおりで、可愛かった。

 それから、結局。
 弟は高崎の実家に居ついた。
『シーズン終わったって忙しいんだよ』
『取材とか、スポンサー周りとか』
『暇じゃねぇんだからな』
 帰国前、いつこっちに帰って来るのかと尋ねた俺に、電話で答えた言葉はウソではなかったらしい。頻繁に東京へ出て行く。
 新車に乗りたがる母親にそっちを譲ってFDで手掛けた日、たまたま帰宅が同じ時間になった。白と黄色を並べて停めた時、あんまり懐かしかったから暫く眺めていた。昔みたいで嬉しかった。そう言うと、それきり新車は母親のものになった。嬉しかった。昔みたいに俺の言葉に態度に表情に、簡単に踊らされる弟が。
 第一線で活躍するレーサーの休日は短い。テスト走行の為に旅立つ弟を、涼介は空港まで見送った。見送りに来てくれないと行かないと暴れたから。女の始末に翻弄されたマネージャーは痩せ細っていた。VIP用の待合室、観葉植物の陰で最後のキスをした。
 飛び立つ飛行機を見送った時刻は午後二時。

それから四時間後。
須藤京一は、、涼介からの電話を都内の、某法律事務所の駐車場で受けた。
「もしもし……、俺だ」
「おぅ。弟は?無事に行ったか?」
「あぁ。なぁ、京一。どうして分かった?」
 涼介自身にさえはっきりしなかった、裂け目の原因。ふん、と京一は鼻先で笑う。
「伊達に長年、男やってねぇからな。で、何時に何処だ」
「必要ない」
「あ?」
「たまにはお前にもサービスしようと思って」
 音声は二重に聞こえた。そこでようやく、京一は気づいた。後ろから近づいてきていた足音。振り向くと、お気に入りの美貌がゆったり笑っている。瞳から頬から唇から、体中から透明の、甘い蜜を滴らせるような麗しさで。
 京一は無言でエボのドアを開けてやった。するりと肢体が助手席に吸いこまれる。しなやかさは、この間とは別人のような潤い。
 細かいことは、尋ねなかった。
「お前は凄いよ。惚れ直した」
 何があって、どうなったのか、その一言で、大体は分かった。