欲望・1
怒涛の、殆ど息詰まるような、激動の数日間を経て。
新年の式典も終わり、王宮は一応の日常を取り戻した。
前々から予定されていた王妃の戴冠式は終わり、帰って来た異国の王女様は王位継承権について第一の発言権を持つ身になる。その権威でもって、彼女と結婚した前王の弟の王位継承が決まり、戴冠式は二ヵ月後に行われる予定。段取りはちゃんちゃんと進んで、前王の事故以来、不穏にざわめきかけていた王族たちの野心も一応は沈静化した。
新年を迎えて二十歳になったばかりの新王は毅然として見えた。少なくとも周囲には。以前から兄の政務を随分助けていて、時には実務を代行さえしていたから、いまさら王冠が重いということもなかったが、しかし。
「……にぃさん」
王宮の南東に位置する塔。隔離性の高いその場所には代々、身分の高い罪人や監視を必要とする人質が収容されていた。ここ数年は使われていなかったが、現在は一人の貴人がそこに起居している。年末に大怪我を負って、そのために王位から降りた若い前王。
怪我の経過はまずまずだが、数箇所を骨折もしているためにまだ痛み止めを処方されていて、一日の大半をまだ眠って暮らしている。心が軋んでひび割れるほど気になっていたけれど、混乱に乗じて浸透しようとする外敵を防ぐのに必死で、様子を見にこれたのは事故の当日以来だった。
時刻は夜半。きちんと調度品を整えた塔で、兄は目を閉じ、眠りの中に居た。王宮内ではなく塔に収容されているのは刺客の来襲を怖れて。入り口も経路も一つしかない塔は警護が用意で、安全を確保しやすい。
「くるしい……?」
眠る兄より自身が苦しそうに、弟は兄の頬に手を当てる。触れた瞬間、閉じていた目蓋が開いて、うすく目が開く。壁に置かれた燭代の焔を映して、金色の光彩が怪しく煌めいた。
「アル……?」
「うん」
「……よぉ」
「うん……」
短い言葉を交わす。言葉には、もともと無意味がなかった。俯いた弟はベッドの上の兄の隣に崩れ落ちて、兄は片手を吊った不自由な動きで起き上がり、弟の方を向く。
「にぃ……、さん……」
うめくように、自分を呼ぶ弟に。
「……ごめんな」
そんなありきたりの謝罪しか見つからない。
「……ひどいよ……」
シーツに突っ伏していた弟は、兄に頭を撫でられて背中を揺らし、食いしばった歯の間から、嗚咽を押さえたせいで軋んだ声を出す。
「ひどい……、ぼくに、これからどうしろって、いうの。……ひどい……」
ずっと愛し合ってきた兄の不幸を嘆き、恨む言葉には真実があって。
「ごめん」
自業自得の事故で片手片脚の自由を失った兄は、同じ言葉を繰り返すことしかできない。
「お前には苦労をかける。ごめんな」
「そんなことで悲しいんじゃないんだ」
力強く鮮やかだった兄が、それらを失って無力に、ベッドに横たわるだけの姿が悲しくて。
「なんで……、あんな、女を……」
追ってこんな大怪我をしたのか。
「うん……」
兄の方は弟より随分と落ち着いていた。弟の、自分とよく似た金髪を撫でながらぼんやり、天井を眺める。バカを真似をした。けれど。
「仕方ないさ。なぁ、アルフォンス。ごめんな。お前にもウィンリィにも、悪いと思ってる」
王位継承権への布石のために戸籍上でだけは離婚していたけれど円満な夫婦だったのに、自分のムチャのせいで自分が勝手に愛していた女を、この弟に、押し付ける破目になって。
「そうだよ。……ひどいよ」
「苦労かけついでに、頼みがあるんだ」
「ねぇさんのことなら聞かないよ。あの女には責任をとらせる。にぃさんをこんな目にあわせた罪は世界より重いよ」
兄をこよなく愛してきた弟にとっては。
「あいつのせいじゃない。俺が勝手にした事だ」
「まだ庇うの。あんな嘘つきな年増のドコがいいの」
「あいつにあんまり、酷いことしないでくれ」
大怪我をして、一時は重態に陥って、意識が戻ってからずっと、考え続けていたのはそのこと。
「邪魔になっても、始末しないでやってくれ」
この弟は幼馴染の従姉妹を愛している。なのに政略結婚で兄嫁を正妻にせざるを得なかった。そんな不幸は歴史の中で幾度も起こっている。大抵の国王は運命を諦め、王としての権威を握った後に正妻を追放または幽閉し、愛人を隣に置いて暮らすことで折り合いをつけてきたけれど。
「なぁ、あいつオレらがガキだった頃、優しくしてくれたじゃないか」
誰よりも強面のこの弟がそんな生ぬるい措置で満足するとは思えなくて。
「機械鎧の手足ついたら、お前に臣従の宣誓して臣下になって、一生仕えるからさ。俺に免じて、命だけは」
助けてくれと、弟の寛恕を乞う。
「そんなにあの女のこと愛してるの」
「もう、なんにもしてやれなくなっちまったからな」
戦場を経験した王様は諦めよく、運命の転変を受け入れたけれど。
「俺はあいつにひどいことしたけど、ちゃんと最後は幸せにするつもりだった。……つもりだけになって、借りばっかりで終わる。だからお前にその分を、頼むのは筋違いだけど」
だけど、でも。
「頼む。アニキとして最後の、頼みだ。お前しか頼めないんだ」
それには答えず、新王は兄の隣に、そっと体を伸ばして。
「……疲れたよ」
本当に疲れきった声で呟く。
「隣で眠っていい?ほんとに疲れたよ……」
「あぁ」
兄は不自由な体をずらして、ベッドの端に寄ろうとする。それを弟は支えてさりげなく助けた。そのまま兄の肩を両手で抱いて。
「……このまま眠っていい?」
「あぁ」
身体を寄せ合って目を閉じる、新王の心の中に嵐に兄は気付いているのか、どうか。
(どうしよう)
目を閉じて居ると泣き出しそうなほど。
(……キモチいい……)
いつもキラキラしていた兄が、身動きも不自由な無力さで今は腕の中。
(このまま……)
閉じ込めてしまいたい。オートメイルなんかつけさせないで、ずっとこの塔の中、自分の掌の中に包み込んで。
「にぃさん」
そっと呼んだ。返事はない。身体をずらしてそっと唇を重ねてみた。反応はない。眠っているのか、ふりをしているだけか。多分、後者。
願いを叶えてやったら、もっと罪深い真似も許されるのだろうか。