欲望・3

 

 

 新王は夜更け、毎晩のように寝室を抜け出す。秘密の通路、というほど隠蔽されている訳ではないが一部の側近しか知らない中庭の抜け道を、護衛を連れずにそっと進み、応急の陰に建つ塔の入り口に入る。石造りのその奥には、退位した前王が独りで、治療とリハビリの日々を送っていた。

「にぃさん、僕。……起きている?」

 扉に手のひらを当てて尋ねる。

「あぁ。入って来いよ」

 中からの返事を待って樫の扉を開けた。この王宮に、否、この国中に新王を拒む扉は存在しない。けれどもこの部屋にだけは住人の同意を得てから、彼は中に踏み込む。

 塔内とはいえ最上階の天井は高くて、壁が円形に丸く湾曲していることを除けば、そこが普通の部屋でないことは分からない。

「ごめんね。眠ってた?」

 夜着をまとってベッドの中で、不自由そうに片手で起き上がる兄にそっと、弟は深夜の来訪を詫びた。

「俺は構わない。夜が長いからな。お前は忙しいんじゃないか?」

少し痩せた兄は弟を気遣った。少しどころではなく痩せやつれた弟は、

「……うん」

夜着の上に羽織っていた上着を脱いで、兄の寝台に近づく。

「忙しくないこともないけどそれより、最近、よく眠れなくて」

兄の隣に、体を投げ出した。

「ここで眠っていい?」

「あぁ」

 壁際に体をずらそうとした兄を、弟はそっと阻んで、抱きしめる。肩に額を押し当てそのまま動かない。

「……ねぇ、兄さん」

「なんだ。なんでも言うこと聞いてやるぜ」

「ウィンリィと結婚してくれる?」

 弟が兄の肩にささやく。兄は驚いたらしくしばらく黙っていたが、沈黙は否定的ではなかった。

「あぁ、そっか。そのテが、あるな」

 王位継承権は出生時点で決まる。もと王弟妃の腹の中の子が、王家の男系に属する嫡出と認められれば、皇太子に立てることが出来る。

「いいぜ、もちろん書類もってこいよサインするから」

「明日、揃えて来るよ」

「そうだな。そういう手段があった」

 前王は嬉しそうだ。政略結婚なのに、ほっと安心した顔をしている。もと王弟妃の腹の中の子が皇太子になってしまえば、彼女にはその子の即位後、母太后の地位が贈られる。そうなれば現在のいびつな『王妃』が無体に殺害される可能性が低くなるのが、嬉しいらしい、様子に弟は妬いた。

「悪知恵の出どころはあの女だよ」

「あいつもお前のことは怖いみたいだな」

「ここに見舞いに来るとは一回も言わない」

「そりゃそうだ。俺は酷い事ばっかりした」

「ロゼは、やっぱり兄さんに仕えたいから王宮の侍女に戻して欲しいって言ってる」

「いっぺん捨てた女にいまさら、同情されて世話されんのはごめんだぜ」

「ならあの女はどう?兄さんが元気になってくれたらあの女、裸でここに来させるよ」

「やめてくれ。会いたくない」

 ロゼのことを拒んだ時とは違う語調で、前王は呟いた。事故後、地震の身の上を嘆く言葉は一度もこぼさなかったのが、初めて気弱わな声を漏らす。

「あの女のこと、嫌いになってくれた?」

 そうでないことを悟りつつ、新王は尋ねてみる。

「情けねぇとこ、見られたかないな……」

 悲しそうに呟く。慰めるように新王は、兄の背中をぎゅっと抱きしめた。

「なぁ、アル」

「僕が居るよ」

「頼みがあるんだ。機械鎧、買ってつけてくれよ」

「僕がすっと、にいさんのそばに居るから」

「傷口もう塞がったから神経が眠っちまう前にさ。右手があったころの感覚が、残ってる方が馴染みやすいって、医者も言ってる」

「ずっと大好きだよ」

「そしたら、俺は臣籍に入って、どっかの国境の番人して、お前のこと守ってやっからさ」

「遠くに行く気だね。動けるようになったら」

「ちょっとな。ここは、辛いんだ」

 長い時間、愛していた女が別の男、それも弟の妻になって王妃の地位に居る。既に王座から滑り落ちた自分より高い身分。

「兄さんがいやなら、あの女を追い出すよ。地下室に閉じ込めて、藁の中に埋めて一生、太陽を見れなくしてやってもいい」

 本当はそうしたくてたまらないのだから。この兄を傷つけてばかりだった年増女を、新王は胴震いするほど憎んでいる。

「それとも手足を切って酒甕に漬ける?しばらく生きてるっていうけど本当かな」

「……アルフォンス」

「本気だよ。するよ。にいさんが僕のこと棄てたら」

 ぎゅ、っと、すがりつくように肩に顔を埋めた。

「なんでも言うこと、きくからそばに居て」

「なぁ、アル。俺さ、自分の足で歩きたいんだ」

「そばに居て。お願い」

「アル」

「遠くに行かないで」

 切なく繰り返し、新王は訴える。

「ずっと僕のそばに居て」

 手放したくない。本当は憎まれたくもないけれど、離れていかれるよりは恨まれた方がいい。離れたくない。

幼いころからずっと愛してきたひとを、やっと自分の、ものに出来たのだから。