銀色の鮫は、なかなか帰って来なかった。

「なぁ、ナンか飲み物ー」

 いつものように山本の部屋でゴロゴロ、カウチに寝転がり本を読んでいた獄寺が呟く。喉が渇いた獄寺は、部屋の隅に新聞紙を広げて日本刀の手入れをしていた山本にそういった後で。

「やっぱ寂しいなぁ、二人きりだとよぉ」

 ごろりと身体を反転させ起き上がりながら言った。アッシュグレイの髪が首に絡みつくのを払う仕草を山本は目の端で眺め、立ち上がり冷蔵庫からチェリーコークを取ってきて獄寺に差し出す。

「サンキュ」

 受け取ってごくごく、飲み干す喉の動きをじっと、山本武は眺めていた。飢えを隠そうともせず熱心に。

「齧るかぁ?」

 空いた缶をテーブルの上に置いて獄寺はシャツの襟をはだけて胸元近くまでの肌を晒す。猫科の若い獣のようなしなやかさでカウチに仰向けに横たわる。無言のままで山本武は屈みこみ、その白い肌に唇を押し付けた。

「はは……」

 ゆっくり覆いかぶさってくる若い男のことを抱きしめながら、獄寺隼人はなんとなく笑う。銀色の鮫が居なくなって、寂しそうを通り越して剣呑な雰囲気を纏いつつある男を慰めたかった。

「遊べよ。オモチャにしていいぜ」

 次代のボンゴレのボス、十代目の治世を彩る予定の美貌にそんなことを言われたと知ったら業界の男たちは山本武の僥倖を心から羨むだろう。

 でも。

「……しねーよ」

 抱きしめて愛おしそうに頬を寄せながら、でも山本は、そんな返事をした。

「ンだよ、オレじゃ不満ってかぁ?殴るぜてめぇ」

「心臓、凄くドキドキしてんのな、隼人」

「おぅよ。てめーと寝っ転がってっからだぁ」

「怖いのにムリすんなよ。そんなのぜんぜん、嬉しくねーし」

 形のいい唇を啄ばみながら若い男が言う。言われた美形は、深いため息をついた。どうしてもっと上手に誘って騙してやれないのだろうかと、自分自身を口惜しく思いながら。

「愛してるぜ、隼人。えっちいコト出来なくても」

「ヤろーって言ってんじゃねぇか。おらズボン脱げ。久々、練習すっぞ」

 性的な意味での弱さ、愛しているのに濡れてやれない自分の体質を改善しようと獄寺隼人もその恋人も、ごく若い頃から努力を繰り返してきた。結果は無駄な努力になった。やればわりあい何でも出来てきた二人にとって、人生初めての深刻な挫折。

「すくあーろが帰ってきたら、しよーな」

 よしよしと聞き分けの悪い子供を宥める口調でそう言われて獄寺は不満げに鼻を鳴らす。そんな仕草は悪童と呼ばれた昔を思い出させて、山本武はくすくす、愉快そうに笑う。

「ンだぁてめえ、オレだけじゃ不満かよ」

「オレとだけじゃ不安なのは隼人だろ」

「好きにしろって言ってんだろ。あそべー」

「濡れないコのこと抱くのって、けっこー難しいんだぜ?」

「そこを頑張んのがオトコの甲斐性だろーがー」

「ムリ。おれレイバーの素質ゼロ。痛がられるとこっちが痛くて泣きそうになっちまう」

 長年かけてそれを悟った男は恋人の挑発に乗ろうとしない。

「でも嬉しいぜ。隼人がそんなこと言い出してくれんのは。おれ寂しそうに見えるか?」

「……ちょっとだけなぁ」

 アッシュグレイの美形は嘘をつく。物凄く寂しそうで不安そうに見える。銀色がもう帰ってこないのではないかと恐れる様子は痛々しいくらい。

「このまんま暫くいさしてくれよ」

 抱きしめさせてくれるだけでいい、と、告げる山本は優しい。けれどそれは本心でもある。寂しそうな自分を慰めてくれようとした恋人の愛情が嬉しかった。

「気持ちいいなぁ、隼人」

 ぎゅうっと抱きしめて、だきあっているうちに。

「ぜいたく……」

「ん?」

「なのは、分かってンだ……」

 獄寺隼人の胸がコトコト音をたて、本心を零す。

「こんな極上の、雨二人独り占めなんざ、有り得ねぇ贅沢って、分かってる……」

 嵐の属性は心に怒りを棲みつかせ易い。怨念、と呼ぶ方が似合いの憎しみを癒してくれる優しい雨の属性に弱い。ボンゴレ雨の守護者の山本と、その対立候補だった銀色の二人と一緒でようやく潤める、自分を贅沢だと獄寺は自覚している。

「アイツもさぞ、恋しいだろうなぁ、とかってよぉ……」

「ザンザスのことか?」

 基本は大空。けれど嵐の属性も滴るほどたっぷりと備えたヴァリアーのボス。

「アイツは自業自得だろ。自分で殺したんだ。寂しくたって、仕方ないだろ」

 銀色の鮫を譲る気の無い山本は強い口調で言った。その台詞に獄寺は逆らわない。確かにその通りだ。だけど、でも。

 癒しを失った男の痛みが生々しく理解でき過ぎて、獄寺隼人はヴァリアーのボスを一途に責めきれない。気性が激しいせいで気分にムラがあって、大切な相手に苛々をぶつけた挙句に傷つけてしまう失敗を獄寺自身も何度も繰り返してきた。

その度に自分の内部の棘を、刃物の先端のような気性の鋭さをどれだけ恨んだだろう。一時の怒りに我を忘れた代償に、あんなに優しい雨をなくしたのだと思うとあの男が気の毒になるのだ。

「オレは、ゼッタイ、スクアーロのこと返さねぇよ」

 かすれた声でそう告げる山本武の気持ちも勿論、よく分かるのだけれど。

「あいつが床に手ぇついて、これからスクアーロのこと大事にするから返してくれって言ったって、ぜったい帰さねぇから」

「……」

 優しい師匠を、少年時代からの憧れの相手を、失いかけた山本のその、決意は当然。ごく当たり前。でも。

 同じ嵐の気質として美形はどうしても、孤独な別の男のことを気の毒に思った。世界を呪い殺したいほどの怒りが獄寺には理解できる。情念が募って自分自身を焼き殺しそうな憤怒を宥めてくれる潤いを失って。

 可哀想にと心から思っていた。

 

 

 

 その、男は眠っている。

「……」

 眉を寄せ肩に力を入れた苦しそうな様子で。

「……」

 男の腕の中で銀色は目覚めている。けれど男を起こすのが可哀想でじっとしている。胸に抱きしめられる感触は暖かくて嬉しくてシアワセを感じる。

 それは偽り、今だけの錯覚。分かっているけれど暖かい。昔むかしの頃、こうされたら嬉しかっただろうなと思いながら拘束を受け入れる。

 むかしの、この男は。

 他人と一緒に眠るのを好きではなかった。だからセックスが終わると自分の部屋へ戻っていた。抱きつくされて疲労困憊したオンナが眠り込めばそのまま眠らせてくれることもあったが、それでも毛布は別々で、こんな風に肌を合わせたまま眠りについたことは一度もなかった。

たくさんの夜を一緒に過ごしてきたけれど、一生懸命に愛してきたつもりだったけれど、でも結局は、他人のままで終わった。

 そんなことを切なく思い出していたら。

「……」

 枕元で内線が鳴る。男の腕の中から手を伸ばし銀色のオンナが受話器を手に取る。プロント、と応える銀色の声は掠れていた。前夜、散々、男に啼かされた余韻を引き摺って。

『おはよう、スクちゃん。ごめんなさい』

 優しいオカマの格闘家が二人きりの時間を邪魔してしまったことを詫びる。いいやぁ、と、銀色は答えながら微笑む。昔の仲間が懐かしい。声を聞けて嬉しい。

『ボスは起きておられる?』

「まだ眠ってるぜぇ……ッ!」

 答えた後でなんとなく男の方を見た銀色はギクリとした。男は眼をあけていた。腕の中から抜け出した銀色を抱いた姿勢のまま。銀色と目が合った視線は冴えていて、目覚めたばかりとは思えない強さがあった。実はとっくに起きていて、眠ったふりをしていたのかもしれなかった。

『九代目から、あなたに朝食が届いているの』

「……あ?」

『お使いを居間に入れてもいい?』

 ボンゴレ九代目からの使者では、否、ということも出来ない。時刻は午前八時。世間一般では目覚めには遅いがマフィア時間では早朝といっていい。そんな時刻に、昔馴染みの情婦を送り込んだ養子の部屋に、食事を差し入れさせるというのは。

「おぅ。いいぜぇ。オレはは食えねーけどよぉ」

 銀色は答える。男は右目の目じりに皺を寄せ咎める表情。長い睫毛の生え揃った扇情的な目元はそんな不機嫌な様子さえ魅力的だと銀色に思わせる。

「ジジイの使者じゃあ、仕方ねぇじゃねーかぁ。そんなに睨むなぁ、オレが悪ぃんじゃねぇぜぇ」

 銀色がそんな風に言うと、男はふっと視線をそらした。珍しい素直な反応。横河に後悔が滲んでいる。てめぇを責めるつもりはなかった悪かった、と、その案外若々しい頬には書かれている。男は銀色のオンナに甘えている。気持ちをストレートにぶつけてしまう昔の癖が出ただけ。

「なぁ」

 そんな男を慰めるように受話器を置いた銀色は腕を伸ばす。

「みず、飲ませてくれよ」

 男の首に腕を廻し、絡みつき抱きしめながら。

「のど渇いた」

 飲ませてくれ、と強請る。男は銀色を抱き返し、唇を重ねるだけのキスをしてから立ち上がった。寝室の隅、テレビ台の下部に隠された冷蔵庫から冷えたベルニーナを取り出す。瓶の蓋を開け、そのままベッドの上に戻って、銀色の口もとに差し出した。

「……」

 銀色のオンナが口を開ける。ゆっくり注がれる冷たい水をこくこくと飲む。喉が渇いていたらしい。水をたいそう、嬉しそうに飲んだ。

「もういいぜ、ありがとよぉ」

 一本を飲み干して、もう一本、と取りに戻ろうとした男を銀色が制する。ベッドに戻ってきた男にまた腕を伸ばして抱擁を望む。男は応えてぎゅっと抱きしめた。身体に馴染む細い肢体を抱きしめて形のいい頭を撫でる。

「メシは」

「んー?」

「ムリか?」

「ちょっと、なぁ」

「口移ししてやってもダメか?」

「なぁに言ってんだオマエ。夫婦じゃあるまいし」

「してやるぞ?」

「ありがとよぉ。でも無理だぁ。ごめんなぁ」

 男の優しさに感謝しながら、でも銀色はサバサバと本当のことを話す。

「今、オレぁ澤田綱吉の焔で動いてっからなぁー」

 全ての属性の匣を開くことの出来る大空の焔。ボンゴレ十代目に叙された沢田綱吉の大空の焔は並ぶものなき純度で、その属性に並ぶものしか今の銀色は受け付けることが出来ない。

「ごめんなぁ」

「てめぇが謝ることじゃねぇだろう」

「メシ食って来いよ。待ってっから」

「腹は減らないのか?」

「んー。もぉなぁ、そーゆー感覚、あんまりないんだぁ」

「……」

 ウソをつけ、と、男は言いかけて黙る。腹が減らないから喉が渇くということもないだろう。水をあんなに美味そうに飲んでおいてどうしてそんな見えすいた嘘をつく。自分に心配をさせないように、だ。バカのくせに気を使っているのだ。

「オレが……」

 雑種でなくて純粋な大空なら食事をさせてやれるのに。そうすれば焔のチャージが切れることも遅くて、もっと長くそばに置いておけるのに。その繰言を男は口にしなかった。慰めようとするオンナの気遣いを無駄にしてしまうから。

「なんだぁ?」

「なんでも、ねぇ」

「……、ッ……、あ……、」

「イヤか?」

 まだ裸のオンナの太腿に滾った下肢を押し付ける。オンナはイヤとは言わなかった。大人しく男の腕の中で力を抜く。身体を大蛇の棲家に明け渡そうとする仕草だった。

「あ……、ァ」

 夕べも散々に愛し合ったのに男の蛇は猛々しい。夕べ散々な蹂躙を受けたオンナの狭間は怖ろしいような質量をつぷりと呑み込み身体を繋げられてしまう。

「ぅ、あ……、あ、ちぃ……。あちぃ、アチ……」

「は……」

 のたうつオンナを押さえつけ何度か腰をうごめかせて、男は居心地のいい位置に収まる。暖かさと締め付けの心地よさに思わず声を漏らした。漏らしてしまった、ついでに。

「誰が、持ってンだ?」

 尋ねたかったことも口に出して、しまう。

「てめぇの、匣は誰が持ってる。どいつを殺して懐を探りゃあいい?」

「……、ヤ……」

「答えろ」

 それはこの、頑固で融通のきかない男にしてはかなり、露骨な本心の吐露。帰って来いと言っている。自業自得で失ってしまったオンナに。

「イヤ……」

「……俺が、か?」

 大蛇の楔で繋げて隷属させて、抗うことを出来なくしておいて強いる自分の臆病さも卑怯さも、承知の上で、男は尋ねた。

「俺と、こう、するのはもう、イヤか?」

「……愛して、る……、けど、なぁ……」

「俺を許せないか?」

「る……、ぜぇ……。オマエだけが、わりぃんじゃネェ……。オレも物分りわるかっ、た……」

 ぎゅ、っと、自分からも抱きしめながら、銀色のオンナは健気に男を慰める。責める言葉がその唇から吐き出されたことは一度もない。出会った最初から散々に目に合わされているのに、オンナは一度も男を咎めなかった。

「なぁ、もっと……、早く……。邪魔になんねぇうちに、自分から、消えりゃあよか、った……、……、ァ!」