懺悔・3
天気のいい日中。
気温は低いが日差しは明るくて、気持ちのいい日だ。
東方司令部の敷地に緑は花壇と少々の立ち木、あとは工事予定の空き地に生えた雑草くらいしかない。それでも風の匂いはセントラルとは随分と違う。湿りを帯びた、優しい肌触り。
窓からそよそよと、入って来るそれを頬に感じて目を閉じる。私の執務室は最上階の、東南に面した角部屋だ。扉を開け放して風を通せばどんなに気持ちがいいだろう。一度そうしていたら書類が飛び散って、それに廊下を通り過ぎる部下たちが、私の執務室の前で滞留して業務に差しさわりが出ると、リザに苦情を言われて止めた。
「大佐」
あぁ、本当にいい風だ。
「……お休みですか?」
低い問いかけ。私はびくっと目を見開いて、
「風を感じていただけだよ」
早口で言い張る。それは本当にその通りだったのだが、ひっくり帰った声には我ながら説得力がなかった。
「……なら、よろしいのですが」
リザは珍しく許してくれた。目を向けると、片手に書類を持って片手は後ろ髪を押さえるように触れている。女性にとって男の前で髪を弄る動作は好意の証明だ。それを拒むように人前では、決して化粧を直したり髪を弄ったり、しない女なのに。
どうしたと、私が尋ねるより早く。
「申し訳ありません、大佐。直していただけませんか」
押さえていた髪を離す。長い髪が解けて肩にかかる。差し出された右手には、バネ部分が外れてしまった鼈甲色のパレッタ。
「いいとも、少し待ちなさい」
机の上に置いてあったメモをひっくり返して、引き出しから取り出したコンパスで練成陣を描く。錬金術師のくせに、それも自分で言うのはナンだがかなり、相当に高位の錬金術師のくせに私は、フリーハンドでは円がうまく描けない。
円の中に正三角を、これもコンパスを使って描いて、受け取ったパレッタを中央に置いて指先でメモを叩く。一瞬の光とともにバレッタとバネは融合し、新品同様になったそれを渡しながら。
「どうして壊れたんだ?」
この女は、僅かなことであっても私を便利使いはしない。私に直せという以上、壊れた理由は私と無関係じゃない。
「ハボック少尉に壊されました」
受け取って、リザは髪を戻そうとする。鏡がなくて不自由そうだつたから、椅子から立ち上がり、机をまわりこんで近づき、手を伸ばす。この女の髪に触れるのは好きだ。
「ありがとうございます」
「彼が君の髪に触ったのかね」
「胸にも」
「……」
腹の底に、ざわっと生じる、黒い波。
「銃口を、股間に当てても手を引きませんでした。男は大抵、股を狙えば手を上げるんですが、根性入ってました」
「……それで?」
「銃把で親指の付け根を抉って逃げました。今ごろは医務室です」
「セクシャル・ハラスメントとして私から事件にした方がいいかね。それとも君自身が憲兵に訴えるか?」
「私から」
「証言してくれそうな目撃者は?」
「あなたの匂いがして、たまらなかったんですって」
リザは言って、じっと私を見る。私はどう答えればいいのか分からずに彼女を見返した。私たちは夕べ、たいへん『仲良く』した。いつもと違って朝まで一緒に居た。今日がリザの誕生日だからだ。望みを尋ねたら朝食を一緒に摂りたいと言われて、もちろん、私はそれをかなえた。私の屋敷でなくホテルのルームサービスだったが。
前夜から、ずっと一緒に居た。前夜の夕食もルームサービスで、それを行儀悪くベッドの上で食べた。シャンパンを開けて、冷えたそれを瓶から直接、喉を鳴らして飲み干して。そうやって一晩中、私とリザは、たいへんに仲良くした。
「手を離したあとで、ごめんなさい、って謝っていたけど、あれはあなたに対してね、きっと」
茶色の瞳が悪戯っぽく微笑む。
「刑事告訴を、するつもりがないなら」
「苛めているの?最近少尉、陰が薄いわ。食事もすすまないみたいだし、煙草まで減ってぼんやり。あなたの前では俯いてあなたの方を見ないようにしてるけど本当は気になって仕方ない。証拠に時々、背中をじっと見てる」
「私がカタを、つけていいのだね?」
「民事裁判ですか?」
「どちらかというと私事だ」
気性が堅くて瞳の光が強い、彼女は私の宝物だ。
「君に触れられて黙っていられるほど、私は温和ではないからね」
言うと、今度こそ本当に明るくリザが笑う。隊内で、勤務中に、部下の男に押さえ込まれた口惜しさがやっと晴れたらしい。笑顔を眺めながら、私は。
「……、え……ッ」
彼女に手を伸ばし、抱き締め位置を入れ替えて、彼女を執務机の上に、仰向けに押さえつけた。
「なに……、大佐、どう……」
「し」
声を出すなと耳元で囁くと、彼女は私の意図を察したらしい。一瞬だけ、身体に力が篭った。だが抵抗はしないで、大人しく私のキスを受ける。ホテルを今朝、バラバラに出て以来、五時間ぶりの唇。
意識しなくてもキスは乱暴になってしまった。触れると意外なほど豊満な胸が当る。これをどうされたって?
「大佐……、ロイ……、やめて……」
位置を変える隙間でリザの、甘えた、けれどかなり真剣な声が聞こえる。聞こえなかった、ことにした。私以外の男に触らせた私の女をそのままで済ますほど、私は温和ではなかった。
……もちろん、俺を好き放題に躾けた挙句に、棄てたあいつみたいに。
合意の上のペッティングでもなかったのに、息することさえ苦しくなるほど殴りつけるような、残虐な真似はしないが。
「いや……、止めて……、いや……」
キスをしながら、かなり露骨に胸を揉む。軍服の下は動きやすいTシャツ。黒のそれを着ているのを、今朝、私はバスタブの中から眺めていた。掌の中に収まる丸みは柔らかくて、張りがあって、暖かくて。
「いや……。ごめんなさい、やめて……」
私が思うに、世間の男たちは。
「だって、あんな風にされるなんて思わなかったの……。引き寄せられたときも、きっと、あなたのことで話があるんだと、思って、それで……、ア……ン……」
女の側の欲望に無関心でありすぎる。挿れて擦って、吐き出して気持ちがいいのは男だけだ。じょせいはそんな風に簡単には出来てない。焔を操るときよりもはるかに、力加減に細心の注意を払いながら、軍服の上から彼女の肢体を愛していく。
「……、ん……、ふ……ッ」
謝罪と抵抗の言葉を漏らしていた唇が、やがて甘い声を上げ始める。それを待ってから、私は一旦、彼女から離れて執務室の扉に近づき、そうして鍵を閉めた。リザは大人しく机の上で私を待って、私がもう一度、近づいてくちづけて、起き上がった肩を抱き締めて押し倒すと、素直に櫻材の、艶やかな木目に腕を伸ばす。
この女には、悪いことなのだが。
私は時々、リザ以外の女性と寝る。それは大抵、上司や将軍たちの、愛人。軍が実権を握る国で、高級軍人に愛される女性はみな美しく、男に君臨することに馴れてみえる。でも抱くと、そうじゃないことが分かる。みんな辛くて寂しくて悲しそうだ。強い男は女を理解しないから、どんなに愛されていたとしても女性は孤独で、いなければならないのだ。
彼女たちに、私は自分でも意外なほど好まれた。顔や身体、ベッドマナー、なんかより深い場所で。女たちはみんな私が抱き締めると、力を抜いて胸に寄りかかって、私が知りたいことを何もかも教えてくれた。
女性を寛がせるのに、特別な形や位置や、姿勢やツボやワザ必要じゃない。ただ、彼女に対して真摯であればいい。それだけの、こと。
「ん……、ロイ……。……、っ、と……」
腕の中で、今抱いている女が声をあげる。気持ち良さそうでよかった。女に跨って乗り回して、勝手に悦に入る男の気持ちが私には分からないよ。気に入られて優しく抱き返してもらって。
「こんなこと、こんなところで……、するなんて……。夢にも思わなかったわ……」
あなたに会うまでは、と、リザが苦笑しながらも楽しそうに言って、自分からキスをくれる。いいじゃないか。今日は特別、君の誕生日だ。おめでとう。思い出深い、記念日になるよお互い。
「……そうね……」
目を閉じてうっとり、私の動きを感じている君が本当に愛しい。私はよく、君を裏切っているが、君のことは特別に本当に好きなんだ。何かその、証になるものがあればいいんだが。繋がった後で終わって離れてもまだ、私の一部が君の中で、暖かく抱かれている気がする。
「……来年も……」
テッシュの箱を机の端から引き寄せて、私たちはお互いの始末をした。
「こうやって居られたら、わたし、あなたから欲しいものがあるの」
「来年といわず今ねだりたまえ。今日一杯、誕生日だろう」
「断られると嫌だから言いません」
「子供か?」
私が尋ねると、リザは一瞬、怯んだが。
「……いつか」
そんな風に、誤魔化すことを選んだ。
「結婚は、あなたできないでしょうけど」
「……まだ考えられないな」
「子供だけでいいの」
「いいとも」
軽々と私は返事をした。この女が私の種を孕む。それは少しも嫌な想像じゃなかった。不思議なものだ。あいつの子供が生まれると聞いた時は嫌悪感で、まるで自分が孕まされたみたいに一晩中、胃液を吐き続けたのに。
「今でも、いいよ」
セックスの時には、一応、我々は避妊をしていたのだが。
彼女が望むなら今、受胎を目標にもう一度。
「今はまだ。育てる条件が揃ってから」
「そうか」
服装を整え、お互いにチェックをしあって、最後にキスをして。
彼女が部屋を出て行ったのとほぼ、同時に昼休みを告げる鐘の音。あぁ、今日は本当に天気がよくて、いい日だ。窓際に椅子を動かして中庭を眺めていると、士官食堂に向かうらしいリザが、石畳の道を歩いていくのが見えた。
私にリザは気付かない。それでも私は、彼女からの愛情を疑ったことは一度もない。リザは本当に私を愛している。当然のことだ。私は誰よりも強い。
女性から愛される理由はそれだけで十分。女たちにが強い男を求める欲求には正当性がある。強い男をとりこめば強い子が産める。それはもう、本能と呼ぶに相応しい純愛で、女たちは、私を愛してくれる。
オスはそんな訳にはいかないだろう。
オトコの愛情は身勝手で陰湿で、狡猾で撒き散らす。それに付き合うのに、俺はもう飽きている。……なぁ。
俺のそばに居たいというんなら、お前はまず、その本能を棄てなきゃならないんだ、少尉。
服従して腹を見せろ。それが出来たら、時々は撫でてやる。