経験はまぁ、ない訳ないだろう、と思ってた。

 ごくノーマルなつもりの自分にさえ、何度かそういうことはあったのだから。

 自分が抱くまでは少しも気にならなかったことが、今は頭から離れない。彼は馴れてた。本当に上手だった。戦場にあらわれる床上手な年増の売春婦より、気持ちよく俺を包んでくれた。初めて、俺は、疲れた売春婦を犯すより強い欲望を感じて。

 彼の奥で、何度も、弾けて跳ねた。

 キモチが良かった。セックスの意味で、彼は本当にオンナだった。あんな場所をあんな風に、男に都合がよく造り替えた奴は誰だろう。気になってろくに眠れなかった。目を閉じると、俺に犯されて悶えながら、でもどんどん、寂しい感じになっていく白い顔が浮かんで。

エリートの国家錬金術師。イシュヴァール戦線のピカイチ、二十代の大佐。東方司令部の実質的な司令官で、バリバリの青年将校。そんな人がどうして体の内側に、あんなに深い、傷口を持ってる?

経験はまぁ、ない訳ないだろう、と思ってた。

 どんな『経験』なのか今、知りたくてたまらない。オトコが居たのははっきりしてる。恋人だったのか情人だったのかパトロンだったのか、若かったのか年寄りか男盛りか、知りたくてたまらない。俺はそいつに似ているのだ。だから中尉は接近を許して、彼は中尉のお膳立てを拒みきれなかった。

 あの時は好都合の親切に思えた。今は憎くて、癪に触ってしょうがない。馬鹿にすんなよ、身代わりなんて、誰が勤めてやるもんか。馬鹿にすんな……、そんな罵倒の対象は彼女でも彼でもなくて、俺自身。

 馬鹿だった。最初に俺は、怒るべきだった。好きな人を生贄みたいに差し出されたのに、尾を振って喜んで食いついた。俺は怒るべきだった。彼を本当に好きなら。

……、今はもう、好きになってて、それで。

……自分のはらわたを食いちぎりたいくらい、憎い。

 娼婦は、効率的に数をこなしていく。自分の身体に負担をかけないで、客の満足をうまく導き出す技巧に、乗っかってくのが、俺は好きだった。楽、ってのとは違うけど、相手の方から積極的なのが良かった。俺はそういう嗜好なんだ。大人しく覚悟を決めた処女なんか、想像しただけでうんざり。

 彼は処女じゃなかった。でも娼婦でもなくて、なのに俺には優しくしてくれた。俺は差し出された彼を悠々と貪った。満腹して、そして気付いた。日暮れから夜半まで車庫の、汚いコンクリートの上で散々、汚して抱いていたのに……彼は。

 零して、なかった。

 無我夢中みたいに抱きつかれて、あんなにあわせて、揺れてくれたのに。あれは演技?それとも、欲情を食ったつもりで、本当は。

 あんた自身の、肉を喰ってたの。

 驚いて動けないでいると、彼がゆっくり起き上がる。疲れた顔してた。けど、目元にも頬にも、何処にも、柔らかさはなかった。セックスの後の顔じゃなかった。だったら今まで、俺がしてたことは何だった?

 信じられずに、もう一度引き寄せた。結合しないまんま彼の、さすがにちょっとは潤んでる前に手を伸ばして、指を使って、掌の中で揉み込む。後ろ向かせて背中から、腰を腕で挟んで両手で弄りまわした。さすがに、彼が身悶えてコンクリートに爪をたてる。背中の震えは痛々しくて、気持ちよさより、苦痛が強そうで。

 ……俺はなにしていただろう。

 朝まで離さなかった。セックスやめれば離れて行っちまうから。でも夜が明けて、彼の目蓋が開かなくなって、さすがに俺も限界でもうこれ以上、繋いどくためには、殺すしかなくなって。

 疲れ果て動かなくなった人を抱きながら思い知る。俺はセックスをしてこなかった。弄んでただけだった。仕方を、俺は知らなかった。恋人を作った事がなかった。他人と『愛し合った』ことば一度もなかった。

 そんな男に見込まれたあんたは可哀想だ。傷口からは血の匂い零れ落ちて、食いつきやすいって俺は気付いてた。確かに彼が言うとおり、それは愛情じゃなかった。憎んでる態度に似ていたかもしれない。結果は同じだ。傷つける。

 俺は最低の男だ。俺が抱いてきた女たちは、誰も俺にそのことを教えてくれなかった、そりゃそうだ、彼女らは商売。そんな親切をする義理はない。錬知友は肉を売ってくれただけ。暖かくて柔らかくて甘かった。その安易な味に慣れすぎた俺は、『好き』な人にどうすればいいのか、少しも知らなかった。

 夜明けの薄暗い光が窓から差してくる。今は俺の腕の中に居る、この人はもうすぐ離れていく。切り離されたら生きていけない自分の分身みたいに思えるのに、それは俺だけの錯覚。

 ごめんなさい。

 せめて上手に、身代わりになれればよかった。最初の夜みたいに。あの時、あんたが笑ってくれたのは、俺にじゃなかったんだ。

 気付かなかった。……ごめんなさい。

 あんたは俺のこと、好きじゃないんですね。

 

 

「……、だね」

 渋くて低い声に意識を現実へ引き戻す。

 ここは医務室、目の前に居るのは軍医。戦場体験が豊富で、そのせいでやや手当が乱暴なのが玉に瑕だけど、外科も内科も、腕はマルチで信用できる。

「これはリザちゃんだね。相変わらず上手に腱を避ける。男の指を捻り上げるのを、慣れてる彼女でよかったな。二三日で治るよ」

関節を伸ばして、簡単な湿布。湿布がずれないように網の包帯を簡単に巻いて、それで手当は終わった。

「さて、では原因を聞こうか」

 カルテを机の上に置いて、軍医は事故報告書を取り出す。

「ま、今更説明するまでもないと思うが、一応。司令部内での乱闘、傷害、その他、秩序を揺るがせにする可能性の含まれた事態に対して、医師は報告の義務を負う。その権限は憲兵大尉と同等だ。分かるね、後で裏をとる。偽証をすると、罪が重くなるよ」

「……イエス、ドク」

「ナニがあったか正直に話しなさい」

「……」

「話しなさい」

「……なにからお話すればいいのか」

「では、まず聞こう。君は被害者かね、加害者かね」

「加害者です」

「被害者は?」

「リザ・ホークアイ中尉、です」

「どんな被害を及ぼした?」

「本人の同意ををえずに、髪と身体に触りました」

「それが、してはいけないことだと知っていたね」

「はい」

「何故、知っていたのにしたのかな」

「中尉から、とてもいい匂いがして」

 その匂いが誰の、どんなときのものか、俺はよく知っていた。石鹸や整髪料の香料に混ざっていても、俺の嗅覚は確かに、彼女の肌に、あの人の気配を嗅いだ。

「……たまりませんでした」

「気持ちは分かるが、それはしてはいけないことなんだよ」

「はい」

「リザちゃんは怒っただろう」

「申し訳ないことをしました」

「ふむ」

 カリカリ、ボールペンで、手馴れた様子で、医者は報告書を書いていく。どうなるんだろう。譴責だろうか、営倉だろあうか、それとも謹慎、上官侮辱罪に問われれば降格と除隊まで行くかもしれない。女性士官への性的暴力は、ことに処罰が厳しいから、どうなったって、おかしくはなかった。

「君は幾つだったかね」

「二十ニ歳です、ドク」

「……ふむ……」

 どうなってもよかった。それは開き直りじゃなくて、俺なりの誠意。どんな罰だって受ける。俺は、罰されて当然の事をしてきたんだから。

「反省しているかね?」

「処罰してください」

「反省しているようだね。よろしい。これは、判断保留ということにしておく。もちろん、リザちゃんから告訴があれは証拠として提出する。いいね?」

 引き出しから取り出されたスタンプが、赤でポンと押され、事故報告書はファイルの中に綴じられた。

「なにをぼんやりしているね。手当は終わった。さっさと行って、よぉく謝罪しなさい」

 ……謝る……?

 そうだ、謝らなきゃ。……そうだよ。

 当たり前のことをやっと思いついて、俺は軍医に一礼して医務室を出る。ちらっと軍医が、ちょっとだけ、ほんの少し、励ますように笑ってくれた。

 どうしてそんな風にしてくれるんですか。そんな温情をかけていいんですか。俺は酷い男なんですよ。散々女たちを傷つけて、そして。

 あんなに偉くて傷んでる人まで引き裂いた。

 ぼんやりしながら司令部中央に歩いていくと、顔色を変えたブレタがこっちに来るのが見えて。

「……よぅ」

 毛がした様子も病気にも見えなかったから、なにしてるんだと声を掛けたら、俺を探してたんだった。

「なにしやがった、お前。中尉、すっげぇ怒ってるぞ」

 ブレダも顔色を変えて、ぼんやりな俺をぐいぐい、押していく。

「早く戻って、謝れよ。ホントになぁ、部屋中真っ白にするぐらい怒ってるぞ。お前、なにしたんだよ」

 ブレダの質問には答えずに急ぐ。仕事部屋のドアを開けると、本当にそこは白く凍り付いてた。

 一番奥の机まで真っ直ぐに歩いて。

「どうも……、すんませんでしたッ」

 頭を机の端で打つくらい、勢いよく謝る。謝ったのは許して欲しいからじゃなかった。

 中尉が。

 とても口惜しそうな、傷ついた顔をしてたから。

「ごめんなさい」

「……」

「すいません」

「……」

「ホントにごめんなさい」

「……」

「すいませんでした」

「……」

「ごめ、」

「ハボック少尉」

「はい」

「お茶を煎れて」

「はいッ」

「肩を揉んで」

「はいッ」

 ペンを机の上に、カタンと置いて、女性士官は椅子を引き、男の手に肩を揉ませる。気持ちがいいらしく、眉間の強張りが徐々に取れていく。

 やがて、通信部に行っていたフェリーが帰って来て。

「なんなんですか?え?罰?」

 物陰で、ブレダとこそこそ、話してる。

「いいなぁ。あんな罰なら、僕もしたいなぁ」

 フェリーの正直すぎるコメントはともかく。

「……俺もだ」

 ブレダ、せめてお前くらいは、分かれ。

 この肩に痛みと悲しさが乗ってるってことに。

 俺は今、たったいま、気付いた。