懺悔・5
……え?
事態がうまく、頭の中に入ってこない。
パニック傾向は軍人としては物凄い不適性だ。分からないながらとにかく、最前の選択を無意識にしてる、それくらいじゃなきゃ現場では生き残れない。
けど俺はパニックを起こし掛けてた。身動きのとれない狭い場所。彼の、マホガニー材の机の足もとに押し込まれて、目の前には。
「聞こえなかったのか?」
すいません。よく分かりませんでした。くぼみに押し込まれる前に天板で頭を打って、その時になんか、言われたのは分かったんですが。
「……」
蹴られる。屈んで俺を覗き込む姿勢だからそう威力はない。けど場所が容赦なかった。脚を曲げて無防備に晒してた股間。
「……、ッ、あ……ッ」
声も、出ない。
「ふざけるな」
……ふざけて、なんか……。
……いません……。
……えぇと。
ここは彼の執務室。決済してもらう書類を持ってきたら、手招きされて、どきどきしながら机を廻って近づいた。椅子を引いて横向いた彼が立ち上がり、俺の襟に手を掛けた、そこまでは覚えてる。
それからは。
よく分からない。ただ、向こう脛がずきずきしてるから、多分、足もとを蹴られてガクンと、崩れたところを押し込まれた。かなり乱雑な扱いで。ほんとに俺は無防備だったから、簡単に崩れた。
「リザになにをしたかって聞いている。答えたまえ」
……中尉に?
……違う。
俺がしたのは、あなたにでした。
……ごめんなさい。
「なんとか言いたまえ」
……ごめんなさい。
声が出ない。代わりに手を伸ばす。膝に縋る。
前みたいに自分の行為と相手の反応を、面白がるみたいな失礼な、気持ちで足に、キスをするんじゃなくて。
ごめんなさい。でも好きなんです。ごめんなさい。
触った膝が軍服の生地ごしに温かい。このままずっと、離したくないと思った。顔を押し付ける。頭の上から、あきれた溜息が落ちてくる。
……抱きたい。
ノドが乾いてカラカラになるくらい強烈に思った。
笑いながら口説いてた自分が、信じられない。
昼も夜も、あんたのことだけ考えてます。
って、それだけのことを、伝えるのに物凄く時間がかかった。
緊張してて、ガチガチだったからだ。
彼は本当に呆れていて、そして。
「手を離せ」
俺の頭を、ぐいって押しのける。押しのけられても幸せだった。触れてもらえたから。
「職務に、戻れ」
……好き……。
鳴り響く電話の音。
朝でも昼でも、深夜でも。軍の専用回線はお構いなしにけたたましく、凶事を告げる音を鳴らす。何故凶事かと言うと、吉事は大抵、ゆったりとした郵便で通達されてくるから。
「はい、こちら東方司令部。……マスタング大佐?ちょっと……」
背中をそらして斜め後の中尉を見ると、顎先で軽く頷かれて。
「あ、いいよ。回線まわしてくれよ。……大佐、お電話です」
交換手と執務室の間の回線をつないで受話器を置く。席に戻ってから、引き出しを開けて煙草を取り出し、部屋を出る。
朝も昼も夜もあの人のことを考えてる追い詰められた気持ちは、最近、少しだけ楽になった。あの人が俺に、自然に接してくれるようになったから。もちろん以前ほどじゃなくて、書庫に招かれたり、そこで一緒に酒を呑んだりはしないけど。
びくびくされてないだけで、俺の気持ちは、物凄く安らぐ。怖がられるのが、一番辛い。……好きな人だから。
それがなくなって随分楽になった。けど、まだ、あの人の声を聴いた後は、一服しないと意識が仕事に向いていかない。
中尉がちらりと俺を見た。俺は、わざとゆっくり、ゆっくり、喫煙所へ歩いていく。中尉が何か言いたそうな顔をしてたから。途中で足音が聞こえて、ぽんと肩を叩かれた。振り向くと、中尉が笑って、俺を追い越しざまに、
「狙い目よ」
短い一言。その意味はよく分かった。俺もそろそろ気付いてた。中央からの電話があるたびに、あの人が、少しふらふら、してること。
狙い目、か。
彼女らしい言い方だ。それを非難するつもりはない。でも俺は、なんとなく、そういう言い方は嫌だった。弱ったところにつけこんで後悔したから。
その日の帰路、車を運転した。大佐はいつもどおりだった。でも少し、目が落ち着かなかったかもしれない。時々外を見た。
「木の葉が枯れてきましたねぇ」
いつもあんまり、送迎時は喋らないが、その日の沈黙は柔らかくて、待たれてる気がして口を開くと。
「もう少し文学的な表現の持ち合わせはないかね」
気軽に口を開いてくれる。
「文学とは縁遠くて。えっと、枯葉がきれい、とかですか?」
「赤くなってきたな。じき、冬だ」
「冬は屋台が出るんすよ、司令部の裏に」
「……ほぉ」
司令部の裏口は更衣室にも駅にも近くて、下っ端の俺たちはよく、そこから出勤してるけど、いつも車を正面玄関にまわさせるこの人は知らないだろう。
「夏の間は、ナンか衛生法がどーたらって、路上で仮設営業できないんですって。駅も繁華街も近いし。昼は街に店出して、夜はこっちにって屋台が多いんですよ」
「どんなものがあるんだ」
「定番のはフィッシュ&チップスとか、ホットドックとか。中華粽なんか、蒸したて美味いです。去年はヤキイモも出たかな」
「仕事を抜け出して買いに行く後姿が目に浮かぶぞ」
「今度、夜勤の時、大佐にも買って来ましょうか。ホットドック、焼き方と辛子はどうしますか?」
「よく焼いて、辛子抜き」
「屋台のオバちゃんが泣きますよ。牛赤身100%のパテが自慢なのに」
「本当はヤキイモがいい」
「覚えときます」
そんな会話を交わすのが嬉しい。声を聞けるだけで満足。
こうやってちょっとずつ、仲良くなっていけりゃいい。
「……ハボック少尉」
「はい」
「君は勤務上がり、何時かね」
「お送りしたら、直帰であります」
声が我ながら緊張してて、後部座席で、少し笑った気配がした。
「……遊ばないか」
聞き間違えようのない誘い文句。ぎょっとして顔を上げると、バックミラーに映った彼の、表情は疲れてて、ぞっとするほど、艶で。
「……気晴らし」
「ん?」
「したいんですか?」
「そうだ」
遊びじゃないから、お相手できません、なんて。
そんな白々しい嘘はつけなかった。
「何処か行きますか、このまま」
「いや。家に帰る。……うちがいい」
「イエッサー」
そこには彼の寝室も、俺の部屋もある。
気晴らしの為の遊び相手。いいじゃないか、それで。
この人がそう、したいって言うなら、俺はどんな役目でも勤める。