残雪

 

 

「ミズキは俺を裏切った」

「ミズキにゃミズキの、都合があったんだよ」

「信じていたのに、信じさせておいて、俺を裏切ったんだ」

「でもミズキだってさぁ、そろそろあんたに、ユルシテほしーんじゃねぇの?」

 

 指折り数えてみれば五年、アニキと冬、遊びに行っていなかった。

 それは俺が車の免許をとった年数と重なる。ついでに峠を走り出した時期でもある。冬の雪道をずるずる滑りながら走るのに夢中で、雪の上を自分が滑る事は忘れていた。

「アニキ」

 でも、今年は。

 車メーカーのテストドライバーとして採用され、同時に土日、国内のレースに出まくる俺に『休日』はなかった。高崎の家に帰ってこれることも稀で、じゃあ何処に居るのかというとどこでもない。敢えて言うなら会社の独身寮に転がり込んでる事が多いが、通勤圏だから部屋はもらえず、あいてる宿直室でぐーぐー寝るだけ。その次に多いのは、ベッドとTVと冷蔵庫があるだけの、無愛想なビジネスホテル。下積みドライバーの遠征なんてそんなもんだ。

 硬いベッドがどんなに不満でも、自分だけよさげなホテルに泊まるわけにはいかない。社会、会社、組織、そしてレース。全部が陰険で陰湿な世界だ。ドライバー仲間さえ、実力勝負の世界だからあっさりしてっかってぇとそーじゃねぇ。実力がない奴にも感情や不公平感はある。実際に、おんなじ車をおんなじコースで走らせて俺が早かったから選ばれたのであっても、漏れた連中からは相当に、キツイ嫌味を覚悟しなければならない。

 ……まぁ、俺は。

 根が、他人の言葉は気にならない、ってぇかそもそも耳に入らないタイプだったから。

 そんなにひどいストレスにはならなかった。けどやっぱ、ストレスじゃないことはなくって。

「あにきぃ〜」

 実家に帰ると、べったり張り付いていた。

 俺の優しい人に。俺に優しい人に。ベッドの中でもそれ以外でも。

 彼の背中に腰に、腕を絡める。ぎゅっと力を入れるとしなやかな弾力と体温を感じる。いとしい。それ以上に。

 ……なんてぇんだろ、こういうの。なってったら、いい?

 雲の上、花の中。陳腐だけどそんな感じ。

 ……スキ、だよ……。

 ざくざくなココロを癒してくれるこの人に、ココロをこめて言ったら、

「バカ」

 呆れた声がかえってくる。でも、髪をくしゃって撫でてくれた。バカでも、いいよあんたが好き。

 ダイス……。

「ただいまぁ、啓ちゃぁーん、ゴハン食べに行きましょうー!」

 キス、しようとした俺が凍りつく。

「お帰りなさい」

 フリーズ状態の俺を置いて彼がソファーから立ち上がる。……くそぅ。

 俺の休暇は、一週間しかねぇんだぜ?しかもうち、アニキの仕事が休みなのは三日だけ。それでも無理矢理、もぎとってくれた休みなのは分かってて、すごく嬉しいけど。……でも……。

「ただいま。お、啓介、居たな。お前が家に落ち着いているのは珍しいな」

 普段、滅多に家に戻らない親父までマメに帰って来やがる。せっかく俺がアニキと入れるのを、邪魔されてる、としか思えねぇ。

「バチアタリなコトを言うなよ。二人とも、お前が居るから帰って来てんだぜ」

 アリガタメイワク、だった。

 二人きりになるためには、どうしたらいいか。

 彼が夜勤のヨルに一晩、枕を抱いて考えて、出た結論が、うちの信州の別荘に行くこと。

 そこなら邪魔は入らないと、思った。

 勢い込んでアニキにそのことを言ったら、答えは。

 

「ミズキは俺を裏切った」

 

 冒頭の台詞だった、わけだ。

俺は、頭を掻く。

腕を組み、捜す。

頑固な彼の、気持ちを変えられる言葉を。

「……あのさぁ、アニキ。それ、五年も前の話じゃねぇか」

 ユルシテやれよと、下手に出て宥める。

「俺は信じていたのにだ」

「いや……、ほら。ミズキにはミズキの都合があるし。ナ?」

「俺は信じていたんだ」

「あの、だから。俺はあんたの気に入るならそれでいーけど、それだけじゃ、ミズキは困った、んだよ」

「信じさせておいて裏切る。酷い真似だと思わないか」

「その分、俺がチュージツでいるから。な、そろそろ機嫌、なおせよ」

「俺は、裏切られたんだ……ッ」

 握りこぶしを作って彼が、恨み呪っている『ミズキ』。

 ……スキー場の名前だ。

 彼のお気に入りだった。

 老舗のスキー場で、渋いから、ナンパ目当てのヤワいのが居なくって、思う存分滑れると、彼は嬉しそうに話していた。

 俺は、一緒に行ったことはない。なぜなら。

「あそこだけは、ボードを入れないと思っていたのに……ッ」

 俺は、ボードしかした事がなかったから。

 二年の歳の差は、こんな時に大きい。

 アニキはスキーこそウィンタースポーツの王道だと言って譲らず。

 俺はそもそも、スキーをした事が、ない。

「でも、ミズキ、頑張ったと思うぜ?けっきょく三年、貫き通したじゃん」

 スノーボードお断り、という営業方針を、だ。

 けれど今時、そんなので、スキー場経営がやってけるワケがなく。

 ボーダーにもコースを開放したのが五年前。

 以来、この人はストックを握っていない。冬はあんなに雪まみれの人だったのに、ただの一度も。

「ミズキだって、さぁ、そろそろあんたに、ユルシテほしーんじゃねぇの?」

 最初はちゃんと、コトバで説得していたが。

 ふと、思い返した。……なんで、俺は。

 せっかく両親は仕事に出かけ、朝日の中で、二人きりなのに。

 なんでリビングに突っ立って、お話なんかしてんだよ、俺は。

「……オイ?」

 俺は彼の手を掴み、広い廊下から階段をのぼって。

「……、ン……ッ」

 宿直あけの、微妙に疲れてるせいでやけに敏感なヒトを。

「焦らすな、よ……。シ、ロ……」

「一緒に別荘、行ってくれる?」

「……ン」

 身体で説得した。

 

 手足の長いヒトにはスキーウェアが、ムチャクチャよく似合う。

 ストックもスキー自体も短めの、トラッキング・スキーだったから尚更、彼のスタイルの良さが引き立つ。

 ……けど。

 別荘は自炊が面倒なので、ホテルになった、二泊三日の、朝。

 彼はばくばく、メシを食っている。

 いや、その。食うな、ってんじゃねぇんだけど、さ。

 目の前に俺が居るのに、ビッフェのメシばっか、食われてんのは、ちょっと……。

 俺の方も、見てくれよ。

 なんてカンガエながら、もちろん、俺もばくばく、メシを食っていた。

 腹が減ってたからだ。昨夜は、チェックインから、ずっとベッドの中に居た。

 来るまではぐちぐち言っていた彼だが、雪を見た途端、荷物も置かずに滑りに行こうとしたから。

 引き止めて、シーツの上に閉じ込める。そんなタメに、ここに来たわけじゃねぇだろ?

 ……なぁ?

 

 そんな甘い、俺の気持ちを裏切って。

「干し柿、ありますか」

 メシが済むなり、彼はホテルの売店に直行。このへんの名物だからもちろん置いてあった。箱入りのから、竿にさしたマンマのまで。包装なしのを彼は買い込み、そのまま、外へ。

「あ、アニキ、待てよ、な、待てって。昼メシさぁ」

 コースは、違う。

 彼の最愛のミズキは、それでも彼への操をなくしていない証のように、スキーとボードのコースはきっちり、分けていた。

 事故防止、だろう。まぁ、悪いことじゃない。

 俺がボードで、彼がスキーでさえ、なければ。

「俺は食べない」

「え?」

「スキーに来たら、昼は食べない」

 代わりにポケットに干し柿を詰め込んで。

「じゃぁな」

 細かく崩した現金を入れたウェストポーチ一つで身軽に、出て行く、彼。

 多分、日が暮れるまで、帰ってこないだろう。

 

 一日目は、我慢した。

 ただいまと、ホテルに戻ってきた彼が、晴れ晴れと満足そうだった、から。

 目立つヒトだから、彼のことを覚えてるホテルの、ランドリールーム係りの婆様なんかも居て、五年ぶりだわね立派になって、なんて笑われて。

 すごく、楽しそうだったから、まぁ。

 それでいいかと思ったんだ。やっぱ誘った身としては、彼が嬉しそうなのはヤなコトじゃなかったから。

 俺が風呂、入ってる間に気持ち良さそうに、彼がすーっと、寝ちまった時も。

 寝顔にキスして、我慢した。

 

 ……けどさ。

 二日も、それはねぇんじゃねーの?

 明日の午後には、ここから高崎に帰る。過ごせる夜は、これが最後なのだ。

 ……だから。

 ペアガラスの窓を開ける。親指くらいの、つららを折り取って。

 安らかぁ〜に、清潔なシーツの上で洗濯したてのパジャマで、眠る彼に……、近づく。

 

 翌朝。

 彼は、涙目で、俺を睨んだ。

「お前とは、もう、ゼッタイ……」

「オハヨ」

「ぜったい、スキーに来ないからな……ッ」

「昼まで寝てようぜ。延長、もう電話しといたから」

「ゼッタイ、ぜ……、ッタイ……ッ」

「アサメシ、食おうぜ。歩ける?」

「バカヤロウ……ッ」

「じゃ、ルームサービスな。ナンにする?」

「メシなんか、食えるか……ッ」

「んじゃ、しよっか?」

 シーツの上に這わせると。

「……、ヤァ……」

 昨夜の続き。みたいな甘い声を、漏らした。

「……スキだぜ?」

 今朝は、俺が幸せな、朝。