崩壊前夜 息が詰まる。 ような気がする。 物心ついたときからずっと一緒に暮らしてきた弟と、二人きりだと、最近、いつも。 「あれ、アニキ。居たの。ただいま」 リビングのドアが開いて、途端に水の香りが空間に満ちる。森に似た緑の体臭が、それに混じって鼻先を掠める。ほんのかすかな匂いにどうして気づくのか、考え出すと死にたくなりそうだったから止めた。 「珍しいな。こんな時間に家に居るなんて」 「たまたまだ。雨だから」 「凄い降りだぜ。レインコート着てても濡れたよ」 首からさげたタオルで額を拭う。骨ばった大きな手を見ないよう、そっと目を伏せる。 夕方から降りだした雨は激しく、七時を過ぎる頃には雷を伴う豪雨になった。こんな日は峠にも行けない。二階に行き損ねたのも雨のせい。弟のバイクが車庫に入る音を聞き損ねた。 「アニキと会うの久しぶり。最近、夜になると車でどっか行っちまうだろ。遅れた反抗期じゃないかって、お袋が心配してたぜ」 「子供じゃあるまいし」 読んでいた本のページを捲る。けど内容は頭に入らない。目線で字面を追っていくだけ。いまさら二階には行きにくい。そんなことしたら、逃げたみたいになりそうで。 逃げたいと、思ってるから、かえってそうできない。 弟は別室のキッチンではなくカウンター・バーに造り付けの小さな冷蔵庫を開ける。 「アニキも飲む?」 ひょいと振り向き、持ち上げて示されたのはビールの缶。外国産の、洒落た瓶入りの。掌でキュッと開けられる蓋を、関節の硬そうな指が外す。 「お前、高校生のくせに」 「アニキだって十九じゃん。未成年仲間ってことで」 「親父にバレたら怒鳴られるぞ」 「あの人がそんなにセコイもんか」 「いや、ビールが惜しいんじゃなくてな」 押し付けられる瓶を受け取る。蓋を開けられたそれに口をつけるしかない。苦味の強い液体を舌の上に含んで飲み下す。こくりと喉が動くのを弟の、痛いほど真剣な視線が見据えている。 「なんだ?」 「安心しただけ。これでもう、車で逃げられないよな」 視線の意味を弟はもう隠そうとしていない。してくれない。ひきのばし過ぎて余計に募らせたのは自分だと、それは分かっているけれど。 自分の分はテーブルの上にかたりと置いて弟が立ち上がる。ゆっくりと、俺が座ったソファーの後ろへまわる。背中から冷たい指が伸びてくる。喉、シャツのボタンの隙間から胸。 びくっと俺の背が跳ねた。そのまま弟は動かない。もちろん怖くて、俺も動けない。 「なんとか言えよ」 先に焦れたのは弟の方。ギリギリのタイミング。あと一秒遅ければこっちが叫んでいた。 「なんて言って欲しい?」 のけぞり顎先を上げる。覗き込む弟の顔と間近で向き合う。野性味が強いと言われがちな弟は、こうしてみると意外なほど睫の長い、繊細な顔立ちをしている。 「キレーな顔しやがって」 忌々しそうに言われて、笑ってしまったのは兄弟で同じことを考えていたから。けど弟には違う風に見えたらしかった。たまらない風に無意識の舌なめずり。そして、重ねられようとする唇。 肩を揺らして避けた。それが挑発になったらしい。指が食い込むほど強く抱きこまれ拘束され、もう片方の手が俺の顎を捉える。目を閉じキュッと唇を噛みしめる。ほとんど恐怖を、俺は感じていた。 「……そこまで嫌がんなくってもいいと思う」 ぼそっと呟かれた台詞につい、笑ってしまったのが決定的な失敗。顎を捉えた方の指まで食い込むほどに強く掴みとられ、唇を、二度と閉じられない。 「……ッ」 乾いた柔らかな感触。と、思うまもなく濡れた感触で舌が入ってくる。熱とぬめりが生々しくて、今度こそ、俺は本気で逃げようと腰を浮かす。 体重かけて、ソファーに押し込まれる。 さらに暴れたのが二度目の墓穴になった。ソファーから身体がずれて床に落ちる。のしかかる弟の唇は外れないままで。長い脚で無造作にソファーをのりこえて下腹に座り込まれる。 「、啓介ッ」 唇を。 引き剥がして叫べたのは俺の、顎を掴んでいた手指が外れてベルトにかかったから。 「ナニ」 不機嫌に問い返される。悪びれない、どころか、止めだてするこっちがいけない事をしてるみたいな強さで。 「やめろ」 「うわごと言うのはちょっと早いかも」 「ふざけんな、おいッ」 ベルトはすぐに外された。指がボタンにかかる寸前で、抱きこまれていた腕の一方を必死で外して手指を絡め、ようやく制止できた。 「ざけてんのどっちだよ」 弟は叫ばない。静かではないけれど、どこか覚悟をきめた口調と、怖い目をしてる。 「さんざん人を煽っといてさ」 「啓介」 「しらばっくれる?俺に嘘ついてみる?」 「……」 「それでもいいよ。その方がアニキに都合がいいんなら。俺にレイプされたことにしなよ」 「啓介」 「なに」 震えそうになるのを押さえつけ、おれは、スラックスの前を抑えていた手を外す。俺がなにをするつもりなのか試すように弟は動かない。肩に縋って、今度は俺から濡れた唇を合わせる。驚愕に見開いた瞳を、目を閉じていても感じた。 触れるだけのキスを繰り返して、唇が離れた瞬間。なにを言い出す隙も与えずに、 「お前のことを好きだ」 間近で真っ直ぐ、今度は俺が見据えて告げる。弟の瞳の光彩が大きく揺れた。でもそらさせない。 「好きだよ。知っていただろう?」 「……うん」 「好きなんだ」 「うん」 「どうしよう」 「目、閉じて力抜いてて」 そうじゃないんだ、啓介。俺が言いたいのはそんなことじゃない。 「まだ分からない」 「俺があんたを愛してるって事は知ってる?」 「あぁ」 「だったらそれでいいじゃん」 「……ダメだ」 ダメだよだって、俺たちは。 「待ってくれ。もう少しでいい。覚悟が、要るんだ」 それは身体の事じゃない。男同士とか兄弟とか、そんなことでもない。セックスだけですまないことはするまでもなく分かってる。お前への、この愛しさを、一生抱えていける覚悟がまだ。 「頼むから」 「あのな、アニキ」 「頼む」 弟は最初は苦い、次にひきつるような表情をした。そして惜し気に、俺の上から退く。 「すまない」 謝る俺に返事もせず、そのままリビングを出て行こうとする背中があんまりそっけなかったから、 「してやろうか?」 声をかけると振り向いた顔は、訳がわかっていなかった。 「それ」 目線で下腹の、さらに下を指し示す。 「信じられねーよあんたッ」 叫んで、ドアを大きな音をたてて閉じる。子供みたいな素直さに笑って、ふぅ、とソファーに座りなおす。 しなやかな背中から肩の線がちょっといい感じで、舐めてみたくなった。もちろん肩をだ。 「好きだぜ」 唇と舌と、腿に触れていた感触を思い出しながら呟く。熱くて固くて、とても甘かった。床に落ちた本を拾って二階へ。自室の本棚に本をなおし、机の上からFCのキーを取り上げて玄関へ。 リモコンで車庫を開き、玄関横から直接車庫へ降りれるドアを開ける。思いがけない大きさで雨音。 「アニキッ」 サニタリールームからの物音。無視して車庫へ階段を降り、運転席へ乗り込む。そこでようやく弟がやってくる。玄関からの階段を転がり落ちるようにして、上がったシャッターの前に立ちふさがる。 「なにやってんだ降りろよ。こんな天気の日に」 「ちょっと流してくるだけだ。すぐに戻る」 「ヤバイって。ビールも飲んでるし」 「一口だけだ」 「アニキッ」 「行かせてくれ。頭を冷やしたいんだ」 弟は嫌そうな顔をした。俺が車で出かけるたびに、こいつはこんな目をする。咎めるように、俺を見る。 「早く帰って来いよ」 「分かった」 ふてくされた様子で横に避けてくれた弟の、身体ギリギリに車を通して外に出る。途端にFCのボディーを叩く雨音が大きく響いて、やけにリアルだった。素肌を雨粒にはじかれている気がして、息を吐く。苦しい気持ちが、そしてなにより弟を苦しめてることが。 途方もなく甘い。