トップページへ     夢は鉄路を駆けめぐるへ


あまり細かいものは割愛しました。まあ「鉄歴」と言いましても、
華々しい話よりは長いうちに積み重なったことが多いようです。
それでは始まり、始まりぃ〜。

国道駅でのクモハ73289 (昭和54年11月11日撮影)


 

わたしのてつれき

私 の 鉄 歴

 My Railway History 

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写真その他

昭和38年  わっ、生まれてしまった・・・。これが「鉄歴」の始まりかいな?母方の実家は武蔵野市、父方は仙台市。よって乳児の頃より上野〜仙台を往復したそうな。もっとも夜行列車では泣いて周りの客に迷惑をかけたようで、以降は昼間の特急「ひばり」に列車を変えたとのこと。(親の証言による)

この時代の鉄道写真?
実家にあるかも・・・

昭和45年9月1日  千葉県印旛郡四街道町へ引越し。当時の四街道は成田線の72系旧型国電をはじめキハ10/20/35/58系、オハ35系旧型客車に快速仕業の黄色い101系も乗入れており、まさに百花繚乱!この頃から交通公社の時刻表も見始めるが、さすがに小学校低学年とあって、読めない漢字も多く大変だった。

昭和48年3月下旬  四街道から神奈川県鎌倉市へ引越し。子供の頃は旅行の機会に恵まれなかったが、時刻表は良く読んだ。おかげで地名や漢字は早い時期に覚えてしまった(鉄道ファンに共通?)。当時は現役SL末期の時代で、子供達の興味は特急電車やブルートレインに向けられつつあった。

昭和52年2〜3月  「鉄道ジャーナル」4月号(通巻122号・左側)を購入、以後500号まで購読した。当時の鉄道が抱える諸問題や他の交通機関との比較特集など、鉄道に対する斬新な考え方や誌面構成が中学生の自分の心を強く揺さぶった。右側は昭和55年1月号で、特集「鉄道は航空機と共存できるか」。表紙も記事も衝撃的であった。あれからもう40年以上も経つのだなあ…。

昭和54年3月14日  近所の友人と初めての「鉄道旅行」。身延線/御殿場線の旧型国電に乗る。当時の自分は旧型国電ファンで、他にも鶴見・横浜・飯田・大糸線などをしばしば訪れる。四街道時代に釣掛の唸りに魅了されたのが運のツキ。ちなみに同行の友人は小学校時代は関西在住で、阪和線70系の釣掛音で育った(?)らしい。

昭和55年8月31日  一眼レフ「Canon AE-1」を購入。それまで使っていたキャノネットとは比較にならないほどの写りの良さ。鉄道写真にはシャッター速度優先AEが絶対だと考えていたので、当機の購入となった。平成10年に故障するまで実勤18年、大いに頑張ってくれた「名機」であった。右の写真は昭和55年9月撮影の大糸線サハ45(旧サロ45)で、相変わらずこの時期は旧型国電に凝っていた。

昭和58年5月29日  飯田線の旧型国電に乗るため、前述の友人と「大垣夜行」で訪れる。翌月には新型車両へ置換えとなるための「乗り納め」であった。前々年に大糸・身延線の旧国が消滅して以来、ここ飯田線が旧国の「最後の楽園」となっていた。このあと鉄道趣味はしばらく虚脱状態、かつてSLが全滅した時のSLファンはこんな感じだったのかな?と思ったりした。

昭和60年3月12日  上信越方面の旅行で初めて「青春18きっぷ」を使う。これ以降大変お世話になる切符で、これがなければ鉄歴も大きく変わっていたかも・・・(同様のファンも多いかと思われる)。右の写真は磐越西線での旧型客車最終日の撮影である。阿賀野川の残雪を窓に映しながら、旧客の木張りの車内で時を過ごす。この頃から趣味の対象を「車両重視型」から「乗り潰し重視型」へとシフトする。

昭和61年8月22日

     〜9月4日


 大学サークルの夏合宿(山陽・山陰・北九州)に参加。このときも「青春18きっぷ」を別途購入し、友人とこの合宿に引き続き京都・北海道へと日本縦断する。「逆大垣夜行」「青函連絡船深夜便」「函館山線夜行」と、当時の懐かしい宿代わり列車が出るわ出るわ、貧乏だが体力はあった学生時代の想い出深い旅行であった。また、大社・瀬棚・胆振・松前線(現在いずれも廃止)にも乗車、このころ特定地方交通線は次々と廃止されつつあり、乗車は時間との勝負であった。(写真は瀬棚線今金駅でのキハ22)

平成元年3月27日  学生ファイナル旅行in九州by青春18きっぷ。大垣夜行から乗り継いで小倉まで一気に乗る。1日分の青春18きっぷを使って1000キロ以上乗車したのは初めてであった。面白かったのは何度列車を乗換えても周りの顔ぶれが「あれ、前の列車にもいたなあ・・」という感じで、青春18きっぷの効果を実感?したことであった。

 

平成4年9月5日  初の海外旅行(ソウル)で「成田エクスプレス」に初乗車。社員研修旅行としての参加で、今回は自由行動の時間がなく、海外の鉄道乗り始めとはいかず残念無念。  
平成5年8月29日  青梅線奥多摩駅にてJR全線完乗を達成。会社の同好会「ひまわりレールファンクラブ」の幹事に同行いただき、賞状を受け取る。なお、この幹事氏は日本全鉄道完乗ほか、多くの記録を持つファイターである。(この趣味の世界、上には上がいるものだなあ。)

平成6年8月19日  西大山から稚内まで「最南端の駅から最北端の駅まで」の旅行に出る。ジグザグ経路のため、乗車券は手書きの出札補充券(別紙に経由線記載)である。途中の南小谷で前述の幹事氏にばったり出会ってお互いに驚く。最終日は終点の稚内で乗車券が回収されては一大事と、別に当該日付の「青春18きっぷ」も使ったりしたのも懐かしい。

平成7年8月11日  「青春18きっぷ」を2冊使った10日間の日本一周旅行に出る。今回はフェリーや第3セクター鉄道等も使い、四国を含めた「日本一周」であった。当時減りつつあった「青春18きっぷ」の常備券を朱鞠内駅で予め購入という、何とも念入りのメモリアル旅行であった。

平成8年12月14日  台湾へ3泊4日の社内研修旅行。一日だけ自由行動の日があったので、宿泊先の台北から台中まで往路「自強号」/復路「復興号」で往復する。将来の台湾鉄道完乗を見越して往路を山線/復路を海線経由にする周到さであったが、これ以降かの地を訪れる機会なし。ああ、台湾の鉄路は追憶の彼方に消え行くのか・・・。

平成9年11月19日  初めてA寝台「ロイヤル」に乗る。(北斗星1号) あまりの居住性の良さに「ムーンライトながら」仕様のわが体は終始コーフン気味であった。この頃「寝台は高いカネを払っているから寝なきゃと思うと、かえって寝つけない。」と職場の女子社員に言ったら笑われてしまったのを覚えている。右写真はこの北海道旅行での一枚で、増毛の駅名標に「毛髪が減りませんように」と祈るワタクシであります。

平成9年12月29日  松浦鉄道「たびら平戸口」下車、これにて最東・西・南・北端の駅に下車したことになった。内訳は東根室3回、たびら平戸口1回、西大山2回、稚内11回である(令和3年現在)。

平成12年12月21日  信楽高原鉄道に乗車、これにて第3セクター鉄道完乗となった。車内では音楽が鳴る中をサンタクロースが子供にプレゼントを配って歩いていた。
平成12年12月30日  久留里線木更津〜上総亀山を乗車。平成5年にJR線全線を完乗後、ゼロからの再スタートでJR全線ダブル完乗を達成する。7年4ヶ月かかったが、20世紀中の達成を目標としていたのでほっとする。これを機に鉄道趣味は少しペースを落とし、21世紀は他の有意義?な事に時間を費やそうと決意も新た・・・、となるのかはGod knousである。

平成16年8月8日  体力的(年齢的)にも更新はないと思われた「青春18きっぷ」一日分での最長不倒距離、「ムーンライトながら91号」から延々乗り継ぎ八代まで辿り着いて15年ぶりに記録を更新する。さすがにこれ以上は無理だろう。なぜなら八代以遠は3セクに転換され、片や肥薩線の普通列車は終了済の時間帯なので…。