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  update 2009. 4.26

 
東海道補遺集 3

義仲寺・月心寺(走井の水)
 

来訪日:2009/4/7  

  

    大津付近にある義仲寺(ぎちゅうじ)と月心寺(げっしんじ)。いずれも特色ある寺院であるが、本編での来訪時に義仲寺は休館日、月心寺は時間切迫のため拝観できず、よって今回の補遺で取り上げることにした。

    なお今回は先に月心寺、次に義仲寺の順に訪れているが、本来の東から西への道順に従い義仲寺・月心寺の順に紹介したい。  

  

   

  

    まず義仲寺であるが、この寺はJR膳所駅・京阪膳所駅から歩いて5分ほどの場所にあり、旧街道の左手に位置する。本編でも触れた通り月曜日は休館日で境内へは入れないが、本日(2009/4/7)は火曜日なので今度こそ“大丈夫”である。

   山門をくぐると右手に庫裏があり、ここで拝観料200円を払う。

   

  

    義仲寺はその名が示すとおり平安末期の武将木曽義仲(源義仲)ゆかりの寺で、彼の愛妾巴御前が近江国粟津で討ち取られた義仲の菩提を弔うため、その墓があるこの地に草庵を結んだとされる。また江戸時代には松尾芭蕉がこの地をしばしば訪れて俳人仲間と会っており、彼の墓もその遺言によりこの寺にある。

    右は芭蕉の「 行春を あふみ(近江)の人と おしみける 」と詠んだ句碑である。 

    
 

 境内を奥へ進むと木曽義仲の墓がある。来訪時は草木に囲まれた宝筺印塔が春の陽光を静かに浴びていた。

    木曽義仲は源頼朝や義経の従兄弟にあたり、「打倒平家」に源氏が立ち上がった際に最も早く平家を追いやり入京を果たした人物である。しかし都での狼藉や皇位継承への口出し等で後白河法皇に疎まれ、ついには頼朝が向けた義経・範頼軍に討たれてしまった。

  <吾妻鏡/壽永三年正月廿日 >
   蒲冠者範頼・源九郎義経等、(中略)つひに近江国粟津の邊において(中略)義仲を誅戮せしむ。

    

  

    境内の句碑には芭蕉の俳人仲間が詠んだものも多くあり、右写真は伊勢の俳人又玄(ゆうげん)の

「木曽殿と  背中合せの  寒さかな」

と詠んだ句碑である。

    
 

    さらに境内を進むと芭蕉の墓がある。彼は大坂で亡くなったが、その遺言に従い遺骸はこの寺に眠っている。その後この寺は何度か荒廃の憂き目にあうものの、篤志家の尽力等もあり存続している。

    この寺はもちろん寺院であり、本尊もちゃんとある。しかし境内の雰囲気は一般の寺のそれよりは庵跡、例えれば大磯の鴫立庵に近いものがある。境内の句碑は全部で19あるので、入場時に渡される寺の案内を片手に巡ってみると良いだろう。

    
 

    さて次は月心寺である。この寺は逢坂関跡を過ぎて山科方面への長い下り坂の途中にあり、「走井」と記された行灯が目印である。

    この寺は当初から寺院ではなく、当時は街道脇の「走井茶屋」として繁盛した茶屋であった。その名のいわれはこの茶屋の「走井(はしりい)の名水」で、今なお昔と変わらずに湧き出ている。

    明治時代になり東海道が廃れるとこの茶店も廃れ、荒れ放題となっていたのを大正三年に日本画家の橋本関雪が別邸として購入し、今のような寺院になったと言われる。(臨済宗系単立宗教法人) 

   
 

    下の広重の五十三次「大津」を見ると、絵の左下部分に走井の水が湧き出ている様子が描かれている。

   
 

    この寺は資料によれば境内拝観は自由とあるが、たまたま自分が来訪した時は精進料理予約のグループ客が有り境内奥へは入れず、庭園等を鑑賞する事はできなかった。しかし肝心の走井は観る事が出来たので良しとしよう。

  今回紹介した義仲寺・月心寺はいずれも一時衰退したものの復興を遂げた街道脇の史跡であり、今後末永く存続を願うものである。