全世界禁煙

 「カン」なんて、こう言っては何だけど、変にきっぱりした名前だと思う。フルネームは「田沼 カン」。彼は私と同じワンルームアパートで、隣の102号室に住んでいる。ほとんど外に出てこない変わり者だ。
 私はカンが気に入っている。なにしろ近くに住んでいるから、毎日のように遊びに行く。表札のない、鍵すらかかっていない102号室は、表向き、空き部屋同然だ。家具がない。電話がない。電球が切れっぱなし。シンクがほこりを被っている……水が出るかも怪しいものだ。まったく人の住んでいる空気じゃない。
 でもそれはあくまで、表向きの話だ。
  今時珍しい和室の、隅の一畳を剥がせば、下向きの階段が口を開けている。カンが勝手に作った地下室がこの先にあるのだ。真っ暗で、狭くて、恐ろしく急なその階段を降りていく時、私は決まってわくわくする。何度通っても慣れてしまうことのない、新鮮なわくわく。さあ、今からカンに会いに行くんだぞ。

  カンの地下室は、いつも煙が漂っている。大きな声では言えないんだけど……アレの煙だ。アレ。……そう、タバコ。
  タバコの所持が犯罪になることぐらい、私だってわかっている。特に現在の日本では、麻薬並みに取り締りが厳しい。「人口当りのタバコ中毒者数、世界トップクラス」なんて国際的に批判されたりした為に、警察がやっきになっているのだ。
  でも私はタバコが好きだ。あの独特の匂い、煙の色、そしてそれを吸っている人の表情まで。こんなことを普通の友人に言うと、アブナイ奴みたいに思われるからやめているけど、カンには話せる。カンはあまり答えはしないけど、ちゃんと聞いてくれる。
「あんた、変な奴だな」
  今日行くと、カンはいきなりそう言った。
「カンの方が」
 私は地下室の本の山に埋まりながら、答えた。地下室は上と違って物に溢れている。コンピューターが1台、その隣に自動乾燥洗濯機、隅にはなんでか知らないけど空の鳥かご。床のカーペットを覆いつくす本の山、インスタント食品のカップに割り箸が突っ込んだまま。スプリングが弱っているソファはベッド兼用。そして、銘柄のばらばらな大量のタバコ。
  私は、その中の一つ、青いラインと星マークがついたタバコの箱を拾い上げた。カンが失礼な事を言い出しておきながら黙ってしまったので、私は勝手に喋ることにした。
「お父さんがタバコ好きだったんだ。だから私も小さい頃からタバコの匂い知ってた」
 お父さん、見つかって病院に入れられちゃったけどね。と、続きを言うのはシャレにならないからやめた。カンは何も言わずにコンピューターに向かっている。口の端にタバコをくわえている。煙がその先から、くゆらくゆら、と昇っていく。私は、ただ見ていた。
 カンの地下室では、煙の分だけ空気が濃くなる。とろとろした半透明の空気の中で、時間さえもがゆっくり流れる。本だってたくさんあるし、とても居心地がいい。
「なぁ」
「うん?」
 カンは背中越しに、紙切れをよこした。相変わらず振り向かないまま。それは最新の映画のチケット1枚。日付は明日だ。
「やる。行ってこいよ」
 カンが物をくれるなんて、珍しいこともあるものだ。というか、私は思わず口走った。
「1枚だけ?」
「……なんだそれ」
「普通、『チケット2枚あるんだけど、一緒にいかない?』とか」
  少女マンガの普通だけどね。私は苦笑した。カンにそんなものを求めるのは間違っていた。カンも同感なのか、フンと鼻を鳴らした。
「俺はあんたより変な奴らしいからな」
「案外根に持つね」
「まあな」
 カンの指がキーボードの上で踊りだす。かたかたかたかた。
「でも、ありがと。見たかったんだコレ」
  ちょっと前に、カンに話したことがあった。もうすぐ封切なんだよ。主演の女優がかっこいいんだ。……覚えていてくれたのが嬉しかった。カンは返事をしなかったけど、別に構わない。
  帰る時に、カンが家まで送ってくれた。珍しい。珍しすぎる。チケットといい、今日は妙。
「熱でもある?最近、急に暑くなったし」
「ばか」
  カンは笑った。笑顔を見たのは初めてだ。笑顔だけじゃなく、正面から顔を見たのも初めてだ。私はカンの後ろ姿や横顔や、タバコの先ばっかり見ていたのだと気付いた。
「映画。行ってこいよ」
「うん。楽しんでくる」
「……じゃあな。さよなら」
  その時一緒に気付けばよかった。笑顔の意味も。丁寧な「さよなら」の意味も。チケットの意味も。送ってくれたことの意味も。でももう遅い。

 次の日。私が、かっこいい女優が悪漢を撃ち殺すのを見ていた時。
 私のアパートは、謎の爆発でぶっ壊れた。

 新聞やら週刊誌やらワイドショーやらのネタになった。
 アパートはもうすぐ取り壊される予定で、入居者は2人だけだったこと。
 1人はちょうど外出中で無事だったこと。
 もう1人は行方不明になっていること。
 時間がたつにつれて、行方不明の1人が爆発に関っていたらしいこと。
 というのも、その男、田沼 カンはネット上でタバコの密売をしていて、警察にマークされていたということ。
 証拠隠滅と逃亡のために、アパートを爆破した可能性があること。
 警察はガレキから遺体が出てこなかったことから、田沼容疑者を指名手配すること。
 ……そんな情報がぼろぼろ出てきた。
 どんな情報の中にも、私の知っているカンはいなかった。
 何度か警察に連れて行かれて、毎回「田沼容疑者」と付き合いはなかったか、ええどうなんだどうなんだ、みたいな質問をされた。私は黙っていた。ひたすらひたすら。喋ることなんかない。なんにもない。

 カンは今どこでタバコ吸ってるんだろう。
 なんだかボーゼンとしながら、そう思った。
 ここのところ快晴続きだ。時期の早いカゲロウが、一瞬煙を見せて消えた。

                             【終】