5月9日の午後、港区立三田図書館4階にある港区立港郷土資料館の「さわれる展示室」に行きました。この「さわれる展示室」があることは、1年余前知り合いからのメールで知りましたが、ようやく今回行くことができました。JR田町駅で降り、回りの人たちに方向を尋ねようとしていたら、慶応の学生が近くまで行きますから、と三田図書館まで案内してくれました。さわれる展示室では、学芸員の方がずうっと付き添って触りながら解説してもらいました。
郷土資料館といえばふつうは民具類や遺物が多いですが、このさわれる展示室には、これらのほかに動物の骨格標本がかなりあり、私はその骨格標本が一番の目当てでした。骨格標本では、なんといっても、ミンク鯨の全身の骨格の展示が圧巻でした。鯨の椎骨などは触ったことはありますが、全身の骨格は始めてでした。ミンク鯨の全身の骨格がいろいろ繋ぎ合わされていて、全長9メートルにもなっているそうです(私が順に触っていった感じでは、実際に展示されていた骨格標本の長さは9メートルはないように思いました)。この標本は、宮城県石巻市の鮎川で捕獲されたものから作られたそうです(鮎川は鯨の町として有名でしたが、東日本大震災で甚大な被害を受けました)。
私はそれを前から順に触って行きました。長さ1.5mくらいもある頭骨が前にすうっと伸びています(ミンク鯨はヒゲ鯨類なので歯はない)。その後ろには椎骨がずうっと続き、その横には大きな肩甲骨と肋骨があり、さらにその外側には大きく長い手=胸鰭(前脚)が広がっています。椎骨は数えてみたら全部で44個くらいありました。頚椎と胸椎は人とあまり変わらないようですが(頚椎が7個、胸椎が10個くらい)、腰椎から下がかなり多くなっています。胸椎から腰椎にかけてある大きな椎骨は、厚さは20cm以上もあり、横に30cm近く、上に20cm近くの突起が伸びています(これに比して、頚椎は小さくて薄いのが密着して並んでいた)。腰椎の下には2個小さな骨がぶら下がっていました。何の骨かよくは分かりませんが、もしかすると後脚の痕跡かもしれません。肩甲骨は長さ60、70cmくらいあったように思います。肋骨は全部で10本あり、円弧を描くように大きく湾曲していて、一番大きなのは直径10cm、長さ1mくらいはありました。手=鰭は、長さは1.5mくらいあったと思います。腕は骨が2本で、その先は長い指が4本あります。各指には骨が5、6個は並んでいました。
遺跡から出土したという骨もいろいろありました。馬と牛の大きな歯、イルカの歯、猫の上顎、犬の頭骨、鹿の上腕骨、豚の下顎などがありました(豚の脚の骨もありましたが、これは現在のものでした)。猫や犬はペットとしても飼われていたようです。江戸時代は肉食はタブー視されていたはずですが、この郷土資料館近くにあった薩摩藩江戸藩邸の上屋敷跡からはたくさんの豚の骨が出てきていて、食用に豚を飼っていたようです。そして、頭骨を調べてみると歯槽膿漏の痕があって、美味しい肉質にしようとして軟らかめの餌を与えていたのではということです。その肉は薩摩藩の人たちばかりでなく、幕府の人たちも食べていたらしいです(とくに一橋慶喜は大の豚肉好きだったとか)。薩摩藩の豚肉食は、当時薩摩藩が実質的に支配下に置いていた琉球からもたらされたもののようです。今日の鹿児島の黒豚のブランドは、幕末にまでさかのぼれそうです。(なお、彦根藩では江戸時代から肉用に牛を肥育し、その肉は養生薬として将軍家にも献上されていたそうです。近江牛の源流も江戸時代までさかのぼることになります。)
遺跡から出土する動物の骨の種類などを調べるために、また参考のために、各種の動物の骨格標本が整えられ展示されていました。小型犬の全身骨格、猫・犬・馬・牛・ハンドウイルカ・アジアゾウ等の頭骨、牛や馬・イルカ等の歯(牛や馬の歯は場所によって形が異なっていますが、イルカの歯はすべて同じ形で、円錐形の先端が内側に少し曲がった形だった)、ミンククジラやナガスクジラのヒゲ盤等が展示されていました。
その他出土品としては、縄文時代などの土器類、縄文時代の石鏃や打製石斧、江戸時代の泥面子がありました。泥面子は、私が触ったのは、直径3cmくらい、厚さ7、8mmくらいの円盤状で、なにか文様や文字のようなのが描かれていました。子どもたちの遊びに使われたということです。
紹介が最後になってしまいましたが、この郷土資料館の主要な展示品はやはりむかしの道具類です。50年から100年くらい前まで使われていたものが多かったです。以下、私の触った道具類たちです。
さわれる展示室は一部畳の間になっていて、その中央には掘りごたつが設えられています。彫りごたつの上には、ダイヤル式の黒電話と硯が置かれていました。畳の間の回りは押入れ風に棚が数段設けられていて、そこにいろいろな道具類が展示されています。
暖を取る道具類として、十能と火おこし(十能は木の柄の付いた鉄製のまるい入れ物で、その中に網状になった火おこしがすっぽり入っていて、その火おこしの上に真っ赤になった炭を乗せて運ぶ)、箱火鉢(小さな引き出しも付いていた)、小さな櫓ごたつ、これも小さな手炙り(上面は網状になっていて、手を乗せられる)、炭火式足温器(炭火の入った台の上に足を乗せる。足を乗せる所はちょうどスリッパのような形になっており、台の上面には4個穴が空いていた)火消し壺(表面にきれいな模様=笹野葉模様が浮出していた)、七輪、行火、金属製と陶器製の湯たんぽなどがありました。ほとんどが1人用の暖め器具ですね。また、燃料として、炭とともに、豆炭(無煙炭の粉に木炭粉・コーライトなどをまぜて固めたもの。直径5cmほどの平たい団子のような形)、炭団(粉状になった木炭を固めたもの。直径5cmくらいの球形)、練炭(石炭・木炭・コークスなどを固めたもの。直径10cm弱、高さ15cm?くらいの円筒形で、穴がいくつも空いていた)なども展示されていました。
明りの道具として、有明行灯と龕灯(がんどう)がありました。有明行灯は、20cm弱四方×高さ25cmくらいの木製の箱型で、内側と外側の二重になっています。内側の箱のようなものの中の底には油を入れておく皿(火皿)があり、回りの窓のような所には紙が張られています。外側の箱のようなものの片面には三日月の形の窓が、反対の面には満月に近い形の窓が空いています。ふつうは外枠がはまっている状態で使われますが、外枠をはずして、それを台にして、その上に内側の枠を乗せて置くことができるようになっています(こうすると、少し明るくなるようです)。龕灯は、蝋燭の明りがいつも正面を向くように工夫された道具です。直径20cmくらいの小さなブリキのバケツのような形で、底面に当たる所に持ち手が付いています。バケツのようなものの内側には、ちょうどぶらんこのように、自由に回転できる半円形の輪が付いていて、その輪の中央に蝋燭が固定されており、持つ手の角度がいろいろ変わってもつねに蝋燭が垂直に立っていて、蝋燭の光が正面を照らすようになっています。(なお、有明行灯も龕灯も江戸時代になってから使われるようになったものです。龕灯は目明かしが強盗の捜索に使ったとも言われ、「強盗(ごうとう)提灯」とも言われたそうです。)
アイロンの種類もいろいろありました。私も知っている電気アイロンのほか、ガスアイロン(主に業務用)、炭火アイロン(上は炭を入れられるよう蓋のようになっており、また横には煙突のようなのが付いている)、火のし(小さなアイロンに木の柄が付いたような形で、中に炭火を入れて熱くし、布地にあてる)と鏝(こて)が展示されていました。
その他、茶釜、コンロと羽釜(回りに大きなつばのようなのがついた釜)、蒸篭(羽釜の上に蒸篭を置けるようになっているとか)、薬研(長さ30cmくらいの細長い舟形の窪みの中に直径20cmくらいの金属製の円盤が入っている。円盤を回して生薬を磨り潰す。子どもたちに人気だそうで、古い物とは思えないくらいつるつるになっていた)、足踏み式ミシン、氷冷式冷蔵庫(60cmくらいの高さの木製の箱のようなもので、上の扉を開けると棚があり、そこに大きな氷を入れておき、氷で冷やされた空気が底面に空いている大きな穴から下の室に行って冷やす)、私も小さいころ使っていた洗濯桶と洗濯板などもありました。
以上の道具類はほとんど、人の力あるいは自然や植物の中のエネルギーを利用したものですが、電気の働きを利用した、古いタイプのテレビやラジオ、ステレオとレコード、扇風機なども展示されていました。全体として、むかしの人たちのいろいろな工夫と職人的な技術の素晴らしさ、そしてエコな生活を感じます。
こんなにもいろいろと触りながら説明してもらえる展示室ですが、見えない人たちの利用はほとんどなく、主に子どもたち、とくに小学3年の社会科の見学でよく利用されているそうです。点字や音声による解説はまったくありませんが、学芸員が十分に時間をかけて説明してくれますので、見えない人たちも十分に満足してもらえると思います。それに、駅からすぐ近くというのも、とくに見えない人たちにとってはいいですね。
(2014年5月18日)