12月26日、多賀町立博物館に行きました。この博物館に行こうと思ったのは、先月みなくち子どもの森を見学した時に、多賀町で発見されたアケボノゾウの各部分と全体のレプリカに触り、もっと詳しくアケボノゾウについて知りたいと思ったこと、また、多賀町ではペルム紀の化石も見つかっていて、できればそれにも触ってみたいと思ったからです。
JR琵琶湖線の彦根駅に10時半ころ到着、そこから11時前に「工業団地経由 多賀町役場行」のバスに乗り、20分ほどであけぼのパーク多賀に着き、そこで降りると博物館はすぐでした。
博物館ではスタッフのAさんが、2時間近くとても丁寧に案内と解説をしてくださいました。展示スペースはそんなに広くはなさそうですが、全体としてコンパクトで充実した展示のように思えましたし、また鉱物や化石など触れられるものもかなりあり、子どもたちにも楽しめるように工夫しているように感じました。以下に、当日実際に触ったり説明してもらったことなどを紹介します(一部、自分で調べたことや、後で博物館に問合わせて教えていただいたこともふくみます)。
まず、アケボノゾウの全身の復原模型と、その5分の1の模型です。実物大の模型では手が届かない部分もあるので、小さい模型で全体の形を確かめ、それから全身の模型を触りました。肩までの高さが2m近く、体長は4m近くということです。脚が短かめで胴が太く、牙が湾曲して長く伸びています(外に出ている部分は1.30〜1.40mくらいだったと思う)。
このアケボノゾウは、1993年多賀町四手で行われていた工業団地の造成工事の際に、古琵琶湖層の粘土の中から発見されたもので、発掘の結果 1頭分の全身の骨格の7割以上が見つかり、全身を復原することができたそうです。全身の模型のほか、全身の骨格の組立て模型や、関節部分が動くようになっている前足の骨格もありました(各指の骨や、いくつもの細かい骨から成る手根骨?まで、とてもリアルで、それが動くのですからなおさらです)。なお、中庭にはアケボノゾウが見つかった状態を再現した産状ジオラマがありましたが、ちょっと時間がなさそうだったので触りませんでした。
このアケボノゾウの出土した古琵琶湖層の地層は、火山灰の分析から180万年くらい前だということです。琵琶湖は、400万年くらい前から、南から北へ移動していて、ちょうどそのころ多賀町辺が窪んだ地形になっていたようです。地層の年代を決めるのに鍵層として使われたのは「恵比須峠・福田テフラ」と呼ばれる火山灰層で、176万年前ころ、現在の岐阜県の北部(飛騨高山辺?)での大噴火による降下物で、房総半島から新潟県、東海地方から近畿地方にかけて広く分布しているそうです。実際にこの火山灰を触ってみましたが、とても細かいさらさらした感じです。色は白っぽくはなく、細かいガラスのようなのが見えるとか。顕微鏡でみて区別・同定するとのことです。
アケボノゾウは、約300万年前近くから100万年前くらいまで、近畿地方を中心に、北海道を除く日本各地から発見されていて、以前はアカシゾウやカントウゾウなどいろいろに呼ばれていましたが、1991年に同一種と認定されて、もっとも早く(1915年松本彦七郎が石川県産のゾウ化石をアケボノゾウと命名)名付けられたアケボノゾウに統一されたそうです。アケボノゾウは、現在のアフリカゾウやアジアゾウなどのゾウ亜科とは別のステゴドン科(ステゴドンとは、ギリシャ語で屋根(ステゴス)のような歯(オドント)をもったゾウという意味)に属し、その祖先は500万年前ころ中国で生息していた同じくステゴドン科のツダンスキーゾウやコウガゾウであるらしく、それが日本に渡ってきて400万年前ころの地層からミエゾウ(以前はシンシュウゾウと呼ばれていた)として発見されています。このミエゾウは、肩までの高さが 4mもある大きなゾウで、それが、その後大陸から切り離されて狭い島の環境となった日本で独自に進化して小型化したものがアケボノゾウだと考えられているそうです。(ちなみに、島に生息する哺乳類では、近い大陸に住む近縁種と比べて、小型の動物は大型化し大型の動物は矮小化する、という傾向があるそうです。これはフォスターの法則とか島の法則とか呼ばれていて、アケボノゾウの小型化もこの例のようです。また、ミンダナオ島のミンダナオゾウやジャワ島のトリゴノセファルスゾウもアケボノゾウと同じような大きさですが、これも島に住むことによって小型化したのでしょう。一時期話題になったフローレス島の小さな原人も、もしかするとこの例なのかも知れません。)なお、その後も、大陸と陸続きになるたびに、70万年前ころステゴドン科のトウヨウゾウ、30万年前ころゾウ亜科のナウマンゾウ、3万年前ころマンモスゾウ、というように日本に新たにゾウが入って来ます。
次に触ったのが、石灰岩の急な崖を表したジオラマです。現地に行って型を取って作ったとかで、ざらざらした感じなどけっこう実感できました。多賀町の東側は鈴鹿山脈で、鈴鹿山脈の北部には石灰岩地帯が広く分布し、近江カルストと呼ばれているそうです。石灰岩のジオラマにはカタツムリが数個ありました。石灰岩地域では、炭酸ラルシウムが用意に利用できるので、カタツムリの種類が豊富だそうです。また鍾乳洞には、コウモリをはじめいろいろ珍しい生物も見られるとか(そのような昆虫や植物も展示されているようでした)。
ジオラマの石灰岩の崖の上には、ニホンカモシカの剥製がありました。体長1m近くあり、胴がけっこうずっしりした感じです。角は20cm弱くらいで、そんなに長くはありません。ニホンカモシカは、「シカ」という名前が付いていますが、鹿の仲間ではなく牛の仲間だそうです。シカ科の角は枝角と呼ばれ、頭骨とは別のもので毎年生え変わるのにたいして、ウシ科の角は洞角と呼ばれ、頭骨が伸びたもので一生生え変わることはないとのことです。また、シカでは雄だけに角(枝角)が生えるのにたいして、ニホンカモシカでは雄・雌ともに角があります。そして、ニホンカモシカの角には、木の年輪のように、成長とともに毎年角輪が刻まれていくので、この数を数えればだいたい年齢が分かるとのことです。剥製の雄の角輪は5、6mmくらいの間隔で連なっていて、全部で13個くらいありました。雌では、出産した年に角輪の間が狭くなるらしく、年齢とともに出産回数も推定できるらしいです。雌の剥製の輪を数えてみましたが、17、8個はあり、全体に雄よりも各角輪の間隔は狭く、3mmくらいの所もありました。
タヌキとアナグマの剥製が向い合って展示されていました。体長はどちらも50〜60cmくらいで、大まかな外見は似ているようですが、アナグマのほうが全体に細身でとくに頭のほうが細い感じなのにたいし、タヌキは全体にずんぐりした感じでした。アナグマはイタチ科なのにたいしてタヌキはイヌ科だそうです。アナグマの前足には長い鋭い爪があって、穴を掘るのに適しているようです。アナグマの掘ったトンネルのような穴には、タヌキをはじめキツネやアライグマなどが入り込んで、アナグマと同居していることもあるそうです(アライグマはアナグマを追い出してしまうらしい)。「同じ穴の狢(むじな)」ということわざがありますが、一つの穴にアナグマとタヌキが一緒にいることから来ているとか。ちなみに、Aさんはタヌキの肉を食べたことがあるそうですが、臭くてとてもおいしいとは言えないそうです。それに比べてアナグマの肉はとてもおいしくて、むかし話に出てくる狸汁の肉はもしかするとアナグマのものだったかもとか。
シカ・キツネ・クマの前足の骨格が、比較しやすいように並べて展示されていました。大きさの違いがよく分かるとともに、足先の違いもよく分かりました(シカは蹄のようなのが2本、キツネは4本の指と上に小さな1本、クマは太い大きな指5本)。ほかにも、シカの剥製や枝角なども展示されていました。
次は、私が期待していた、古生代ペルム紀前記(2億8千万年前くらいころ)の化石たちです。芹川(鈴鹿山脈北端の霊仙山に発し、多賀町の山間部を南西に流れ、多賀大社付近で湖東平野に出るとともに北西に向きを変える)の上流の権現谷という所の石灰岩からそのころのいろいろな化石が見つかるとのことです。まずその石灰岩に触ってみました。かなり硬い感じで、なにか時間の経過を感じます。石灰岩の表面に、直径5mmくらいのわずかにふくらんだ部分があり、ちょっとつるっとした感じです。中心から放射状に線が見えるということで、これはサンゴだそうです。次に、石灰岩から取り出したらしいフズリナの化石です。直径5mmくらい、長さ1cmくらいで表面はさらさらした感じです(私が触ったのはパラシュワゲリナという種類だそうです)。また、このフズリナの巨大なレプリカもありました。直径10cm、長さ30cmくらいもあって、上部の片側がカットされていて中の構造も確かめられるようになっています(細長い空洞や丸い穴のようなのがたくさんありました)。次は腕足類の化石です。見て触って分かりやすいように、回りの石灰岩を削って化石の部分が浮き出すようになっていました。大きさは3cmくらいでしょうか、貝殻のような形で、殻の広いほうの側にはいくつも細かい溝のようなのが並んでいました。形は2枚貝に似ていますが、貝では殻が左右であるのにたいして、腕足類では背側と腹側だそうです。また、貝には骨はありませんが、腕足類では背側の殻の内側に腕骨という骨があるそうです。ウミユリの化石の入った石灰岩にも触りましたが、触って形までは確かめられませんでした。数mmくらいの小さな化石があちこちに見えていて、爪で触るとちょっと表面の感じは違って化石のある場所はだいたい分かりました。また、三葉虫の細かい化石の入ったものもありましたが、これは触っても分かりませんでした。
以上のいろいろな動物は暖かい浅い海に生息していたものです。それらの化石をふくんだ石灰岩はもともとは、超海洋パンサラッサ(超大陸パンゲアを取り囲んでいた海)の赤道より少し南にあった海山の断片で、それがプレートの移動とともに数千キロ北上して大陸縁辺の島弧である日本付近に付加されていった(玄武岩質の海洋プレートは重いので大陸プレートの下に沈み込む)ものだと考えられているとのことです。こんなにも重要な岩石や化石が、私の今住んでいる所から100kmほどのすぐ近くにあるとは、心踊ります。
上の多賀町の石灰岩では断片になっていて、触ってはほとんど分からなかったウミユリですが、モロッコ産の素晴しいウミユリの化石に触りました。30〜40cm四方くらいの大きな板状の石の上に、何本も茎のような膨らみが伸び、その先には、細長い多数の花弁が広がって大きな花のようになったのがいくつもあります。形はまるで植物のようですが、茎は支持体、花弁は腕で、ウニやヒトデなどと同じ棘皮動物だそうです。さらにこの標本では、いくつか伸びている茎の方向とほぼ直角に、別の茎が数本重なり合って伸びていて、この標本がどのようにして出来てきたのか、いろいろと想像させます。
ほかにもいろいろな化石に触りました。大きなウニ(10cmくらいはあり、大きな突起のようなのが5個あって、私はヒトデかもと思った)、クジラの耳骨(6、7cmくらいの大きさで、形は巻貝ないし耳のようだった)、ビカリア(典型的な円錐形ではなくちょっと平べったくなっていた)、三葉虫(複眼が少し分かった)などです。また、大きなサメや恐竜、さらにナウマンゾウの歯にも触りました。アケボノゾウが発見された付近の約180万年前の地層からはシカの化石も多く出ていて、その全身骨格も展示されていました。形は現在のニホンジカと似ているそうですが、もしかすると新種かも知れないとか。比較のために、約150万年前のカズサジカ(長崎県産)、約100万年前のシカマシフゾウ(兵庫県産)、約14万年前のニホンムカシジカ(千葉県産)のレプリカも展示されていました。
さらに「うんこ」の化石まで触りました。泥が固まったような手触りで、ぐるぐる巻いたような感じになっていてなんかそれらしかったです。動物種までは分からないが、肉食獣のものだとのことです。触った感じはなんか生々しいですが、アメリカ・ワシントン州の千万年くらいは前のものだとか。糞は柔らかいため化石として残りにくいが、なにしろ毎日大量に出てくるのでたまには偶然うまく保存されていることもあるそうです。三重県の400万年前の古琵琶湖層群からはワニの糞化石が見つかっており、さらに各地の縄文遺跡からは縄文人の糞化石もかなり見つかっているようです。
また、みなくち子どもの森でも触った始祖鳥のレプリカ(ベルリン標本。1877年に始祖鳥としては2番目に発見されたもの)のレプリカに触りました。羽や脚などは分かりましたが、頭部や爪まではよく分かりませんでした。やはり、みなくち子どもの森で触った立体の始祖鳥は良かったなあと改めて思いました。
これが化石?と思えるものにも触りました。シベリアのエドマ層(永久凍土)から見つかったマンモスの毛だとのことです。ちょっとがさついた感じの本物の毛です。がさついた毛の間に細かい毛もあるようです。(毛はケラチンから出来ていて、歯や骨ほどではないが、残りやすい。)「化石」と言うと、石のように硬いものを想像してしまいますが、生物の遺骸や生活の痕跡が地中に埋もれ、それが後で掘り出されたものは何であれ、石のようになっているかには関わりなく、化石と呼ばれるとのことです。
岩石や鉱物もいろいろあるようでした。私が触ったのはそのごく一部のようですが、火成岩類と堆積岩類の標本が順に比較しやすいように並べてありましたし、またとても大きな方解石の素晴しい結晶にも触りました。(なんとその産地は、多賀町佐目 滋賀鉱産多賀鉱山だとのこと、こんな良い結晶が出るのですね。ちなみに多賀鉱山は石灰石の鉱山)。また、私はこれまでに 2、3度触ったことはありますが、こんにゃく石も展示されていました。40cmくらいある細長い板状で、表面はざらざらしたような手触りです。両側が固定されていて、真ん中を持ち上げるとちょっと上下します。こんにゃく石は通称で、学術的には、最初に発見されたブラジルのミナス・ジェライス州のイタコルミ山にちなんで、イタコルマイトと呼ばれるそうです。イタコルマイトは石英質の砂岩ないし片岩で、石英の細かい粒から成っていてその粒子間に隙間があり、各粒子が少しずつ動けるようになっているようです。隙間には雲母などの鉱物が入っていて、ゆるく結び付けているのでしょう(産地によって、隙間に入っている鉱物や構造に違いがあるようです)。
多賀町の歴史のコーナーもあって、私は須恵器に触りました。また、歴史の展示の中で、触るのはちょっと難しいかもと思っていた仏像のレプリカ?にも触ることができて、本当にうれしかったです。
それは、木造漆箔の阿弥陀如来坐像です。実物の5分の4の大きさで造ってあるとのことです。そっと触るとどこもつるつる、全面金箔ということです。幅は70〜80cmくらい、高さは、台の上にあるので一番上まで届きませんでしたが、1m余くらいだと思います。結跏趺坐の姿勢で、両肘を内側に曲げて、脚の上、お腹の前で、両手の小指から中指までを重ね(左手が下)、両親指を真っ直ぐ内側に伸ばして先を合わせ、それぞれの人差し指と親指で輪を作るようにしています(これは定印と呼ばれる印相で、覚りを開いた時の心の状態を示すもの)。顔は整った大きな感じで、例によって耳は長いです。髪のあたりは、直径1cmほどの円錐形のふくらみが多数並んでいます。全体の形はまったくと言ってよいほど左右対称で、美しいというより、理想の形を求めているように感じました。
このレプリカ?は、たんに形を似せて造っているだけではなく、当時の製作技法にできるだけ忠実に従って造ったものだそうです(模刻品と言って良いように思います)。檜の一木割り矧ぎ造りという手法だそうです。檜の一材で造っているのですが、持ち運びに容易なように中を空洞にするために、製作途中でいったん縦に前後に二つに割って中を刳り出した後でまた接合する方法です(この方法だと、干割れも防ぐことができる)。さらにその後、表面を漆箔に仕上げるわけですが、仏像の右側にはその工程も展示されていました。その解説パネルの文章によれば、表面仕上げの工程は以下の8段階になっています。
・素地:ひのき材
・摺漆:生漆を素地に摺り込み強化する。
・麻布貼:生漆と糊とで麻布を貼り、矧ぎ目や干割れを防止する。
・地の粉錆浸け:粒子の荒い地の粉(素焼の陶器を砕いたもの)を生漆で練り、麻布の目を埋め平滑にする。
・漆錆付け:水練り砥の粉を生漆でねり、さらに表面を平滑にする。
・錆研ぎ:上記の面を砥石(荒目800、中目1200)で研ぎ、さらに平滑にする。
・黒漆塗り:黒漆(生漆の水分を蒸発させ、鉄分を混入して黒色にした漆)を塗布する。 (この段階でもかなりつるつるの表面になっています。)
・金箔押:黒漆が完全に乾燥した後、生漆を再度摺り込み、これをわずかに残して拭き取り金箔を貼る。 (漆を塗った面に金箔を乗せると、漆が糊の役割となって箔を吸い付けてくれるそうです。こうして表面はさらにつるつる・ぴかぴかになります。)
実物の仏像は、多賀大社のすぐ近くの真如寺(浄土宗)の本堂に本尊として安置されていて、重要文化財に指定されているものです。平安時代の後期(12世紀)に造られたもので、江戸時代までは、古事記にまでさかのぼる由緒ある多賀大社の本地堂に本地仏として置かれていたもの(神仏習合の本地垂迹説では、仏菩薩が本地(真実の身)、神を垂迹(仮の身)とされる)でした。ところが、明治初期の激しい排仏毀釈のなか、多賀大社でも本地仏の阿弥陀如来坐像が本地堂から出されて表門付近の路上に遺棄されたそうです。それを、しばらくして近くの真如寺が保護して本堂に安置したとのことです。
時間がなくて十分に見学できませんでしたが、Aさんに丁寧に解説してもらいながら実際に触れられるものも多く、またとくに、3億年近く前の石や動物の痕跡、歴史に翻弄された仏像などにも触れることができて、今回の多賀町立博物館訪問はとても充実したものになりました。
追記:馬場木材
午後1時半過ぎ博物館を出て、30分ほど歩いて近江鉄道の多賀大社前駅に向いました。その途中、多賀大社の門前にある「絵馬通り」(表参道だそうです)を通りました。古い町並みとともににぎわいも感じられてなかなかよい雰囲気でした。多賀大社前駅から多賀線で高宮へ、そこから10分ほど歩いて馬場木材へ到着。この店では、彫刻材もふくめ多種類の木材(木の種類はたぶん百種くらいあると思います)を販売しています。数ヶ月前にイチイの仏像を触って、その肌触りに感動、私もそのイチイを手に入れて彫刻してみたいと思いました(イチイは、私が生まれた青森県ではオンコと呼ばれて、小さいころその実をよく食べていて、私にとってはとても懐かしい木です)。木の香りに囲まれながら、様々の木に触り、彫刻にも使えそうなイチイの手ごろな端材を手に入れることができました。また、試し彫りにということで、イチイのほか、験し彫りにカヤ、タイワンヒノキ、ウォールナット、さらに神代楠(和歌山県を流れる紀の川から河川の土木作業中に地中から、直径3m、高さ12mのクスノキの原木が出土。直径が3mだと推定樹齢は500年くらい。平安時代の大洪水の際に川に流されて、川底に埋もれたようだ。かなり黒っぽくて、匂も濃厚)の小片を入手しました。今後の彫刻が楽しみです!
(2015年1月11日)