カザフでの実践――高木昌彦さん

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 高木昌彦・静子ご夫妻の活動については、すでに昨年9月「未来に向けた非核平和活動――『ヒロシマを超えて 非核平和に生きる』」の中で一部紹介しました。
 1月20日と21日の両日、NHKのラジオ深夜便で高木昌彦さんが「カザフの日々から――平和への願い」と言うタイトルでお話しされました。放送されてからだいぶ経ってしまいましたので、とにかくメモ書き程度ですがまとめてみました。
 今回の高木さんのお話は、2回合せると計2時間近くにもおよぶもので、とても全部を紹介する訳にはいきません。以下、話の要点だけを羅列し、一部私のコメント(※の記号を付しました)を加えることにします。

 まず、放送の初めにながれた高木昌彦さんの紹介です。
 「カザフスタンで医療ボランティアとして原水爆実験の被爆者の調査・対策に当たっています。1925年生れで、76歳。大阪大学医学部卒業後大学に勤め、公衆衛生、とくに細菌学の研究・講義を担当。その間、同じ研究室で知り合った静子さんと結婚。静子夫人が広島の被爆者であったことから被爆医療に関心を持ち、定年後70歳からすでに6年間カザフスタンで医療ボランティアを続けています。」

※カザフスタンについては、他の中央アジア諸国とともに、私もふくめ一般にはあまり馴染がないと思います。外務省の各国・地域情勢の中のカザフスタン共和国(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kazakhstan/data.html)で、一般事情や経済、歴史など、簡潔にまとめられています。また、小田実さんが朝日新聞連載の「アジア紀行」(http://www.dcn.ne.jp/~skana/odaajiakikou.htm)の中で3回にわたってカザフスタンについて書いておられ、高木さんの活動についてもふれています。とても参考になりました。
 その他、原爆をはじめ核関連の歴史については「原子力・核関連年表」(http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/nenpyo/atomic.htm)を参考にしました。


●今の生活
 今住んでいる所は北緯50度で半年間は雪と共に暮らす生活です。新しく家を買ったので、はじめて新しい家で冬を越すという新しい経験をすることになります。
 カザフでの生活と活動資金にはすべて年金を当てています。3ヶ月間カザフ、1ヶ月間日本というサイクルで、1年の内9ヶ月はカザフにいます。


●経緯
 カザフスタンは、旧ソ連時代に40年間核実験が行われた国。
 日本では1964年から原水爆禁止運動に関わっていた。1992年に調査団の1員としてはじめてカザフスタンへ行って、やはりカザフ語が必要だということで留学を決意。1995年9月からカザフへ行く。
 40年間の核実験が世界に知らされないままであったという事にまず驚き、今は手探りでカザフの歴史を整理している。
 医療を通じて社会学的な立場から援助をしようというのが基本的立場。


●歴史
 セミパラチンスク(カザフ語ではセメイ)のあるセメイ州をはじめ3州にまたがった四国ほどの広さの地域で核実験が行われた。
 1943年、スターリンの命令で物理学者たちが核兵器開発を開始
 93年の学会報告では、1949年8月29日から1963年の部分的核実験停止条約が結ばれるまで、地上・空中の実験が118回、その後は地下核実験が89年まで353回行われた。
 広島や長崎の1回だけの被爆と違って、地域全体に被害が広がっている。92年にできた法律によれば、150万人くらいが被爆したことになり、法の適用を受けて、その人たちはみな日本で言う被爆者の手帳を持っている。その内の2、3割がおそらく重い被害を受けているのではないかと推定している。
 カザフスタンは、旧ソ連から残された核兵器を91年から95年までかけて廃絶し、その後97年にナザルバーエフ大統領が国連でカザフの被爆者の救援を訴え、98年に国連の事務総長報告でカザフ支援を国連主導でしようという提起があり、それを受けて99年に東京で関連国の会議があり、それが今具体化されて日本独自の医療支援が始まっている。


●実状
 95年5月26日という時点で、核兵器はカザフの領土から無くなったと言う「非核国」の宣言をナザルバーエフ大統領がした。しかし、非核国になったとはいえ、被爆者の対策等の具体的な問題になると、貧しい医療設備や経済事情のために、日本とは比べものにならないほど僅かしか対策がなされていない。
 この10年間でカザフスタンは核保有国から非核国へ転換したが、この現代史をカザフの人は外国の人にしっかりと整理した形では説明できていない。この点に関しては、日本で原水禁運動に関ってきた者として、自負がある。この10年間のカザフスタンの現代史を一番上手に説明できるのは、私しかない。これが、これまでの勉強の成果だ。


●カザフ語の勉強
 私のカザフ語の授業は、私が関心を持っている問題(非核平和関連の事)をカザフ語で作文し、それがカザフ語で通じるかどうかを先生がチェックしてくれて、次の時間までにそれを清書して仕上げていくという形式を取っている。私のカザフ語の授業は、私がなにか仕事をしないと授業のテキストはないという状況で、原爆や非核平和関連の新しいカザフ語を作りつつあるというのが現状だ。


●調査方法
 基礎的なカザフ語の勉強をする中で、2年めに今の調査様式を作った。実は被爆50周年ということで日本で被爆調査をやりたかったが、思うようにはできなかったので、できなかった分もふくめカザフできっちりしようと思った。
 なぜ何のためにするのか、という調査の目的とともに、次の6つの様式を設けた。@既に亡くなった人の事、A被爆の実際の体験、B健康状況、C現実の援護法がどう役に立っているか、Dどういう生活を送ってきたか、E調査員自身が何を学んだか
 これから印刷に回し、まず、実験場近くのカザフ語しか通じないサルジャル村で調査を始める予定。 

※この6つの様式の中で私がもっとも注目するのはEの調査員が調査を通して学ぶことです。高木さんは、若い調査員が調査を通じて非核平和の心を学び取り、できればそれを実践することを願っているのだと思います。


●原子の湖
 平和目的の実験と称して、川を堰き止めて水源地を造るという名目で大きい池を造ったが、いま行っても測定器の針が振り切れるほど、千倍以上の放射能が観測される。平和目的の実験が、実はとんでもない、言葉を失ってしまうほどの考え違いなものであったことがはっきりしている。

※核兵器のいわゆる〈平和利用〉(原発を除く)については、「fire cracker boys」(http://homepage1.nifty.com/arctic/arctic/fcb.html)に簡単な説明があります。
 またカザフでの〈平和利用〉や放射能汚染については、「カザフスタン:ほぼ全土で核汚染 国連調査委で判明」(http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200105/01/20010501k0000m030119000c.html)で少し実状が分かります。


●放射線の影響
 40年間に及ぶ核実験による放射線の影響についてこれから調査を始めるが、その結果は、既存の日本の知識では理解し得ない事態になる可能性がある。どんな結果が出るかは、今は予測できない。
 寿命の短縮やすべての臓器での癌の罹患率が高いといった統計はある。ただ医学的には、放射線の影響は特定の病気だけに出るのではなく、どんな病気に出ても不思議ではない。
 全般的な被害がどうなっているかについては、まだ語られる所までは行っていないように思う。日本の場合でもそうなのだが、例を挙げてこれが原爆の被害だとはっきりと言えれば簡単だが、残念ながら放射線被曝の影響は特定の病気に限られないというのが医学の立場からの一般的な考え。


●多民族国家
 カザフは多民族国家で、問題が複雑に絡んでいる。ロシア語を知らないカザフ人はいないが、カザフ語の読み書きのできない人のほうが多いというのが実状。98年に15分の短い報告をカザフ語でした時、カザフ語を分かってくれる聴衆は3割くらいしかいなくて、あとの7割はロシア語の通訳で理解してくれる状況だった。カザフ語が本当に役に立つのは、地域調査に入ってから。

※この点に関連して、民族ごとの人口構成の変化でカザフスタンの歴史を跡づけた「カザフスタンの人口変動」(http://www.ier.hit-u.ac.jp/COE/Japanese/discussionpapers/DP98.16/2.kazahusutan.htm)は興味深く読みました。とくに、カザフにおける朝鮮人とドイツ人の存在は象徴的です。


●カザフ語、国際交流
 カザフ語と日本語は語順と文法がいっしょで、互いに学び合うのは困難ではない。
 カザフ語を勉強するなかで、言語というものは下手に支配に使うものではないという事を通感している。逆に言えば、これまでの国際交流なり共同研究というようなもの、例えば日本人が英語を介して向こうの事を理解しようということ自体大問題だ。これから書くレポート等はみな、日本語・カザフ語併記で書こうと思っている。
 言葉とその国の歴史をベースにした、新しい国際交流を目指すべきだ。
 カザフスタンでは大学の日本語学科でこれまでに千人くらいの人が勉強している。それに比べ、日本でカザフ語を勉強する条件がない。日本側からの積極的な交流を若い人たちに期待したい。


●広島・長崎
 広島・長崎は非核情報の原点であり、国を超えて人類史的な意義を持つ。
 被爆国民は、非核平和を原点にして、運命を使命に換えるべきだ。
 非核を最初に鮮明したのは戦時中の日本の軍事政権で、8月10日に日本政府は「米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文」を出した。これに加えて、「平和に生きる権利」を定めた平和憲法を基礎にすれば、被爆国民の使命は明かであり、こういう視点で新しい若者が被爆国の有り方を追究することを期待する。

※この抗議文は「日本政府の対応は…」(http://www01.u-page.so-net.ne.jp/ta2/take-etu/Mission/PeaceVSJapan.htm)の中で読むことができます。
 原爆投下を是認する理由としては一般に、皆さんもご存じのように、戦争の終結を早め、それだけアメリカ軍ばかりでなく日本人の人命をも救うことになった、といったことが挙げられるでしょう。しかしこれはやはり〈表向き〉の理由のように思われます。原爆投下の背後にも、新しい物は何でも実際に使ってみたいという、科学者もふくめ人間の持つごく単純な欲求があり、さらに当時の状況に照らしてより現実的な理由としては、すでに始まっていたソ連との対立の中で、軍事的にも政治的にも絶対的に優位に立つことを実演してみせるという国家意志が強くはたらいたと思います。


●願い
 核被害については、まず非核平和の心の問題を出発点にして考えてほしいというのが、基本的な考えだ。そういう心をベースにしてカザフスタンの現代史を学んでほしいし、その事をカザフの人たちにこそ期待する。
 核保有国の若者、核の傘の下にある国の若者、非核国の若者たちが国境を越えて交流しているが、その基礎にはそれぞれの国と自分の国の歴史を大切にする若者たちの心があってほしい。戦争ではなくなによりも非暴力を原点にした若者が育ってくれることを期待する。
 非核の情報は、カザフが発信できる人類史に貢献する唯一の情報だと思うが、その発信の手伝いをしたい。広島と長崎に死没者の追悼記念館が建設中だが、カザフでの被爆者調査の結果を中心に情報交換を考えている。
 ユネスコの検証にあるように戦争が心の中で起こるならば、非核平和の心でつながってほしいというのが、若い人たちへの願いだ。

※高木さんのお話しの中にもありましたが、日本政府はカザフスタンに医療もふくめかなり大規模に援助をしており、その意義も高木さん自身多いに認めておられました。そのような中では、1個人の高木さんの活動はごく小さなものかもしれません。でも、その活動を通して表明される〈心〉は本当に大切にしたいです。高木さんのすべての活動は、国を越えて非核平和の人間を育てたいという願いに発しています。


(2002年2月11日)


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◆追記

 3月21日、高木昌彦さんが亡くなられました。たいへん悲しい知らせです。
 3月初めに、3月23日に「被核平和研究会」開催の案内を頂きました。カザフから日本に帰っておられるのを知り、また娘も高木さん御夫妻にお会いしたいと言って、会に参加することにしていました。
 3月22日の朝、高木静子さんから電話があり、家内が電話に出ました。昨日の午後、カザフのことでお客様と楽しげに面談を始めようとした時、突然倒れられ、そのまま不帰の人となったと言う知らせを受けました。
 3月23日午後1時半(これは、案内にあった「被核平和研究会」の開催時刻でもありました)からの告別式に家内と2人で出席しました。喪失感はとても大きいものの、でも何か希望を感じることのできる式でした。それはひとえに、高木昌彦さん自身の無私の真摯な生き方、恵まれない条件の中にある人たちに寄り添って生きる生き方のもたらすものなのだと思いました。被爆者ばかりでなく、膠原病の人たち、さらには大学の事務や看護関係の人たちのために共に歩んで来られたことも知りました。また、カザフからの長文の弔文を読んでもらいましたが、高木さんがカザフに蒔いた種はカザフの人たちの間にしっかり根を張りつつあることを知りました。

 今、私たちは、どうしたら良いのか、私たちの立場で何ができるのか考えています。

(2002年3月25日)