3月29日、名古屋ボストン美術館で開催中の「三菱東京UFJ銀行貨幣資料館所蔵 歌川広重 東海道五拾三次展」関連で行われた「さわって楽しむ広重!」に参加しました。
午後1時20分過ぎに美術館に到着、会が始まる2時までだいぶ時間があったので、この展覧会の音声解説を聞いてみました。全体についての簡単な解説の後、江戸日本橋から京都三条まで、20点弱の作品について解説がありました。とても分かりやすくて、それぞれの絵で何がどんな風に描かれているかだいたい想像できました。私がこれまで美術館で何回か聞いたことのある音声解説では、背景的な説明が多く、絵の特徴は説明されていても実際にその絵に何がどのように描かれているかの説明は少ないといったことが多くて、耳で聞いているだけではあまり鑑賞にはならないと思っていました。今回は音声解説だけでもだいぶ楽しむことができました。
さらに、この音声解説の中の「藤澤 遊行寺」の中で、杖をついた座頭がおそらく江の島神社?に向っているらしい、というような説明がありました。会が終わってから担当の学芸員に尋ねてみたところ、このほかにも、「二川 猿ヶ馬場」では3人連れの瞽女さんが三味線をかかえ、かしわ餅の店に向っているらしい様子が描かれ、「赤阪 旅舎招婦ノ図」にも、旅籠で働くいろいろな人たちとともに按摩さんが描かれているとのことです。また、帰宅してから調べてみると、「蒲原 夜之雪」では、夜の雪道を長めの杖で足元を慎重にさぐって歩いているような姿が描かれていて、按摩の仕事をしに行く見えない人かもしれません。当時人気のあった広重の東海道五十三次の錦絵全55点中3点(あるいは4点)に、見えない人たちの姿も他の様々の人たちとともにごく自然に風景の一部として描かれていたことに、私は驚き、またなにかうれしい気持ちになりました。
会は、2時から5階の図書コーナーで始まりました。参加者は4名ですが、付き添いの方が数人、それに学芸員が4人ほどおられましたので全体では10人余で、なごやかな雰囲気で始まりました。
歌川広重(1797〜1858)の代表作・保永堂版「東海道五拾三次之内」全55作品(起点の江戸日本橋と終点の京都三条を含めて55点になる)の中から、立体コピー図版で「鞠子 名物茶店」と「四日市 三重川」を、展示室に行って学芸員の解説で「嶋田 大井川駿岸」と「金谷 大井川遠岸」を鑑賞し、また「四日市 三重川」の一部の図柄の多色刷り体験をしました。
広重の「東海道五十三次」には20種類近く異なった版があるそうですが、この保永堂版がもっとも有名だそうです。1833年から翌年にかけて出版されました。広重は、前年の天保3年(1832)に、八朔御馬進献(毎年8月1日ころ幕府から朝廷に良馬を献上する儀式)の一行に加わって京都まで往復して、道中数多くのスケッチをし、それをもとに制作したらしいです。
触図で鑑賞するグループと多色刷り体験のグループに別れ、私はまず触図=立体コピー図版からでした。立体コピー図版は実物(大版。縦26.5×横39cm)とほとんど同じ大きさです。
最初は「鞠子 名物茶店」です。鞠子宿(現在の静岡県静岡市駿河区丸子)は東海道五十三次の20番目の宿場で、当時は家数200余、旅籠数20余で、東海道中もっとも小さい宿場だったそうです。この丸子地区では野生の自然薯が多く、とろろ汁が名物になり、松尾芭蕉も「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」と詠んだとのことです。
画面の中央から右にかけて大きく茶店が描かれています(この茶店は「丁子屋」というとろろ汁の老舗で、現存するらしいです)。茶店の屋根には、2羽のつがい?の鳥がとまっています。茶店の上から画面左下に向って、ずうっと山が伸びています。画面の右下には梅の木が広がっています。また画面の左端にも大きな木が高く伸び、その後ろには梅の花が見えているようです。春らしい感じのようです。茶店の中には、2人が台に腰かけて、向って右側の人は大きな(とろろ汁の)どんぶりをかかえて掻き込み、左の人は、徳利があるので、お酒を飲んでいるようです。2人の右側には奥さん?が赤ん坊を負んぶしてなにか食事を2人のほうに差し出しています。立体コピーずにはありませんが、「名ぶつとろゝ汁」「御茶漬 酒さかな」の看板もあります。画面左下には、坂道を棒のようなのに帽子や農具をひっかけて持って歩いている農夫?が描かれています。
次は、「四日市 三重川」。四日市宿は、東海道五十三次の43番目の宿場で、家数1800余、旅籠数100弱の大きな宿場です。画面全体を触って、葦や柳の枝のなびいている様子などから、風を感じられる作品でした。画面の下のほうは水で、縦にいくつも棒のようなのがあり、その上に横の板があって長い橋になっているようです。右下には船が描かれ、水辺には多くの葦がみな左にカーブして描かれています。画面右端には、長い脚絆と合羽のようなのを着け、杖をついた旅人が描かれています。その合羽が左側に大きくなびいていて、強風が表わされています。画面左下にも、飛ばされた菅笠を取ろうと手を前に伸ばしている旅人(背に大きな振り分け荷物を負っている)が描かれています。(実物の菅笠も用意されていて、直径50cmくらい、高さ10cmほどで平べったい形。表面はつるうっとしていて、柿渋を塗ってあるらしい。日差しにも雨にも少しは耐えられるとのこと。)画面のやや左には大きな柳の木が右上に伸び、その枝が大きく左になびいています。画面左上には何本もとがった3角があって、これは四日市湊の船の帆柱を表わしているようです(帆柱の左には港の建物らしきものもある)。
立体コピー図版2点の鑑賞の後に、上の「四日市 三重川」の画面左下の、菅笠とそれを追って手を伸ばしている旅人の部分の多色刷りの体験をしました。大きさははがき大ほどで、黒の主な輪郭線、黄色の菅笠と旅人の衣、肌色(肉色)の菅笠の内川と旅人の顔や足、紺色の旅人の衣の模様、の4枚の版木が用意されていました。各版木の右下隅に小さな直角の切れ込みが、また左下端にも水平の線があります(これが「見当」です)。版木の上にまずインクを乗せ、それを刷毛で広げ、その上に見当に合わせて紙(紙の左上角が斜めに切ってあって方向が分かるようになっていた)を置き、バレンで強く回すように押してインクを紙に刷りつけ、紙を版木からそっと離す、という工程を4回繰り返します。私の刷りは、最後の紺色の時に、紙が版木からうまく剥がれず、少し紙の表面が剥落してしまい、色が着かなかったようです。
最後に、みんなで展示室に行って、「嶋田 大井川駿岸」と「金谷 大井川遠岸」の、対になっている2点について学芸員に説明してもらいました。嶋田宿は東海道五十三次の23番目、金谷宿は24番目の宿場(ともに静岡県島田市)で、両宿の間は約4kmと短かいですが、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた東海道の難所大井川をはさんで、嶋田宿は大井川の左岸(江戸側)、金谷宿は右岸(京都側)に位置します。東海道には川が8つあり、そのうち4つには橋が架けられましたが、江戸防衛の観点から、大井川はじめ4つには橋はなく徒(かち)渡りか船を使うしかありませんでした。大井川は、時期によって川幅も水深も異なりますが、平均して幅12町(約1.3km。1町=60間≒110m)、深さ2尺5寸(約76cm)ほどで、流れも急で、川越え人足を雇って、肩車してもらったり、輦台に乗ったり(1つの輦台につき4人の人足が必要)して渡りました(武士の場合は、人足付き添いで馬に乗ったまま渡ることもできた)。人足の料金も、その日の水深によって(水深は、股通、帯下通、帯上通、乳通、脇通というように、具体的に体の部位で示されていた)異なり、現在の価格にして1300円から2500円くらいだったそうです。そしてさらに増水して水深が4尺5寸(136cm)以上になると川留めになり、嶋田宿や金谷宿は旅人で大賑わいとなります。
「嶋田 大井川駿岸」と「金谷 大井川遠岸」は、2図にわたって、大名行列が川越えする様子を上から俯瞰的に描いているようです。「嶋田 大井川駿岸」では、大名行列の先頭は中州に達していますが、川岸にはまだ渡る準備をしている人や順番待ちの人たちがたくさんいるようです。「金谷 大井川遠岸」では、川越えを終ろうとする行列が描かれていて、大名の籠が乗せられた大高欄輦台やそれを担ぐ多数の人足も描かれているようです。また、山の中腹の金谷宿、さらにそれに続く険しい山も見えているようです。
今回は、むかしの東海道の旅をほんの少しだけ実感したとともに、絵の中にごく自然に描かれていた見えない人たちにも出会えてよかったです。絵に描かれた見えない人たちについては、できればもう少し調べてみたいです。
(2017年4月4日)