男と女を超えて〜性の多様性を考える〜

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 今年1月、NHKのカルチャーラジオの日曜(午後8時から9時放送)で偶然牧村朝子さんの「男と女を超えて〜性の多様性を考える〜」(全4回)を聞くようになりました。
 牧村さんは、お話を聞いていてとても魅力的な方に思えました。レズビアンということですが、とても魅かれてしまいます。自分の気持ちをすなおに表現し、率直に気持ちを言葉に市、また必要なことはしっかり調べ、対策も考えています。とくにその感性はすばらしく、私はLGBT等性的マイノリティのことについてはこれまでほとんど興味もなくまったく知りませんでしたが、牧村さんの感性に共感してこの放送を聞き続けました。
 障害者とLGBTなど性的マイノリティとはまったく異質なような気もしますが、この放送を聞いて、歴史には一部共通した面もあり、またとくに、自分をどのように認識しどのように生きるかといったことについては、共通な点が多いのだなと思いました。私は「障害を生きる」という言葉はあまり好きではありませんし、私自身はぜんぜんそんな気がしません。見えないことは確かですが、私は小さいころから見えないとかはあまり考えず、とにかく自分のしたいこと、考えたいことに敏感に反応してきたように思います。見えない人として扱われ、またそういう人たちのために考えられた制度に従って生きたほうが楽でしょうし、そうすることでより多くのことができ結果を残せるのかとも思いますが、私はそういうことをあまり考えることもなく、障害に囚われず、障害にも、また障害を補うとされる制度にも制限を受けずに、できることなら生きてみたいと思っていたようです。(若いころは、宇宙や素粒子の世界にあこがれ、美術など美しい世界にあこがれていた。障害者の年金も、オプタコンという主に英文などを直接触って読み取れるとても高価な装置を買うお金が必要になって申請した。そろそろガイドヘルパーなどは使わないととは思ってはいるが、まだ一度も使ったことはない。歩く時はもちろん杖を使っているが、本当は杖を使わずに両手がフリーな状態で歩きたいと思い、たまに慣れた場所では杖を使わないこともある。)
 こんな私の話はさておき、以下にとりあえず 1回めと2回めの放送について、私のメモを参考にまとめてみました。
 
●第1回:私の体験的ライフストーリー
(NHKの番組紹介から)
 お話しはタレント・文筆家の牧村朝子さん。牧村さんは10歳の時に女の子を好きになります。女の子を好きになる自分自身に悩み続け一時期は男性との付き合いも試みますが挫折したといいます。思春期を経てタレント活動に入り22歳の時、テレビ番組で自身がレズビアンであることを公表、26歳で女性と結婚しました。今回は社会の同性愛に対する見方の変化そして結婚制度とは何かについて牧村さんの体験を通してお話し頂きます。
 
(放送の要約)
 性について書いたりしゃべったりする仕事をしている。
本講座の狙い:男や女といった型に合わせて相手を見たり生きるのでなく、地域や歴史を異にするオリジナルの個としての生き方があるのでは。
1986年当時、日本でも世界でも同性愛は治療の必要な病気とされ、なかには電気ショックを与えられたり、脳の手術(右脳と左脳の連絡を切るロボトミーの手術。同性愛の感情ばかりでなく、異性愛も他の感情もなくなってしまう)が行われることもあった。性同一性障害特例法が制定されておらず、出生届けの性(自分ではなく他人が判断した性)の変更はできなかった。アメリカでゲイの人がなんだか分からない奇妙な病気にかかり、パニック。ゲイの人たちへの神の罰だとも言われ、ゲイキャンサーとも呼ばれた。長野で第1次エイズパニック。
  1987年6月24日、神奈川県生まれ。出生届けの性は女。神戸で第2次エイズパニック。
 1993年、6歳、小学校入学。保健の先生がとてもきれいで、あこがれて毎日会いたいと思い、鼻をつついて鼻血を出し、毎日診てもらう(9歳の時に先生が結婚し、失恋)。1993年、 WHO が、同性愛は病気ではなく、いかなる意味でも治療の対象にならない、と宣言した。日本精神神経学会もこれを支持。94年厚生省も同性愛を病気でないとし、また文部省も指導の対象ではないとして、青少年非行のリストから削除した(それまでは同性愛は非行の1つとされていた)。
 10歳、小学4年の時、初恋をした。髪形がとてもきれいで、家族にとても愛されて育っていることがよくわかる女の子。ひとことで言えば、愛のかたまりのような子だった。この子と家族となって一緒に生きていきたい、幸せになりたい、血のつながりはなくても子どももほしいと思った。間もなく私は引っ越してその子と離れなければならなくなる。引っ越してから、離れていても友だちでいようねというような手紙をもらったがその子のこと、回りのことを考えると、自分のすなおな気持ち、あなたのことが好きとはとてもこわくて書けず返事を出せなかった(今もその子とは連絡がとれていない)。
 11、12歳のとき、男の子を好きになろうとして、クラスの特定の男の子を好きだと公言したりもした。
 2000年、中学になって、正しい女の子になれるのではと、先輩を求めてクラブに入った。クラブの集まりで、先輩がある女子をむりやり前に押し出して、この子はレズだから新入の女子は気を付けてね、と言って笑いものにした。彼女もなにも言えずにただ笑っていた。私は、レズを笑いものにするのを止めてくださいなどとひとことも言えずみんなと同じようにしていた。そんな自分が情けなかった。抜けないトゲとしてずうっと心に刺さっていて、あの時の夢を見ることがある。
 2003年、高校入学。性同一性障害特例法*が成立。その高校には、すごい人がいた。髪型がベッカムそっくりで金髪、名簿ではユキコなのに、当人も回りの生徒もユキヒコと呼んでいた。しかも美人の彼女を連れていた。本人は、おれは男だ、家庭裁判所に行って名前をユキヒコに変え性別も男性に変えると公言し、また、男性ホルモンの注射代を稼ごうとバイトもしていた。彼?は、自分が何者かが分かっていて、口でも行動でもそれを示していた。
  *「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」の通称。一定の要件(20歳以上、結婚していない、未成年の子どもがいない、生殖腺がないか生殖機能を欠いている、変更したい性別の性器に近い外観を備えている。医師の診断書が必要)を満たす性同一性障害者について、家庭裁判所の審判を経て戸籍上の性別を変更できることを定めた。施行は2004年。
 そのベッカムそっくりのかっこいい人がどうも性同一性障害だということを聞き知り、16歳のころ、性同一性障害になろうと思い込んでしまった(何も知らずに)。スカートを全部売って、男の子の恰好をし、声もふとくして男っぽい言葉遣いをした。2年ほどして(18歳?)、ある日、近所の家の前を走り過ぎたら、「あら女の子だったのね」と言っている声が聞こえ、男の子に間違えられたと気付いてびっくり!(男の子に間違えられたと思ったということは、自分は男ではなく女だからそう思うのだ!)彼氏もいたし。私が何なのか分からなくなった。正常な女の子であることの道具に彼を利用していたのかも。17、18歳のころ、自分が何なのか分からず、生きている感がなかった。
 20歳、大学を中退。大学では女の子がしないような楽器をしていて、女なのによくできるとか言われたり、女ということで評化されるのが嫌だった。でも男装もやめていたし、正しい女にならねばと思った。そして、タレント・女優の杉本彩さんの真似をした。セクシーだしきれいだし男の人とも上手にダンスをしているし、女の見本のような杉本さんの真似をまじめにした。また、ミス日本コンテストに応募し、2010年にミス日本ファイナリストになる。そして何度目かでようやく杉本彩さんの事務所にも入れた。21歳、親元を離れて、芸能界へ。
 自分が女の子が好きだとは思っていなかった、押さえつけていた、いけないことだと思っていたし、正しい女像に反すると思っていた。性についての勉強会にも参加。大学教授が白板にレズビアンとか書くが、だれも笑ったりせず、その雰囲気をすごいと思った。そしてジェンダー・セクシュアリティ勉強会にも参加して勉強した。でも、なんか入り難い雰囲気があった。正しい女を目指していたので男の子としか付き合っておらず(女の子が好きな女だという自覚はなく、記憶を抑えていた)、ノンケ(ノン気=その(同性愛)の気がないふつうの異性者)と思っていたしそう見られていて、そういう人が勉強会に行くと当事者でないのに何で来ているの、という感じで居にくかった。私はそこでごめんなさい、私はあなたたちのことが分からないマジョリティで申し訳ないと思った。
 付き合っていた彼の中に、女性を見つけようとしていた。男性的とされる筋肉やひげには興味はなく、口紅をぬってみたりスカートをはかせてみたり、彼自身ではなく女に変換して彼を見ていたかも。付き合っていた彼にはたいへん失礼なことをした、ありのままの彼自身を愛していないことに気付く。そして女の子とデートしたくなる。
 22歳、レズビアンとオフ会で検索して、新宿二丁目に行く。自分とは別の世界かもと思って勇気を出してレズビアンの集まりに行ってみたら、中央線の車内と同じような雰囲気、マンハッタンとか新宿にしかいないと思い描いていたレズビアンではなく、普通の人で見た目では分からないような同年代の女の子たち。勝手にレズビアン像を描いていただけ。まったくレズビアンを、自分をこわがらなくていいのだ、私は私で私の好きなものでよかったのだ、と気付く。そういう意味では、22歳の時にカミングアウトかな、それも相手はほかならぬ自分に。10歳で初恋をしてから22歳までの12年間、私は何をしていたのだろう。自分が思っていることをいけないことだと自分で判断してぎゅうっと心の中に押し込めて、ないものにしていた。そんなことで、私には新宿やマンハッタンのレズビアン像のようなのは必要なくなり、ただ女の子が好きというだけになった。
 あるオーディションで、女の子が好きになって幸せ、とさらっとしゃべってしまって、それがきっかけで日本初のレズビアン・タレントとして番組に出演することになる。事務所をクビになるかもと思っていたが、杉本彩は「芸能活動は、社会に対してのメッセージがないとやる意味がないのよ。あなたは思春期にたくさん辛い想いをしたみたいだから、そういう子たちがこれ以上増えないようにすることがこれからのあなたが活動する意義でしょう、頑張りなさい」といったようなことを言って力づけてくれた。カミングアウトしたころ、そうやってレズビアンタレントとして頑張っていた。そうしたら親が見てしまう。親から長いメールが届いた。テレビでレズビアンとか嫌らしいことを言っていてあなたは何なの、家族への影響を考えなさい、今付き合っている女の子がいるらしいけどすぐにでも別れなさい、というようなことが書いてあった。
 付き合っていた女の子とは一緒に生活したかった。当時日本でもフランスでも結婚はできないが、フランスには PACS(pacte civil de solidarite)があった。ごく簡単に言えば、準結婚のような、大人同士の一緒に生きていきますよという約束のようなもの。それは同性同士でも使えるので、フランスに行きますということにした。黙ってフランスに行くわけにも行かず、親にもカミングアウトしなければと思った。22歳のあの日、私は別にレズビアンさんという生き物でないことに気が付いた。カミングアウトも、自分がレズビアンだというのではなく、自分がこれまでどんな風に生きてきたのか、これからどのように生きて行くかを話すことだと気が付いた。そして自分の好きな女の子の写真を持って実家に久しぶりに帰った。写真を親に見せて、「この人は私の愛する人です。この人と一緒に生きて行きたいと思います」と言った。父は「女の子みたいだなあ」(娘が結婚するのは男だと思っている)と言った。私は「女の子です。この女の子と愛しあって、フランスに行きたいと思っているの。それでご挨拶にきました」。親は黙り込み「何を言っているのか分からない」と言った。
 何日か経って、今度は本人を連れて実家に行った。ドアを開けたら、すごいご馳走のにおいがする。見たこともないようなご馳走がテーブルに並んでいる。本棚には、同性愛の本、セクシュアリティの本がいろいろ並んでいた。親はたくさん勉強してくれていた。「これから一緒に生きて行くんだね、娘をよろしくお願いします」と親は言ってくれた。この時もし私が、マイノリティだ、レズビアンだ、日陰で生きていくしかないと思っていたら、こういう風にはならなかっただろうし、逆に、レズビアンだ、理解して、どうして理解してくれないの、とかになっても、こういう風にはならなかっただろう。私が自分のことを分かるのに12年間かかったように、親も性のことを知るのに本を読んだりして時間がかかっただろう。うまく行ってよかった。急にカミングアウトして、怒られたり拒絶されたりして落ち込むこともあるだろうが、時間が必要。レズビアン対普通とか、マイノリティ対マジョリティではなく、個対個として理解する、というのが私の経験から言えること。こうして親に対するカミングアウトをしたのが24歳の時だった。
 2012年、フランスに渡る。当時結婚制度はなく、ワーキングホリデイで行った。男性と女性だったら結婚制度を使って家族としてビザが下りる。ワーキングホリデイのビザは1年。2013年にフランスで同性婚の法律が成立したが、法案施行前にビザが切れてしまい、私は1度帰らなければならなかった。(同性婚解禁法案の施行は2013年5月18日)この時に同性婚がとても必要だということを実感。例えば、パートナーが命が危ういほどの重傷で緊急入院したような時、あなたは家族ですか、いや結婚していないから家族ではないですよね、入室できませんとか。結婚制度は、当人同士一緒に生活しようという約束であるばかりでなく、回りの人たちに私たちが家族だということを知らせるものだということに、ビザ切れで帰されたりしたことで気付く。
 改めて日本とフランスの結婚制度について勉強してみた。日本の結婚制度では、離婚した後共同親権を持つことができない、子どもの親権をどちらかが取らなければならない。フランスだと、離婚後も共同親権を持ち続けることができる。日本ではフランスの制度を同性婚と言っていたが、フランスでは「みんなのための結婚」と言われていた。回りに私たちは家族であることを示すために、性別は必要でないとされた。同性のためでも異性のためでもなく、みんなのための結婚制度だということ。2013年は結婚制度について考える年になった。
 私は結婚制度を「行政用便利パック」と考えている。いろいろな手続きをする時、他人ではできない、家族しかできないものがたくさんあり、家族であることを示す便利パック。結婚制度も社会制度の1つで、これまでにも変えられてきた。今の社会に合わせて、排除される人がなく、なるべくみんなが便利に使えるように、またなるべくこのパッケージのせいで不平等が出ないように、たびたび考え直して良いのではないか。
 私は牧村朝子であって、レズビアンさんではない。日本初のレズビアンタレントとして仕事をしているので、レズビアンさんと見られてしまうが、私は牧村朝子。例えばバイセクシャルだとカミングアウトすると、その人個人としてではなくそのようなキャラとして見られてしまう。これからは個として見るようなほうにシフトして行ってほしい。最近LGBTという用語が広まり、例えばLGBT用のお墓、LGBT用老人ホーム、さらに企業ではLGBT枠とか、それ用にいろいろなものができている。でもそれはちょっと待ってよ、LGBTさんという人間はいないし、私はいろいろなLGBT用の配慮や枠の中で生きたくない。LGBTの人生を生きたくない、私は私を生きたい。今まで日本でされてきたことは、LGBT用に作り、それを守り強くしたり、当事者同士でしか通じない言葉を作り、他の人が入れない当事者だけの世界を作ってきた。そうしてしまうと、性の問題が社会の問題ではなく、当事者の問題になってしまう。肉体を持っているいじょう、だれにとっても性のことは問題なのに、LGBTさん、性的マイノリティの人たちだけの問題にされてしまう。これが私の意見です。
 
 
●第2回:LGBTの歴史〜6色のレインボーフラッグが出来るまで
(nhkの番組紹介から)
牧村さんのお話し第2回はLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)の歴史を辿ります。「ホモセクシアル」という言葉が生まれた約150年前、同性愛者は社会で受け入れられず、偏見や差別を受けたばかりでなく犯罪者として扱われました。またナチスドイツは同性愛者達を強制収容し迫害しました。今回はLGBTの歴史と解放運動のシンボルとしての6色のレインボーフラッグが出来た過程をみつめます。
 
(放送の要約)
*今回の放送分については、牧村朝子著『同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』(星海社、2016年)を参考にし、一部引用しました。またWikipediaをはじめネットの多くのページも参考にしました。
 
 前回は1987年に生まれてから30年間の日本の状況を振り返ったが、今回は約150年前からの歴史をたどる。
 1895年、ワイルド事件。イギリスの多彩な文筆家オスカー・ワイルド(1854〜1900年)が、1895年にクインズベリー侯爵を名誉毀損罪で訴えるが、その裁判の過程で、侯爵の息子で詩人のアルフレッド・ダグラス(1870〜1945年)との交友関係とくに同性愛が暴かれ、刑法改正法第11条(「ラブシェール修正条項(Labouchere Amendment)」。1885年成立)に規定されていた男同士の「著しい猥褻行為(gross indecency)」で有罪とされ、2年間投獄される。裁判では、ダグラスからワイルドに当てた手紙の中の詩が朗読され、その詩には「私は愛だ。口にするのも忌まわしき愛だ」というような言葉がある。性行動については、生殖につながる異性者規範があり、その他は異常とされる。イギリスは当時世界に冠たる国で、イギリスの同性愛を禁じる法律と同じような法律が多くの国で定められてゆく。
  *ラブシェール修正条項:公的な場であろうと私的な場であろうと、他の男性と著しい猥褻行為を行った男性、またその行為に参加した男性、あるいはその行為を斡旋した男性、また斡旋しようとした男性はすべて軽犯罪を犯したとして有罪であり、裁判所の裁量において二年以下の懲役刑と重労働、あるいは二年以下の懲役刑に処す。
 
 日本でも、一時期男性間の性行為を罰する法律があった(1873年に制定された改定律例の中に鶏姦罪があった。1883年施行の旧刑法では男色を禁じる条項はなくなった。)
 ドイツでは、1871年制定の刑法175条で男性間の性行為が有罪とされた。第175条(自然に反する淫行)では、「自然に反する性行為は、男性同士のものであるにしても、人間と動物の間のものであるにしても、六か月間から四年間の禁固刑、さらには公民権の剥奪をもって処罰する。」と規定されている。これは、1851年成立のプロイセン刑法第143条をそのまま引き継いだもので、1994年まで存続した。
 
ベンケルトとウルリヒス:「同性愛」に当たる言葉を作った2人
ハンガリー生まれのカール・マリア・ベンケルト(後にカーロイ・マリア・ケルトベニに改める)が、ブダペストの書店で働いていた14歳のとき(1838年)、20歳の男友達が、ベンケルト宛の1通の手紙を残して、自殺する。その手紙には、「自分は脅されている。金を払わなければ、自分が男性同士で恋愛関係にあったことをバラされてしまう。そんな屈辱には耐えられないし、かといって法に訴えることもできない」というようなことが書かれており、ベンケルトはこのような不正義となんとかして闘わねばと決意する。1868年、ベンケルトは上記のプロイセン刑法143条に反対していたウルリヒスに手紙を書き、その中で、ギリシャ語の homo とラテン語の sexus を組み合せた Homosexual で同性愛者を表現した(同様に、Heterosexual 異性愛者という表現も作った)。翌年ベンケルトはこの Homosexualという言葉を使って、刑法143条反対を表明する文書を発表、これが、Homosexual(同性愛者)が公式に使われた最初とされる。
 ドイツの法律家のカール・ハインリッヒ・ウルリヒス(Karl Heinrich Ulrichs: 1825〜1895年)は、自身同性愛者(たぶん身体は男で心は女性のタイプ)で、「人間は全員異性と愛し合うのが自然だ」という当時の常識にたいして、「同性と愛し合うよう生まれつく人間だっている!」と考え、1864年、ヌマ・ヌマンティウスというペンネームで「男性間の性愛についての人類学的研究」(Numa Numantius, "Inclusa. Anthropologische Studien uber mann mannliche Geschlechtsliebe")を発表。(この論文で、ウルリヒスは、ドイツの同性愛者は500人に1人としている。)ウルリヒスは男性同性愛者は自分と同じようにみな女性の心を持って生まれると考えていたが、後にいろいろなタイプの人たちがいることに気付き、人間をウルニング(同性愛者)、ウラノディオニング(両性愛者)、ディオニング(異性愛者)(女性形はそれぞれウルニンギン、ウラノディオニンギン、ディオニンギン)の3つに分けた。男性間の性行為を自然に反する罪とする刑法143条に反対して、さらにウルリヒスは、1867年8月ミュンヘンでのドイツ法学会で、本名でウルニングたちの存在を訴えるが、批難ごうごうで最後まで発表できなかった(これが世界初の同性愛者のカミングアウトとされる)。
 ベンケルトとウルリヒスは男性同性愛者を罰する刑法143条に反対するということでは同じだったが、その反対の根拠は異なっていた。ウルリヒスが同性愛者は生まれつきのものであって、彼らにとっては同性愛は自然な行為であるとするのにたいし、ベンケルトは「(同性愛者が)生まれつきだと証明すること……それは危険な、諸刃の剣である。……生まれつきのものであるか否かに関係なく、十四歳以上の個人が双方同意の上で行うことに、国家はそもそも介入する権利がないのだ。それがプライベートなことであり、第三者の権利を侵害しないかぎりは」と主張する。
 その後も、同性愛者をふつうの人間とは異なる生まれつきのものだとする考えにそって刑法175条の撤廃が主張されるが、ナチスは逆に、同性愛者を自分たちの国家目的に合わない人間として扱うことになる。警察がいろいろな場所で人々を監視し、また密告を奨励して、男性同性愛者と思しき者にピンクの逆三角形「ピンクトライアングル」を付けて強制収容所に送り、過酷な労働をさせ虐殺する。中には、男性ホルモンを出し続ける「人工男性器」を埋め込む手術を強制的にさせられ、亡くなった人もいる。(ナチスは、女性については、子供を産む道具とみなして、同性愛者は存在しないと考え、処罰の対象とはしなかったが、それらしき女性たちには、ホームレス、アルコール依存症患者、性産業従事者など、反社会的分子とされた人々と同じ目印「ブラックトライアングル」が付けられ、強制収容所に送られ、なかには親衛隊員との性行為を強要される者もいた。)
  *参考書:『ピンク・トライアングルの男たち ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録1939−1945』 ハインツ・ヘーガー著 伊藤 明子訳 パンドラ 1997年
 
 1900年以降、日本では女学生の間に「エス」(sister の頭文字から取った隠語)という、友情を越えた親密な特別な関係がひろまった。各地に女学校が創られ、良妻賢母を育成するような女子教育が行われるなか、現実の男性絶対優位の結婚制度の中ではけっして有り得えないような、親密でロマンティックな関係が上級生と下級生、あるいは生徒と女教師との間で求められたのかもしれない。女学校の中でのエスの関係はそんなに批難されることはなかったが、卒業後もその関係が続くと「老嬢」と呼ばれて蔑まれ、むりやりにでも結婚させられた。1911年、糸魚川心中事件が起こった(1911年7月26日に新潟県糸魚川でおきた女性同士の心中事件。死亡したのは曾根定子(20)と岡村玉江(20)。二人は女学校時代に極めて親密であったが卒業後定子に縁談の話が持ち上がり、また定子の父が二人の度を越した交際を戒めたため、7月21日定子は家出、ついで玉江も家出し、新潟県糸魚川へと赴き入水した)。さらに、1930年代には女学生同士の心中が頻発した。
 
 次に、第2次世界大戦前のアメリカ。アメリカでは同性愛はタブー視され、軍隊でも処罰の対象だった。戦争が始まると、多くの若者が地方から都市へ、軍隊へと集められ、それまで孤立していた同性愛者が接触し互いに自分たちの存在を確認しあう機会が増えた。米軍は、同性愛者が軍隊内に入らないよう、入隊候補者にたいして同性愛者を見分けようといろいろなテストをした(その中には「男性を脱がせたら同性愛者だけ恥ずかしがるのでは」とか「男性同士でオナニーについて話し合わせたら同性愛者だけ恥ずかしがるのでは」といった考えに基くものもあった)。もちろん軍隊内内で同性愛者だとされる人々もあり、彼らは青色解雇(blue discharge: 不名誉除隊)されたが、彼ら解雇された者同士が接触し集まることもあった。軍隊は、その後の同性愛についての認識の変化や運動の基盤・土台となった
 1952年、第2次世界大戦の退役軍人ジョージ・ウィリアム・ジョーゲンセンJrが、デンマークで性的適合手術を受けて、成功。新たにクリスティーンと名乗り、1翌年2月アメリカに帰国、有名人となり、後に女優として、またナイトクラブ・エンターテイナーとして活躍した。(1972年に、スウェーデンが世界で初めて、未婚のトランスセクシュアルの市民の性別適合手術を合法化、手術に必要な経費を支給)。
 1954年、アメリカの女性の心理学者エヴリン・フーカー(1907〜1996年)が、同性愛の男性と異性愛の男性には違いがないことを明らかにした。ネブラスカ州の貧しい家に生まれ、女の子には教育はたいして必要でないという風潮のなか、母は「エヴリン、よく勉強するんだよ。人が勉強して得たものだけは、誰にも奪えないものなのだからね」と言って励まし、高校・大学へと進むが、研究や職探しでは女性差別に直面、第2次大戦後ようやくカリフォルニア大学の心理学の教授になる。サム・フロムという同性愛の男子学生と親しくなり、彼を通じて幾人かの同性愛者とも知り合い、彼に「先生、“俺たちみたいな人間”を研究してくれよ。これはもう、先生の科学者としての義務だよ!」と言われて、同性愛の研究を決意。男性の同性愛者30人と異性愛者30人を集め、計60人の被験者に心理検査をし、その結果をまとめたうえで、被験者のプロフィールだけ隠して心理学界の権威たちに提出、この心理検査の結果で同性愛だけを見分けることができるかを問う。同性愛を異常扱いしていた心理学者たちは、だれ1人として心理検査の結果から同性愛者を見分けられなかった。こうしてようやく、1973年、アメリカ精神医学会は同性愛は病気ではないと公式に認めた(精神疾患のリストから、ホモセクシュアリティを削除)。
 1978年、ギルバート・ベイカー(1951〜2017年)が、LGBTの象徴になっているレインボー・フラッグをデザイン。保守的な共和党支持者の多い、中西部カンサスに生まれる。小さいころからゲイであることは分かっていて、だれにも分かってもらえず辛い思いをし、何度も自殺しようともした(両親には19歳のときカミングアウト)。1970年米軍に徴兵されて、自由な雰囲気、フリー・ラブ・ムーブメントのサンフランシスコに連れられて行って、ここでなら生きられると思った。1972年除隊、そのままサンフランシスコに残り、74年以降ゲイ開放運動に参加。78年に、レインボーフラッグをデザイン。当初はピンク、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の8色だったが、ピンクのインクが製造工場になくてピンクが削除され、また、79年のサンフランシスコのゲイ・パレードで、虹色の横断幕を左右に分割できるようにと、藍が削除され、現在の赤、橙、黄、緑、青、紫の6色になった。
 *参考:1970年代のサンフランシスコ・ゲイ解放運動の生き証人に会いに(牧村朝子さんのギルバート・ベイカーへのインタビュー)
 また、ミュージカル映画『オズの魔法使』の中で、主人公のドロシー(ジュディ・ガーランド)がカンザス州の自宅の庭で歌った「虹の彼方に」(Over the Rainbow)は、LGBTのテーマソングのようになっている。以下、その歌詞です。
Somewhere over the rainbow
Way up high there’s a land
I heard of once in a lullaby
Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams
that you dare to dream
Really do come true
Someday I’ll wish upon a star
And wake up
where the clouds are far behind me
Where troubles melt
like lemon drops
Away above the chimney tops
That’s where you’ll find me
Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow
Why then oh why can’t I?
If happy little bluebirds fly
Beyond the rainbow
why oh why can’t I?
 
 
 ゲイの運動には当初は、レズビアンもバイセクシャルもトランスジェンダーも入っていたが、互いに理解し合えず、ときには喧嘩別れのようなかたちで、別々に活動するようになっていった。(gay のごは、12世紀、古フランス語の gai に由来し、英語圏では「お気楽、しあわせ、いい気分、目立ちたい」のような意味で用いられていたが、17世紀末くらいには「不品行、淫ら」というような意味で男にも女にも使われていた。ホモセクシュアルの意味合いでゲイが使われるようになったのは20世紀になってから?)
 1966年、サンフランシスコで、コンプトンズ・カフェテリアの反乱。コンプトンズ・カフェテリアは Gene Compton がオーナーを務めるカフェテリアチェーンの 1つで、ゲイバーではその異性装などから(例えば「異性者の真似をするな」などとして)歓迎されない、招かざる客になっていたトランスジェンダーの人たちが集える数少ない場所だった。異性装は違法とされていて、通報で入ってきた警察官の顔にトランスジェンダーの女性がコーヒーをぶちまけて騒ぎになり大騒動に発展した。
 1969年6月28日、ストーンウォールの反乱。ニューヨークのグリニッジビレッジの一角には、生まれ育った地では非常な生き難さを感じた同性愛たちが全米各地から移り住んでコミュニティができ、1950年代からゲイバーも数軒あった。ゲイバーへの警察の踏み込みは何度も行われこれまではただ傍観するだけだったが、この日の「ストーンウォール・イン」の警察による踏み込み捜査ではたまりかねて居合わせた同性愛者たちが警察に真っ向から立ち向かい、暴動に発展。この反乱運動は同性愛者たちの権利獲得運動の記念碑的な事件とされている。
 1973年6月24日、ニューオリンズのゲイバー、アップステアズ・ラウンジが放火され、店に集まっていたゲイたち32人が死亡。警察はまともに捜査せず犯人もはっきりしない。さらに、遺族はゲイが知られることを恐れ遺体の引き取りを拒み、教会も葬儀や埋葬を拒否、だれが死んだのか今も名前の分からない人がいる。
 1981年、ロサンゼルスのゲイ男性が初めてエイズと確認される。以後、報告されるエイズ患者の多くがゲイ男性だったため、ゲイの罹る奇病「ゲイキャンサー」と呼ばれ、ゲイではない人とは関係ないとされ、一般の人たちへの対策が遅れた。(1987年、神戸の女性が日本人初めてのエイズ患者であることが発表され、エイズパニックになる。)
 1985年、人気俳優ロック・ハロルド(1925〜1985年)がエイズを発祥、亡くなる直前にゲイであることを公にする。タフガイのイメージで受けいれられていたので、ゲイだという告白は衝撃を与える。
 1993年、ブランドン・ティーナ(1972〜1993年。トランスジェンダー。身体は女性、性自認は男性で、地域では男性として生活していた)がレイプされ銃で射殺される。クリスマスイブのパーティーで男性の友人2人が、彼女の前でブランドンのパンツを下ろしてブランドンが女であることを確認させようとした。その後2人はブランドンに暴行しレイプする。レイプしたことを警察に言うな、と2人に脅されたが、彼女のすすめで警察に通報、しかし警察はどうやってセックスするのかとか嫌な質問ばかりして肝心の操作が十分されずレイプした2人は逮捕されなかった。31日、2人が友人の女性宅にいたブランドンを探し出し、その女性や居合わせた人とともに、ブラントンを射殺した。(葬儀は、男性のブランドン・ティーナとしてではなく、出生時のティーナ・レニー・ブランドンという女の名前で女として行われた。後にブランドン・ティーナの名で男としての葬儀も行われた。)
 
 LGBTの言葉が使われるようになってきたのは1980年代末から1990年代。当初は順番を逆にしたGLBTなども使われた。LGBTは、Lesbian(女性同性愛者)、Gay(男性同性愛者)、Bisexual(両性愛者)、Transgender(出生時の性と自認の性に違和感を持つ者の総称。身体の性別とは異なる性別をそのまま生きる者、ホルモン療法や性適合手術を行う者、異性装者など様々)の頭字語だが、これら4種のタイプに限らず、多様な性的指向をもつ人たちをまとめて表現している言葉。(実際、Queer(性的マイノリティ全般を指して使われる。本来は「奇妙な」という否定的な意味だった)やQuestioning(性別や性的指向が一定せず未確定)の Q を加えた LGBTQ や、intersex(男性と女性の両方の性的な特徴と器官がある)の I を加えた LGBTI など、様々な用語が使われることもある。)
LGBTは人間の種類ではない。そういうものは存在しないとされ、ときには命を奪われてきた人たちが、自分たちの存在をかけて作ってきたもの。LGBTのためのいろいろなサービスの必要性はある(身体的には男性だということで、女の名前で女として墓に入れないとか)、LGBTの中に人々を囲い込んでしまうのはよくない。
 
*以下NHKの番組紹介のみ
●第3回:職場のLGBT
牧村朝子さんのお話し今回は「職場のLGBT」です。社会通念上LGBTは社会制度の想定外とされてきました。LGBTを理由に職業選択が制限される、職場で不当な差別や矯正を受ける場合がある、同姓カップルだと家族として認めてもらえず福利厚生等の制度が受けられないことなど様々な問題があります。また、雇用側がLGBTの枠を設けPRとして利用した例もあります。今回は職場におけるLGBTの問題について見つめます。
 
●第4回:LGBTのこれから〜LGBTからSOGIへ
牧村さんのお話し最終回は「LGBTのこれから〜LGBTからSOGIへ」。今、LGBTの枠を越え全人類を対象にしたSOGIへの移行の動きがあります。SOGIとはSexual Orientation and Gender Identityの頭文字をとった言葉で「性的指向と性自認」と訳されています。LGBTの人達が受けてきた差別や迫害の歴史を踏まえ、現在の状況及び未来はどうあるべきかについて考えます。
 
(2017年4月18日)