10月7日、久しぶりにKさんと一緒に奈良に行きました。午前は奈良県文化会館で開催されていた「体感する奈良!“心”感覚展」を見学、午後は平城宮跡を解説ボランティアの案内と解説で見学しました。午前の展覧会でも平城京関連の展示が多くあり、むかしの奈良を少し感じることができました。
「体感する奈良!“心”感覚展」は、「第32回国民文化祭・なら2017」「第17回全国障害者芸術・文化祭なら大会」のイベントとして開催された展覧会で、国立民族学博物館の広瀬浩二郎さんがアドバイザーとなっていて、広瀬さんがイメージしておられるユニバーサルな博物館の内容の一端が展示の仕方などにあらわれているように思いました。
最初に入ったのは、「“心”感覚動物園」とかいう暗い部屋、見える人たちはアイマスクをし、並んだテーブルに沿いながら歩き、ある動物を連想させる物を触り、そしてその動物の模型の一部を触って動物を当ててみようというものでした。最初に触ったのがバナナとりんご、そしてゾウのくるうっと環状になった大きな鼻がありました。次に、水槽の水にボールが浮かんでいます。これは何?と思ったら、イルカの尾びれの先端の模型がありました。最後に、ヒントが何だったのか思い出せませんが、ライオンの大きな顔のぬいぐるみのようなのがありました(ライオンの鳴き声のようなのは聞こえていた)。連想ゲームのような動物の展示、なかなか面白いアイディアのように思えました。
次の展示室では、奈良の文化、歴史、自然を体感する展示がいろいろありました。
文化を体感する展示では、まず「奈良の音」。修二会(通称お水取りと呼ばれる、東大寺二月堂の行事)の法螺貝の音、能学の笛などの音、春日野の諸寺の鐘の音です。実際にはこれら3つの音が混在するように流れていて、あまり分かりやすい展示にはなっていないように思いました。
奈良には相撲の発祥地だという言い伝えがある*とかで、相撲に関する展示がありました。まず最初に触ったのが、奈良出身のコ勝龍という力士(身長180cm、体重180kg。1986年生まれで、2009年1月初土俵、2013年7月新入幕)の両手の模型です。これはコ勝龍の両手を実際にかたどって作ったとかで、両腕を前に伸ばして、両手指を広げて指を反らしています。手はそんなに大きいとは思いませんでしたが、手首から肘に向って腕がどんどん太くなっていて筋肉もりもりでした。また、回し(ちょっと分厚くて硬めの幕下用と、やわらかめの関取用のがあった)、元結(髪を束ね髷を結)用の紐、鬢付け油、さらに土俵の土(荒木田土とか言って、直径5mmほどの塊で強く押えるとくずれて粉になりそうな、たぶん粘土質の土のようです。東京の荒川沿いのものが良質とされているとか)も展示されていました。(盲学校で小学のころ、長い回しを自分の体を回転させながら着けてもらい、土俵で相撲をしたことがあって、なつかしく思い出しました。)
* 「日本書紀」には、垂仁天皇(第11代の天皇とされていて、おそらく4世紀後半に実在したとされている)のころ、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べをし、野見宿禰が勝ったという話が記されているそうです。奈良県桜井市には、この話にちなんで相撲神社があるそうです。
次は木簡の展示です。長さ十数cm、幅3cm前後、厚さ5mmくらいの薄板です(もちろん模造品ですね。たぶん湿地の中から出てきて、ふつうはかなりぼろぼろになっているでしょう)。そういう木簡に、例えば荷札のように、長屋王*へ鮑十束を送るとか、土器の値段について、大きな椀型の土器四口十二文(当時の一文は現在の300円くらいらしい)などと書かれているそうです。また、呪符が書かれていたり、漢詩の習字と思われるものもあるとか。
* 長屋王(684?〜729年)は、平城京遷都以後政界の中心だった右大臣藤原不比等が死ぬと、721年右大臣、724年聖武天皇即位とともに左大臣になり権勢をふるったようだが、不比等の子藤原4兄弟と対立、729年国家を倒そうとしているとの讒言を受け自害に追い込まれた。1986年から89年にかけて、平城宮の東南に隣接するデパート建設予定地で発掘調査が行われ、4万点近くの木簡が発見された(平城京全体では10数万点の木簡が発見されている)。その中には「長屋親王」の文字が入った木簡もあり、また250m四方、約6万平方メートルと推定される邸宅の跡も見つかった。木簡に記された内容から長屋家の豪奢な生活がうかがえるという。現在はイトーヨーカドー奈良店の下に埋め戻されているそうです。
歴史で習った和同開珎にも触りました。大きさも触った感じも 5円玉そっくりだと思いました(たぶん銅でできていると思います)。ただし、中央の孔は円ではなく四角です。この和同開珎50枚が紐に通されていて、この50枚でどれだけの米が買えるのでしょうかというクイズがあり、実際にその分量の米が置いてありました。大きな60kgの袋1つとその半分の大きさの30kgの袋に本当に米がぎっしり入っていました。合わせて90キロですね。(久しぶりに1俵分の米に触りました。若いころは1俵の米俵を担ごうとしたことも思い出しました。)米の値段にもいろいろありますが、10キロ4千円とすれば、90キロで36000円、和同開珎1枚は約700円余ということになります。ただし、ふつうの生活では当時はほとんど使われず、平城宮に隣接する市でも物々交換が行われていたそうです。
次は歴史を体感する展示です。まず、奈良の触地図がありました。現在の奈良の地図ではなく、平城京の触地図でした。この触地図は、今年2月に行われたこの展覧会のプレイベントで、川や道などの素材について来場者に選んで投票してもらい、その結果にもとづいて製作したものだとのことです。大きさは、縦1m弱、横70〜80cmくらいだったでしょうか(平城京は南北4.8km、東西4.3km)、その北端の中央に20cm弱四方くらいの平城宮があります。全体はつるつるした手触りで、川や道は少しくぼんで、建物は高く、立体的に示されています(五重塔などは高さ5cmくらいあるちょっとしたミニチュアになっていた)。川は細い平行線のあるつるつるした手触り、道は小さな円いふくらみが並んだ少し軟らかめの素材でした。
この触地図を触ってまず気付いたのは、碁盤の目のように縦横に走っている道とともに、それとほぼ並走して川が縦横に流れていることです。当時は、貨物の運搬は大部分川を利用したようで、水運がとても重要だったことが分かります。平城京の北側では6kmほど離れて木津・淀川水系とつながり、また南側では大和川水系によって瀬戸内とつながっていたそうです。また、有名な東大寺や興福寺は、平城京の外の東側にはみ出した部分のかなり離れた所にありました。ちょっと驚いたのは平城京内にも古墳があったことです。平城宮の西側に、長さ4cmくらいの前方後円墳があり、これは垂仁天皇陵とされている宝来山古墳(全長200m以上ある大きな古墳)だとのことです。
仏教関連の展示も数点ありました。まず触ったのが、海龍王寺の十一面観音菩薩立像。(海龍王寺は、上の地図では、平城京から東側にはみ出した部分の北側のやや西側にあった。)高さは80cmくらいあったでしょうか、衣の襞のような曲線がとてもきれいで、飾りのようなのも多数あるようです。左手に水差し?のようなのを持ち、右手は下げて手を前に向けて立っています。この十一面観音立像で驚いたのは、十一面のほかに、観音様の額の上あたりに高さ5cmほどの仏様がすっと立っていたことです。このような形は始めて触りました。この展示品は、発泡スチロールの塊を本物の形に合わせて削り落し、表面に塗装してつるつるにして仕上げたもののようです。
どっしりとして存在感のあったのが、「銅造仏頭」(興福寺の旧東金堂本尊)です。高さは1m近くあったでしょうか、幅も5〜60cmくらいもあって、両手でちょうどかかえるようにして触るのによいほどの大きな顔です。頭の上の部分はなくなっていて大きな空洞になっています。上縁は、ぎざぎざ、ざらざらしていて、まるで焼けただれたような印象です(以前にピースおおさかで触った、1945年の大阪空襲で焼けたという朝鮮鐘のレプリカを思い出しました)。また、左の大きな耳のあたりを中心に、大きく窪んでひびが入っていて、大きな力で損傷を受けただろうことを思わせます。
この像は、
興福寺のホームページや
「奈良を大いに学ぶ」講義録(8)仏像によれば、白鳳時代の685年、天武天皇が亡き蘇我倉山田石川麻呂のために造った飛鳥山田寺講堂本尊像の頭部だそうです。1180年、興福寺は平重衡の焼き討ちにあって伽藍のほとんどが焼失、1187年に興福寺は再建されますが、東金堂の本尊の制作が進まない為に、当時荒廃していた山田寺の本尊を持ち出して、東金堂の本尊薬師如来像として迎えたとか。しかし1411年、興福寺の東金堂は落雷による火災で焼失、本尊の頭部だけが残ります。この頭部が、1415年に再興された東金堂本尊須弥座の中に納められます。それから500年以上経った1937年、興福寺の東金堂の解体修復中に須弥座(台座)の中から発見され、ただちに国宝にされたとのことです(今は興福寺国宝館にある)。私たちが触ったのは、近鉄が所有している、極めて精密な実物大のレプリカだということです。
南法華寺(壷阪寺)の「鳳凰文甎(もんせん)」も、とてもよかったです。厚さ5cmほど、40cm弱四方の正方形の平板な瓦?のようなものの上に浮き出しで鳳凰が描かれています。よく触らないと分からないのですが、瓦の左辺から上辺にかけて大きくぐるうっと尾が巻いていて、その中に、両翼をひろげ、胸をそらすようにして頭を上げて鉤型?のくちばしをやや下に向け、長い脚を伸ばして爪でつかんでいるような姿でした。回りには雲のような模様が描かれています。飛鳥時代のものらしいということです。「甎」はもともとは敷き瓦のことで、文甎は建物の壁や仏像の台座などに貼り付ける浮出し模様のタイルのようなものらしいです。
その他、塗香(ずこう。香を指先に塗り込むと、とてもいい香りがした。身体に香を塗ると、けがれが除かれるとか)、奈良筆、大和茶などの展示もありましたが、時間がなかったのでちょっと立ち寄るくらいにしました。4種の動物(ムササビ、ネコ、イタチ、リス)の実物のふさふさした尻尾も展示されていて触ってみましたが、どの動物の尻尾なのかほとんど当てられませんでした。また、盲学校の生徒等の作品もたくさん展示されていたようですが、ちょっと残念とは思いながら、まったく触らずに会場をあとにしました。
近鉄奈良駅から電車に乗り大和西大寺駅へ、そこから15分ほど歩いて、午後2時ころ平城宮跡資料館へ到着。解説ボランティアの方が待っておられ、早速平城宮について簡単に説明してもらいました。平城宮は130haほどの広さ(南北1km、東西1.3kmくらい)で、貴族はわずか100人くらい(その家族を入れると千人くらい?)、下級の役人もふくめると7000〜8000人くらいがはたらいていたのではということです。平城京全体では、下働きや一般庶民もふくめて10万人以上は住んでいたようです。
資料館には、宮殿の模型や役所で仕事をしている役人の様子を示した展示(机に向って、墨や筆を使って書いているらしい。木に書いた字を削り取るナイフ?のようなのも)などがあるようですが、触れられる展示はあまりありませんでした。版築の小さな模型があり、触ってみました。下が広くて上がやや狭くなった板で囲った中に、土を順に入れて突き固めて行く方法だということで、築地塀のようなものですね(上には瓦の屋根がありました)。発掘現場のミニチュアの模型のようなのがあって、これはちょっと面白かったです。四角や円形や楕円などの柱穴があり、その穴の深さも微妙に異なっているようです。柱の太さや柱穴の深さから、柱の大きさ、また柱にかかる加重を推定してだいたいの建物の大きさの見当をつけるとかするそうです。その他、平瓦(平瓦といってもまったく平らではなく、ゆるやかな曲面になっている)や丸瓦(正面の円形の面には花らしきものや渦巻きのような模様が浮き出していた)もいくつか展示されていました。
その後、資料館から北に10分近く歩いて、大極殿へ。大極殿は、天皇の即位や元日朝賀などの国家儀式、また外国使節の歓迎の儀式が行われた場で、天皇が着座する高御座が設けられているとのことです。私たちが見学したのは、2010年の平城京遷都1300年を記念して、実物大で復元されたもので、710年の平城遷都直後から740年の恭仁(くに)京への遷都まで使われた第一次大極殿と呼ばれているものだそうです(745年に都が平城京に戻ってからは、第一次大極殿の東、内裏の南に第二次大極殿が設けられたとのこと。第一次大極殿は中国風なのにたいして、第二次大極殿は古来の和風?で、掘っ立て柱で檜皮葺らしかったとか)。
第一次大極殿は、高さ4m近くもある石の基壇の上に造られていて、まず階段を上ってその基壇の上に行き、早速直径70cm、高さ5mあるという太い檜の柱に触りました。両手を広げてかかえこむようにしましたが、とにかく太いです。ところどころ大きな割れ目が入っていましたが、まったく問題はないとか。この柱は、柱よりも一回り大きな高さ10cm弱の石の台に乗っていました。表面は朱に塗られているそうです。この檜の柱は樹齢200年以上の国内産のものが使われていて、今はほとんど手に入らないとか。柱に順に触りながら歩いて、建物の大きさを確認しました。建物の大きさは、正面の幅44m、側面の幅20m弱で、柱が4、5m間隔で林立していて、9本が5列、計44本あるとのことです。正面は完全に開放されていて風通しがよく、気持ちよかったです。屋根は二重になっていて、全部で約10万枚もの瓦が使われており、その全重量は 1千トンにもなるということです(ということは、1本の柱で少なくとも20トン以上の重さを支えていることになりますね)。大きな鴟尾にも(そっとですが)触ることができました。高さと横幅が2mくらい、厚さが60cmくらいあったでしょうか、大きくて全体を確かめることはできませんでしたが、前に高く斜め上にせり出すように伸び、側面には多数の曲線がゆるやかに伸びて先のほうで渦を巻くようになっていて、後面にはいくつか円い花のような浮き出しがありました。触ってはまったく分かりませんでしたが、表面は金メッキされているらしいです。
その後、大極殿の近くにある遺構展示館に立ち寄りました。(現在大極殿を大きく取り巻く築地回廊の工事が行われていて、遺構展示館に行く途中に仮の築地?にも触れました。)遺構展示館では、発掘調査で見つかった遺構やいろいろな建物の復元模型が展示されているようでした。一番よかったのは、大極殿の東南角にあるという鬼瓦の復元に触れたことです。角から対角線の方向に丸瓦が1m近く伸びていて、その上に高さ50cmはある大きな鬼瓦があり、さらにその上に丸瓦が乗っていました。そして、対角線の丸瓦を中心に両側に、ゆるい凹面の平瓦と半円筒の丸瓦が交互にきれいに組み合わさって広がっていました。 3つの種類の井戸にも触りました。直径1.8mの杉の木をくり抜いた井戸、2m四方くらいの檜の大きな四角い井度、幅30cm弱の板を縦に10数枚円形に並べてつくった井戸がありました。また、水を流す大きな木の溝?のようなのもありました(底辺10cm、上辺20cmほどの台形で、上に厚さ5cmくらいの板をかぶせたもの)。その他、発掘現場の模型や地層の断面の展示、版築の壁と屋根(この屋根は檜皮葺だった)などもありました。
こうして、午前の「体感する奈良!“心”感覚展」と午後の平城宮跡の見学で、古都奈良にすこし親しむことができたような気になりました。
(2017年11月4日)