手話とは?言語とは?――明日への言葉の「ろう者の被爆 伝え続けて」より

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 10月24日、NHKラジオの午前4時台の明日への言葉で、仲川文江(手話通訳者)さんの「ろう者の被爆 伝え続けて」が放送されました。
 初めに、アナウンサーの番組紹介です。
 NPO法人広島県手話通訳問題研究会の仲川文江さん(77歳)のお話です。
 仲川さんは、広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちの体験を本にまとめたり、被爆者に代わって手話で伝えてきたりしました。原爆が投下されてから72年、耳の聞こえない被爆者がいた証しを残そうと取り組みを続ける仲川さんに、広島放送局の中山果奈アナウンサーがお話をうかがいました。
 
 この放送を聴いて、私が感じたことは、主に次の3点です。
@聞こえない被爆者に限らず、直接被爆体験を証言できる人たちは80代後半以上になっていて、証言活動は極めて難しくなっている(知り合いの被爆者は90歳になりますが、それに備えて身体をととのえ、年に数回証言をしているようです!)。証言の記録を残すこと、証言活動を受け継ぐ人たちを育てて行く事業がすでに始まっていますが、とても大切なことだと思います。
A耳の聞えない被爆者にとっても最大の障害は情報障害だった。自分の身体の状態について、知る手段も伝える手段も極めて乏しかったということです。これには、戦前の聞えない人たちの教育で、自分のことについて言葉にし文章にするということ、また書かれた文章をしっかり理解できるようにする教育があまり行われていなかったことも関係しているように思います。もちろん、自分にとってマイナスになるような情報には積極的にはちかづこうとはしたくない、あるいは相手も自分にとって不利になるような情報は積極的に伝えたくないというような要因もあるでしょう。
 *聞こえない人の被爆体験について、2008年7月27日と8月10日の2回にわたって「シリーズ被爆を語る 〜聞こえない人と情報について考える〜」と題してeテレで放送されている(1回目2回目)。長崎の入市被爆者の山崎榮子さんは惨状を目の当たりにしながら、それが通常爆弾による被害ではないことを知るのに一年以上、放射能の恐ろしさなど核兵器について知るのは40年くらい経ってからということです。なお、視覚障害者の被爆体験について、2017年12月10日、NHKラジオ第2放送の「視覚障害ナビ・ラジオ」という番組で、長崎で被爆した2人の視覚障害の方の被爆体験などが放送され、その内容を、長崎の視覚障害の被爆者の証言 にアップしました。視覚障害者の場合、視覚以外の感覚で体感するとともに、回りの人たちからの情報でそれを補い、全体を理解しているようです。また、記録を残すことについて、読み書きの難しさが白響していることも示唆されています。
B今回の放送でもっとも印象的だったのは、音声言語と手話との違いについてです。現在の音声言語は、その前提に文字言語があって、文字言語は手話で表現される情報を完全には表現できないということです。文字言語は、人間の深い感情や心のうちを十分には表現できなくて、手話ではそれがかなりできるということだと思います。私はもともと言葉にたいするセンスはないのですが、論理的な文はともかく、相手に心を伝えるような文章はうまく書けません。私のことは別として、やはり言葉の伝達力の限界(言葉を発するほうも、それを受け取るほうもです)をしばしば感じます。私は手話を見ることはできませんが、教えてもらえば手話をすることはちょっとはできるかもしれません。そして、言葉では伝えられないような心のうちを伝えられるかも、と思ったりします。
 
 以下、放送の書き起こしです。中山果奈アナウンサーは「中」、仲川文江さんは「仲」で示します。できるだけ丁寧にと思って記録したので長文になってしまいました。
 
中:仲川さんは耳の聞えない被爆者の所に何度も通って、手話で話をして体験を聞き取って、これまでまとめてこられましたが、そもそも広島で被爆した耳の聞えない方は何人くらいいましたか?
仲:戦後遅くなってから調査を始めた関係で、はっきりした人数は出ていません。調べ始めてから分かった数で、およそ200人くらいという程度しか分かりません。
中:200人というのは正確な数字ではない?
仲:そうなんです。というのは、戦前は聾学校が義務教育でなかったので、修学していない子どもたちもたくさんいたはずです。この200人というのは、聾学校の同窓会名簿をもとに調べてこれに近い数字を出しているので、修学していなかった方の状況が分からず、その数が含まれていないのです。
中:実際は200人よりも多い
仲:もちろん当然ずっとずっと多い数字です。200人というのは名前が分かっている方ということで、確実なところです。
中:その200人の中で今もご健在な方は何人くらいなのですか?
仲:現在私のほうで分かっているのは4人です。広島で今私が取材できる範囲で言えば2人、あとは県外の方です。
中:4人しかもういないということですか。
仲:そうです。だからその4人の方はとても大切な方だと思っているし、今が大事な時なんだと思っています。みな高齢で、いつでもお会いできるわけではないし、ほとんどの方が入退院を繰り返しているので、今が最後のチャンスだと思っています。元気で十分に活動できる方は1人もいないから、この機を逃したらもう証言活動できません。最後のチャンスだと思っています。
 
中:被爆者の皆さんが体験を語る方法が手話ですね。まず手話について教えていただけませんか。手話は耳の聞えない方皆さんが使うものですか?
仲:いいえ、そういうことはないですね。耳に音や言葉が残っている年齢から失聴された方、例えば5歳・6歳ころに失聴された方は、音の記憶や言葉の記憶がある。だから聞こえなくても自分で声を出すことができます。そうすると、それに相手が反応してくれるから、手話がなくても、口の動きだけで“通じる”こともできます。でも、生まれつき聞えない先天性の人とか言葉の記憶がないうちに聞えなくなった人は、手話でないと自分の意思は伝えられません。だから、聞えないから皆さん手話でなければならないということはありません。
中:私も学生時代手話サークルに入っていたので少しだけ手話は分かりますが、手話という言語は要素がありますね…
仲:たくさんあります。まず、いつも言われる顔の表情、顔の表情で喜怒哀楽、そういうものが全部できますし、それにスピードがあるし、強弱があるし、要素というのはものすごくたくさんあります。そういうものが全部できてはじめて〈通じる〉ということになると思います。だから基本的に、手話言語と音声言語は根本的に違います。
中:だから、別の言語である手話から日本語の文章に書き換えるという作業はとてもたいへんだったのですね。
仲:そうなんです。
 
中:仲川さんの家庭はご両親は耳が聞えないが、ご兄弟は耳が聞えた
仲:そうです。
中:それで幼いころに手話を習得されたのですね。
仲:そうですね。
中:ご自身の経験を振り返ると、聞える親御さんのもとで育つのとはどういった違いがあったと思いますか。
仲:聞える人たちとの仲立ちは私がしなきゃいけない。ようするに、物心ついたころから今の言葉で言う〈通訳〉をやっていた。よく皆さんが、日本語と手話どっち先に覚えた?と言われるんですが、私は当然手話を先に覚えたと思います。だって、聞える人より聞えない親との会話のほうが優先ですから、先ですから。
中:しゃべるほうの日本語はどういう風に覚えられたのか…
仲:私の回りには聞える大人がたくさんいました。おじいちゃんおばあちゃんはじめ、おじちゃんおばちゃんたちがいましたから、それは自然にしゃべる言葉も身に付いたと思いますし、もちろんそういうおじいちゃんおばあちゃんと私の両親との通訳はちっちゃい私がしていましたから。おじいちゃんおばあちゃんは手話ができないんです、娘が聞えなくても。
中:そうなんですか。
仲:そういうもんです、聞える家の聞えない子どもというのは。親はたいがい手話しませんから。今でもそれは多いですが。だから私がふたつみっつでも、おじいちゃんやおばあちゃんの通訳は私がやっていた。
 
中:印象に残っているエピソードありますか。
仲:私は戦前の生まれ[1940年生まれ]ですから、戦時中皆さんは灯火管制があって、敵機がきたら、電気に黒い布の傘がかぶせてあって、その布をサイレンが鳴ったり近所の人たちが伝達に歩くと下ろす。そして光が外に漏れないようにするんです。うちはサイレンが鳴っても伝達の人が声出して走り回っても、両親聞えませんから電気つけたまま。そうすると、しかられます。そういうことがなんべんかあって、最後には軍の方がこられていきなり電球を持って帰られた。うちは電球ないと1日も過ごせないじゃないですか、夜手話が見えないし。で、父が隣組の人といっしょに、返してくださいと言いに行ったらしいが、ぜんぜん受けつけてもらえず、次に私、 5歳の私を連れて軍に行って電球返してくださいと言ったんです。そしたら軍の方が灯火管制が守れんから返されんと言ったんです。そしたら私が、私がちゃんと電気消します、約束しますと言って、電球を返してもらった。そういうことがありました。だから父にしてみたら、だれよりも頼りになる。
中:隣組の方が行ってもだめだったんですね。
仲:だめだったんですけど、私がちゃんと責任もって電気消しますから、と言って返してもらったんです。
中:5歳でそんなことができたというのはすごく立派なことだなと思うんですが、とくに戦前は耳の聞えない人にたいしての理解があまりなくて、その環境の中で幼いころから仲川さんはご両親の通訳をされていたんですよね。
仲:そうですね、はい。
 
中:仲川さんご一家は県の北部の三次市で終戦を迎えられて、戦後に広島に移り住まれて、お父様がそこで耳の聞えない人たちの木工所を耳の聞えない仲間同士で始められたことで、ご両親以外の耳の聞えない方とも共同で仕事をされるようになった…
仲:共同で生活するようになった。今で言う〈社宅〉の形式のような建物(バラックですけど)ができたんですよ。そこには聞えない家族が6所帯おりました。だからそこはみんな手話でした。
中:そこでご両親以外の通訳もまたされるんですね。
仲:そうなんですよ。6所帯もいると人数も30人40人、まず起きてくるのが病気。病院へ行かなければいけない。で、記念病院[広島記念病院]へ行っても診てもらえない。名前が呼ばれても分からないから、また先生の話ももちろん分からないし。私は、記念病院の近くに学校がありましたから、聞えない家の人が私を呼びにくるんですよ。病院へ行くから付いて来てって。で、私は授業の途中にするっと抜けて病院に付いて行って、でまたするっと教室に帰るんですよ。あんな生活ずいぶんしました。
中:学校まで迎に来る!
仲:そうなんですよ。
中:おこられなかったんですか?
仲:その当時はね、授業時間に座ってなくても、どうしたんかなあ、次にいたら、いたわあ、でおしまいだった。その当時の先生ともよく話をするが、いつの間にか帰ってきていて、いつの間にか出ていった。
中:そのとき小学生?
仲:当然小学生です。
中:先ほどの5歳の話のときもそうだったんですけど、子どもの時に通訳をするというのはたいへんなんじゃないかと思うんですが…
仲:ですかね。
中:仲川さんは感じられなかった?
仲:べつになにも感じていませんでした。おばちゃん困っているから通訳してあげなきゃいけないよね、くらいの、私には当たり前なんですがね。
 
中:そうしたなかで、今通訳者として活躍されていますが、その力を培っていったということなんでしょうね。
仲:それが一番だと思います。たくさんの聞えない人たちの中で育っていってますから、私が持っている手話の力というのはそのころから培ってきたものだと思います。
中:培ってきたその力を生かして通訳者として活躍してこられたが、40年ほど前に、手話の講演会などを開いて手話の普及をはかる団体「広島県手話通訳問題研究会」を立ち上げ、その後間もなく被爆した耳の聞えない人たちの体験の聞き取りを始められた、そのきっかけというのは何だったんでしょうか。
仲:全国手話通訳問題研究会と言って、私たちの団体の親団体があるが、そこからの依頼で、聞えない人たちの戦争はどうだったかというのを、全国的に集めたいと言われて。とんでもないことをおっしゃる方だと思いました。音声言語と手話言語とは根本的に違うんですよね。それを原稿にしてくださいって、そんなことできませんとお断りして。断っても断ってもしつこくしつこくお願いされるので、しょうがないからとりあえずやってみようかなあ、と。それと同時に、そういう話があった時に、ふっと、そういえば今までの聞えない人たちの生活どういう風に残っているのかなあ、と、いろいろ本を調べたが、聞えない人の話って1行もないんですよ。どこにも載ってないんですよ。本人たちは、戦前の教育では言葉を発する訓練、発語の訓練をものすごく厳しくやりましたから、一生懸命発声すると大人になったらきちっとふつうの人と同じように発声してお話ができると思ったんですねえ。で発語の訓練ばっかりしてるから、書くことの訓練はしてないから、自分が発した言葉がどういう文字になるかということはおざなりになっていた。だから自分の気持ちとかを文章に表せない。だから聞えない人の文化も歴史も生活もなんにも残っていないんですよ。これじゃ聞えない人、今までいなかったのといっしょ。私、そんなばかなことないよねって。その人たちの生きてきた証がどこにも残っていない。これはおかしい。ならばとりあえずやってみようかなあ、というところから始めた。
中:被爆者の方にとっては辛い経験なので、それを皆さんやはり積極的には話されなかったんじゃないですか。
仲:それまでは話しておられないでしょう。仲間内で情報交換のようなかたちで話されることはあったでしょうが、私1人を相手に自分の人生を語るということはなかったと思います。最初はものすごく警戒されますよね。何を聞きたいんだろうか、何を話せと言われるんだろうかと。そう言いながら、私と雑談している間にいつのまにか話し、またこれを話して。ぜったい話したこともない悔しかった思い、ずうっと自分で収めていたが話してよかったあ、すごくほっとしている、と言ってくださるので。みんななんらかのものを持って生きてこられているから、それを私が聴くことで荷が少しでも軽くなるなら、それも私の一つの貢献かなあとかいうような思いで聞き取りしていました。
 
中:聞き取った中で、聞えない人の被爆体験と聞える人の被爆体験ではどういった違いがあると感じましたか?
仲:被爆したことにたいしての体験のしんどさはいっしょです。結局一番違うところは、情報量の違い。聞えない人たちは、原爆という爆弾は特殊爆弾ということは理解しているんです。だけど、原爆放射能、それから被爆することによる体調の変化、生活の変化、それらを理解するのに早い人でも10年、分からない人は20年も30年もかかっている。自分の今の病気が放射能障害ではないか、そのために手帳がないといけないんだということが分かったころには30年も40年も経っている。そのころだと、こんどは証人を探すのがたいへん。それで被爆者同士で、どこどこに住んでたから聾者の人に証人になってもらうというようなかたちで[手帳を]取るけれども、そうやってでも取れない人たちもあったり。だいいち、なんであの時の病気が今も身体の中にあるのかな、あの時の何が身体の中にあるのかな、聞えない人たちは放射能はその時のきたない空気というふうに理解している(ようするに理解できていないんですよね)。仕事に行きたいのにどうしても身体が言うことをきかなくて行かれない、それが被爆のせいというのが分かるのは、20年も30年も経った後になって。その時はみんなに、おまえ怠けものとかぶらぶら病とか言われて、除け者にされるとか。また本人は自分が被爆したという概念がないから、会社にもそれは言わないし、こいつ怠けものだとクビにされるし。だから、聞える人たちがそれにたいして早く対応していったのに比べると、聞えない人たちの戦後がずっと続いた。
中:どうしてそんなに情報が入らなかったんですか?
仲:だってきちっと分かるように話してくれる人がそばにいなかったから。聞える親は手話はほとんどできませんから、子どもに原爆とか被爆とか手帳とか、そういう説明ができないんです。たいがいの人はジェスチャーと口形、だから難しいことは言えません、長い言葉は言えません。被爆障害なんていう言葉は言えません。「原爆」「あれ」「病気」というような手話に変わってしまう。なんであの爆弾が病気になったんかな?とか、そういうのを理解するのに10年20年かかって、そのために手帳が要ったんだとか。情報がひとつずつ積み重なって理解するのに時間がかかった。終戦を知らなかったという人もたくさんいるし。何年も経って、このごろは兵隊さんがおらんけんね、とか思っていたというような。まあなんて、と笑うんですけど、まあじゃないですよね。
中:それだけ情報が入らなかったことを、耳の聞えない人たちはどんなふうに感じていたんですか。
仲:入ってないから、なんにも感じないでしょう。で、入った時に、あ、そう、そう、という感じで、「知らなかったあ、そうだったの」という感じでその情報を取り込む。
中:そうだったのかあ、だけで
仲:何十年も経つと、そうだったのかあで済まされないけど、じゃ今から何十年むかしに帰れるわけじゃないし、「そうだったのかあ」で落ち着かなければ落ち着けないでしょ。
中:あきらめるしか
仲:ないみたいなところがあります。
 
中:話をした中で、印象的だった体験はどんなものでしたか?
仲:聞えないお嫁さんとお姑さんと、聞えないお嫁さんがおぶっている聞える赤ちゃんの3人が広島の駅前で被爆されたんです。そこで大やけどをおわれて、少し離れたお姉さんの家までやっと歩いて行ったが、赤ちゃんはおんぶされて頭が後ろにのけぞった状態で頭からざあーっと大やけどをおった。冬のように綿入れの負子(おいこ)で負っていれば違ったでしょうが、夏で帯紐だけで負っているから全身やけどをおい、またその聞えないお母さんもどちらかというと前を、後ろには赤ちゃんがいるから、前をすごくやけどした。お姉さんの家に行って、自分ひとりではなにもできないくらい重傷で、生きておれるかどうか分からない状態の中で、赤ちゃんを隣りに寝かせてお姉さんが面倒みていたが、三日目にその赤ちゃんが亡くなるんです。そのお母さんは、大やけどをおっているから首を回して赤ちゃんのほうをしっかり見るわけにいかず、斜めにその赤ちゃんを見るだけ。もちろん世話できないし。そのとき、本当は自分の子どもをぎゅうっと抱き締めたかったけど「抱けなかった」ということをおっしゃるんです。それをたったひとつの手話でおっしゃる。抱けなかったことへの無念さ、くやしさ、情けなさ、子どもにたいしての不憫さみたいなものがいっぱいのおもいを、たったひとつの手話の中に表現されている。
中:どういう表現だったんですか?
仲:赤ちゃんをふつう抱くときには、前にぎゅっと抱き寄せて前で抱き締めますよね。抱こうとして、自分の前まで抱き締められなくて、抱こうと思った手が止まっている。抱こうと思ったのに抱き締められなかったという表現で止まっている。その時の顔、身体の動き、それがもう言葉にできないんですよ、文章にできないんですよ。手話でたったひとこと、ぎゅっと抱こうとしてできなかったことを、頭を振り、途中で手が止まり、その時の顔・頭の表情、子どもを抱けなかったときの手の振るえ、そういうものを全身で表現されたんです。私もう日本語にできなくて、わるいけどスルーしました。書かないほうがいいと思って。書くとみんなはそういうものだと思ってしまうから。で、彼女はすごいケロイドを負っているから、簡単に手の指や顔が動くわけではない。その動きにくい手や顔でいろんな話をしてくれる。その話を聴くなかで、どういうふうにそれを書いたらいいか分からなかったんです。だからもう「三日後には亡くなりました」しか書いていないんです。その事実しか書けないというか、お母さんのきもちなど、どういうふうにそれを文章にしたらよいか分からない。
中:ただ私がお話を聞いているかぎりでは、手の振るえとか手が止まって動かないとかいうお話を聞いていると、なんとなく想像がつく気がするんです。文章としても残せるんじゃないかと思ってしまうんですけど、違うんですかね。
仲:いいかげんに残せるでしょう、それは。私はそこだけはどうしても彼女のその時のおもいやらきもちやら、そんなものすべてを網羅した文章にしたかった。なんべん書いてもなんべん書いても消しても、言葉を変えても、その手話を思い出すとその表現には近付けないんですよ。またやはり聞えない両親が聞える子どもをもつときのあの誇らしさのようなものがあったんです。で、その子を失ったんですよ。それがもう顔の傾きなんかにでも全部出ているんですよ。それはいいかげんには書けますよ。ただどう書いてもそれは彼女の心のうちのきもちや思ったこととほど遠い。だから私としては書かないほうがいい、私の胸におさめておこう。それに見合うべきだけの文章を書けるようになったら、その時にしようと。何十年経ってもなりません。
中:今も
仲:なってきません。その時のあの彼女の話してくれた本当の目の形まで覚えています。私たちの目は丸いだけではないんです。目はいろいろに語るんです。だからもう、あれが全部表現できないなら書かないほうがいいと。
中:難しかった
仲:難しかった。こういう問題にぶつかりながらぶつかりながら、やっと1人の話が終わり、やっと1人の話が終わり。この人の話、見やすかったなあということはまずないですね。どなたもどなたも、一番しんどいところ、おもたいところはきちっと手話で表現してくださっているから、なるべくそれに近付けるようにはしましたけど。
中:反響はいかがです?
仲:最初の1冊[『生きて愛して』 広島県手話通訳問題研究会 1989年]の時は、たいへんな反響でした。皆さん、聞えない人にも被爆者がいるんだということにすごくびっくりしたというのが、一番大きかったですね。ただ、本を読むと、聞える人の体験と同じだねと言われます。だけど、体験そのものは同じでも、苦労のしかたが違うねと言う。ようするに、〈情報障害〉(読者はそういう言葉を使わないが、私たちはそういう言い方をする)の意味もふくめて理解してくださったと思ってはいます。それでももう文章にならないところっていっぱいあるんですよ。見て分かる、映像的に分かるのに、どうして文章にならないのだろうと。やはり、見る言葉と聞く言葉の違い・難しさに、その時は本当に苦しみました。
 
中:長い間文章で被爆体験を残そうとされてきたわけですが、去年からは被爆者の代わりに体験を手話で伝えるグループを立ち上げて活動を始められました。やはり文章には限界があると考えてですか?
仲:限界がある。残るかも知れませんけど、残り方が違う。文章では聞えない人が話してくれている時の姿・気持ち、それが残らないのではないか、これは本当に証言を残したことになるのかなあ、というところに疑問を感じはじめて。絶対あの人たちがいなくなるのは分かっているし、その時に、広島市が被爆体験の伝承の事業始めたと聞いた。
中:被爆者の体験を第3者が
仲:第3者が受け継ぐというのを聞いて、私ああそうなんだと思って。私たちのだれかがそれを受け継げばいいんだ、伝承すればいいんだ。彼女彼等でなくても、それに代わるだけの伝承能力を私たちが持てばいいんだ。聞える人たちの伝承活動は話すこと・しゃべることで行われるのだから、私たちも手話でとおせばいいんだ。そのためには、やはり猛勉強しなくてはいけないし、グループで立ち上げないと続かない(私1人でがんばっても続くものではない)。今ここでがんばって伝承者を育てておかないと伝承ができなくなると思って、去年伝承班というかたちでスタートして、育成というところからはじめた。
中:皆さんは広島市に住む89歳の耳の聞えない被爆者の方のお宅に何度も何度も足をはこんで、手話で体験を聞き取って、それをビデオに撮影して、またそのビデオを繰り返し見て本人になり切ろうとしてこられましたが、その皆さんが体験を受け継ごうとしている被爆者の方は、この活動をどんなふうにおっしゃっています?
仲:とっても喜んでくださってます。これまで元気な時には証言をされていましたから、今はもう証言活動できないけど、私の代わりにしてくれるからありがたい、と言って喜んでくださってる。それが私たちには一番力になりましたね。
中:活動を始めて1年以上経って、ようやくこの夏に手話で体験を披露する機会があったんですよね。いかがでしたか反応は?
仲:おそろしくて聞いていません。
中:会場どんな雰囲気だったんですか。
仲:本当に、こととも音がしない。何の物音もしないで、本当に聞えない世界にいるような、そんな雰囲気で。
中:じっと見入って
仲:食い入るように見ていました。終わってもしばらく会場動きませんでしたから。こういう活動をすることの大事さも理解してもらえたんじゃないかな。どういう感想文がくるか、ちょっとおそろしくて、まだよく見てないんですが、場の雰囲気としては私は成功だったと思います。だからこの活動をやっていかなきゃいけないよね、絶対に、と思いました。
 
中:仲川さんはこれまで耳の聞えない方々の被爆体験を文章、そして今は手話で伝えてこられたが、今後この活動をどんなふうに広げてゆきたいですか?
仲:もう1人東京の方を取材はしています。まだもう少し何度か東京にうかがって取材しなきゃいけないと思っているが、もう具合がわるいんですよねえ、彼も。今そういう状況でもうぎりぎり、本当にぎりぎり、私としてはすごく危機感を持っています。なんで[手話で語り継ぐという]この活動にもっと早く気がつかなかったか、と思う。文章で証言が残ると思った自分がなさけないというか。
中:後悔はありますけど、これからですね!
仲:今から勝負ですよね、と思います。今からは、全国的に聾学校などにも私たちこういう活動しているから修学旅行先を選ぶ時に広島を選んでみてくださいとか、広島にこられた時はかならず見て帰ってくださいとか、そういうことを全国に発信してゆきたいと思いますし、そういう学校がこられたらきちっと対応していかなきゃいけないと思っています。人間永久に生きているわけではないですから、今語ってくださる方にもいずれは会えなくなる。でも、その語ってくださった方は永久にその伝承の中では生きてもらわなくてはならない。そうでありたいと思います。
 
(2017年11月27日)