小谷孝子(千葉県原爆被爆者の会理事) 「あっちゃん”と語る被爆体験」――ラジオ深夜便 明日への言葉より

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 3月27日火曜日午前4時台のNHKのラジオ深夜便「明日への言葉」で、小谷孝子(千葉県原爆被爆者の会理事)さんが「あっちゃん”と語る被爆体験」というタイトルでお話されました。被爆証言とともに原爆孤児のことなど心に残るお話でしたので、以下に聞き書きして内容を記します。
 
 まずアナウンサーによる紹介です。
 小谷孝子さん、79歳のお話です。昭和14年広島県呉市のお生まれで、6歳で広島市に引っ越しました。昭和20年8月6日、原爆が投下され、建物の下敷きになった小谷さんは、かすり傷で助かりました。しかし、弟は全身やけどで死に、たくさんの人々が苦し見ながら死んでゆくむごい光景は、長い間話すことはありませんでした。高校卒業後に上京した小谷さんは幼稚園教諭として働き、子供のために腹話術を習いました。その腹話術のお人形「あっちゃん」と一緒に、8年ほど前から被爆体験を小中学校などで語り始めました。3年前にはNGOピースボートの船に被爆者たちと乗って、3ヶ月間世界各国で被爆体験の証言もしました。ピースボートが国際運営団体をつとめるICAN(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons: 核兵器廃絶国際キャンペーン)は、去年12月ノーベル平和賞を受賞。小谷さんも受賞を祝うツアーに参加して、ノルウェーに行き、被爆証言を続ける決意を新たにしました。
 
 インタビュアーはラジオ深夜便ディレクターのバーランド和代さん、以下小谷孝子さんの話です。(バーランド和代さんはB、小谷孝子さんはKと表記)
 
B:今日はいつも使っている腹話術のお人形「あっちゃん」と一緒にお越しいただきました。
K:(トーンの高いあっちゃんの声で)はい、あっちゃんです。どうぞよろしく
B:ありがとうございます。あっちゃん、3歳くらいの大きさですねえ見ていると。
K:そうです。
B:ベージュのセーターと黒いズボンをはいていて、お目目がぱちっと開いて黒目が大きくてまつ毛も長ーく1本1本描かれていますね。お顔は肌色なんですけど、頬っぺたの部分がピンク色になっていて、とっても元気そうな男の子ですね。
K:はい、とっても元気な相棒です。
B:小谷さんはこの腹話術のお人形のあっちゃんと一緒に被爆体験を語る活動をされています。そして去年12月にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞したさいに、小谷さんもノルウェーのオスロに行って受賞の瞬間を見守りました。ICANは、日本の被爆者の方々と連携して、核兵器禁止条約の採択に貢献したことでノーベル平和賞を受賞しましたね。ICANの受賞を祝うツアーに参加したそうですが、参加にはどういう経緯があったんですか。
K: 2015年にピースボートが主催している、被爆者が世界に被爆証言をして回るツアーがありまして、それに参加しました。
B:「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」のプロジェクトで。[国際NGOピースボートは、2008年以来毎年このプロジェクトを行っており、これまでに200人ほどの被爆者が参加している。おりづるプロジェクトとも呼ばれている。]
K:それからピースボート(ICANの国際運営団体をしている)のご縁で、ピースボートで呼ばれた東京の学校にも証言に行って、そういうつながりがあって、今回被爆者と一緒にノルウェーに行こうという話がありまして、参加しました。
B:小谷さんとICAN・ピースボートの関係を整理すると、小谷さんはICANやピースボートのメンバーではありませんけれども、ピースボートの平和活動に参加したことがきっかけで声がかかって、授賞を祝うツアーに参加したということですかね。
K:そうです。
B:他の被爆者の方々も一緒に行かれたそうですが、何人くらいのツアーで行かれたんですか。
K:被爆者が26人だったんですけど、その中には2世の方、もう親御さんが身体が不自由な方もいらっしゃいますので、健康面を考えて娘さんや息子さんが付いてこられて、そうした方が4名で、30名で参りました。
B:授賞式は去年の12月10日で、ノーベル平和賞受賞の瞬間を小谷さんは見護ったということなんでしょうねえ。どうでしたか?
K:感動でした!授賞式の会場の前にノーベル平和センターがあって、そちらでパブリックビューイング、映像を見ながら直接授賞式を見たんですけども、被爆者とICANのメンバー200名くらいいらしたんですけど、被爆者サーロー節子さん、カナダ在住で広島の被爆者の方なんですが、その方のスピーチで、もうみんな立ち上がって、手をつないで、感動を表わしましたねえ。
  [サーロー節子:1932年〜。広島女学院に進み、学徒勤労動員された第2総軍司令部(爆心地から1.8キロ)で被爆。351人もの級友を失い、また姉や4歳のおい等8人の親族を失う。広島女学院大学卒業後、1954年アメリカに留学。翌年、カナダ出身の関西学院の英語教師と結婚。トロント大学で社会福祉事業の修士号を取得、ソーシャルワーカーになる。1976年8月6日、トロントで平和を祈る「ヒロシマデー」を企画。以後世界各国で、被爆証言と核廃絶を訴える活動を続ける。ノーベル平和賞授賞式でのサーロー節子さんの演説は、心を動かされまた力を与えられるものです。ぜひ多くの人たちに読んでほしいです。ノーベル平和賞 サーロー節子さん演説全文
B:そうですか。サーロー節子さんは被爆者を代表して、人類と核兵器は共存できない、核兵器は必要悪ではなく絶対悪だとうったえて、本当に感動的でしたねえ。
K:もうすばらしかったです。核兵器を持っている国は、これを使うことはよくないということは分かっているけれども、でもこういう世の中でこれを持っていないと心配だということで、これは必要悪だという考えなんですけど、サーロー節子さんはそれは違う、絶対悪なんだ、ということを強くおっしゃってました。
B:ノーベル平和賞授賞式を見護るということのほかに、いろいろと受賞関連イベントにも参加されたそうですね。
K:はい、コンサートもありました。平和コンサートは2万人くらいの人が入って、そこで広島から被爆ピアノ、被爆したピアノを調律したピアノを弾かれて、とてもいい音がしました。会場でみんな感動しました。こうしてずうっとつながっていくということは、人間は亡くなっていきますけども、こういうかたちで世界に伝わっていくということは、とても大切なことですね。
B:現地の人たちはどんな感じでコンサートに参加されましたか。
K:司会者の方が核兵器禁止条約に署名をしていない国がある、それは核兵器の傘の下にいる国々で、ノルウェーもそうです、とおっしゃったんです。会場には皇室の方もいらしてましたし、いろんな方もいらしてたんですけども、その時に2万人の会場の人が大ブーイング、署名をしていないことに対して皆さんのいけないというブーイングだったと思う。日本だけにいると、被爆者、自分だけが被爆者という思いがありましたけども、でも世界中には水爆実験の被害者とか、劣化ウラン弾の被害者、たくさんの放射能の被害者がいらっしゃる。その方たちが、皆さんが立ち上がって、手をつないで、核兵器のない世界にしましょう、ということで、大勢の方、世界中が立ち上がっているということが、すごーく強い力になりましたねえ。感動しました、本当に。
B:小谷さんも年間に30校くらい、千葉県八千代市の小中学校を中心に証言活動を頑張ってますけども、ノルウェーで見た、核兵器に反対する人々を見て、どんなことを感じましたか?
K:そうですね。これからの日本、これからの世界を担っていく若い人たちにぜひ、こんなことがあったよむかし、だけど今でも世界中に1万8千発以上も核兵器がある、みんなでそれを止めましょう、本当の平和は武器ではないということ、「心」だということを子供たちに伝えて、そして子供たちがそれを一言でもいい、だれかに伝えていってほしい、子供たちにもっともっと語り継いでいきたいなと思いました。
B:では、これまでの人生を幼いころからうかがってゆきたいと思います。小谷さんは長い間自分の被爆体験を語ることはなかったそうなんですけども。お生まれは広島県の呉市ですが、1945年8月6日には広島市内に生活されていたんですね。
K:父が海軍だったので呉市に住んでいたんですけど、私が5歳の時に父が病気で亡くなりました。そして祖母が1人広島市内にいたので、家族でそちらに引っ越したんです。1945年3月に引っ越して、4月に国民学校1年生に入りました。その夏の8月6日に広島に原爆が落ちたんです。
B:その時のことを詳しくおうかがいしたいんですが。小谷さんは広島市の皆実町(みなみまち)[現南区。爆心地から1.7〜2.5kmくらいの距離にあり、8月6日の原爆投下ではとくに京橋川沿いの地域はほとんど全壊全焼した]という所にお住まいだったとのことですが、それは爆心地からどれくらいの距離だったんですか?
K:2.5キロです。朝7時過ぎに1度空襲警報のサイレンが鳴って、みんな飛行機が来るのかなあと思ったら、すぐ解除になったんです。8月6日はとてもいいお天気で、戦争中とは思えない静かな朝だったんです。皆さん仕事に行ったり勤労奉仕に行ったりしていました。私の家ではたまたまその日のお昼に田舎の親戚の家を頼って疎開することになっていました。それで、お天気がいいし裏の川で泳いで来ようと、兄弟4人で駆け出したんです。
B:住んでいた所にいちばん近い川が京橋川という川、瀬戸内海に流れる川ですね。
K:その時、青い空に飛行機の音がしたんです。4人で見上げて、「B29かね」と言って。でもすぐ行ってしまったので、「だいじょうぶだよ」と言ってまた4人で駆け出したんですけど、私1人喉が渇いて水を飲みに家に引き返したんですね。台所で水を飲んでいた時に、ガラス窓がピカアッと光ってドーンという音で家が壊れて、下敷きになったんです。 2階で引っ越しの準備をしていた母に助けられて、かすり傷で助かった。で、母はすぐに姉や兄を捜しに行ってたんです。見つけて帰って来た時には、姉は全身火傷、兄はちょっと家の陰にいたので、熱線を浴びなくて火傷はしなかったけれども、爆風で飛んできたガラスが頭や顔に刺さって血だらけ。そしてもう広島市内は火の海だからみんなぞろぞろ逃げて来て、私の家の前を通って、それを見ている6歳の私にみんな寄って来て、手を出して、水ちょうだい、水ちょうだいとみんな、まるでお化けのような、地獄のような様子でしたね。それでもうショックで、立ちすくんでいた。経験したことのない、これが地獄なのかなっていう感じでしたね。
  2人を看ているようにと[母が]私に言って、今度弟を捜しに行ったんです。弟は爆風で飛ばされて、3歳ですからなかなか捜すことができなかったんですけど、やっと見つけて連れて帰ってきたら、真っ黒い顔をしていたので、母が自分の服で顔を拭いたんです。そしたら、顔の皮がずるうっと剥けて垂れ下がった。熱線が3千度から4千度と言われる。100度の熱で火傷をしても痛いのに、皮膚だけでなく身体の中まで熱線が届いて、臓器まで焼けているわけです。そして祖母が近所の人と立ち話をしていて、やはり全身火傷で帰ってきました。で、弟が、4日目の、8月10日の朝、意識がなかったのがやっと目を開けたんです。母がさっとお水を口にふくませると、「お母ちゃん、飛行機恐ろしいねえ。お水おいしいねえ」、この一言残して、3歳で亡くなりました。暑い夏ですからすぐに傷跡が膿んで、蛆がわいて、そして火葬場へ連れて行くこともできず、母は自分で弟を火葬してましたね。涙ひとつ流さなかったです。それは私が大人になってから気付いたことなんですけども、私がそばに立って見ているので涙ひとつ流さなかったですけど、自分の子供を自分の手で火葬したということで、母は1人でどんなに、だれもいない所で泣いていたかなあ、と思います。
B:そうですね、3歳っていちばんかわいい
K:そうなんです。末っ子ですしねえ。
B:小谷さんも一緒に遊んだり面倒をみたり
K:私がいちばん面倒をみてた。
B:そういった惨い情景を 6歳ながらにしっかり覚えているわけですよねえ。
K:はい、そうですね。それで、8月15日に終戦になりました。そして学童疎開に行っていた子供たちが帰ってきたんですけれども、ほとんどの子が両親を亡くし、家族を亡くして、原爆孤児になったんですね。学童疎開に行っていて[原爆孤児になった]子たちが2千人とも3千人とも言われて、3年生から6年生までですからね、人数はいまだにはっきりしていないそうなんです。子供たちの命は助かったけども、親を亡くし、自分たちで生活していかなければいけない。で、瀬戸内海の似島という所に原爆孤児の施設ができたんです。母は家族の薬や食べ物をもとめて焼跡を駆け回っていたんですけども、それでも時間をつくって、似島に渡って原爆孤児の世話をしていました。でも、私は火傷もしていないので、ひとりいつももうかまってもらえなかったんです。それで母に、よその子の世話をせんと私の世話をして、と泣きながらたのんだんです。そしたら母がこう言いました。「わがままを言いんさんな。あんたたちは夜になったらお母ちゃん帰って来るでしょう。島にいるあの子たちはもうなんぼ待っても2度と親は帰って来んのよ」。母は、どんなたいへんな時でも自分のことだけでなく他人のことも大切にできる心のゆたかな人になるのよ、と教えてくれました。これは、母の短い人生に残してくれた言葉だと思って、ずっとその言葉を忘れないできました。 5年後に原爆症による白血病で亡くなったんです。私が6年生の時でした。
  [原爆孤児:原爆で両親あるいは片親など保護してくれる人を亡くした子供たち。人数ははっきりしないが、広島では5千人前後はいたと思われる。当時広島市内から3年生から6年生までの2万人以上の子供たちが学童疎開しており、原爆孤児のかなりはその子たちだった。ヒロシマ平和メディアセンターの原爆孤児によれば、原爆孤児を収容する施設として1945年から1949年までに6施設が設置されたが、その収容人数は計600人余だった(小谷さんの母が通っていたのは、46年9月設置の広島県戦災児教育所似島学園)。多くの原爆孤児は保護されることなく、寒さや飢えで亡くなる者、食べ物を奪ったり靴磨きなどをしたり、またヤクザの世界に身を投じる者も多かった。川本 省三インタビューには、原爆孤児の実状がよく書かれている。]
B:ご主人も病気で亡くされて、お子さんも亡くなって、お母様としてはほんと辛いなかを辛いと言わず。きっと小谷さんにいろんな影響を与えたお母様なんでしょうねえ。
K:そうですね。でも母が亡くなってからは、原爆の話、被爆の話、いっさい心の奥にしまって、私は2度と話をしないという気持ちになったんです。
(以下続く)