6月3日、私をふくめ4人で堺市にあるミュシャ館と鉄砲館、それに統国寺にあるベルリンの壁を見学しました。
10時半にJR堺市駅に集合、数分歩いてアルフォンス・ミュシャ館へ。
ミュシャと言えば美術の教科書でも取り上げられている(私が校正した中学の美術では、サラ・ベルナール(1844〜1923年)が主演した『ジスモンダ』のポスターが載っていた)ほど有名で人気もあるようですが、私は名前は知っていてもその作品についてはほとんど知りませんでした。ミュシャ(Alfons Maria Mucha: 1860〜1939年。チェコ語ではムハと発音するそうです)は、現在のチェコ共和国の南モラヴィア地方のイヴァンチッツェに生まれるます。20歳ころウィーンに出て舞台美術工房で仕事をし、その後クーエン・ベラシ伯爵に認められてその援助でミュンヘン、さらにパリで学び制作もします。1894年末に女優サラ・ベルナールのポスターを制作し大ヒット、サラとの契約6年間に生まれたポスターはアールヌーボーの1様式として人気を博します。その後何度もアメリカに行って活動します。1910年以降は祖国チェコで制作するようになります。1918年にチェコスロヴァキア共和国が建国、最初の切手や紙幣、国章のデザインをしたそうです。1926年には18年の歳月をかけて『スラブ叙事詩』が完成(全20作品)、また1931年に制作したプラハの聖ヴィート大聖堂のステンドグラスも有名なようです。
ミュシャ館の4階から見学します。多くのリトグラフ、油彩画、ポスター、木炭画?、ブロンズ像や宝飾品など、その多彩な作品群に驚きました。触れられる物はほとんどありませんでしたが、円やゆるやかな曲線を多用したデザインの感じなどは少し分かるような気がしました。同行した人たちに数点を簡単に説明してもらいましたので、それらについて書きます。
「南西モラヴィア挙国一致宝くじ」:この作品は、チェコ語の私立学校設立のための資金を集めるキャンペーン・ポスターだそうです。制作年は1912年、当時チェコはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、ミュシャがチェコに戻って間もなくの作品です。手前には右手でペンを3本強く握り、左手にノートを持ったとても貧しい身形の女の子が描かれています。下唇をかんで怒ったような顔で、強い眼差しのようなのが感じられるようです。後ろには成人の女性が描かれています。左手で顔を半分隠すようにして項垂れて、悩んでいるように見えるそうです。それまでのパリ時代の華やかさはないようですが、とくに少女の訴えるような意志が感じられるようです。
「クォ・ヴァディス」:縦横とも2m以上もある大きな油彩画です。制作年は1904年、ミュシャは1904年から1910年まで数回アメリカに滞在していて、この作品はアメリカで描かれたとのこと。ロシア占領下のポーランドに生まれ1905年にはノーベル文学賞を受賞しているヘンリク・シェンキェヴィチ(1846〜1916年)が、キリスト教徒を迫害した第5代ローマ皇帝ネロの時代をテーマとして書いた長編歴史小説『クォ・ヴァディス』(1896年刊)にもとづいた作品だそうです。画面左にはまるでギリシア神話のゼウスにも見えるような美しい姿が描かれ、中央の女性がそれを斜め下から憧れるようなうっとりした視線で見上げています。そしてそのシーンを、カーテン越しに画面右側の男の人がのぞき見ているようです。画面手前下には香炉があって、透明な曲線で描かれた煙が中央の女性や右側の男のあたりを包んでいます。また画面の4方の縁は、額縁のように細かい多くの花模様で縁取られ、右上と左上には大きな花輪があります。このような煙や花模様の装飾は、パリ時代の明るいミュシャ作品を連想させます。
「ラ・ナチュール」:これは高さ50cm以上あるブロンズ製の女性の胸像です。制作年は1899〜1900年で、1900年のパリ万国博に出展され、出展時は頭の上に当時の最新技術である電球が取り付けられていたそうです。女神を思わせるほどきれいな姿で、長く伸びた髪が身体に巻き付いています。伏し目がちの顔の上には冠があり、高さ3cm以上もある大きなアメジストが埋められています。私にはよく分かりませんが、この「ラ・ナチュール」は、ミュシャの絵画「黄道十二宮」を立体的に造形したものだそうです。
3階は、企画展「ミュシャと新しい芸術 アール・ヌーヴォーとミュシャ・スタイル」になっていました。まず、花や装飾品を着けた多くの女性像が並んでいました。館内に置いてあった図録?の表紙に、女性像の外形だけが浮き出しで印刷されたものがあって、ちょっとうれしかったです(円の中に女性が描かれ、髪が円の両側にはみ出していた)。また、植物や動物、天体などの装飾デザインが描かれた20cm4方ほどの大きさのパネルが並んでいて、これは触るとゆるやかな曲線や直線が多数分かりました。実際に植物や動物の形をたどることはできませんでしたが、このような曲線や直線を組合わせてデザインしていることは分かりました。
宗教画のように見える「ハーモニー」がありました。幅4メートルもある横長の大きな油彩画です(制作年は1908年)。画面上半分全部を使って、両手を大きく広げた、肩から上の人物が淡い青で描かれています。そしてこの人物がかざしている両掌の周りを丸く囲むように、白い光の輪が描かれ、光を放っています。画面の下半分、画面の手前には、小高い丘のような緑の地上が描かれ、その地上の部分に様々な人々が小さく描かれています。この多くの小さく描かれた人たちは、上の両掌から光を放っている人物に祈っているような、救いをもとめているような、そんな雰囲気が伝わってきて、ちょっと神話的な神々しい感じを醸し出している絵のようです。(パリ時代のアールヌーボー風の絵とはだいぶ異なっている。)
また「蛇のブレスレットと指輪」(1899年)という素晴らしい宝飾品もありました。この作品は、ミュシャが舞台「メディア」(エウリピデスが書いたギリシア悲劇「メディア」がもとになっている)のポスターに腕に蛇を巻いたサラ・ベルナールを描き、これを気に入ったサラがミュシャにデザインを依頼して作られたものだそうです。材料は、金、エナメル、オパール、ルビー、ダイアモンドとなっていて、それだけでもなんかすごそうです。手首に蛇が巻き付き、手の甲に蛇の頭が来るようになっていて、その頭は指先の方を向いています。別の蛇の胴体が指に巻きついた形の指輪があり、指輪にも蛇の頭がついていて、この頭は手の甲にある蛇の頭と向かい合うようになっています。手の甲にある蛇の頭の口から細い鎖が数本伸びていて、指輪についている蛇の頭の口へとつながっています。
3階にはアールヌーボー風の机や椅子、書棚などもあって、これらは自由に触ることができてよかったです。アールヌーボー風のスタンドもありました。傘(ランプシェード)は、4角形や5角形、6角形などいろんな形のガラスを貼り合わせたステンドグラス風です。台座の上にすらっとした女性が立っています。右手を腰に当て、左手は頭の上に乗せた器をおさえるようにしていて、その上にランプがあります。女性の衣の襞の曲線もとてもきれいです。
触って観賞できる作品はなかったので、ミュシャ作品について理解し十分に楽しんだという訳ではありませんが、このミュシャ館のコレクションはすごいなあと思いました。このコレクションは、株式会社ドイの創業者故土居君雄氏(1926〜1990年)が収集した約500点で、氏の没後堺市に寄贈されたものだそうです。
●ベルリンの壁
1時間弱でミュシャ館の見学を終え、JRで天王寺まで戻り、青いナポリというイタリアンの店で昼食。それから、天王寺公園に隣接してホテル街を抜けた所にある統国寺へ。ここにお目当てのベルリンの壁がありました。(統国寺は、現在は在日本朝鮮仏教徒協会の傘下にありいわゆる朝鮮寺ですが、7世紀初頭、聖徳太子のころまでさかのぼる由緒ある寺だそうです。漢詩人 広瀬旭荘の墓もありました。)幅130cmほどの2つの壁が並んで置かれていました。高さは、杖を伸ばしても上まで届かず、3メートル以上はあります。厚さは20cm前後で上のほうほど少しずつ薄くなっています。壁の下のほうは片側(東側)だけ斜めに60〜70cmくらい張出して台土のようになっています。
このベルリンの壁は実物で、1998年9月、統国寺の信徒が「民族の統一を願って」喜捨したものだそうです。表面のコンクリートが欠けている所では直径1cm前後の鉄筋が何本もあり、またコンクリートの中のつるうっとした小石などもよく分かりました。西側のほうの面はきれいですが、東側のほうの面には数箇所剥ぎ取られたような窪みがあり、よく触るとそこには何十もの斜めの穴がありました。向って右斜めから打たれた弾痕のようで、穴の入口は1cm4方くらいの大きさで、斜めに4cmくらいまで深く達していました。
ベルリンの壁は、東ベルリンから西ベルリンへの人の流出を防ぐため、1961年8月突然東ドイツが西ベルリンの周囲を有刺鉄線などで囲み、その後1975年までに総延長155kmにもおよぶコンクリートの壁を設けて物理的に西ベルリンと東ドイツを分断するとともに、東西陣営分断の象徴ともなってきたものです。1989年11月にベルリンの壁は崩壊しますが、それまでに約200人が国境警備兵の銃撃や地雷などで死亡したそうです(確実な人数ははっきりしない。東側の壁の回りには100mの無人地帯が設けられ、走って逃亡する人が銃撃された。人数ははっきりしないが、5000人くらいが壁を越えて無事に西ベルリンに逃げたという)。壁に斜めに穿たれた多数の弾痕は、東西の厳しい分断の時代を想起させるのにあまりあるものでした。
●堺鉄砲館
天王寺から阪堺線(大阪市の恵美須町から堺市の浜寺駅前までのチンチン電車)に乗わり、ゆったりと25分ほどで高須神社(たかすじんしゃ)駅へ。(途中、高須神社駅の2つ手前の我孫子道を過ぎて大和川を渡りますが、大和川が大阪しと堺市の境界になっているそうです。)高須神社駅付近は古い街並みが残っているようで、落ち着いた雰囲気の道が続きます。5分ほどで江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の前を通り、少し歩くと鉄砲館がありました。
中に入ると館長さんが早速熱心に説明しながらいろいろな物に触ったり体感したりさせてくれます。まず触ったのが各種の火縄銃。木の表面に左巴の紋(銀製ということで、触ってつるつるしていて分かりやすい)のある岸和田藩の火縄銃を触り、持ってみました。長さ120cmくらい、口径1.5cmくらい、重さは10kgくらいもあるでしょうか、左手で支え右腕でかかえるようにしながら右手で引き金を引いてみます。カチッという音がして、火縄が火皿に押し当てられて火花が見えるようです。その他、長さ1mくらい、口径1cm余の、やや軽い足軽筒(木に桜の紋様があるようだ。これが実戦によく用いられた)、長さ120cmほど、口径2.5cmくらい、重さはたぶん10kg以上もある、島津家の丸の中に十の紋や梅の花?の文様が施された豪華な感じの鉄砲(たぶん実戦用ではなく鑑賞用。銃口の中に指を入れてみると、表面のつるつるした感じとは異なりぼろぼろした感じでかなり錆びついているようだ)、長さ150cmほど、口径1.5cmくらいの、城の3角の鉄砲穴に固定して下に向って撃つ鉄砲などにも触りました。これらは全部本物だそうです。
ちょっと変ったものでは、レプリカですが、焙烙火矢というものに触りました。全体の長さは1m余で、太い銃身の中に、先に3枚の矢羽の付いた長さ50cmくらいの棒が入っています。矢の先は円錐形ではずれるようになっていて、その棒の中には火薬が入っています。この火薬入りの棒を銃の中に込めた火薬を爆発させてロケットのように飛ばし、相手の船などにぶつけて燃焼させる兵器です。類似した火矢を、村上水軍が九鬼水軍との戦いで使ったらしいです。
火縄銃を打つまでの過程も説明してもらいました。長さ7cmくらい、直径1cm余の竹製の筒の中に火薬が入ったものをたくさん腰の所に持っていて、竹製の筒をふさいでいる紙製のふたを抜いて火薬を銃身に入れます。その上に鉛弾を入れます。さらに火縄銃にそうように付けられている細い棒を銃口から入れて鉛弾をしっかり火薬に押し付けて、準備完了となります。鉛弾の作り方も展示されていました。鉛弾は直径2cmくらいのものから5mm余のまで、4種類くらいあります。鉛を薬缶のようなもので溶かし、溶けた鉛を鉛弾の型に入れて作ります。鉛弾の型の全体の形は、球形の上に半球が乗ったような形で、その全体が縦に左右2つに別れていて、はさみの先のように開閉するようになっています。溶けた鉛の中に鉛弾の型を入れると、上の半球状の所から鉛が下の球状の所に流れてきます。それを取り出して冷えると、球状の上に半球が乗った形になっていて、上の半球を取って鉛弾にします。
次に、火縄銃の銃身を作る過程も展示されていました。長さ40cm、幅4cm、厚さ5mmくらいの鉄の薄板を、直径1cmほどの細い棒に巻きます。巻くと言っても、2、3cmくらいずつ、焼いてはたたき冷やすということを順に繰り返して、鉄板全体を細い鉄棒に巻いて行くというたいへんな作業です。でも、そのままだと巻いた鉄板の両端は完全にはくっついていないので、(当時は溶接の技術はないため)この円い鉄パイプの回りに、幅2cmほどの鉄の薄板を螺旋状にしっかりと巻きます。これで、重くはなりますが、暴発せず安全に銃が撃てるわけです。口径の大きい銃ではさらにもう1回巻いて2重にしなければならず、それだけ銃がさらに重くなります。
小さな炉も再現されていて、鍛冶の過程も分かりました。炉には3〜4cm角ほどの大きさの松炭がたくさん入っていて、その中に鉄の棒も埋まっています。(松炭は、火付きもよく火力も強くて1200℃近い高温が得られるそうです。ただし長持ちはしない。)炉の脇には、四角い箱形の手で動かす鞴があって、炉に空気を送ります(実際に手で鞴を動かしてみました)。熱くなった鉄の棒を大きなはさみのようなやっとこでつかみ、石の台に乗せて鉄のハンマーでたたいて加工します(鉄のハンマーを持ってみましたが、大きなほうはたぶん15kgくらいもあったように思う)。
このようにして、とにかくすべて手作業で、精巧な大量の銃を作ったことに感心します。
ちょっと面白いなあと思った展示もありました。タイのイン川窯?で作られたとかいう四耳壺です。直径30cmほど、高さ50cm弱くらいの壺で、ちょっとすぼまった口の少し下あたりの四方に耳のような突起があります。器の厚さは2cmくらいはあり、そんなに精巧なつくりのようには思いませんでした。最初この壺には火薬の原料の硝石が入っていたそうですが、鉄砲弾の需要がなくなると、堺の商人はこの壺を茶壺として高額で売ったそうです。茶壺としてはこのほかに、中国南部で作られ、フィリピン経由でもたらされた呂宋(ルソン)壺も流通していたようです。
(2018年6月10日)