橿原・飛鳥考古学ツアー

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 9月23、24日の両日、橿原と飛鳥をめぐる考古学ツアーに参加しました。参加者は10人弱(その中には、私もふくめ全盲が3人、2日目には弱視の方が2人加わりました)、各博物館や資料館の学芸員の案内で回りました。
 
●橿原考古学研究所附属博物館
 23日10時半に、近鉄橿原線畝傍御陵前駅に集合、まず橿原考古学研究所附属博物館に行きました。
 同館では、参加者が席に座って、主にレプリカですが、順に回ってくるいろいろな資料について、じっくり触りながら考えるということをしました。
 最初に回ってきたのは、直径15cmくらい、高さ7、8cmほどの、浅い鉢のような形の、約3千年前の縄文土器。縄文土器と言われて表面を触ると、縄文らしき文様はありません。代りに、かなり規則的な文様が分かりました。半円形をいくつも、一部重なるようにずらしながら描き、さらに斜め線を平行に何本も入れたような文様です。この土器全体のうち実物は10分の1くらいで、残りは、他の同種のいろいろな土器を参考にしながら復元しているそうです。
 次は、直径5cm、厚さ1.5cmほどの車輪のような物(中央に小さな突起のようなのがあったように思う。レプリカなので材料はよく分からないが、たぶん土製)。これが何に使われたのかまったく見当がつかないでいると、耳輪だとのこと!この大きな輪を、耳たぶの内側の穴にはめていたとか。自分の耳を考えても、こんな大きな輪が耳穴に入るとはとても思えません。子供のころから、小さい物から順に入れて行って、耳穴を大きくしていたのでは、とのこと。この耳たぶの内側にはめる耳穴には、直径7、8cmくらいの物まであるそうです。(これまでに幾度か似たような耳輪に触ったことはありましたが、たぶん耳たぶに穴をあけてぶら下げていたのだろうと思い込んでいました。それにしても、こんな大きな耳輪で耳穴をふさいだら、ほとんど音は聞えないと思のですが、どうなのでしょう。)
 次に触ったのは、約2千年前の弥生の土器片に描かれているという絵。長さ20cm以上はある大きな土器片で、あちこちに複製のためのつなぎ目があって、絵の線がなかなか分かりません。詳しく触ってみると、なんだか細長い輪郭のようなものが感じられました。いちおう、その細長い形から鯨や魚のようなものを想像してみました。実際はそれは船の絵で、私が気付いたのは、船を横から見ているときの輪郭線のようです。さらにこの絵には、船を上から見た時の絵も一緒に描かれていて、船の側面の両側面の上下にオールが何本も描かれているそうです(触ってみると、確かに幾本か縦の細い線がありました)。そのオールの数を数えてもらうと、上下にそれぞれ18本、計36本もあるそうです。すごい!これだけのオールがある船が実在したとすると、数十人は十分に乗れる船があっただろうということになります。さらに、岐阜県荒尾南遺跡では、弥生時代後期の広口壺に、オールの数が82本もある船の絵が描かれているそうです。考えてみると、1世紀には金印(漢倭奴国王印(かんのわのなのこくおうのいん))、3世紀には卑弥呼が魏に使者を送っていますし、対馬海峡を越えて朝鮮半島経由か、直接東シナ海を渡ったのかは知りませんが、外洋に漕ぎ出すことのできる大きな船は確実にあったのでしょう。
 もう1点絵が線刻された土器片を触りましたが、触ってもほとんど分かりませんでした(大きな人と、小さな人が2人向き合って描かれているとか)。土器片に線刻された絵は、土器の表面そのものにある細かい凹凸や復元のさいのつなぎ目のために、触ってたどるのはなかなか難しいですが、当時の土器にもこのような絵が描かれているということを知り、それを通して当時の生活の様子にも思いをはせることができました。
 次は三角縁神獣鏡。樹脂で形を忠実に復元したものと、金属で重さも忠実に復元したものの2点です。ともに直径20cm余ですが、金属製のほうがわずかに小さいようです。持ってみた感じはぜんぜん違って、金属製のほうがずっしりしています。表面はつるうーとした面、裏は中央に反球状の盛り上がりがあり、その回りにたくさん突起のようなのが配されています。これが何なのか触ってもなかなかよく分かりませんでしたが、そのうちいくつかは人が座禅?しているような姿らしいことが分かりました(これは神像だそうです)。その他は何かはよく分かりませんでしたが、いろいろな霊獣らしいです。興味深かったのは、樹脂のほうは神、獣、神、獣…というように神像と霊獣が交互に配されていましたが、金属製のほうは神・神、獣・獣…という配置になっていて、全体の配置が大きく異なっていたことです。
 次に回ってきたのは、中央に直径5cmくらいの穴が空いた、4種のなんだかよく分からない物たち。その中の1つは、外側に縦の溝のような文様があるリングのようなもので、これは腕輪のようなものだろうとすぐ分かりました。これは石釧(いしくしろ)と呼ばれるそうです。直径25cmくらいもある円盤状のものと、それが少し変形して楕円ないし掌状の形になったものがあり、これらはともに、中央の円い穴から放射状にたぶん20本くらい縁に向って線が伸びていて、私は太陽を表しているのかもと思いました。これらは車輪石と呼ばれるそうです。もう1つは、中央の円い穴の上は幅7、8cm、長さ10cm弱ほどの板状で、穴の下のほうは幅7、8cm、高さ3cmくらいの台(中央に縦の溝がある)のようになっていました。これは鍬形石と呼ばれるそうです(これで鍬の形に似ているのかなあ、疑問です)。これらはいずれも腕輪のようなもので、たぶん権威の象徴としての宝器のような意味があったのでしょう。いずれも古墳時代前期のもので、石棺の蓋の上に張り付けるなどされていたとか。これらの石製品は、当初は奄美や伊豆諸島?などの南の島の貝を使って製作されていたものが、たぶん適した貝がなかなか入手困難だったために、石(緑色凝灰岩など)を使ってたくさん作られるようになったもののようです。ちなみに、石釧はイモガイの、鍬形石はゴホウラの、車輪石はオオツタノハの貝輪を模したもののようです。
 最後は、太安麻呂の墓誌。太安麻呂は、元明天皇の命で、稗田阿礼の口誦を文字にしてまとめて「古事記」を編んだとされる人。1979年1月、奈良市此瀬町の茶畑から奈良時代の火葬墓が見つかり、その木櫃の下に銅板の墓誌があり、その墓誌からその墓が太安麻呂ものであることが分かったという、その墓誌です(墓誌には名前とともに、位階や住んでいた場所、亡くなった日などが書かれていた)。銅板の墓誌の樹脂製のレプリカと、墓誌と同じ厚さの銅板に触りました。長さ30cmくらい、幅6cmくらいの薄板で、樹脂製のほうには何か文字らしいものが書いてあることが分かります。銅板のほうは薄いために文字をしっかり掘りこむことができず、ただの薄板のようです(薄さを体験?)。
 以上のように、1時間半ほど、いろいろな考古資料(レプリカ)に触りながら、縄文から弥生、古墳時代・奈良時代まで、むかしの人たちのいとなみに考えをめぐらすという、なかなか濃い体験でした。
 
●歴史に憩う橿原市博物館
 昼食を取った後、車で「歴史に憩う橿原市博物館」へ。ここの博物館では、レプリカではなく、遺跡から出土した実物が次々と出てきて、それらに触ります。土器・須恵器・土師器など次々に触って1つ1つはあまり記憶に残っていないくらいです。中には、小型の壺で側面に穴のあいた「はそう」がありましたし、土器や須恵器をかるく叩いてその音の違いを確かめてみるコーナーもありました。以下とくに印象に残っているものを書きます。
 自然石と石器との違いが触って分かるのか、ということで、ごろっとした自然石と磨り石のようなのに触りました。きれいに磨かれた面や擦り減った所はないかなどが手がかりになるのではと触ってみましたが、かなり難しかったです。次は、長さ10cmくらいで、片方は割れた断面になっていて、もう片方が少しとがっている石斧です。まったく鋭利とは言えませんが、これで木の繊維を叩き切るようにして使ったとのこと。次は石包丁。包丁と言っても、切るものではなく、石包丁に通した紐を手首にかけ、親指で稲穂を石包丁に当てて手首をひねるようにして穂を摘み取るようにして使うとのこと。(製作途中だという流紋岩製の石包丁にも触りました。これは初めに触った石包丁よりもかなり硬そうな感じがしました。)さらにサヌカイト製のより鋭利な、肉を剥ぎ取るなどに使うナイフのようなものや、鏃にも触りました(これらには、西日本では主にサヌカイトが、東日本では主に黒曜石が使われたとのこと)。
 土器では、ここでも絵の描かれた弥生式土器に触りました。高床の建物の絵のようで、その屋根・側面・床の線をたどらせてもらいました。
 古墳時代の鉄の延べ板に触りました。長さ20cm、幅5cm、厚さは2mmくらいでしょうか、中央部分が少し狭くなっていて、持ち運びに便利そうな気がしました。当時鉄の地金は朝鮮半島から多く輸入されて日本各地の有力者に配分されていたようですが、国内でも鉄の生産が始まっていたころなので、その由来はよく分からないようです。
 次に触ったのは、レプリカですが、金製の飾り板のようなもの。6cm×9cmくらいの薄板に透かしで細かく飾りが施され、板の縁の回りには短いひらひらしたような鎖がいくつも付いていました。また、3本の細い鎖の付いた金製の耳飾りもありました。とても豪華です。これらは、後で散策した新沢千塚古墳群の126号墳の割竹形木棺(大きな木の幹を縦に2つに割り、それぞれ内部をくりぬいてふたと身にしたもの)に埋葬されていた人の装飾品だということです。さらに、この鎖の作り方を示した拡大模型もあって、なるほどと納得です。説明しにくいですが、一方が開いた二重になったリングを、交互に90度ずつ方向を変えながらはめ込んでゆきます。126号墳から出土したという、高さ30cm余のかわいい円筒埴輪にも触りました。
 その後、藤原京の展示の所に移動して、パネル?の前で説明を聞きました。藤原京は、694年から710年まで、持統・文武・元明天皇3代にわたる都で、藤原宮は初めて瓦葺の屋根を持つ宮だったとのこと(それまでは、例えば飛鳥板蓋宮のように檜皮葺?などだった)。橿原市高殿を中心に、天香具山・畝傍山・耳成山の大和三山に囲まれた平地に営まれ、唐の都を模して、碁盤目状に区画され(範囲ははっきりしませんが、4×5kmくらいあったかもということです)、中央北に大極殿が置かれたようです。702年には大宝令が出されて律令制が確率されて、戸籍により全国民を支配する基礎ができたようで、それを物語る多くの木簡も見つかっています。
 藤原京関連で、チュウギ(籌木)と井戸に触りました。チュウギは、長さ20cm、幅1cmくらいの、平たい木製の箸のようなものでした。これは、要らなくなった木簡を割って作ったもののようです。これで、用便の際に尻をぬぐったとのこと!当時、トイレは汲み取り式ではなく、水洗のトイレもあったとのこと。藤原京の各道路に沿って大きな溝もありましたが、その溝に扇形に開いたような形で共同トイレが設けられていて、そのトイレでこのチュウギが使われたようです。ということは、道路わきの溝は、排泄物もふくんだどぶ川のようなものだったでしょう。そして、このトイレやどぶ川のすぐ近くには井戸があったとのこと、その井戸にも触りました。1.5m四方くらいで、太い柱と分厚い横板でできていました。井戸はトイレから数メートルの所にもあったとか。当然不衛生きわまりなく、病気も流行ったことでしょう。都市の衛生問題が始まったのだろうということです。
 もう1つ、遺跡から出てきたという和同開珎にも触りました。500円玉よりもちょっと大きい感じで直径2.5cmくらい、中央に5mm以上はあるかなり大きな円形の穴がありました(私は四角の穴だろうと思っていたので、ちょっとびっくり。板上の4方に3角の窪みのようなのがあった)。和同開珎は皇朝十二銭の最初のもので708年から鋳造されますが、畿内では少しは流通したものの、それ以外の地方ではほとんど使用されなかったそうです。そのため、地方から都に駆り出された人々の労役の支払いに使用したり、一定額の銭を蓄えて納めた者に一定の位を与えるという蓄銭叙位令ができたりします(官位を金で買うことですね。でも効果はあまりなかったようです)。
 
 その後、新沢千塚古墳群を散策しました。新沢千塚古墳群は、4世紀末から6世紀末までの約200年間に造られた約600基の古墳群で、日本有数の群衆墳だそうです。ゆるやかな上り下りの道を歩いて行くと、ここも古墳、ここも古墳というように、次々と小さな古墳が通り過ぎます。いくつかの古墳には上がってみましたが、10歩くらい上るともうそこは古墳の上でした!博物館で触った金製の装飾品が出てきた126号墳にも上りました。上は平面ではなく、長さ2〜3mの細長い窪地になっています。これは、この下にあった木棺を発掘した後に埋め戻した跡だそうです。126号墳は、東西約22m、南北約16mの方墳で、5世紀後半ころに築造されました。この近くには400基くらいの古墳が集中しているそうです。小さな前方後円墳にも上ってみました。1m余上るとそこは前方部、そこからゆるやかに10mくらい下って行くと後円部の高まりがありました。これまで私が行ったことのある前方後円墳はどれも全長数百メートルもあるものだったので、とてもかわいく感じました。
 
●飛鳥川の飛び石
 翌日は朝8時半にホテル前に集合、車で飛鳥川の上流に向い、9時前に稲渕(いなぶち)の現場に到着。この地区は棚田が広がり、その景観で有名なようです。夏には蛍、私たちが行った時にはあちこちに彼岸花が咲いていました。むかしの農村の風景のようです。
 道を少し降りて行くと、川の流れの音が聞えてきます。この川には今はもちろん橋はありますが、万葉のころは橋はなくて、川の中の飛び石を伝って向こう岸に渡っていました。それは万葉集の歌にも詠まれていて、すぐ近くの歌碑には
明日香川 明日も渡らむ 石橋の
遠き心は 思ほえぬかも        巻11−2701
という句が記されているそうです。
 この飛び石を万葉の人たちのように実際に渡ってみようということです。前日は雨だったので水量がちょっと多く、少しざあざあというような流れです。私は裸足になってしてみました。40、50cmくらいもある広さの石が数個並んでいて、水はその石の上すれすれまで達しており、水に触りながら、足をちょっとぬらしながら慎重に渡ります。川幅は5メートルもないくらいで、なんなく向こう岸にたどり着きました。万葉の人たちは、この飛び石を恋人との逢瀬やその人との心の距離間にたとえて詠んだのですね。
 ちなみに、この飛び石の数百メートル下流には雄綱、さらに場所はよく分かりませんが雌綱というのがあるそうです。川の両側の高い木に綱を結んで綱を渡し、その綱の中央部にはなにか太いものがぶら下がっているそうです(これは男性器と女性器を表すものらしい)。そして今でも、地元の人たちが毎年この綱を掛け替える行事をしているそうです。
 
●蘇
 その後、休憩の時に、みんなで「蘇」という物を食べてみました。においのしないチーズのような物で、口に入れるとほのかに甘味があり、噛んでみると、中にちょっとざりざりしたような粒のようなのを感じました。牛乳をゆっくり焦がさないように煮詰めて作ったもので、発酵はさせていないそうです。これは、7、8世紀の飛鳥の人たち(おそらく高位の人たちだけ)が食べていたものだそうです。ちょっと調べてみると、『政事要略』(11世紀初めに編まれた法律政務の参考書)の巻28の年中行事十二月の貢蘇事の条に、「文武天皇四年十月.遣使造蘇」(700年10月、遣いを使わして蘇を造らしむ)とあり、奈良時代から平安時代にかけて、各地で蘇を造らせ貢納させたらしいです。具体的な製法までは伝わっておらず、私たちが食べたのは、きっとこんな風にして造ったのではないかと研究して造ったもので、現在販売されているものです。蘇は牛乳から造られるので牛乳も飲用されていたでしょうし、牛肉も食べられていたでしょう。私は仏教が伝来して間もなくから少なくとも身分の高い人たちは牛肉などを食することはしていないのではと思っていましたが、そんなことはないのですね。(和食の伝統は、奈良・平安時代まではさかのぼらないのですね!)。
 
●石舞台古墳
 その後、車で石舞台古墳に移動しました。(その途中に、マラ石という変な石物に触りました。地面から斜めに、直径30〜40cmくらいの石が立っています。高さは1m以上はあり、斜めに立っていて倒れないのか心配になりますが、下は地中深く入っているようでどっしりと立っています。形が男性器にそっくりなのでこの名になっているようです。どんな意味合いのあるものなのか、よくは分かりません。
 石舞台古墳は、6世紀後半から7世紀前半にかけて活躍した蘇我馬子の墓だともされている、日本最大の方墳です。これまでに何度か古墳の石室に入ったことはありますが、今回実際入ってみた石舞台古墳の石室は段違いに大きいと感じました。まず地上部から2、3段降りて、通路(羨道)を歩きます。幅2m余くらいで両側に大きな石が積まれていますが、天井はありません。通路の両側には溝があります。10m近く歩くと、両側に平べったい石の大きな柱があり、これは玄門だそうです。玄門の先は、空間が広がったような感じで、玄室になります。玄門(羨道)から両側に広がっているので、両袖式というそうです(横穴式石室の形式としてはこの他に、右か左どちらか一方へ広がっている片袖型、羨道と玄室の幅が同じ無袖型があるそうです)。玄室の幅は4m近く、長さは10m近く、高さは4、5mくらいはあるでしょうか、玄室の床の中央には溝がありました。天井はありますが、側面のどこかが開いているのでしょう、外の音がよく聞こえます。回りの石を触ってみると、とにかく大きい!どれも2〜3mはありそう。外に出て天井の石を触らせてもらいましたが、上はまったく届かないし、幅も5、6mくらいあったでしょうか、一番大きな天井石は77トンもあるとか。それらの石ですが、石英閃緑岩で、この地方では飛鳥石と呼ばれているそうです(近くの耳成山と畝傍山は火山なので、その辺から運んだのでしょうか?)。あちこちに大きな黒っぽい結晶?のようなのが見えているそうです(触っても、ちょっと硬さが違うようで、わずかにその細長い輪郭のようなのが分かります。大きなのは10数cmもあるようです)。それにしても、こんなにも大きな石を加工し運んで組立てているのですから、すごい技術です。(一部の石材は、それまでに造られていた回りの古墳の石材を使ったようです。)
 この石室にはほとんど何も残っておらず、石棺の欠片と思われる平らな凝灰岩が見つかったくらいだったそうです。その破片を参考に復元したという石棺が外にあり、それに触ってみました。幅1.5mくらい、長さ4m近くあったでしょうか、上は屋根のような形で家形石棺です。屋根になっている石は、厚さ50cmくらいはあり、側面に30cmほどの感覚で凸部と凹部の繰り返しになっていました。これはこの大きな石を運ぶ時に綱を引っ掛けるためのもののようです。古墳の大きさも確かめてみようと、古墳の外側の1辺を歩いてみました。初めに浅い空堀を下って上りそのまま真っすぐ歩いて行きます。50mくらいはあったでしょうか。
 
●飛鳥宮跡
 その後、飛鳥宮跡へ移動。この地には、6世紀末から7世紀にかけて、豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮(645年蘇我入鹿が中大兄皇子に暗殺された乙巳の変の場所)、飛鳥浄御原宮(672年の壬申の乱後、都が近江からここに移る)などが置かれます。私たちが実際に歩いたのはたぶん最後の飛鳥浄御原宮の跡だと思います。田んぼや畑の広がる開けた空間に、建物の柱穴の跡が3m弱くらいの間隔で規則的に並んでいました。建物の外側の溝に入って歩きながら順に柱穴の場顧を示す台のようなのを触って確認しました。1つの建物は、短い辺には柱が3本、長い辺には柱が9本?あったように思います。総柱建物と言って、建物の内側の柱も外側の柱と同じ太さの建物だそうです。ここは大極殿の跡だということです。大極殿(天皇が出る重要な儀式が行われる場)はふつう宮の北端の中央にあって、そこから南にゆるやかに傾斜して役所などが配置されていますが、飛鳥のこの置では、北に向って傾斜しているため南端に大極殿があり、北側に役所などがあったらしいです。
 大極殿跡から北に向って歩き出ししばらくすると、確かにゆるやかな傾斜になっていました。左側(西側)には少し流れの音がして、飛鳥川だそうです。さらに歩いて行くと、左側に苑池が広がっていて、ちょうど発掘中で発掘現場がよく見えるようです。南側に浅くて広い池、北側にやや狭くて深い?池の2つがあるとか。宮のすぐ近くにあるので、附属の庭園のようなものかもしれません。
 その後さらに北に向って歩くと右側に用水路?があり、この水路は奈良時代にあったものとほとんど同じなのではないかということでした。そして、先発の数人が飛鳥寺(6世紀末に造られたという日本最古期の寺)に向っていて、その人たちが鳴らした飛鳥寺の鐘の音が聞こえてきます。たぶん500mくらい離れていたでしょうか、何もない古都の空間にやわらかい鐘の音が響きます。私たちのグループも、数分歩いて飛鳥寺へ、そして1人ずつ鐘を鳴らしました。
 水落ち遺跡にも立ち寄りました。ここは、後で飛鳥資料館で見学した水時計が置かれていた場所だろうということです。10m四方くらいはあったでしょうか、平らな堅い地面?に規則的に柱穴がありました(これも総柱建物のようです)。とくに興味深かったのは、直径1cmくらいの細い銅管が中央付近からずっと右側に真っすぐ4、5mほども建物跡の端まで地面上を伸びていたことです。
 また、昼食が終わってちょっと時間があり、すぐ近くの明日香村埋蔵文化財展示室に寄ってみました。ここでは、キトラ古墳の石室模型に触りました。幅1.5m弱、高さ1m余、長さは3m弱だったでしょうか、全体にそんなに大きくない印象で、屋根の部分は台形になっていて、家形と言っていいでしょう。手前の左上角(南側の角)に30cm四方ほどの盗掘坑があって、そこから内部に手を入れることができました。この盗掘坑からの調査により、高松塚古墳と同じように、北壁に玄武、東壁に青竜、西壁に白虎、南壁に朱雀、天井に星宿図が描かれていることが分かりました。
 
●飛鳥資料館
 2時半過ぎに飛鳥資料館に到着、まず外に置かれている様々な石造物(レプリカ)の見学です。とても面白かったです。
 亀石:まず最初に触ったのが、亀石と呼ばれる大きな石。長さ3〜4m、高さ2m、幅も2mくらいあったと思います。前の顔の部分から側面をたどってお尻、そして反対側の側面を通って顔まで一周してみました。上面はざらざらしてずんぐりしたような感じであまり加工していないようです。下のほうは細くなって、一番下には、先が丸い石矢を入れたような半円上の窪みがずらあっと並んでいました。下のほうが細いので安定が悪そうに思います(上面のほうを下にして置いてもよさそう)。これが亀なのか蛙なのか何なのか、私にはよく分かりませんでした。
 猿石:人の顔から上半身にかけて彫られた石像。4点あり、大きさはだいたい高さ1m余、底辺が1mくらい、幅が50〜60cmくらいでしょうか。その外見から、資料館側で名付けたのでしょうか、「法師」「男」「女」「山王権現」と呼ばれていました。「法師」は頭が丸くて目や鼻もしっかり分かって、4点の中では人の体として一番分かりやすかったです。「女」には、薄い乳房が垂れていて、年取った女を想像しました。「男」には下のほうに細長い男性器のようなのがありました。また、法師以外の3点には、反対側の面にも、人の顔なのかどうかははっきり分かりませんでしたが、なにかの像が彫られているようでした。これら4点はいずれも、吉備姫王(きびつひめのおおきみ。皇極天皇と孝徳天皇の母、中大兄皇子の祖母)の墓にあるものだそうです。その他に、高取城にも猿石が1点あるそうです。
 石人像:ほぼ等身大に近い男の人と女の人が並んでいます。男の人は、岩?に座って、酒盃を両手で持ち口に当てています。その口の付近から水が細く噴き出しています。男の人の右側に体を寄り添わすように女の人が立ち、右手を男の右肩に当てています。「あんた、お酒はそのくらいにして、私のほうをみてよ!」といった感じがして、私にはとても好ましく思えました。
 須弥山石:石が4段積み重ねられていて、高さは2m以上はあります(高くて手は届かない)。一番上は丸い饅頭のような形で、その下の3段の側面には連なる山らしき浮き出しが触って分かります。そして、高さ1mくらいの所から四方に水が吹き出しています。須弥山は、仏教で世界の中心にあるとされる山のこと。調べてみると、『日本書紀』によれば、斉明3(657)年に都貨邏人(とからびと)を、斉明5(659)年に陸奥と越の国の蝦夷を、斉明6(660)年に粛慎を、いずれも須弥山を造ってもてなしたそうです。飛鳥資料館のレプリカは明日香村の石神遺跡から見つかったもので、おそらく『日本書紀』に見えるこれら3つの須弥山のどれかでしょう。また、上の石人像も石神遺跡から見つかったものだとのことですので、同じころ同じような目的で造られたのかも知れません。ちなみに、斉明天皇(594〜661年)はすごい女性です。舒明天の皇后で、後の天智天皇、天武天皇を生む。舒明天皇の死後皇極天皇(642〜45年)となり、さらに重祚(一度退位した天皇が再び皇位につく)して斉明天皇(655〜61年)になる。対外的には蝦夷に討伐軍を送ったり百済救援軍派遣を試みたり、飛鳥周辺では数万人を動員して運河など大土木工事をしているようです。
 酒船石:緩い斜面に置かれているようです。大きさは長さ5mくらい、幅2mくらいです。酒船石の上から下に向って、中央の溝に沿って歩いてみました。溝は幅10cmくらいの浅い溝で水がちょろちょろ流れています。水路の途中に円形ないし楕円形の深さ10cmくらいの浅い皿状のものが5個くらいあって、そこにも水がたまっています。中央の皿状の水槽は長径が1m以上あり大きくて、その他の水槽は50〜60cmくらいだったと思います。側面には石ノミの跡だと思われる長方形の窪みがいくつも並んでいました。この石造物は、水を流して楽しむ施設だったのではと私は思いました。これも、上の石人像や須弥山石と同様、水を流す仕組みになっているので、斉明天皇のころないしその後に造られたのかも知れません。また、次に見学した水落ち遺跡の水時計とも外形だけはちょっと似ているようにも思いますので、当時のハイテク=魔法のような水時計を、目で見てだれにでも分かるように造った遊び心のある施設だったかもと思ったりしています。
 これらの石造物はいずれも、飛鳥の花崗岩類を使って造られているようです。数メートルはある岩塊を割り加工し造形するのですから、その技術にも驚きます。
 
 その後、資料館の展示室を見学しました。展示で一番興味を覚えたのは、水落ち遺跡のジオラマと水時計の模型です。ジオラマでは、数棟の建物跡なのでしょうか、多くの柱穴や細い溝のようなのが分かります。そして中央に小さく階段のようなのがあり、1段1段が細い管で結ばれています。これが水時計で、この大きな模型も触りました。高さ30cm×幅50cm×奥行40cmほどの直方体の箱(水槽)が、上から下に階段状に並び、一番下の箱には水位に合わせて上下する浮きのような長い棒が立っています。各箱は直径5mm余の細い管でサイフォンのように結ばれています。一番上の箱に水を入れ、それが順に下の段の箱に滴り落ちて溜まってゆき、最後に一番下の箱に溜まった水位で時の経過を測るというものです。原理的には箱は2段で良さそうなものですが、上の水槽の水位が変われば水圧も変わって滴り落ちる水量も一定ではなくなるので、水圧の変化をできるだけ少なくするためにいくつかの水槽を重ねて使うという、唐の水時計の最新技術を使っているようです。『日本書紀』には、斉明6年(660年)5月「皇太子が初め漏れ剋を造り、人々に時刻を知らせた」とあり、また天智天皇10年(671)4月25日の項に「漏剋を新しき台に置く。始めて候時(とき)を打つ。鐘鼓を動(とどろか)す」とあるそうです(時の記念日は後者の記述による)。当時は不定時法で季節により時刻が変わりますから、水時計のメモリの調整もたいへんだったでしょう。時を支配することは人々の生活を支配することでもあり、大きな威力があったように思います。
 展示室にはまた、高松塚古墳の原寸大の模型があり、天井が外された状態で、北側から中に入ってみました。大きさはキトラ古墳と同じないし少し小さいように感じました。南側の壁の上3分の1ほどに、壁の幅いっぱいに盗掘の際の穴が開いていて、ここにあったはずの朱雀がなくなっていたそうです。さらに、薄いつるつるの板の上に東壁の白虎と西壁の青竜が再現されていて、その輪郭線は触ってたどることができました。一部実際に剥落している部分は輪郭線が途切れていてよく分かりました。青竜の長い舌や足先の爪などが特に印象に残っています。
 
 以上、今回の橿原・飛鳥の考古学ツアーをまとめてみました。本当に内容豊富でしたし、まだまだ知りたいことも出てきました。とくに私は飛鳥の石造物に興味をもちました。飛鳥地方にはこのほかにもたくさん石造物があるそうです。6世紀後半以降は仏教の影響が次第に表われてくると思っていましたが、石造物にはあまり仏教の影響は感じられません。土着の信仰とか朝鮮や中国からの影響も考えられるでしょうが、もっと詳しく知りたいと思っています。
 この企画をしてくださった方々、また各博物館や資料館の学芸員の皆さま、本当にありがとうございました。
 
(2018年10月16日)