豊田市美術館で「クリムト展」を鑑賞

上に戻る


 
 7月25日、豊田市美術館で10月14日まで開催されている「クリムト展 ウィーンと日本 1900」を、アートな美の方々の案内で見学しました。
 参加者は全部で20名ほど。私は名古屋駅で9時にアートな美の方と待ち合せ、途中で随時皆さんと合流しながら、地下鉄と名鉄を利用して10時10分過ぎに豊田市駅着、そこからタクシーに分乗して美術館に向かいました。まず、10時40分くらいから、村田館長より、このクリムト展について、および出展作品の中からアートな美の方々が立体コピー図版にしている3点について簡単な解説がありました。時代背景などとても分かりやすい説明でした。
 グスタフ・クリムトは、1862年、ウィーン郊外で彫金師をしていた家庭の7人兄弟の2番目の子(グスタフは長男で、姉のクララ、エルンストとゲオルクの2人の弟、3人の妹がいる)として生まれます。14歳でウィーンの工芸学校に入り、伝統的な手法を身につけます。当時は写実的に描くのが基本で、クリムトも忠実にそのような作品を制作していたそうです。
 ウィーンはもともと、中心に教会があり、回りを城壁に囲まれた城塞都市でしたが、19世紀後半には大改造が行われます。回りの城壁や堀が取り払われ、新しくできたリング状の土地に役所をはじめ、劇場やホール、美術館や博物館など公共建築物が建てられ、それらの建物の壁や天井などを飾る美術品が多数必要とされます。1879年(17歳)から、クリムトは、同じく工芸学校に入学した弟エルンスト、および友人のフランツ・マッチュとともに会社(Kunstlercompagnie 芸術家商会)をつくって、これら公共建築物の壁画や天井画など内装の仕事を次々と受注します。これらの仕事は注文主の希望に忠実に応えるもので、クリムトの作品は評価され金功労十字賞等も受けています。
 しかし、1892年(30歳)、一緒に仕事をしてきた弟エルンスト、さらに父も亡くなります。これを転機に、注文主の希望に合せて制作するのではなくて、自分ならではの絵を追求し制作するようになり、人の生や死、性(エロス)が作品にはっきりと表われるようになります。1894年、クリムトはウィーン大学の大講堂の天井装飾画の制作を依頼されますが、その「医学」「法学」「哲学」の3作品は、大学が求めていた理性・知性を象徴するような威厳のある作品とはあまりにもかけ離れていたため批難をあび、結局経約を破棄して契約金も返します。(その後クリムトは公的な仕事はあまり受けなくなる。)
 クリムトは、1891年にクンストラーハウス(ウィーン美術家組合)に入りますが、1897年にはこの保守的な美術家組合から離れて、若手芸術家とともにウィーン分離派を結成、その初代会長になります(その後毎年盛大に分離派展を開催)。このような、アカデミズム・官主導の伝統的な美術家団体から独立する動きは、フランス(サロンから脱退した印象派)やドイツでも起きていて、世紀末ヨーロッパの趨勢のようです。その後、1902年ころから10年ほどは、金箔を多用した黄金の時代、その後は色彩の時代と言っていいのではということでした。そして1918年、クリムトは(父と同じく)脳卒中で倒れ、亡くなります。この年第1次世界大戦が終わり、またオーストリア=ハンガリー帝国も滅亡、ヨーロッパの世紀末文化の1つの中心だったウィーンはそのかがやきを失ってゆきます。
 
 この後、立体コピー図版になっていた3作品についての解説もありました。実際に会場を回りながらアートな美の方に説明してもらったこともふくめ、以下に紹介します。
●「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」(1891年 パステル、厚紙 67×41.5cm)
 エミーリエ・フレーゲ(1874〜1952年)は、弟エルンストが結婚したヘレーネ・フレーゲの妹で、ウィーンでブティックのような店を経営する新進の企業家で、最新のデザインを取り入れた服を開発したり、パリやロンドンから最新のモードを取り寄せて販売していたそうです。クリムトは多くの女性と付き合いますが、エミーリエとは生涯を通じて互いに信頼し理解し合う関係だったらしいです。
 やや縦長の画面で、胸くらいから上の女性が描かれています。画面に向って左向きの横顔で、頭の前のほうにかんざしのようなのをさし、右肩あたりにリボン?のようなのをつけ、ブラウスかなにか分かりませんが薄い服を着けているだけのようです。女性は写実的に描かれていて、とくに装飾はありません。この絵の特徴は額縁にあるようで、額縁が広く取られ、そこに梅の花や小菊?など植物がたくさん描かれていて、当時ヨーロッパで流行していたジャポニズムがしっかり取り入れられています。(エミーリエを描いた絵としては、1902年に描かれた油彩の「エミーリエ・フレーゲの肖像」が有名)
●「ユディトT」(1901年 油彩、カンヴァス 84×42cm)
 ユディトは、旧約聖書の外伝「ユディト伝」に登場する女性で、彼女が住んでいたユダヤの町べトリアが敵軍に襲われて陥落しそうになった時に、敵陣におもむき、敵将ホロフェルネスを誘惑して酔わせて眠らせ、寝首を掻いて持ち帰ったとのこと。この話は、これまでにもしばしば画家たちが取り上げたテーマで、ユディトは英雄的な行動をする高潔な緊張感のある女性として描かれているそうです。これにたいしてクリムトは、ホロフェルネスの首を持ったユディトを恍惚の表情、官能的で誘惑するような姿で描いているとのこと(なにか倒錯しているような感じ?)。また、この作品はクリムトが初めて金箔を用いた作品だそうです。
 立体コピー図版でまず目立つのは、額縁の上の部分に書かれた UDITH と HOLOFERNES という文字。また、全体に水平や垂直の線が多く使われているようです。画面中央にユディト、右下にホロフェルネスの首が描かれています。ユディトは正面を向き、口は少し開いていて、左目はわずかに開き、右目は閉じているようです。顔の下には、ほとんど正方形の首輪?があります。その下は、服がはだけているのでしょうか、なにもありません。右下にある首は、あまりはっきりとは描かれていないようです。画面左側には、うねうねと上下する曲線模様などが描かれ、右側にはなにか木のような模様が描かれています。ユディトを描いた他の絵では、首を切るのに使う剣のようなものも描かれますが、クリムトのこの絵にはありません。女性そのものに集中して描いているように思います。(なお、この絵からは、新約聖書に出てくるサロメの絵が連想されます。)
●「オイゲニア・プリマフェージの肖像」(1913-1914年 油彩、カンヴァス 140×85cm)
 クリムトが描く肖像画は女性ばかりで、多くはパトロンになってくれている富裕な人の奥さんだそうです。絵の中で女性を開放しようとしたのかもしれません。これまでの上流婦人の肖像画といえば、女性本来の欲求を抑えつけたような、男性の価値観で描かれているのにたいし、クリムトは女性の素顔、真実のすがたを描こうとしたそうです。(この絵は、豊田市美術館所蔵。)
 この絵のモデルは、もと女優で、銀行家のオットー・プリマフェージの妻オイゲニア・プリマフェージで、夫オットーの依頼で描かれました。顔と手は写実的に描かれ、服やその回りは色彩豊かに装飾されていて、クリムトの後期の作風がよく表わされているらしいです。この立体コピー図版は2枚用意されていて、1枚は中央の正面を向いた人物と右上の鳥の輪郭線、もう1枚は輪郭線とともに身に着けている服の装飾模様が描かれています。顔の下の服の部分の背景は黄色で、そこに赤・黄・オレンジ・グリーンなどでカラフルに花模様?があります。顔の周囲の背景は半円形の窓のような形になっていて、緑の地に花々が描かれています。さらに右上には、濃い緑の背景に鳥(鳳凰だそうです)が描かれていて、このモチーフは東洋の磁器のものらしいです。
 [補足]原田マハの『〈あの絵〉のまえで』(幻冬舎 2020年)の中の「豊饒」で、この絵に描かれている女性について、「満開の花畑の中で、花畑をそのままうつしたような華やかなドレスを身にまとった、それはそれはきれいな女の人」「つやのある栗色の髪、あでやかな紅の頬。透き通るように白い肌、ふくよかな身体。かくも豊饒に、爛漫と花開いたその人」とある。
 
 この後、アートな美の方と展示会場を見て回りました。8章構成で、クリムトの作品ばかりでなく、関連のある作品や資料など多彩な展示で圧倒されました。以下順に振り返ってみます。
1章 クリムトとその家族
 クリムトをはじめ家族の写真や肖像です。グスタフ・クリムトの『ヘレーネ・クリムトの肖像」(1898年 油彩、厚紙 60×50cm)は、1892年に急死した弟の娘ヘレーネの6歳の時の肖像で、クリムトはヘレーネの後見人になっていたそうです。6歳とは思えないような大人びた、清楚な女性のような雰囲気があるとか。
 
2章 修行時代と劇場装飾
 クリムトは1876年に工芸学校に入り伝統的な技術を身につけ、同じ学校に入った弟エルンスト、および友人のフランツ・マッチュとともに劇場などの装飾を請け負います。ここには、エルンストやフランツ・マッチュの作品もかなり展示されていました。グスタフ・クリムト「音楽の寓意のための下絵(オルガン奏者)」「カールスバート市立劇場の緞帳のためのデザイン」、フランツ・マッチュ「女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ」、エルンスト・クリムト フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ(1890年頃)など。
 
3章 私生活
 クリムトは多くの女性たちと関係を持ち、私生児も複数いました(グスタフという名の男の子もいた)。ここにどんな作品があったのかよく分かりませんが、エミーリエ・フレーゲの写真もあったと思います。
 
4章 ウィーンと日本1900
 ここに、先に紹介した「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」がありました。額縁に日本美術へのあこがれが出ています。ウィーン分離派が1900年に日本展を開催して錦絵をはじめ多くの日本の品物が展示されていたそうです。その日本展のポスターが展示されていて、縦長で、掛軸のような感じだとか。また、クリムトも日本のいろいろな品物を収集しており、その中の鐙が展示されていました(クリムトの収集品はほとんど今は失われているそうです)。
 ここに、クリムトの「赤子(ゆりかご)」と「女ともだちT」が展示されていました。
 「赤子(ゆりかご)」(1917-1918年 油彩、カンヴァス 約110×110cm)は、いろいろな色(赤や藍やグリーン?など)の布がたくさんピラミッドのように積み重ねられ、そのふわふわとうねったピラミッドの布の山の頂点に、赤子の顔が見えているそうです。新たに誕生したいのちが、これからすくすくと育っていくような雰囲気が伝わってくるようです。この積まれている布にはカラフルな模様があって、解説によれば、歌川豊国らの日本の錦絵の影響があるとか。この絵が描かれたのはクリムトの晩年ですが、ずうっと日本美術の影響があったということでしょう。
 「女ともだちT(姉妹たち)」(1907年 油彩、カンヴァス 125×42 cm)は、縦長の画面の右上と左下にほとんど黒の毛皮をまとった女性が描かれています。右上の女性の顔の付近には赤や青など鮮やかな模様が見られ、左下の女性の顔は青みがかった白で、その服には市松模様が描かれているそうです。縦長の日本の美人画のような雰囲気が見られるようです。
 
5章 ウィーン分離派
 1897年に、クリムトをリーダーに、若手芸術家たちが保守的な芸術団体に対して新たな運動団体を結成、ここにはウィーン分離派のポスターが何点か展示されていました。そして、先に紹介した「ユディトT」とともに、鑑賞会の初めに館長さんの話に出てきた「ヌーダ・ベリタス」もここに展示されていました。
 「ヌーダ・ベリタス(裸の真実)」(1899年 油彩、カンヴァス 244×56.5cm)は、縦長の大きな画面で、中央に一糸まとわぬ女性が描かれています(肌は真っ白で、水色の渦のようなのが見えるとか)。彼女は右手に円い鏡を持ち鑑賞者に向けています。鏡は裸婦とともに、古来、真実の象徴とされてきたとのこと。また、女性の足元には蛇が絡みついていて、セックスないし罪を暗示しているようです。さらに、女性の頭の上、画面の上部4分の1ほどの領域には、フリードリヒ・シラーの言葉「汝の行為と芸術をすべての人に好んでもらえないのなら、それを少数者に対して行え。多数者に好んでもらうのは悪なり」が書かれているそうです。この絵には、愛知県美術館所蔵の「人生は戦いなり(黄金の騎士)」(1903年)とともに、邪魔者を排してでも、真の芸術を求めて突き進もうとする気概のようなものが感じられます。
 
6章 風景画
 クリムトが風景画とは、意外でした。1890年代からクリムトは、毎夏エミーリエ・フレーゲとともにアッター湖(Attersee: オーストリア中部、ザルツカンマーグート地方にある)畔で過ごすようになり、その時にだけ近辺の風景画を描いたそうです。「アッター湖畔のカンマー城V」(1909〜1910年)は、1m四方くらいの作品で、解説によれば、望遠鏡を通しての風景ではないかとのこと、点描で描かれていて印象派の影響が見られるようです。「丘の見える庭の風景」(1916年)では、花などを、まず輪郭をしっかり描いて、それからその中をべたあっと彩色しているようで、案内の方によれば、ゴッホの描き方と似ているようだとのこと。その他、「雨後(鶏のいるザンクトアガータの庭)」(1898年)や「家畜小屋の雌牛」(1899年)などありました。
 初めの館長さんの解説の時に、参加者からクリムトの風景画の特徴について質問がありました。それにたいして館長さんは、まずクリムトの風景画には、西洋の風景画のような奥行感がない(遠近法的でない)、日本の浮世絵などのように平面で描かれ、平面を重ねて示しているとのこと。また、風景そのものを描くというより、とにかく装飾に重きをおいているとのことでした。額縁もふくめて画面の形が大部分正方形であることも特徴のようです。
 
7章 肖像画
 クリムトは、自画像は描かず、またほとんど男性も描かず、女性ばかり描いています。とにかく女性に関心があったのでしょう。ここに、先に紹介した「オイゲニア・プリマフェージの肖像」がありました。ちょっと気になったのが、「白い服の女」(1917〜1918年 油彩、カンヴァス 70×70cm)。正方形の画面が、左上から右下へ対角線上に2つの領域に分けられ、右上は黒、左下は白で、その白の領域に白い服を着て微笑んで?いるような女性が描かれているとのこと。
 
8章 生命の円環
 クリムトが好んで描いた女性たち、新しいいのちを産むとともに、若さにあふれた時から年を取り死に至る者、クリムトはそういった面もよく画に表現しているようです。
 「鬼火」(1903年 油彩、カンヴァス 47.6×37.5cm)は、なんとも気持ちわるそうな作品です。作品解説には、『「鬼火」とは、夜の森や野原で見られる青や緑の火のことで、日本では「狐火」とも呼ばれる。クリムトはこの超常現象を女性として象徴的に表現した。誘惑するような女性の描写は「ファム・ファタル(femme fatale: 運命の女)」の雰囲気を漂わせる。』とあります。画面右側半分ほどには、女性の妖艶な顔のようなのが数個見え、鬼火の精霊のようにも見えるとか。画面左側には、茶色や青?っぽいうねうねした曲線が重なっていて、なんか裸婦が横たわっているようにも見えるとか。(回りの額は金色で、幅広だったように思う。)鬼火のような現象は、ヨーロッパの森でもしばしば見られるもので、民族神話に登場し、近代でもときには絵などの題材になっているらしいです。
 「『医学』のための習作」(1897〜1898年)は、1894年に依頼されたウィーン大学の大講堂の天井装飾画の中の一部の習作です。全体に、人らしきものや骸骨らしきものが宙に浮いて見えるような作品だとか。画面の下側にはギリシア神話の衛生の女神ヒュギエイア(Hygieia: 父で医神のアスクレピオスとともに人間や動物の病気を治癒するという)が描かれていますが、その上には、ぐたっと横たわっている裸婦や死人、骸骨のようなものが重なるように描かれているそうです。医学の効き目はなくて、病気になり死にゆく人間の姿を象徴していて、これでは医学を志そうとする学生や大学当局にはかなりひどい絵ととらえられても仕方なさそうです。
 「家族」(1909〜1910年 油彩、カンヴァス 90×90cm)は、全体に暗い印象の絵のようです。黒い布で身を覆われた母と2人の子どもが寄り添って眠って(もしかすると死んで)いるようです。作品解説には、クリムトの子供たち(私生児)とその母親をめぐる個人的な葛藤があったと考えられる、とありました。
 「女の三世代」(1905年 油彩、カンヴァス 171×171cm)は、正方形のとても大きな絵。画面中央には、若い母親が安らかに眠る幼子を胸に抱いて夢見るかのように目をつむっていますが、その傍らには、お腹だけが出っ張り、胸が垂れ、痩せこけ節くれだった手や腕に血管が浮き出ているような老婆が、うなだれて顔を隠すように立っています。作品解説には「幼年、青年、老年という人生の三段階を象徴する3人の人物は、誕生から死までの「生命の円環」を表す図像と解される。銀が点状に散りばめられた抽象的な背景は、日本の工芸品からの影響をうかがわせる。」とあります。
 
 クリムトと言えば、女性ばかり描いている画家と思っていましたが、この展覧会で、女性の多面的な赤裸々な姿を通して、人間の生と死、性をしっかり描いた画家なのだということがよく分かりました。
 
(2019年8月6日)