昨年の10月から12月まで、NHK 第2放送で毎週金曜日午後8:30〜9:00の「科学と人間」で、田家康による「歴史を変えた気象・災害」(全13回)が放送されました。その一部をテープ起こしし、疑問なところなど調べて追加してまとめました。(田家康:現在、農林中金総合研究所客員研究員、日本気象予報士会東京支部長。1959年神奈川県生まれ、1981年横浜国立大学経済学部卒。農林中央金庫森林担当部長、独立行政法人・農林漁業信用基金の漁業部長を歴任。2001年、気象予報士試験合格。著書に、「気候文明史」「世界史を変えた異常気象」「気候で読み解く日本の歴史」「異常気象が変えた人類の歴史」「異常気象で読み解く現代史」など。)
私がこの講座でとくに注目したのは、火山活動や太陽活動など、人間が直接コントロールできない現象による気候変動です。人口が異常に増加し、多くの人が都市でしか暮らせなくなっている現在、このような気候変動にたいする対策はとても難しいです。人口や、人の生活の仕方、自立して生きるとはどういうことかなど、基本的に考え直さなければなりません。
◆第1回【気象学から明らかになる過去の記録】
気象・災害と歴史を結び付ける研究は、けっして古いものではなく、この20、30年の科学の進歩で見えてきたもの。
今回は、気象・災害と歴史の関係について、また、過去の気候をどのように調べるのか、この30年間に大きく進歩した科学的手法について述べる。
最新版の世界史Bの教科書(山川出版の『詳説世界史 改訂版』)の最初に「世界史への扉」があり、3つのエピソードが取り上げられている。その最初が「気候変動と私たち人類の生活」で、1815年のタンボラ山(インドネシア)の巨大火山噴火とこれによって起きた異常低温、および1789年のフランス革命の時の気象の動きが紹介されている。(ちなみに、3つのエピソードの2つ目は漂流民のみた世界、3つ目は砂糖からみた世界の歴史)
世界史の教科書の冒頭で、気候変動と歴史の関係を扱っていることに驚いた。なぜなら、歴史学の世界では環境・気候と結び付ける発想は長い間否定されてきた。歴史と気候の具体的な関係が見えてきたのは、ここ20年ないし30年のこと。
いっぽうで、近年の気象災害に目を向けてみると、このところ毎年のように日本列島のどこかで気象災害が発生している。夏から秋にかけてでは、平成26(2014)年8月広島で豪雨による土砂災害、27年9月には関東東北豪雨で常総市で大きな洪水、29年7月にも九州北部豪雨で福岡と大分でいたましい気象災害、30年7月にも西日本を中心に北海道から中部地方まで大雨、そして今年令和元年8月九州北部豪雨で佐賀県で河川の氾濫や洪水。また冬でも、平成25年、26年2月、28年1月、30年と、たびたび東北、関東甲信、あるいは北陸地方で記録的な大雪。
気象災害がなぜ増えたかについて、よく地球温暖化のせいだと言われる。これも1因ではある。ただし、気象災害をすべて地球温暖化に結び付けるのは問題だ。気象災害の原因はそれぞれ個別の要因が大きく、1つ1つ検証してゆかねばならない。
具体例として、平成27(2015)年9月の関東東北豪雨をあげる。関東東北豪雨では、台風17号・18号の影響を原因として、強い降水の地域が発生した。雨の位置は、伊豆半島から関東平野の西側あるいは北部・北東へと進んでいる。そして栃木県日光市や今市市あるいは茨城県の古河市で「線状降水帯」が発生する。[線状降水帯:1990年代から細長い強雨帯があるということは知られていた。気象レーダー観測の技術によって、2006年ころから線状の降水帯があることが認識されてきた。幅が20〜50km、長さ50〜200kmで、数日間停滞する。]このため、日光市や今市市あるいは古河市でも観測史上もっとも多い降水になった。そして茨城県常総市では、9月10日12時50分堤防が1箇所決壊して、鬼怒川と小貝川にはさまれた広い範囲が水没。また今市市では全体で600mm以上の雨が降った。
この原因はなにか。アメダスの風向を見ると、相模湾から上がる南風と房総沖からの南東風の2つがちょうど集まった所(これをシアーラインとか収束と言う)で激しい雨が降る。平成27年9月の線状降水帯ができた原因は、この2つの風向が1つの所に集まったことによる。このため9月10日にかけて降水が増え、結果として常総市の鬼怒川と小貝川の間が広く洪水になった。
ところが、歴史をひもとくと、利根川の洪水は天平宝字2(758)年、奈良時代から何度も繰り返され、元禄元(1688)年あるいは寛保2(1742)年など江戸時代以降の洪水では東京でも大きな被害がでた。これは、明治以降も、昭和になっても変わらない。とくに注目したいのは、奈良時代から歴史記録が続いていること(「続日本紀」の神護景雲2(768)年の所に、天平宝字2(758)年正六位下の藤原××が鬼怒川を掘り新しい水路をつくって洪水を防ぐ必要性を書面で太政官に提出したなど)。鬼怒川・利根川の氾濫は、奈良時代から、室町時代、江戸時代にかけて、延々と記録されている。というわけで、気象災害では地形の要因が極めて重要。この点は過去から変わらない。そういう意味で、各地の気象災害ではそれぞれ特有のものがあるので、なんでも地球温暖化に結び付けることよりは、個別に1つ1つ当たっていくことが必要。
次に、過去の気候の研究法について。
上の世界史Bの教科書では「地球的視野に立って、その多様な自然環境と人間のいとなみの関係を考えることが必要である」とある。これは当たり前のことのようだが、かつては歴史は人間中心に考えるものとされていた。1950年代から60年代は人間万能主義・科学万能主義で、歴史において環境を論じると環境決定論者として批判された。このような人間中心主義から自然環境と人間のいとなみの関係を考えるという発送に変わるきっかけには、2つある。1つは、1970年代以降の公害問題、1980年代からはヨーロッパを中心に越境大気汚染やフロンガス等のオゾン層破壊物質、1990年代以降の地球温暖化論。これらによって、環境問題が非常に重要視されるようになった。
もう1つは、過去の気候を探る研究の大幅な発展。過去の気候を探るには、100年くらい前までは、アルプス氷河の前進や後退(氷河が麓まで達した時は寒い時代、中腹まで後退した時は暖かい時代)、堆積物中の花粉を調べる(暖かい時に咲く花の花粉が多い時は温暖な時期、寒い時に咲く花の花粉が時は寒冷な時期)、年輪幅(幅が細ければ寒い時代、幅が広ければ暖かい時代)を用いて調べていた。
ここ20、30年研究手法が革新され、多種多様な資料から探るようになった。そこでのキーワードは同位体。古気候学で用いる同位体としては、水素(ふつうの水素、デューテリウム 2H、トリチウム 3H)、ベリリウム(9Beと10Be)、炭素(12C 13C 14C)、窒素(14N 15N)、酸素(16O 17O 18O)。このような同位体を使った研究が広まった。アメリカ大気海洋庁(National Oceanic and Atmospheric Administration: NOAA)のホームページでは、過去の気候についてのデータベースがある。100年くらい前は、氷河、花粉、年輪くらいだったが、今や、地層のボウリング、洞窟内の鍾乳石、海洋のサンゴなど、全部で18種に区分けされた資料に基づいて、過去の気温、過去の自然環境を探ることが進められている。
そうした例の代表例として、酸素の同位体を用いた分析手法を紹介する。酸素は水素と結び付いて水になる。16Oと結び付くと軽い水、18Oと結び付くと重い水になる。自然界ではほとんどは16Oと結び付いた水だが、18Oと結び付いた水が0.2%含まれている。酸素同位体比率は、採取する資料によって、標準的なものと異なってくる。例えば、有孔虫の体内の炭酸カルシウムに含まれる酸素同位体比率、あるいは万年氷の中に含まれる酸素同位体比率は、自然界の標準的な物の比率と少し異なる。この比率の違いから、海水温・水温を推定できる。
海底から地層のコアを採取する。500万年以上前までさかのぼることができる(上から強く圧縮されていて、10年で1mmくらい)。その中には、砂や小石、花粉や有孔虫も含まれている。(有孔虫の1例は星の砂で、武富島や西表島では海岸でも取れる。)有孔虫の体の炭酸カルシウム中の酸素に注目する。なぜなら、炭酸カルシウム中の酸素は、分子の振動エネルギーの関係で、水の中の酸素よりも18Oの比率が高くなるから。そしてこの18Oの比率の高さ・低さは海水温に依存する(海水温が低いほど、炭酸カルシウム中の18Oの比率が高い)。有孔虫の炭酸カルシウム中の18Oの比率を調べることにより、当時の海水温を調べることができる。しかも、有孔虫には海の底にいる底生有孔虫と海面近くにいる浮遊性有孔虫の2種があり、底生有孔虫からは海底の水温を、浮遊性有孔虫からは海面の水温を知ることができる。この有孔虫による海水温の研究によって、1955年、約10万年ごとに氷河期が訪れていることが明らかになった。
次に、万年氷から氷の柱(氷床コア)の採取。グリーンランド、南極、あるいはヨーロッパアルプスの山岳氷河の万年氷を掘削して採取する。氷の柱の中には気泡が入っていて、その空気の成分を調べて、二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガスの濃度を調べることができる。また、氷そのものの酸素同位体比率も解析する。現在南極では、ヨーロッパとロシアと日本のチームが、どれだけ古い年代までの氷の柱を取り出すことができるかで競争している。2018年の第60次南極観測隊のチームは、ドーム富士(昭和基地から1千キロも離れている)に到着、ここで垂直に掘削して100万年前の氷床コアを採取しようと、現在調整中(4年がかりで行う予定)。
採取した氷の柱をどのようにして分析するのか。万年氷の柱を使った気温推定の方法。海水には軽い水分子と重い水分子があり、軽い水分子と重い水分子で水蒸気圧が違う。気温が低いと、重い水は蒸発しにくく、軽い水ばかりが蒸発する。海水にたいして上空にできる雲は、16Oの軽い水蒸気がより多い雲になる。この軽い水蒸気を含んだ雲が風に流されて南極大陸の上に来て、雪が降る。そうすると、それぞれ積もった雪は、海水に比べると相対的には軽い水の多い氷の柱になる。そして、軽い水と重い水の水蒸気圧は気温によって異なり、気温が高いほど重い水分子が蒸発しやすい。このことを使って、万年氷の柱の中の酸素同位体比率の関係を見ると、気温が高ければ相対的に18Oの割合が高くなり、気温が低ければ相対的に18Oの割合が低くなる。この関係を用いて、それぞれの時代の気温を推定する。
有孔虫の炭酸カルシウムに含まれる酸素同位体、あるいは万年氷に含まれる酸素同位体、こういった同位体による手法が考案されたのは、1970年代から80年代以降。また、世界各地で様々な資料の採取が行われて新たな発見が学術論文に掲載されるようになったのは、1980年代から2000年代。サイエンスライターのジョン・コックスは、「気候科学にとって面白い時代が来た。まるで1960年代に大陸移動説が生れたような、大変革のような時代だ」と書き、またブライアン・フェイガンという文化人類学者も「歴史の変動を気候変化に求めることは、環境決定論として、考古学者から否定され続けてきた。しかし、気候変化は食料の有無に直結するものであり、経済・政治および社会に影響を及ぼしている」と書いている。
この講座では、気象災害ごとに区分けして、それぞれの現象が歴史にどのように影響を与えてきたかを探ってみる。
◆第2回 【干ばつと水不足〜フランス革命を招いた異常気象〜】
まず、7世紀から13世紀、日本では奈良時代から室町時代についてふれる。鍾乳石等、様々な資料から推計した北半球の平均気温の推移の表を見ると、600年から1200年にかけて気温が上昇する傾向が見られ、1200年以降は気温が低下し、1800年代後半から気温が上昇している。
7世紀から13世紀は、北半球では気温が上昇した時代。ちょうどこの時代は世界史で言う中世で、全世界的に人口が増加した時代。欧州では、600年に2600万人の人口が、1000年には3600万人、300年には7900万人と、約3倍に増えている。中国でも、600年に5000万人、1000年に6600万人、1200年に1億1500万人と、2倍強にに増加した。非常に人口が増えた時代だった。
ところが日本の人口水系(上智大学の鬼頭宏教授らが行った研究)では、人口増加は相対的に少ない。725年に450万人(多くみても500万人)、平安時代初期の800年に550万人(多くみても600万人)、900年に644万人、1150年に684万人。400年間に1.3倍しか増えていない(増加率について、もっと少ない推計もある)。どうして、ヨーロッパや中国と比べて日本では増え方が少ないのか。
参考にした資料は『続日本紀』。これは、『日本書紀』に続く勅撰の歴史書で、「六国史」の2番目(全40巻で、797年に完成・奏上された)。697(文武元)年から791(延暦10)年まで、奈良時代のすべてをカバーしている。同時代史なので、日本書紀に比べてはるかに詳しい史書と言える。とりわけ、天気、異常気象、凶作、飢饉の記録が満載されている。
『続日本紀』に書かれている自然災害を見てみる。畿内を中心に東海・山陽・四国の西日本では、旱魃の比率が56%と非常に高い。ちなみに、風雨が31%、地震・火災が21%?、蝗害(虫の害)が5%。これにたいして、東北・関東では、旱魃が19%、風雨が52%、地震・火災が16%、蝗害が13%。770年代に冷夏・冷害の記録があるものの、西日本を中心に、奈良時代を通して、日本では旱魃による飢饉が続いた。
では、なぜ旱魃が続いたのか。当時、灌漑施設がとても脆弱だった。溜池には、皿池と谷池の2種がある。皿池は、平野に穴を掘ってつくった大きな溜池(代表的なものは、大阪府の狭山池や香川県の満濃池)。谷池は、山間部から平野に下ってくる河川を堰き止めてつくったもの(小規模なもの)。京都大学の金田章裕名誉教授は、奈良盆地で大規模な灌漑施設のための皿池は平安時代において若槻池が唯一の確認できた事例であり、それ以外の「池」と付く地名は谷池を指すものであった、と書いている。皿池のほうが水を多く溜めることができ、灌漑施設としてはるかに優れている。平安時代においてすら、奈良盆地では皿池はわずか1つしかなかった。ということで、奈良時代の水田は荒廃していた。
荒廃した水田には、3つの区分がある。(荒野は完全な未開地。)長期間あるいは半永久的な荒廃地を常荒(じょうこう)、短期間耕作できない土地を片荒し、1年おきにしか耕作できない土地を易田(えきでん)と言う。723(養老7)年に布告された三世一身法では、公地公民制にかかわらず、農耕地をを拡大するために私的な所有権を認めた。新たな池や溝をつくって開墾した者は、3世(子、孫、曽孫)まで私有を認める(これは、口分田不足を解消するための措置)。いっぽう、古い溝や池を手入れして水田として復興した者は、その人1代限りで私有してよい。これは、灌漑設備の整備が喫緊の課題だったことをうかがわせる。
当時、政府の旱魃対策としては、第1に雨乞いと祈祷。名山・諸社にたてみくらを捧げ、天神地祇を祀る。また、大般若経や金光明最勝王経などの読経を行った。いっぽう、現実的な対策もしていて、続日本紀では、税の軽減、救済米(賑給(しんごう)と言う)も行っている。初出は698年で、播磨・越前・備中・周防・阿波・佐貫・伊予など飢饉が発生した場所に食料を給付すると言っている。また、小麦・大麦・粟のほか、黍・大豆・蕎麦も作るよう、穀物栽培も奨励している。続日本紀には、「諸国の農民はただ湿地で稲を作ることのみ精を出し、畑の優位なことを知らない。だから、大水や旱に遭えば、蓄えの穀物もなく、秋の取り入れもできず、多くの飢饉に見舞われる」とある。
このように、奈良時代から平安初期にかけて旱魃が多発したことが、記録から見て分かる。これが、班田収授法の崩壊をまねく1因になったと言ってもおかしくない。班田収授法は飛鳥時代後期から実施、率令制の根幹をなす制度。政府から人民に口分田が班給され、いっぽう人民から租庸調ならびに雑徭を徴収する。制度としての課題は、口分田としての農地の本質的な不足。これがため、三世一身法、やがては墾田永年私財法というかたちで、私有地が認められ、初期荘園が成立していく。
いっぽうで、旱魃が続く自然環境があった。農地の荒廃と脆弱な灌漑設備を想起させる言葉がある。「炎旱旬に渡る」(炎のような旱魃が10日間も続く)。逆に言うと、10日程度雨が降らないだけで旱魃を心配しなければならないというのが、当時の農業の実状だったようだ。このため、農民の逃亡、あるいは受け入れ先としての初期荘園ができてきたと言われる。そして、政府の対応は、902年の醍醐天皇による班田を最後に、班田収授法は終焉する。
このような長い時間軸ではなく短い時間軸で、養和の飢饉について。1180(治承4)年旱魃による飢饉が始まり、とくに1181(養和元)年から82(寿永元)まで非常に深刻な飢饉だった。『百練抄』(鎌倉時代末期に成立した、平安中期から鎌倉中期までの編年体の通史)1181年6月には「近日、天下飢饉、餓死者その数を知らず」とある。有名なのは『方丈記』の記述で、「また養和のころとか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。あるいは春・夏日照り、あるいは秋、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。」などとある(「仁和寺に隆暁法院といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らんとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、道のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。と、具体的に京都の餓死者数まで書かれている)。
1180年夏の京都での旱魃がどのくらいきびしい旱魃だったかについて、気象研究所長だった荒川秀俊博士の研究がある。荒川は、5月1日から8月31日にかけて、「山塊記」「吉記」「玉葉」という当時の日記文学のいずれかに雨の記述がある日を数えた。そしてそれを明治以降の旱魃発生年(明治16年、大正13年、昭和14年)と比較すると、1180年は雨天日数が少なかった。明治以降の旱魃発生年では5〜8月の降水量は300mm前後で、現在の平年値の約半分。1180年の場合、雨天日数や8月に驟雨(にわか雨)しか降らなかったことを勘案すると、降水量は明治以降の3回の旱魃時よりも少なかっただろうと結論している。
また、大阪府立大学の青野靖之准教授の研究がある。3月の平均気温を、その年の桜の満開日から推定しているもの。『明月記』をはじめとする記録から桜の満開日をひろい上げ、桜の満開日を時系列で探った研究。812年から現代までの満開日が調べられている(
京都の過去1200年間のサクラ満開日データ)。1180年の桜の満開日は、『明月記』より、4月7日。この4月7日は、1176年の4月2日に次いで非常に早い。今日でも京都嵯峨野の山桜の満開日は4月5日前後。そこから、ヒートアイランド現象のなかった1180年の京都の3月の平均気温は、今日の平均気温からヒートアイランド現象分を引いた7℃くらいだったと推計できる。
このように、西日本は旱魃による大飢饉だった。では、東日本では飢饉は発生しなかったのか。「日立風土記」の最初のほうに、「長雨にあわばすなわち苗の実らざるなげきをきき、日照りにあわばただ穀物の実り豊なるよろこびをみる」とある。ちょうど「雨の年に豊作なく、旱魃に不作なし」という、現在に残ることわざになっている。東日本でこわいのは冷害であって旱魃ではない。治承4年の旱魃による飢饉は、同年10月20日(ユリウス暦1180年11月9日、グレゴリオ暦16日)の富士川の戦い(駿河国富士川で、源頼朝・武田信義と平維盛が戦った合戦)で、東日本の源氏と西日本の平氏において、兵站(食料調達)の差となってあらわれ、平氏の敗退の一因になったかもしれない。
次に、ヨーロッパに目を転じ、フランス革命のとびらを開いた旱魃と厳冬について。
フランス革命の前後、フランスでは相変わらず封建時代からの身分制度を引き継いでいた。わずかな聖職者と貴族、これにたいして第3身分とされる人たちが98%いた。そして農民の75%が1ha以下の小農で、飢餓ぎりぎりの状態だった。財政はつねに赤字で、イギリスと異なって、国の財産と王室の財産の区別もされていなかった。綿工業ではイギリスが圧倒的に有利だった。そういう意味で、社会変革はすぐにでも起きる状態にあったと思う。そのきっかけは、何なのかを探ってみる。(水はゆっくりと冷やしていけば0度以下でも氷らず、過冷却水になる。ところが過冷却になった段階で、それを揺すると氷になる。この揺する動きが何であったのか、という目線で考えてほしい。)
まず、18世紀の欧州の気温について。イギリスでは、1659年から気温の推計が行われている。とくにロンドンおよびその周辺では、統計的にデータを結び付けて、今日まで、360年以上にわたる記録が残っている。それで見ると、15世紀から19世紀までは基本的には小氷期と言われる寒冷期に当たっているが、とは言ってもまれに、20世紀後半並みあるいはそれより暖かい時期もあった。こういう高い気温の時期もあらわれる時代だった。
パリ天文台のデータを見ると、1788年は4月の降水量が12mmと非常に少なく、月平均気温は11.6℃。1785年の4月も降水量は14mmと少なかったが、月平均気温は8.4℃。1785年は北からの冷たい高気圧のために降水量が少なかった。これにたいして、1788年は暖かい高気圧がパリの上にあって、高温少雨の状況にあったと思われる。1788年の4月の降水量12mmは、1781〜1795年の15年間の中でもっとも少ない。いっぽう、気温は高温で推移。1788年の春は高温少雨の天候。土壌からの水分蒸発も多かったということも加わって、旱魃の様相だったと思われる。
1774〜1788年の農業生産量の統計を見ると、15年間の平均にたいして、1788年の収穫量は、小麦が約60%、その他の雑穀も3分の2しかなかった。もっとも前年の1787年は豊作で、本来なら相応の備蓄ができていただろうが、ルイ16世下の政府は財政赤字を埋めるために農産物を輸出してしまっていた。そのため、1788年の不作は、食料価格を上昇させた。下層階級の労働者の1人当たりの収入にたいする食費は、それまでの55%から88%へ跳ね上がった。このため、家計に余裕がなくなったのでワインの価格は1987年に比べて50%も値下がりし、製造業者はこの点でも大打撃を受けた。
ところが、一転して、1788年から1789年にかけて厳冬がおとずれる。パリで霜が降りた日数は、1788〜1817年の30年間でも1788〜89年の冬がもっとも多く、88日。また、各シーズンの最低気温をみると、1788〜89年の冬は異常な厳冬。このため、冬場に暖を取るための燃料が購入できず、牛乳は氷点下になって凍っても溶かすすべがない状態で、農民や労働者の不満が高まってきた。そして、88年12月から89年3月にかけて食料不足による暴動がフランス全土に発生した。1784〜1789年にフランス駐在のイギリスの大使だったジョン・ドーセット公爵は、本国にたいして「不満の原因は食料不足だ」とレポートを送っている。暴動の質が変わるのは、1789年5月以降で、ブルジョアという都市生活者が農民の不満に便乗するかたちで非王室を声高にかかげるようになった。そして7月14日バスチーユ牢獄襲撃、この日が1789年のパンの価格高騰のピークだった。
このように、フランスは封建的な社会制度をかかえていて、いつでも何らかの社会変革が起きてもよかったような状況と考えられ、その最後の1歩をおしたのが、1788年の旱魃でありあるいはその後にきた厳冬だったと言える。
旱魃がこのような過去の話でないことを、アメリカのグレートプレーンズ(Great Plains: 大平原)の農業で説明する。グレートプレーンズは西側をロッキー山脈、東側をミシシッピー流域とする平原で、南はメキシコ湾岸から北はカナダ国境まで続く草原地帯(面積は290万平方キロメートル)。グレートプレーンズの西半分は年間降水量500mm以下の半乾燥地帯。グレートプレーンズで農業が行われるようになったのは1880年代で、ちょうど大陸横断鉄道が開通したころ。20世紀初めには、アメリカの全農地の30%を占めるようになった。主力の生産物は、小麦、大豆、綿花、トウモロコシなど。もともと降水量が少ないため、旱魃が起きるとダストボウルという砂嵐に襲われる。(ダストボウル(dust bowl)は、旱魃だけでなく、基本的には無理な耕地化によって引き起こされたと言える。もともと大草原だったこの地に白人が入植すると、彼らは作物を植えるため表土を抑えていた草をスキ込みんではぎ取ってしまい、地表が露出し、直射日光と日照りで乾燥して土埃になり、それが強い風で東方へと吹き飛ばされて、黒蜘蛛のように一部は大西洋岸まで達した。)
今日のグレートプレーンズの農業は、オガララ帯水層(Ogallala Aquifer。名前は、ネブラスカ州西部の町 Ogallala から)と言われる大きな地下水層に依存している。広さは45万平方キロ(日本の総面積を上回る)。ロッキー山脈からの地殻変動を受けて、地下水が長い年月をかけて溜まったもの。この帯水層が形成されたのは、600万年前とも200万年前とも言われる。その存在は19世紀から知られていたが、地下水面が、北のほうでは地下120m、南部では平均30〜60mと深いため、簡単には地下水を汲み上げられなかった。1930年代になっで、遠心ポンプ(液体で満たされた渦巻型のケーシング内で羽根車を回転させ、液体に作用する遠心力によって下の液槽から液体を吸上げ上の液槽に押上げるポンプ)を設置することでようやく取水が可能となった。これにより、グレートプレーンズの農業は地下水を利用することで成り立つようになった。逆に言えば、旱魃など天候に左右されない農業ということで、アメリカでは1950年代から60年代にかけて理想的な農業だとしてもてはやされる時期があった。
ところが、このオガララ帯水層の地下水位は年々下がっている。地下水の収支はまったくバランスしていない。2005年の調査では、貯水量3608立方キロメートルに対し312立方キロメートル、およそ8.6%が汲み上げられた。いっぽうで、雨水がどのようにして帯水層を涵養するか。帯水層への年間の雨水の流入量は、カンザス州で5〜30mm、オクラホマ州で6〜55mm、テキサス州で1〜25mm。地下水の収支はまったくバランスしていない。年々水位が低下して、2005年の調査では、平均で3.8m、テキサス州の一部では45m以上も低下している。とりわけ最近は、収益があるからという理由で水消費量の多いトウモロコシの栽培が増えている。100年後か200年後か分からないが、オガララ帯水層の水源はこのままでいくといつか尽きると考えられる。その時、グレートプレーンズの農業はどうなのか、またダストボウル(砂嵐)が襲ってくる可能性もある。現状では手をこまねいているだけで、ずっと地下水の取水が続いている。そしてこれが、アメリカの農業の実態だと言えるかもしれない。
◆第3回【アイルランドの飢饉をもたらした天候不順】
◆第4回【日本の冷夏〜天明・天保の飢饉と平成の米騒動】
◆第5回【エルニーニョ現象(1)〜もう一つのエルニーニョ〜】
今回から2回、エルニーニョが変えた歴史をテーマとする。
ドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769〜1859年)は、1807年に『新大陸赤道地方紀行』という本を書いた。彼は大西洋を渡って南米大陸東岸に着いた後、アンデス山脈を越え南米大陸西側のペルーのリマに到着、そこからパナマ方向に船で渡っている。このとき、南米大陸西岸では赤道直下にもかかわらず気温が非常に低いことを、この紀行の中で書いている。小型船で漂流した船長の記録によれば、南緯10度から12度という位置にもかかわらず、飢えよりも寒さのほうが心配だった、と記されている。そして、港町カヤオからグワヤキルに向かう航海で、ペルー沖の太平洋沿岸を南極方向から流れる冷たい海流を観測している。この海流は本来ペルー海流と言われるが、このフンボルトの本の記述からフンボルト海流と言われることもある。なぜ、このような南極から赤道に向ってペルー海流が流れているのか?
大気も海流も同じような動き=回転をしている。(極から見て)北半球では時計回り、南半球では反時計回りに回っている。これは、地球が自転していることから生じるコリオリの力によるもの。だから、南北アメリカ大陸の太平洋岸をみると、北半球ではアラスカから赤道に向って、南半球では南極から赤道に向って、それぞれ寒流が流れている。南北アメリカ大陸の西側は、沿岸砂漠と言って、乾燥した地形になっている。(ロサンゼルスの樹木はほとんど100%大きな運河で運ばれた水によって育っている。)
また、海流の動きによる湧昇がある。沿岸を海流が流れていると、沿岸の海水が沖に流され、それを補償するように下から冷たい深層水が湧き上がってくる(「沿岸湧昇」と言う)。赤道付近では東風のために表層の海水が西に運ばれ、それを補うように深い所から海水が湧き上がる(「赤道湧昇」と言う)。このように、寒流が流れていることと、湧昇、深層水が湧き上がってくることで、南北アメリカ大陸の西岸は海水温がとても低くなっている。
[この他に、「深層の湧昇」がある。北太平洋のグリーンランド周辺と南極海のウェッデル海では、表層海水が1000m以深の海底近くまで沈み込み、沈降した海水は世界中の深海にゆっくり広がりながら上向きにも動いて、数百年から数千年ののちに再び表層に浮かび上がる。]
次に、エルニーニョ現象はどういうものか。通常は貿易風が強くて、太平洋上の東側の海水は冷たく、西側の海水は暖かい。そして西側の暖かい海水の上では積乱雲が次々と生じてくる。ところが、エルニーニョ現象の年になると、貿易風が弱まって、暖かい海水の領域が太平洋の西側から中央のほうに移動してくる。平年と比べると、東部の海面水温が上昇し、東西の海面水温の差が小さくなる。これがエルニーニョ現象。
実際いにどのような推移なのか、最近のエルニーニョ現象をみてみる。もともと太平洋の海水面は東側が冷たく西側が暖かい。西のほうでは海面水温が30度を越える海域がかなりある。いっぽう、東のほうは21度とかで、大きい時は東西で9度から10度近い差がある。2018年の秋になると、赤道付近の海水温が30度以上の所がそれまでインドネシア・フィリピンの近くだったのが、太平洋の真ん中あたりに移動している。これがエルニーニョ現象の始まり。
世界各地には、このような海水面の状態が変化する現象がある。これは、海洋の循環と、海底近くの海水が湧き上がってくる湧昇の組み合せによるもの。小さいながらも、カリフォルニア沖、オーストラリアの西岸でインド洋に面したパースの沖合、アフリカ西岸で大西洋に面したダカール沖でも、こういう現象が見つかっている(例えば、
ダカール・ニーニョ/ニーニャ現象を世界で初めて発見など)。とはいえ、太平洋は広大で一番大きな海であり、太平洋の海水は膨大な熱を貯えている。その意味で、エルニーニョに似た現象は世界の海洋でいくつかあるが、世界全体の気象・気候を動かす一番大きな要素となっているのがエルニーニョ現象だと言える。
ではなぜエルニーニョ現象が大きいのか。地球の自転のために、太平洋の熱帯域の海面では常に東風が吹いているので、東よりも西のほうが海水温が高くなっている。そのままだとどんどん東西の海水温の格差が大きくなってくる。これを物理の言い方で言うと、海面水温の熱の分布がやがて非平衡状態になってくる。非平衡状態になったとしても、そのまま居座る。この時なにかショックが起きると、非平衡状態は別のパターンに移る。これがエルニーニョ現象ではないかと見られている。そして、このようなショックとしては、風の影響=西風バーストの影響ではないかとされている。[西風バースト:西部太平洋赤道域で一時的に西風が強く吹く現象。]
非平衡状態から別のパターンに移る事例として、水から氷への相転移がある。水を静かにゆっくり冷やしていくと、水温が0度以下になっても氷にならない(過冷却水)。このとき、器をゆっくり揺すると氷ができる。このように、非平衡状態にあってもなにかショックを与えることによって別のパターンに変わる、こういう現象がエルニーニョ現象の本質ではないかと現在では見られている。
そして、エルニーニョ現象はロスビー波という地球規模の波動を通じて全世界に影響を及ぼしている。これをテレコネクションと言う。テレコネクションの代表例として、インド洋ダイポールモード現象の場合を紹介する。インド洋東部海域の水温が低い場合、インド北東部の降水量が増加→(ロスビー波によるテレコネクションで)サハラ砂漠あるいは地中海での高気圧の勢力が強まる→ヨーロッパ南北での気温の違いによる大気の擾乱のエネルギーが偏西風によって日本に運ばれる→これによって日本では暑い夏になる。このように、インド洋での海面水温の変化が、まず地中海やヨーロッパに伝わり、その後それが大気擾乱のエネルギーとなって日本にもたらされる。こうして、熱帯の海面水温の動きが地球全体の気候に影響することになる。
[ロスビー波:大陸・海洋の温度差や地形の高低差などによって大気が揺すぶられて生じる自由振動の波の一つで、地球大気、惑星大気で見られる大気波。スウェーデンのカール=グスタフ・ロスビーによって発見されたことからこの名がある。]
[インド洋ダイポールモード現象:インド洋熱帯域の海水温が、通常は高い東部で下がり、中央部から西部のアフリカ沖では上がる現象。西部で上昇気流、東部で下降気流が発生しやすくなり、東風が強まる。東西でダイポール(双極)型の対比を示すため、この名が付いた。]
エルニーニョの発生頻度は、3年から7年に1度と言われている。これを統計的なスペクトル分類を行うと、3.5年と5.3年にピークがくる。なぜこのような2つのピークが出るかについては、まだ本質的な原因は解明されていない。
エルニーニョ現象そのものは異常気象ではない。異常気象あるいは極端現象と言われるものの定義は、気象庁では過去30年にたいして著しい偏りを示した天候。またアメリカ海洋大気庁の定義では、非常に unusual(普通でない)な10%ということで、25年に1度と言われている。異常気象は、確率的な端の現象(テール現象)。エルニーニョ現象そのものも3年から7年に1度の発生頻度なので、それ自体は異常気象とは言われない。しかし、テレコネクションによって、25年に1度あるいは30年に1度という異常気象の原因になることがある。
では、エルニーニョ現象はいつごろから発生したのか。地学的な知見もふくめ、地球の気候システムの変化について述べる。C4型植物が800万年前以降増加しはじめる。C4型植物の代表的なものは、トウモロコシ・サトウキビ・ソルガムといった草に分類される植物。アフリカ大陸と南米大陸では800万年前から、北米大陸とアジア大陸では700万年前から増加。この時代に、かなりの面積が森林から草原に変わった。 C3型植物とC4型植物で光合成がどう違うか。光合成の暗反応では二酸化炭素を取り入れてこれを糖に変えるが、C4型植物にはその前に二酸化炭素濃縮経路がある。この濃縮経路があることによって、C4型植物はc12もC13も区別なく等しく吸収する[炭素の同位体比は、C12が約98.9%、C13が約1.1%]。いっぽう、従来型のC3型植物では、体内の炭素はC12の比率が高くなる。[C3型植物の光合成ではC13よりもC12を含む二酸化炭素を選択するので、C3型植物を構成する炭素の同位体比は大気のそれよりもC13の割合が少し低くなる。]そのため、草食動物の骨に含まれるC13の比率を調べると、その時代の植物相が分かってくる。C13の比率が高くなるのは、アフリカ大陸と南米で800万年前から、北米とアジアでは700万年前から。この時代から地球の陸地で草原が増えたということになる。
なぜ、この時代からc4が増えたのか。仮説だが、二酸化炭素濃度の推移が注目されている。二酸化炭素濃度は6500万年前から4000万年前までは3500〜1000ppmで、二酸化炭素濃度の高い時代だった。2300万年前以降は450ppmの水準になり、その後(300万年前以降)は150〜350ppmの範囲で推移している。植物にとっては、二酸化炭素濃度が非常に減少している推移になっている。そうした中で二酸化炭素をより効率的に光合成に使うことができるC4型植物が増えたと言われている。
光合成には、明反応と暗反応の2つがある。明反応は、光のエネルギーを化学エネルギーに変えて、暗反応で使われるアデノシン三リン酸 ATPおよび還元型補酵素NADP(ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸 nicotinamide adenine dinucleotide phosphateの略)を生成し、それに伴って水を酸化して酸素を放出する。暗反応は二酸化炭素の固定を行うというかたちで、明反応でつくられたATPや還元剤のNADPを用いて二酸化炭素から様々な糖をつくる。光合成は全体としては二酸化炭素を吸収して酸素を出すということでよいが、植物が発する酸素は水からできる酸素で、二酸化炭素は糖に変える。
700万年前あるいは800万年前から陸地は森林から草原に変わったが、その後250万年前から別のかたちで気候のシステムが変わってくる。ポイントは、南北アメリカ大陸がパナマ付近でつながったこと。これによって、太平洋と大西洋が分断される。分断されたことで、大西洋ではメキシコ湾から流れてくる北大西洋海流(メキシコ湾流の延長で、北米大陸の東岸から北緯40度くらいで東に転じ大西洋を横断)が強まって、赤道に近い低緯度の水蒸気がはるかヨーロッパの北方にまで運ばれるようになった。このため、グリーンランドの雪が増え万年氷が拡大した。そして偏西風も強まった。大西洋や太平洋北部での流氷の量も増加。全般的に言うと、300万年前をポイントとして、地球全体は温暖な状況から寒冷な状況に変わった。そして、250万年前ころから4万1000年の氷河期のサイクルが訪れる。これは、世界57箇所の海底の底生有孔虫の酸素同位体比の変化から海水温を推定することから得られたこと。さらに80万年前からは約10万年の周期で氷河期が訪れるようになる。
250万年前から200万年前にかけて地球全体が寒冷化したのに合わせて、太平洋東部の海水温をみると、熱帯ももう少し中緯度側の所も総じて下がっているが、とくに中緯度側の海面水温が低下する。カリフォルニア沖では250万年前ころから約8度下がったのにたいして、ガラパゴス島(赤道直下)では約4度下がっている。このように、南北の海水温の違いが大きくなった。また、東西での海面水温の違いが大きくなっている。この海面水温の違いは、エルニーニョ現象、さらにはインド洋ダイポールモード現象といったエルニーニョ現象類似現象発生の根幹となっているので、おそらくこのころからエルニーニョ現象が発生したと考えられる。インド洋ダイポールモード現象が起こると、アフリカ東部の地は、積乱雲が発達して雨が増えたり、乾燥して冷たくなったりを繰り返すようになる。
次に、人類の進化を振り返ってみる。人類の進化には4つの大きな区切りがあったと言われている。初期のヒト族が生まれたのが700万年前。アウストラロ族が生まれたのが、350万年前から250万年前。250万年前には、単純なオルドワン石器がつくられる。ポイントは250万年前に登場したホモ族で、200〜180万年前には数多くのホモ族がいた。その中には精巧なデザインのアシュール型石器をつくる種もいた。その理由として、この時代に脳の容量が増大していることが上げられる。人類の進化の分類をみると、これまでに25種以上の人類が誕生し消えていったが、もっとも多くの種がいたのが200万年前。その多くの種の進化を誘発する自然環境は何だったのか。
東アフリカは、気候変動にたいして非常に敏感に反応する地域。人類の化石が多く見つかっているこの地域は、ホットプルームによって、高低差も大きく、ソマリアの海岸からエチオピアの高原を経てトゥルカナ湖[ケニア北部のアフリカ大地溝帯中にある南北に細長い湖。北端はエチオピア領。湖東岸で、1972年リーキー博士(Richard Erskine Leakey: 1944〜)が250万年前の人骨を発見するなど、周辺では多くの人類化石が見つかっている]、そしてケニアの東アフリカ高原というように、海抜2000m以上の山や高原、湖、盆地など、地形的にはげしい所。数万年単位の活断層の動きで、トゥルカナ湖などの湖水の水量が変化している。また、地形的な変化は降水量や水蒸気量の大きな変動を引き起こした。さらにはエルニーニョ類似現象=インド洋ダイポールモード現象の発生による気候の変化でも、湖の水位の変化も大きくなったと考えられる。200万年前は東アフリカの湖水の変動も大きな時期で、その時代に5〜6種の人類がいた。そして200万年前以降脳の容量の増加がみられ、180万年前以降その増大傾向が顕著になる。
こうした動きについて、ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドンの地質学教授のマーク・マスリン等が提唱しているのが、人類の進化について、しつどう?的気候変動仮説というもの。激しい気候変動の中で、様々な種の人類が生まれた。人類の身体面・行動面での柔軟性は、環境の激変に対応できるような進化を遂げたためではないか。雑食性とか腐った肉をあさったりとか、そういう柔軟性は、こうした激しい気候変動の中でもたらされたのではないかという仮説。そして、180万年前から、精巧な、極めて技術力の高いアシュウール型石器が製作されるようになった。東京大学の諏訪元名誉教授は、このアシュール型石器は少なくとも175万年前までさかのぼれることが明らかで、これはホモエレクトゥスの出現の時期とほぼ一致し、激しい環境変化の中で初めてデザインされた道具、予め想定された形の石器を製作したということで、アシュール型石器を賞賛している。
旧約聖書には楽園追放の話がある。女は蛇にだまされて善悪を知る木の実(知恵の実を食べ、アダムとイブはエデンの園から追放される。本当の知恵の実というのは、もしかしたらエルニーニョ現象だったかもしれない。
◆第6回【エルニーニョ現象(2)〜ヒトラーのモスクワ侵攻と世界食糧危機】
◆第7回【暴風雨・台風〜弘安の役の真実〜】
◆第8回【局地天気〜ナポレオンを苦しめた温帯低気圧〜】
◆第9回【火山噴火〜サントリーニ島の噴火とクレタ島大津波】
今回から2回にわたって、火山噴火をテーマとする。今回は、その直接的な影響を取り上げる。
火山噴火の大きさについて、いくつかの尺度がある。よく使われるのは火山爆発指数(Volcanic Explosivity Index: VEI)。1982年にアメリカ地質調査所のクリストファー・ニューホールらが提唱した尺度。火山噴出物の量から噴火規模を測定するもので、規模を0から8まで分け、1が小規模、2が中規模、3がやや大規模、4が大規模、5以上が非常に大規模。指数が1増えるごとに、規模(火山噴出物の量)が10倍になる。[詳しく言うと、VEI=0は噴出物の量が1万立方メートル未満、VEI=1は1万立方メートル以上、VEI=2は100万立方メートル以上、それ以降が10倍で、Vei=3は1000万立方メートル、VEI=4は1億立方メートル、vei=5は1立方キロメートル、vei=6は10立方キロメートル、vei=7は100立方キロメートル、vei=8は1000立方キロメートル。]他にも、マグマ換算体積、噴火マグニチュードといった尺度がある。
日本の火山噴火と火山爆発指数を対応させてみると、1991年の雲仙普賢岳がVEI 2、2014年10月の御嶽山の噴火が 3、1701年の富士山の宝永噴火が 5、過去2000年間で日本でもっとも大きな噴火は915年8月の十和田火山の噴火で、VEI=5[噴出量は約3立方キロメートル。マグマ換算体積は 2.1DRE立方キロメートル)]。過去1万年間で日本でもっとも大きな噴火は、7350年前、種子島や屋久島の近辺にある鬼界カルデラの噴火で、VEI=7。九州南部の開聞文化を滅ぼしたと言われている。
また世界の火山噴火をみると、紀元79年10月、古代ローマの都市ポンペイを文字通り溶岩の下に埋めたイタリアのベスビオ火山の噴火が VEI=5、1991年4月のフィリピン・ルソン島のピナトゥボ火山が 6、1812年、過去2000年間でもっとも大きな火山爆発と言われるインドネシアのタンボラ火山が 7、74000年前のインドネシアのトバ火山が 8、64万年前のアメリカ・ワイオミング州のイエローストーンも 8。過去 1万年間で巨大火山噴火をみると、一番大きいのがカムチャッカ半島のクリル湖で 7.3、以下サントリーニ島、アメリカ・オレゴン州のクレーターレイク、インドネシアのサマラス火山(1257年に噴火、噴出物の量は40立方キロメートル。13世紀に始まる小氷期のきっかけの1つになったとも言われる]、エルサルバドルのイロパンゴ火山、インドネシアのタンボラ火山の順になっている。
火山噴火後の直接的・短期的影響としては、まず溶岩流・火砕流がある。ともに地下の高温下で二酸化ケイ素を主成分とする液体状のマグマが地上に噴出したもの。マグマが地上に出た段階で冷やされて固まりながら地上を覆うのが溶岩流。いったん大気中に放出された後、大気や火山ガスと混じり、その後地上に落下するのが火砕流。
火山灰の直接的影響としては、紙などの燃えカスと異なり、水に溶けずに重いため、地面に積もっても地上の風で散ることがない。人の手で片付けなければいつまでも残る。人間への健康被害としては、呼吸器に入ると咳がでて炎症が起こる。このため、マスクの着用が必要。目に入ると角膜を損傷するおそれがあるので、ゴーグルの着用も必要。1977年の北海道有珠山の噴火では、降灰が2cm以上の地域で目・鼻・喉・気管支の異常が報告された。また交通障害も、同じく有珠山の噴火の場合、道路に湿っていた場合で5mm、乾燥していると2mmの火山灰が積もっただけで自動車の運転が困難になった。飛行機も、火山灰を吸い込むとエンジンが停止するおそれがある。2010年4月のアイスランドの氷河に覆われた火山エイヤフィヤトラヨークトルの噴火[VEI=4]では、欧州30カ国ほどの空港が一時閉鎖され、1週間に10万便が運休した。
次に、長期的な影響についてみると、これはとくに「火山の冬」と言われるもの。大気圏は、0mから12〜14kmまでの間を対流圏、12kmから50kmの間を成層圏、50kmから90kmの間を中間圏、90km以上を熱圏と言う。飛行機が主に飛ぶのは対流圏だし、また雨を降らせる積乱雲など雲が発生するのも対流圏。しかし、火山灰が成層圏に拡散すると、雨粒がない上空なので、なかなか地表に降下せず、この火山灰が太陽の光を反射することによって地球を寒冷化させる方向にはたらく(日傘効果)。1991年6月のフィリピンのピナトゥボ火山の噴火では、北半球の平均気温が1991年から93年にかけて0.5度低下した。
直接的な影響について、2つの事例で話す。
1つは、エーゲ海にあるサントリーニ火山の噴火。過去1万年で2番目に大きな噴火とされている。キクラデス諸島にあるサントリーニ島を人工衛星で見ると、半月状(三日月状)になっていて、上から見るとカルデラが想像できる。噴火した年は、アメリカ西部の3000m以上の高地に生えているブリストルコーンパインという松の年輪からみると紀元前1628〜29年、アイスランドのオークの年輪幅でみると前1630年、グリーンランドの氷の柱(氷床コア)からみると火山性噴出物が多かったのは前1669年・1642年・1623年と推定される。だいたいこのへんが噴火の時期だと考えられる。マグマ換算体積の尺度でみると、20世紀最大のピナトゥボ火山の12倍に相当する噴出物があったとされる。
当時エーゲ海の文明の1つに、クレタ島のミノア文明があった。紀元前1900年ころから繁栄。とくに青銅器や陶器は芸術性が高いとされている。クノッソスの宮殿には、世界最初の水洗トイレが設置されていた。島内では穀物・オリーブ・ブドウを栽培する農業が行われ、ヤギ・ヒツジ・ブタの飼育も行われていた。主たる経済活動は、アナトリア・キプロス・メソポタミアといった地中海東部との貿易。島内の資源が限られていたことから、木材や黒曜石などの原材料は輸入に頼っていたようだ。海外との交通の拠点としては、サントリーニ島にあった植民都市のアクロティも重要だった。ところが、サントリーニ島の噴火で大津波が発生、サントリーニ火山の南東100km余のクレタ島の海岸にあったアレカストル?という港(海洋国家として重要な拠点)が一気に津波に飲み込まれてなにも残らない状況になった。そのため、ミノア文明の力の根源である海軍力もほとんど失われただろうと言われている。もちろん、重要な都市だったアクロティも姿を消した。
ミノア文明は残ったようだが、段々と変容してくる。噴火による津波から数世代を経て、ミケーネ系のギリシア人がクレタ島を支配するようになる。多神教の文明だったが、噴火後にそれまでと違う寺院が建てられるようになったし、宗教の変化もあった。クレタ島で用いられていた文字も、線文字Aから、ギリシア語へつながる線文字Bへと変わる。線文字Bは、1952年にイギリスの建築家で考古学に興味を持ったマイケル・ベントリス(1922〜56年)によって解読されている。しかし、サントリーニ島噴火時に用いられていた線文字Aは今日でも未解読で、巨大火山噴火についての文献記録を知ることはできない。この地震と津海による大災害というイメージは、プラトンの書いた『ティマイオス』と『クリティアス』にあるアトランティス大陸の伝説へと引き付けられたのかも知れないと言われる。
次の事例は富士山。富士山の南東側20kmの所に、標高1504mの愛鷹山(あしたかやま)がある。富士山と同じくもともとは円錐状の(大きな成層)火山だった。ところが現在の山容を見ると、富士山は滑らかな山肌だが、愛鷹山は深く刻まれたぎざぎざの谷になっている。愛鷹山は10万年前に噴火活動した。それ以降、風雨による浸食でこのような谷が刻まれた。富士山が滑らかな山容であるのは、火山噴火が比較的新しいということが背景にある。富士山が今後噴火せず10万年経つと、愛鷹山のような山の姿になると言われている。
富士山は、17000年前に現在の新富士火山の噴火が開始された。11000年前から8000年前に大量の粘りのある溶岩が噴出して、その痕跡が今でも三島溶岩や猿橋溶岩に残っている。5800年前から3500年前に再び大規模噴火をして頂上が高くなり、ほぼ現在と同じような山の形になる。2900年前に御殿場岩屑なだれがあった。それまで富士山はツインピーク(2つの頂上)があったが、その古いほう=南東側の古富士火山の山頂が浸食により風化して地震により山体崩壊してくずれたのが、御殿場岩屑なだれ。この土砂は南東に落ちて行って、御殿場付近では約10mの土砂が堆積した。そして2200年前に小規模な噴火が続いて斜面を均し、今日の富士山の姿が形成された。
歴史文献に残る富士山の噴火について。最初の記録は、続日本紀にある781年7月の天応噴火。駿河国からの報告として、富士山の麓に降灰があり、灰のかかった木の葉はしぼんだ、とある。次が日本紀略に記述された延暦噴火で、800年から802年。3番目が日本三大実録に記録されている864年から866年の貞観噴火。それ以後も5回の中規模な噴火があった。936年、999年、1053年、1083年、1435〜1436年。富士山の最後の大噴火とされるのが、1707年の宝永噴火。
まず延暦噴火について。800年の3月から4月にかけて1ヶ月あまり大きな噴火が続いた。山頂から火柱が上がったことが観測されている。火山灰が降り、近隣では昼でも暗かった。西小富士から流れ出た鷹丸尾溶岩が桂川を堰き止めた。これによって山中湖が生まれたとも言われている。また、相模国の足柄路がこの噴火で砕けた石でふさがれて通れなくなったため、急峻な峠越えの箱根自我この時に開かれたという(詳しくは
富士山延暦噴火の謎と『宮下文書』)。
864年から866年の貞観噴火について。ピークは865年5月からの数ヶ月間で、溶岩流は富士山の北西から北東までの山麓を埋め尽した。表面積が現在の山中湖の2倍以上のせノ湖があった。この湖の中央から西側にかけて長尾山溶岩が流れ込んで、現在の青木ヶ原樹海とへとつながっている。現在の西湖は、せの湖の東側で、長尾山溶岩の流入で残された所。当時噴火にたいする対応としては祈祷が防災対策の一番で、溶岩流が甲斐国に流れ込んだことから、八代郡に新たに一宮浅間神社が送検された。
続いて、1707年の宝永噴火について。宝永噴火は、当時の暦で11月23日に開始、12月9日に終わっている(約2週間)。この時の噴火についての詳細な記録は、新井白石(1657〜1725年)の自叙伝『折りたく柴の記』に記述されている。『折りたく柴の記』によれば、「此の日午の時雷の声す、家を出づるに及びて、雪のふり下るがごとくなるを見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光りしきりにす。……白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりける。」白石は江戸城で講義をしていて、「御前に参るに天甚だ暗かりければ、燭を挙て講に侍る」と、昼でも蝋燭をともしながら講義をしたという。亥の刻になると灰が降るのはおさまったが、地鳴りや地震がしきりにあったという。2日後の11月25日も、空が暗くなって雷がとどろくような音がし、夜になるとまた降灰が甚だしくなったという。この日、江戸城中にも富士山の噴火であることが伝えられている。その後は12月初めまで黒灰が降り続いたという(火山灰の種類が最初とは変わっている?)。また、「此のほど、世の人咳嗽をうれへずといふものあらず」(しばらくして、咳き込まない人はいない)と、火山灰による喉への影響が明瞭に語られている。
火山灰の降灰方向について。11月20日以降天気が悪かったが、噴火初日の23日には回復している。おそらく前日に低気圧が関東地方を通過して、当日は西高東低の冬型の気圧配置だったのではないか。大きな粒は富士山の南から南南西へと降ったようだ。いっぽう細かい粒は東南東から東北東に運ばれている。
次に、小田原藩での対応について。当時小田原の藩主は老中の大久保忠増(ただます)。当初は、田畑の管理は持主の責任ゆえ、降灰の除去も領主が仲裁するものではないという考え方だった。(浅間山の噴火でも領主は同じようなことを言っている。)ところが小田原藩の農民はそれでは不満で、江戸幕府に直訴に向かおうとする。これを知った忠増は、あわてて金27500両、お救い米2万俵の放出を約束して、農民をなだめたという逸話も残っている。そして大久保忠増は自藩での復興は困難だと判断して、駿河国駿東郡や相模国足柄上郡、足柄下郡、淘綾郡、高座郡など約5万6384石・197ヶ村(小田原藩の石高は10万石なので、その約6割近く)を幕府に上地して代りの領地を得ようと画策する。というのは、幕府が復興を手がけて諸大名に普請を負担させることができるのは幕府の直轄領に限定されているから。大久保忠増の申し立てはずいぶん都合のいい話で、ふつうだったら勘定奉行の荻原重秀が難色を示すところだが、あっさりと了解した。それは、荻原重秀は腹案として、諸国高役金令を発することをもくろんでいたから。
早速うるう正月7日、災害復旧費の財源として、幕領所領ともに100石につき金2両の高役金(臨時税)を課税した。幕府の威光は相当なもので、3月末までにほぼ満額の48万8700両が集まった。このお金を集めることが重秀の目的だった。というのも、この徴収した税金の使途は、復興目的で使われたのは3分の1の16万両に過ぎなかった。元禄8年(1695年)に行った慶長金銀の元禄金銀への改鋳により500万両の出目(改鋳益金)を得ていたが、これは全部使い果していて、4年前の1703年の元禄地震での江戸城修理などの出費が重なって幕府財源は37万両しかなかった。この臨時税の残金は北野丸造営費に当てられた。そのため庶民派「藤野嶺の私領御領に灰降りて今は二両のかる?国々」(よく聴き取れなかった)というような狂歌を歌ったという。これ以後、高役金はあまりにも不評で、江戸時代に2度と災害時の臨時課税はされることはなかった。本来であれば、天命の飢饉や天保の飢饉でも相応の臨時税があってもおかしくはなかったが、そのようなことが一顧だにされなかったのは今回の荻原重秀の諸国高役金令があまりにも不評だったからと言われている。
災害からの復旧工事は、酒匂川の改修工事については、伊奈忠順(ただのぶ。通称は半左衛門。関東郡代で、架橋工事や治水工事などで実績があった)を砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行に任命して行ったが、なかなか進まなかった。というのも、実際の工事は町人請負ということで江戸の商人が落札して、彼らが利益を得るという工事だった。このため、最初の酒匂川の工事は2月に始まって5月に終了したが、早くも翌月22日の大雨で決壊している。以後堤防を改築しては決壊するという事態が何度も繰り返し、完全復旧するまでに70年以上を要した。
富士山の噴火について考察する。まず、富士山の噴火は巨大火山噴火として地球の気温を低下させる要因になるのかという点。この点について、宝永噴火と他の火山噴火を比較すると、宝永噴火は確かに江戸に甚大な被害を与えたかもしれないが、噴火の規模からすればそんなに大きくはない。過去の富士山噴火のマグマの噴出量をみると、延暦噴火が8000万立方メートル、貞観噴火が12億立方メートル、宝永噴火が(火山灰が多いので想定しにくいが)7億〜17億立方メートル。この規模だと、「火山の冬」というかたちで地球全体に寒冷化をもたらすような超巨大火山噴火には分類されない。
次に、大地震と富士山の噴火の関係について。貞観噴火では、噴火開始後の5年後869年5月に貞観地震が起こっている。この地震は東日本大震祭での地震に匹敵する。また23年後の887年には、南海地震も起きている。いっぽう、宝永噴火では、4年前の1703年12月に元禄地震が起きている。その時の津波は、鎌倉で8m、伊豆で8〜12mとされ、死者6700人、倒壊流失家屋28000戸とされている。ということで、地震が起きた後で噴火することも、噴火の後地震が起きるということもある。もちろん、地震が起きても噴火にならないケースがほとんど。
噴火した場所については、はっきりしている。神奈川県以東は関東スラブ[slab: 本来は四角く厚い板のことで、地学では海洋性プレートが沈み込んだ部分を言うようだ]があって、地殻が北西方向に向っている。静岡県以西は東海スラブによって地殻は西方向に進んでいる。だから、富士山の噴火は富士山の東南から北西にかけての斜面で起きやすい。ちなみに、貞観噴火は富士山の北西面、延暦噴火も北西面。宝永噴火も(山頂噴火に近かったが)南東面で起っていて、3つともすべて東南から北西という方向になっている。
富士山噴火の噴出物の量について。貞観噴火と宝永噴火では噴出物量そのものは14億立方メートルとほとんど変わらないが、貞観噴火は溶岩流中心だったのにたいし、宝永噴火は火山灰が中心。両噴火の噴出物を比較すると、噴出量や鉱物組織等はほとんど変わらない。にもかかわらず、地上に現われるさいの脱ガスや冷却が異なるために、貞観噴火では溶岩流中心、宝永噴火では火山灰中心になっている。だから、どこの場所でどのような噴火になれば、溶岩流中心になるかあるいは火山灰中心になるかは、起きてみなければ分からない。
火山灰の降灰のシミュレーションもなされている。夏は、南西モンスーンの影響で東京都西部や山梨県に火山灰が多く降る。秋・冬・春の3つの季節については、偏西風が卓越するので、火山灰は神奈川県から東京に向かう。とりわけ、冬場は偏西風が強いため東京まで火山灰が降ることになり、実際に宝永噴火の時にはそのようになっている。
◆第10回【火山噴火と「火山の冬」】
今回は、巨大火山噴火によって火山性噴出物が長期間成層圏に漂うことによる寒冷化を扱う。
●トバ湖
インドネシアのスマトラ島北部にトバ湖[北緯3度、東経99度付近。標高905m、最大水深529m]という大カルデラ湖がある。これは、74000年前の超巨大火山噴火があった、その火口が噴火口として残っているもの。長さ100km、幅30kmほどで北西から南東にやや細長い形[湖中に高さ500mくらいの、後でカルデラ内のマグマが盛り上がってできたサモシール島がある。湖水面積は1100キロメートル余]で、広大な噴火湖。噴出物の総量は2800立方キロメートルと言われている。[トバ湖をふくむトバカルデラでは、84万年前に噴出量が500立方キロメートル、50万年前に噴出量60立方キロメートルの、計3回の超巨大噴火が起こっている。]この噴火では、風下側の2500kmまで35cmの火山灰が積もったと考えられている。20世紀最大の1991年のピナトゥボ火山の280倍、過去2000年間で最大とされる1815年のタンボラ火山の18倍の噴火規模だと考えられている。
コンピュータのシミュレーションによると、地球全体の平均気温は3度から4度低下し、しかもとくにトバ湖近辺のインドから東南アジアにかけては8度近く低下したと考えられている。影響は少なくとも10年は続いたと見られている。グリーンランドの万年氷に含まれる酸素同位体を用いた気温分析では、数百年間の寒冷化も示されている。この時期に遺伝子上のボトルネックがあったという見方もあり、人口が1万人から3万人、ある説では5000人へと激減したという見方もある。[「ボトルネック効果」と言う。細いびんの首から少数のものを取り出すときには、元の割合から見ると特殊なものが得られる確率が高くなる、という原理から命名された。 生物集団の個体数が激減することにより遺伝的浮動が促進され、さらにその子孫が再び繁殖することにより、遺伝子頻度が元とは異なるが均一性の高い集団ができること。]
ところで、人類はいつ衣を着るようになったのか。2万年前の洞窟壁画で有名なラスコー洞窟では、動物の骨で作った針が見つかっている。だからこの時には、衣服を縫っていただろう、裁縫をしていたのだろう。直接的に衣服の痕跡という意味では、1991年9月、5300年前にオーストリアとイタリアの国境付近のアルプス山中のエッツ谷の氷河に転落していたアイスマン(男性)の発見がある。アイスマンの遺体は、干し草を詰めた靴(靴紐は牛革)、ヤギとヒツジの革のコート、ヤギ革のレギンス、クマの毛皮の帽子、草を編んだケープ、ヒツジ革の腰布が着いた状態で見つかった[詳しくは、
アイスマンの衣類に使われた動物を特定参照。なお、用いられていたヤギ革やヒツジ革は家畜化されたヤギやヒツジのものだという。これらの遺品から、当時の生活の様子もうかがえそうだ]。これらは、人が衣服を着けていた直接の証拠となる。
いつごろから人間は衣を着るようになったかについて、シラミが注目される。人に付くシラミには、アタマジラミ、コロモジラミ、ケジラミの3種がある。それぞれ、頭、衣、陰部の毛に生息し、そこでしか生きられない。これを宿主特異性と言う。遺伝子の配列からみると、ケジラミはアタマジラミやコロモジラミとはまったく違う、はるかむかしの1150万年前に分岐した別の種類。いっぽう、アタマジラミとコロモジラミの遺伝子配列からみた分岐は、72000年前。おそらくこの時期に人間は衣服を着るようになったのではないか。だからこそ、衣服を宿主とするコロモジラミが生まれたのではないかと想像される。トバ火山の噴火は74000年前。おそらく、トバ火山噴火による長期間にわたる火山の冬を経験し、現生人類は衣服を着るようになったのではないか。衣服お着ることにより、高緯度に位置するユーラシア大陸(ヨーロッパもふくむ)や南北アメリカ大陸に進出できたのではないか。
●イロパンゴ湖
アルタイ山脈とヨーロッパアルプスの年輪から推定した気温のグラフを見ると、530年代に急激に気温の下がった時期が見られる。536年は非常に異常な年で、世界各地で異常気候についての記述がある。これは、おそらく巨大火山噴火の影響ではないかという見方がある。
東ローマ帝国ユスティニアヌス1世麾下の名将ベリサリオスの顧問官のプロコピオス(500ころ〜562年ころ)が著した『歴史』の記述によれば、536年以降、太陽は輝きを失い月のように弱弱しかった。そして太陽がはっきり見ええず、日食のようだった。それ以来だれもが戦争、疫病により死んでいった。また中国でも、『北史』や『南史』に、536年9月に雹が降って大飢饉になった。537年7月には厳寒になって、8月に雪も降った、とある。これら文明社会だけでなく、メキシコシティ北東のティオティワカンという人口の密集した大宗教都市も、600年以上続いていたが、数百年に1度という大旱魃にみまわれて、飢饉と伝染病が広がって反乱が起こり、(放火?による)大火で神殿も焼かれて、滅亡にいたる。
このような異常な気象をもたらしたと思われる巨大火山噴火について、これまでインドネシアのクラカタウ火山や、もっと東のラバウル近辺の海底火山などいろいろな説があったが、近年有力視されているのが、中米エルサルバドルのイロパンゴ湖。噴火時期は408年から536年の間とされる。(標高440m、最大水深230m)面積は72平方キロメートルで、十和田湖を少し上回るくらいの広さのカルデラ湖。マグマ噴出量でみると、過去8000年間で上位5番目の噴火(VIE=6)。この噴火の結果、東ローマ帝国をペストが襲った。ペスト菌は、中国からインド経由での交易路によってもたらされたと考えられる。旱魃が起きると、ねずみにとって天敵である大型哺乳動物の数が減り、ねずみの数が増え、ねずみの生息域が山野から人間の住む場所へと拡大する。ねずみは、象牙交易の船にすみついて、エジプトのアレクサンドリアを経由して541年にコンスタンティノープルにペストをもたらしたと考えられる。死者数は2500万人から5000万人と推定されている。このため、東ローマ帝国は財政収入が激減する。ペスト菌に襲われた直後に貨幣の改悪を行っている。また財政悪化のため傭兵を雇う資金がなくなり、以降周辺国に蹂躙されていく。
いっぽう、ヨーロッパの西部では民族移動が起きて、568年にゲルマン系のランゴバルド(ロンバルトとも)族がイタリア半島に侵入。また、フランク族の最初の王朝であるメロビング朝はパリに首都を築く(クロービス1世)。メロビング朝はフランスのほぼ全土を征服するが、当時フランスで一番大きな都市はリヨンで、地理的にもフランスの真ん中辺で統一の場としては格好の場だったが、リヨンではペストが流行していたため、メロビング朝はずっとパリに都を置いた。ブリテン島では、ウェールズもふくめ西側にはケルト系の民族が住みローマとの交易が盛んで、ペスト菌に汚染される。そのため、東部に入ってきていたゲルマン系のアングロサクソン族がブリテン島の全域を支配するようになる。
中国でも王朝交代があり、581年に隋による中国統一、618年には唐による統一にいたる。イスラム教の勢力拡大もこの後で、622年にイスラム帝国が勃興し(ヒジュラ:メッカからメディナへの聖遷)、651年にササン朝ペルシアも滅亡。
日本でもちょうど継体王朝から欽明王朝への移行の時期で、2朝並立論もある。(継体天皇と欽明天皇の間の)安閑天皇(531?〜535?年。実際に即位したのは534年とする記録もある)と宣化天皇(535?〜539?年)の時代は非常に短い。安閑天皇(継体天皇の最年長の子)には後継ぎとなる子が1人も記録されていない。また、逸文ではあるが、「百済本紀」では辛亥の年(531年)に日本の天皇・皇太子ともに崩御するという記録もある。これらのことから、継体グループと欽明グループの間で内乱のようなものがあったのではという説も根強くある(詳しくは
継体・欽明朝の内乱参照)。
そして536年5月、宣化天皇の詔が日本書紀におおよそ次のように書かれている。「食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒すことは出来ない。真珠が千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか。……筑紫(ちくし)・肥後・豊前の食料倉庫[屯倉:みやけ]は遠く離れて散らばっている。那津[博多]の港に集めて非常の場合に備え、人民の命の料となるよう早急に郡県に命令を下し、私の心を知らしめよ」(詳しくは
飢饉対策・那津之口に官家を)。那津の屯倉(みやけ)は筑紫国にある食料倉庫。この屯倉については、飢饉対策だったのか、あるいは朝鮮半島経由での賓客対応なのか、2つの説がある。屯倉の整備については日本書紀に、安閑元年から2年(534〜535)においても15の屯倉の設置が記載されている。しかし宣化2(536)年のような逼迫したような記述はほかにない。そうしたなかで、蘇我稲目が屯倉整備関連で目立っつようになり、欽明16〜17年の屯倉の整備が記録されている。異常気象による食料難の時代、屯倉整備は喫緊の課題であり、それを任されたことが蘇我氏の台頭につながったのではと思われる。
●3つ目の火山噴火のエピソード:サマラス山
まず、鎌倉時代の正嘉の飢饉。1258〜1260年に起きた。日蓮の「立正安国論」は、冒頭で次のような飢饉・疫病の話から書き始めている。「天変地異が続出し、飢饉が発生し、疫病が流行した。災難が日本全土にひろがり、すでに大半の人々が死に絶えて、悲しまない人は1人もいない」。正嘉の飢饉の記録のある地域は、陸奥、宇全、甲斐、相模、伊勢、大和、京都、河内、紀伊、伊予と、日本の多くの諸国におよぶ。正嘉2(1258)年6月から異常低温の記録、飢饉とともに、1259年には疫病も流行。「天下飢え死にす、飢饉の年」「諸国大飢饉」といった記録もある。
同様の記録がイングランドにもある。マシュー・パリスが書いた「クロニカ・マジュラ』の中には、「1258年は今までにまったくない年だった。疫病で死ぬ者が多く、暴風が到来し、夏に農作物は実ったが秋に大雨で…地面に落ちてしまった」。ヨーロッパ各地でも飢饉の記録があり、1259年5月1日にロシア全土で寒さにより凍結があった。ボヘミア地方のプラハで異常低温があった。パリをふくめフランス各地、ドイツ西部、イタリアのボローニャなどで、穀物価格が上昇した、と記録されている。中東のイラクやシリア、トルコ南部でも飢饉があったと書かれている。
また、イングランドの歴史家ジョンド・タクスター?の『年代記』の中に、皆既月食についての奇妙な記録がある。「1258年5月15日の皆既月食では、月は完全に消えた。いっぽう、1265年12月14日の皆既月食は、いつも通りの皆既月食で、月面は血のように赤かった」。皆既月食ではふつう、月が地球の影に全部隠れると、赤っぽくなる。皆既月食で月面が赤黒く見えるのは、[太陽光の中の長波長の赤い光が大気中で屈折して地球の影の中に入り込み]赤い光が月面を照らすことによる。1258年の皆既月食で月が完全に消えた理由は、巨大火山噴火の影響ではないか。成層圏に火山噴出物が達すると、エアロゾルの関係で赤い光も散乱されて、月面を照らす光が減少する。そのため、月面は赤くならず、黒く見える。皆既月食で月が黒くなった事例として、1982年3月から4月のエルチチョン火山(メキシコ南部チアパス州北西部にある火山。標高約1200m。Wikipediaによれば、噴煙は高さ16000mにまで到達、大量のエアロゾルが成層圏に撒き散らされ、そのため世界全体の平均気温が0.3℃〜0.5℃ほど低下したと言う)、1991年のピナトゥボ火山の噴火がある。
1258年の黒い月食や飢饉の真の原因はなにかということで、巨大火山噴火が考えられてきた。実際にどこの火山噴火なのか長らく見つかっていなかったが、2013年ようやくここかも知れないという火山が特定された。それは、インドネシア・ロンボク島のサマラス火山。サマラス火山の噴出物は、グリーンランドや南極の氷床の火山灰中の成分と一致したので、ほぼ間違いないだろう。火山の斜面で炭化した木片の放射性炭素のデータ等から、噴火は1257年5月から10月と推定されている。文献的な証拠としても、当時火山灰の降下や火砕流があったという記録もある。ちなみに、この火山噴火によって生じたと思われる飢饉などにたいして、日本ではどう対処したか。京都では、奈良時代より変わらず、寺等への祈祷・祈願が行われたが、この時東北地方でふしぎな指示が出されている。これは、1259年2月に陸奥国向けに出された、関東御教書という、執権北条長時と政村の指示。「諸国飢饉のあいだ、近隣や遠方の救われない人々が山野に入って山芋や野老[トコロ。根は灰汁抜きをすれば食べられる]を取り、あるいは川や海に入って魚や海藻をもとめている。これは、生きるための非常手段と言える。しかしながら地頭はこれを禁じている。流浪の人の生命が保たれることを優先し、地頭の行為は禁止されるべきである」。当時、入会地でみだりに狩猟したり採集したりすることは禁止されていた。ところが、東北地方では寒冷湿潤な気候によって農業が困難になり、人々が狩猟採集生活に転落する事態が起こった。地頭はそれを禁止しようとするが、幕府は入会地での採集漁労を容認したということが書かれている。
●ワイナプチナ火山
4番目の事例は、ペルー南部にあるワイナプチナ火山。1600年2月17日から噴火。火山灰・火砕流などの噴出物の総量は、1815年のタンボラ火山の5分の1、ピナトゥボ火山の3倍と言われている。南米から中米の火山の場合には、硫黄の成分が多いため、火山の冬の影響がとくに大きかったとされている。ヨーロッパでは、1601〜02年に厳冬が訪れ、ロシアでは50万人以上が死ぬという歴史上最大の飢饉が起こっている。フランスでも1601年のブドウの収穫は1500〜1700年の200年間で7番目に遅かった。ドイツではワインの製造が過去75年間の平均の5%以下に落ち込み、産業そのものが破綻した。日本でも諏訪湖の御神渡り(結氷)の記録があるが、その記録を見ると500年間でもっとも早い、すなわちもっとも寒冷な年の1つとされている。
●タンボラ火山
1815年4月、インドネシア中南部のスンバワ島にあるタンボラ火山が大噴火[VEI=7。火山噴出量は150立方キロメートル]。1991年のピナトゥボ火山の8倍に相当する。インドネシアでは直接的な影響として、気温の低下、噴火に伴う地震などによって、餓死者も含め9200人が死亡。はるか離れたロンドンでは、1815年の夏の夕日は火山性噴出物で赤やオレンジの色がふつうに見えなかった。ヨーロッパの中西部でも、1810〜19年の10年平均で1〜3℃低かった。アメリカでは、コネチカット州で翌年1816年6月4日に霜が降り、あるいはニューヨーク州の州都オールバニーでは6月6日に雪が降っている。この年は、尋常でない寒冷な天候から「夏のない年(Year Without a Summer)」と言う表現が長く残っている。
20世紀の5大火山噴火を挙げると、1902年のグァテマラのサンタマリア山、[1912年のアメリカ・アラスカ州のノヴァラプタ山、]1980年のアメリカ・ワシントン州のセントヘレンズ山、1982年のメキシコのエルチチョン山、1991年6月のフィリピンのピナトゥボ山。[このうち、サンタマリア、ノヴァラプタ、ピナトゥボはVEI=6、その他はVEI=5]
巨大火山噴火による寒冷化について、気候変動に関する政府間パネル IPCC でのモデルでのシミュレーションでは、サンタマリア山、エルチチョン、ピナトゥボ火山など、それぞれ火山噴火の影響はしっかりシミュレーションに反映されている。そして、IPCC第5次報告書では過去の気温についての要因分析をしている。まず地球全体の平均気温の変化を書いた上で、要因を分けて、エルニーニョ現象による要因、火山噴火による要因、などを示す。火山噴火の要因の場合、ピナトゥボ火山噴火は極端に大きな寒冷化の要因になったと書いている。また、太陽活動の影響もある。人為的要因としては、温室効果ガスの要因と硫酸・硝酸などのエアロゾルの要因をそれぞれ書いている。人為的影響を見ると、1970年までは人の活動の影響はマイナスのほうが大きかった。と言うのは、温室効果ガスによる影響よりも、工場や自動車による亜硫酸ガスなどの排出による硫酸エアロゾル・硝酸エアロゾルによる寒冷化の影響のほうが大きくはたらいた。
破局的な火山噴火=火山爆発指数 8の超巨大噴火はあるのか。発生確率は5万年に1度とされている。3つの候補があげられている。1つは、アメリカ・ワイオミング州北西部のイエローストーン。カルデラの大きさは直径約50キロで、タンボラ火山の約10倍。210万年前、130万年前、64万年前と、およそ60〜70万年の周期で噴火していたという意味では噴火の可能性はあるが、直近の観測でもマグマだまりにまだマグマは溜まっていない。74000年前に噴火したトバ火山も、巨大なマグマだまりがあるので、いつ噴火してもおかしくはないかも知れない。歴史上もっとも新しい火山爆発指数8の爆発は、26000年前のタウポ火山(ニュージーランド北島のほぼ中央に位置し、噴出量は約1200立方キロメートル)。
人為的地球温暖化の場合、その進行は比較的ゆるやかなので、適応を考える時間がある程度ある。しかし、超巨大火山噴火が起こった場合、突然の急激な寒冷化になるので、全世界はおそらくパニックになるだろう。国際商品流通で食料や物資の供給を受けている現代人・都会人にとっては、おそらく極めて困難な状況になるだろう。生き残れるとしたら、他の世界と断絶してでも生存可能な生活を行っている人々になるだろう。ただし高度な文明は失われ、狩猟採集生活かせいぜい初期の農業に戻ることになろう。そして人類は、トバ火山噴火の時のように、人口減少の痕跡を遺伝子に残しつつ、ふたたび将来に向けて前進していくことになるかもしれない。
◆第11回【最終氷河期以後の気候推移】
今回は、氷河期が周期的に訪れるメカニズムと、最後の氷河期以降の長期的な気候推移を取り上げる。
アルプス氷河の過去の前進・後退を調べるなかで、氷河期が何度も繰り返されていることが発見された。ドイツ人の地理学者アルブレヒト・ペンク(Albrecht Penck: 1858〜1945年)と地質学者エドガー・ブリュックナー(Eduard Bruckner: 1862〜1927年)が、20世紀初め、共同で書いた論文の中で、氷河期が4回起きたとした。最近のものから順に、ヴュルム氷期[1万5千〜7万年前]、リス氷期[13万年〜18万年前]、ミンデル氷期[23万年〜30万年前]、ギュンツ氷期[33万年〜47万年前]などと名付けられた。
その原因については、宇宙説、地球軌道の変化、太陽放射の変動、太陽と月と地球の潮汐力、地表の変化、海流の変化、大気成分とりわけ二酸化炭素の変化、あるいは火山活動といった様々な説が当時出されていた。こうしたなかで、セルビアの天文学者ミルティン・ミランコビッチ(Milutin Milankovitch: 1879〜1958年)は、様々な氷河期についての仮説の中で、ただ1人、イギリスのジェームズ・クロールの地球軌道説に注目。地球軌道について3つの要因があり、その要因によって気温が変化するなかで、とりわけ夏の気温の低下が氷期到来の大きな要因ではないかと考えた。冬の寒さの厳しさではなく、夏が寒冷であれば冬に積もった雪が溶けずに万年雪万年氷になる、ということに着目した。そしてミランコビッチはニュートン力学と熱力学を用いて、30年間にわたって、第1次世界大戦で兵役に就いている時も、またオーストリア軍の捕虜になって禁固刑で入獄した時も、ずっと計算を続けた。研究に没頭するあまり、先祖伝来の家屋敷まで売り払ったという。その時に「豪華な墓地ではなく、自分の業績で家の名を高めたい」と言って、先祖に許しを乞うたと伝えられている。[ミランコビッチは、1941年に「地球への日射の規律とその氷河期問題への応用」という本を書き上げた。]
ミランコビッチが考えた3つの軌道の要素というのは、公転軌道の離心率(約9.5万年周期)、地軸の傾きの変化(約4.1万年周期)、歳差運動(回っているコマの軸が首を振るような運動。約1.8〜2.3万年の周期)。これらが軌道の3要素。公転軌道の変化については、真円に近くなるか楕円になるかで、離心率が大きくなると太陽放射の変化も大きくなる[離心率は 0.005〜0.06で、地球と太陽間の距離は最大約1800万kmも変化する]。地軸=自転軸の傾きは、22.1°から24.5°まで(現在は23.45°。)。傾きが大きくなると、夏と冬の太陽放射の変化が大きくなる。歳差運動によって近日点が変化し、どの季節に太陽にもっとも近くなるかが変化する。現在は 1月が近日点で、北半球では冬、南半球では夏だが、8千年前は北半球の夏が近日点だった。歳差運動そのものは約2.6万年周期だが、一般相対論により近日点移動が起こるので[近日点移動はほとんどが木星など他の惑星の重力の影響で説明でき、相対論的な効果は極めて小さい]、1.8〜2.3万年の周期で春夏秋冬を 1周している。
注目されるのは、北半球の夏。ミランコビッチの着目点は、陸地と海洋をみると、太陽放射の吸収量が違う。陸地は温まりやすいがすぐに冷える。海は温まりにくいが、いったん熱を保存すると熱を長く保ち、冷えにくい。また、大陸では冬に万年雪万年氷が広がると、太陽光を反射し、反射することによって寒冷化が進む。こうして、北半球の日射量が現象すると地球全体の寒冷化を引き起こすのではないかと考えた。(南半球で日射量が現象した場合はどうかというと、北半球では万年雪万年氷におおわれる場所は北米大陸をはさんでユーラシア大陸の非常に広い面積におよぶが、南半球では南極大陸だけで、雪氷面積は広がらない。それで、北半球の日射量が非常に重要だと考えた。)
ミランコビッチのこの説は、一部の学者は注目していたものの、約20年間は変わった説として扱われた。
ところが、チェーザレ・エミリアーニ(Cesare Emiliani: 1922〜1995年)という、イタリア出身で(ボローニャ大学卒業後)シカゴ大学に渡った研究者が、大西洋などの海底堆積物から採取した有孔虫に含まれている炭酸カルシウムの酸素同位体比から海水温を推定する研究を1950年から始めた。そして、1955年、「更新世の気温」("Pleaistocine Temperatures")という論文を出す。その中に、ミランコビッチ・サイクルの中の離心率の変化に伴う周期=約10万年周期が表われた。さらに、過去50万年の海底堆積物の中から、水温、酸素同位体比、そして放散虫の分布を調べて、その周期性を解析すると、ミランコビッチ・サイクルの10万年、4万年、あるいは2万年と、サイクルが表われてきた。こうして、ミランコビッチの30年間の計算の成果が報いられた。現在は、南極の氷の柱(氷晶コア)を分析して、過去80万年の中に8回の氷期が到来したことが分かっている。
[16O/18Oの酸素同位体比から海水温を推定できるメカニズム:海水(H2O)は、ほとんどが16Oの水(軽い水)で、ごく少量の18Oの水(重い水)を含む。海水が蒸発する時は軽い水のほうが蒸発しやすく、降雪によって氷床に取り込まれやすいのは重い水よりも軽い水のほうになる。そのため、氷床が拡大する氷期の海水は相対的に重い水が多くなり、逆に氷床が縮小する間氷期の海水は軽い水が多くなる。有孔虫の石灰質の殻には、海水温が低い氷期ほど、重い海水の18Oがより多く取り込まれるので、酸素同位体比18O/16O は氷期に大きく間氷期に小さくなる。]
さらに、海底の堆積物をみると、およそ過去500万年間の水温の推定もできる。これをみると、約100万年前から氷河期は10万年周期となっている。なぜ10万年周期の氷河期になったのか、とくに3つの要素の中で離心率が重要な要素になったのかは、長い間分からなかったが、2013年に東京大学教授の阿部彩子さんのチームが、万年雪と万年氷の加重によって大陸が伸縮する、このことによって10万年周期が表われるということを提唱している。ただし、100万年前を境に、周期性が4万年から約10万年に変わったことの理由についてはまだ解明されていない。
氷期と間氷期のサイクルには、非対称カーブと呼ばれるものがある。日射量の変化によって、万年雪万年氷の発達が左右される。日射量が減少すると、万年雪万年氷の面積はゆっくりと徐々に広がってゆき、それに伴って寒冷化もゆっくり進む。しかし、いったん北半球の日射量が増えて、万年雪万年氷が融け出すと、雪氷面積が急減し、急速に温暖化することになる。過去の推移をみても、9万年間ゆっくりと氷期の極に向かった後、 1万年間いっきに暖かくなるというカーブを示している。
1960〜70年代には、もうすぐ氷河期が来ると言われた。イギリスの古い気候を研究したヒューバート・ラム(Hubert Lamb)は、もうすぐ氷河期が来ると主張し続け、「雪男」とあだ名を付けられたりした。また気象庁で長年長期予報を担当した根本淳吉は、1970年代は寒冷化を提唱し、『冷えていく地球』(1974年)もベストセラーになっている。気象庁は、アメリカ海洋気象庁が1973年に行ったアンケートにたいして、「現在の間氷期はすでに1万年くらい経過しており、あまり長く続かないかも知れない。今後千年から数千年のうちに、氷期の気候状態に急速に移行する時期があると想像される」というように返答している。
実はそうではなかった。公転軌道の離心率の周期は約9.5万年だが、もう1つ約40万年周期もあることが分かった。現在の間氷期と同じように、40万年前にも間氷期があった。前回の間氷期が1万年余で終わったからといって、今回の間氷期が1万年で終わるわけではなく、40万年前とも比較しなければならない、ということになる。
南極の万年氷について、ヨーロッパの調査グループ EPICA(European Project for Ice Coring in Antarctica)が、現在の間氷期を40万年前の間氷期と比べて、まだまだ続く、という内容の論文を発表した。これが、気候変動に関する政府間パネル IPCC 第4次評価報告書に書かれていて、「低い離心率は今後数万年は続く。このことが、歳差運動の影響を極小化する。前回の間氷期において11.6万年前に起きたような、地球の軌道要素によって北半球が急激に寒冷化することは、少なくとも3万年は起こらないだろう」。これが、現在多くの学者が受け入れている説明の仕方になっている。
ところが、もう1つの仮説がある。40万年周期であれば、その前の、約78万年前をを参考にすべきではないかというもの。この78万年前の間氷期では、地球軌道の3要素は現在とほぼ一致しており、また北緯65度の日射量も現在とほぼ等しくなっている。こうしたことから、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの自然地理学の教授クロニン・チェダキス?という人が、2012年に Nature Geoscience に論文を発表。地球軌道の3要素について、41万年前の間氷期よりも、76万年前に始まる間氷期に現在は酷似している。その場合、1500年後に新たな氷河期に入るかも知れないと結論付けている。ただし、大気中の二酸化炭素濃度が240ppmを下回らないならば(?上回らないならば)、という但し書きも付いていた。こうした一連の動きについて、アメリカ地球物理連合会が、様々な論文を集めてそれを検証するかたちでレビュー論文を2016年に発表。この中では、過去、氷河期に入る時期においては、太陽放射だけでなく、大気中の二酸化炭素濃度がいつも250ppm以下であり、ミランコビッチの考えた地球軌道の3要素だけでなく、大気中の二酸化炭素濃度も大きな要員だ。そのうえで、現在の二酸化炭素濃度であれば、歳差運動による北半球の日射量減少での気温低下を補うのではないか、としている。はたして、地球の軌道要素の変化によって氷河期が来るのか、あるいは現在のように大気中の二酸化炭素濃度が高ければ氷河期は起きないのか、議論は続くと思われる。.
氷期が終わる間際の時期に、異変が起きた。北半球の日射量が増えることで最後の氷期が終焉するのだが、突然急な寒の戻りがあった。ヨーロッパの地層を掘ると、ある時期だけドリアス(日本語名は、これを初めて報告した須川長之助にちなんで、チョウノスケソウ)という、寒冷な地に咲く草花の花粉が大量に見つかる。この時期がヤンガードリアス(Younger Dryas)期と呼ばれて、12900年前から11500年前に相当する。なぜこのヤンガードリアス期が起こったのか。1つの説では、氷河期の時代北米大陸は大きく万年雪万年氷に覆われていた。ところが、万年雪万年氷は氷期の終わりとともにその面積を徐々に狭めてゆき、融けた水が現在の五大湖の西側に巨大な湖を形成した。これはアガシー湖と呼ばれる[Lake Agassiz。最大時の面積は44万平方キロメートルにもなった]。このアガシー湖が決壊して、大西洋、メキシコ湾、あるいは北極海に大量の冷たい真水が流れ込んだ。このことで、気候が激変したのではないかという説がある。
世界各地にヤンガードリアス期の寒冷化の痕跡が残っている。オレゴン州の鍾乳石、ニューメキシコ州の鍾乳石、あるいは海面水温では、大西洋北西域、ベネズエラ、大西洋西部、また湖でもアフリカのタンガニーカ湖など。とくに、アガシー湖が決壊した後大量の冷たい淡水がセントローレンス川を通って大西洋に流れ込んでいったことにより、大西洋の海流の循環が変わったというのが有力な説[セントローレンス川を通って北大西洋に流れ込んだ膨大な量の淡水は、比重が海水より小さいこともあって北大西洋の表層に広がり、メキシコ湾流の北上と熱の放出を妨げた結果、ヨーロッパは急激に寒冷化した]。ただこれもまだ確定したものではなく、ヤンガードリアス期の発生原因については、隕石衝突説を称える学者もいる。
このヤンガードリアス期において、ヨルダン川西域の気候にもおそらく変化があっただろう。ヨルダン川西域のナトゥーフという地がヤンガードリアス期の気候変動の影響を受けたかということについて、東地中海の海面水温が下がっており、また死海の湖面水位が上昇しており、なんらかの変化はあった。ハートマン(Hartman)が、アメリカ科学アカデミーの学会誌に2016年4月に発表した説がある。ヨルダン川西域で狩猟されていたガゼルの歯の炭素同位体の分析から、ヤンガードリアス期の気候は寒冷で雨が多くなったと推定される。そうなると野生の植物の成長は困難になっただろう。そのため、ナトゥーフにいた人類が世界最古の町と言われるイェリコなど参観の村落からより植物の豊かなヨルダン渓谷へと移住したのではないか。そして、これが農耕開始のきっかけとなったのではないか。
イスラエルのエルサレム博物館にある23000年前の野生種から採れた穀物と、11000〜9100年前のイルガル?遺跡からとられた栽培種の穀物を比較。人間は、氷期時代から野生種を貯蔵していた。それから農耕が開始されるまでは1万年以上かかった。なんらかの強いきっかけがなければ、栽培する動機は生まれなかった。現在でもアフリカ南西部のサン族など狩猟採集民は、なかなか農業を行おうとしない、そういった動機を持たないとされている。ハートマンの論文は、農耕のきっかけというのは、ナトゥーフの地からヨルダン渓谷へ居住地を移し、人口増加もあり、その地での豊富な野生種を利用して農業が生まれたのではないかと主張している。
農業の拡散は、その後、8000年前には小アジア半島、7500年前にはギリシア、7000年前にはイタリア南部にも上陸して、5500年前にはヨーロッパ大陸に広範囲に広がり、5000年前にはイギリスまで波及した。
また牧畜業も、中東ではガゼルが繁殖期に合わせて季節移動することを利用して、塀で囲い込んで狩猟を行っていた。ところが、ヤンガードリアスの食料不足の時期は、ガゼルのこどもの骨も増加している。それまではこどもは食べていなかったが、こどもまで食べるようになったため、中東でガゼルが急速に減少し、やがて絶滅してしまう。そうしたなかで、11000年前にレバント北部のザガロ?高地でヒツジの牧畜を開始する。牧畜業も、ヤンガードリアス期の食料不足、気候変化のなかで生まれたと考えてさしつかえない。
ヤンガードリアス期が終わって、8000年前から6000年前ころが、地球全体の平均気温のピークだった。その後、ずうっと気温が低下してきた。この50、60年間、人間由来の温室効果ガスによっていっきに気温が上昇した。
なぜ、8000年前から6000年前に気温が高かったのか。地球軌道の変化で、8000年前までは北半球の日射量が大きかった。ところが、この北半球の日射量が8000年前以降徐々に減ってくる。5500年前を過ぎたころから、地球全体の平均気温が顕著に低下してきた。この傾向が、各地の気候を変えていく。サハラ砂漠の真ん中に、タッシリナジェルという、世界遺産にもなっている壁画(岩に刻まれた絵)がある。この壁画では、ワニやカバとともに、人が泳ぐ姿まで刻まれている[この地域がかつて水が豊富で、湿潤な気候であったことを示している]。6000年前から5000年前にかけて、気候の状態が世界全体で変わったと言える。高緯度・中緯度では寒冷化が顕著で、亜寒帯林の北限が南下した。熱帯収束帯が南下して、モンスーンが弱くなった。サハラ地域の砂漠化もこのころから始まる。エルニーニョ現象も力を増してきた。これは、気候システムが一定の変化の中で非線形なふるまいをしただろうと考えられている。おおまかな傾向としては、赤道を中心とした低緯度側では乾燥化し、中緯度側では寒冷化した。アフリカのチャド湖も、かつては広大だった。7000年前までは100万平方キロメートルと、現在の78倍もあった。その理由は、大西洋からアフリカ北部の内陸に向って吹くモンスーンがあったから。このモンスーンが弱くなったことで降水量が減って、徐々にチャド湖は小さくなり、2000年前からは現在の湖面水位となっている(チャド湖の縮小は、最近の急激な温暖化の影響によるものではない)。
エジプトからサハラ東部までの遺跡の推移ををみると、氷期には草原もなく、遺跡はナイル川周辺にかたまっていたが、11500年前から9000年前(氷期が終わった後)には、遺跡がナイル川を離れて非常に拡散している。9000年前から7300年前までも、同様に拡散している。ところが7300年前から5500年前になると、徐々にナイル川周辺に集落の遺跡がかたまってくるし、サハラの砂漠化によってまったく遺跡がなくなる所もある。たまに遺跡がある所は、オアシスのある所。ナイル川でエジプト文明が登場するのは、5500年前以降。5100年前につくられたとされている「戦場のパレット」と言われる青銅器には、ライオンが勝者の姿として描かれている。牧畜民は、気候が乾燥するなかで、ナイル川周辺の草原で定住を開始した。川沿いの地で牧畜を放棄し、生活基盤を農業へと転換していった。ナイル川沿いに洪水で氾濫してできた平原は、農業を行うのに絶好の地だった。ファラオの語源には、「民を導く羊飼い」という意味があるとも言われている。エジプト文明はもともとは遊牧民の発想から継承されたものだという可能性が高いとも言われている。「戦場のパレット」に描かれたライオンは、草原に生息する動物で、ナイル川流域にはいない。このことも、エジプト文明の先祖がどこから出てきたかということを象徴しているかのようだ。
[戦場のパレット: 先王朝期末、ナカーダV期(おそらく5200年前前後)のパレット。表側には、獰猛なライオン(=王)が敵に食らいついているところが描かれているという。上下エジプトを統一した第1王朝の最初の王ナルメルの「ナルメルのパレット」(おそらく5100年前ころ)には、王の象徴として雄牛が描かれ、それを2頭の牛の姿の神が見守っているらしい。これも、先祖が牛の牧畜民だったかも知れないことを表しているのかもしれない。]
◆第12回【太陽活動の活発期と低迷期】
今回は、過去数千年の気候を大きく動かした要因の1つである、太陽活動の活発期と低迷期を取り上げる。
ジョン・アレン・エディ(John Allen Eddy)、通称ジャック・エディと言う太陽物理学者がいた。1931年にネブラスカ州の小さな町に生まれ、2009年に亡くなっている。1953年にアノポリスの海軍兵学校を卒業後、朝鮮戦争に従軍した経験もある。その後、コロラド大学で太陽物理学を学んで、太陽風の研究が専門だった。1961年に学術博士号を取得。その後研究職の道を歩んでいたが、1973年にアメリカ大気センターの予算削減のあおりを受けて解雇されてしまう。研究者として失職中に、NASAのスカイラブ計画のパンフレットを書くなどサイエンスライターというかたちで生活費を稼ぐという日々をおくる。研究者としては辛い時期だったかもしれないが、自由にできる時間があったということで、アメリカ東部に足を運んで、ハーバード大学や海軍天文台で残っている過去の文献をずうっと読んでいた。そうしたなかで、グスタフ・シュペーラー(Friederich Wilhelm Gustav Sporer: 1822〜1895年)およびエドワード・マウンダー(Edward Walter Maunder: 1851〜1928年)が書いた太陽黒点についての論文を見つけ、17世紀の太陽活動に関する論文を発表した。
グスタフ・シュペーラーは、19世紀のドイツの天文学者で、新設のポツダム天文台[1879年に完成]の観測主任だった。彼は天文台建設中に、(建設中はなにも観測できないので)過去の観測記録を読んでいた。そして17世紀の太陽黒点を調べてみると、1645年から1715年にかけて、太陽黒点がなかった、そういう時代があったことを見つけた。そのことをグスタフ・シュペーラーも論文に書くが、ほとんどだれも気に止めなかった。ところが十数年後、ロンドン王立グリニッジ天文台の太陽部監督官の職にあったエドワード・マウンダーが、グスタフ・シュペーラーの論文に注目した。そして、1894年に、過去の書籍や雑誌の記録から、1645年から1715年にかけて太陽黒点がほとんど見つかっていないということを王立天文学会史に発表。とはいえ、マウンダーの論文も、シュペーラーの論文同様、世の中の関心を集めることはなかった。
シュペーラーの論文とマウンダーの論文を発見したのが、ジャック・エディだった。そして彼は、1976年6月、「Science」誌上に "The Maunder Minimum"というタイトルで論文を発表、副題は「ルイ14世の治世は太陽活動がとても異常だった時期のように見える」(the reign of Louis XIV appears to have been a time of real anomaly in the behavior of the Sun)。この論文を発表後、ジャック・エディは年に50回の講演をこなす話題の人となり、1987年にはアメリカの科学アカデミーからメダルまで授与されている。失業中の論文あさりからこのような成果を出したという点では、人間なにが幸運をもたらすのか分からない、そういう典型的な例かと思う。
太陽黒点数と太陽活動について。黒点そのものは温度が低いので黒く見える。黒点の周囲には、白斑・プラージュと呼ばれる高温の場所ができる。このプラージュ=高温の場所は黒点が多いほどたくさんできるということで、黒点数が多いということは太陽活動が活発だということを意味する。逆に言えば、シュペーラーやマウンダーが見つけた黒点がほとんどないという状況は、太陽活動の低迷期ということになる。
では、黒点の観測が行われる以前の時代の太陽活動は、どのようにして強弱を測るのか。黒点観測が始められたのはガリレオ・ガリレイ以降=17世紀以降。それ以前の太陽活動の強弱の推定は、炭素14とベリリウム10の同位体の比率によって追及される。太陽圏の外から飛来する宇宙線が大気上層に入ってくると、窒素などと衝突するプロセスを経て、炭素14やベリリウム10を生成する。ところが、太陽活動が活発だと、太陽風が盾になって宇宙線がはじかれてしまう。だから、生成物の炭素14やベリリウム10が多いか少ないかによって、その時の太陽活動が活発だったか低迷していたかが分かる[炭素14やベリリウム10が多ければ太陽活動は低迷、少なければ活発]。[炭素14は光合成によって樹木年輪に固定され、ベリリウム10は雪氷に含まれて南極などの氷床中に固定される。炭素14は半減期5730年で、β崩壊で窒素14になる。ベリリウム10は半減期139万年で、β崩壊でホウ素10になる。]
炭素14とベリリウム10の違い:大気上層でできるということではどちらも同じだが、炭素14は炭素循環の一環で大気から海洋にかけて数年から数十年間漂い、その過程の中で光合成によって樹木の年輪に取り込まれる。だから、年輪から分かる年代は実際の年代と若干タイムラグがある。いっぽう、ベリリウム10は雪とともに地表に積もり、万年雪万年氷の柱の中から採取される。だから、タイムラグ、時間のずれは少ない。2019年6月に武蔵野美術大学の宮原ひろ子准教授と弘前大学のチームが、トラバーチンという石灰質の堆積物中の年層に含まれるベリリウム10から、太陽活動の変化を数十年前までさかのぼって1年単位で詳しく解析する手法を発表した[論文の原題は「High-resolution records of 10Be in endogenic travertine from Baishuitai, China: A new proxy record of annual solar activity?」、
プレスリリースはこちら。トラバーチンは、湧泉や温水中に溶けていた石灰分が沈澱して堆積したもので、堆積の跡がしばしば平行な薄い縞状になっている]。
太陽活動の周期について。一番有名なのは、約11年の黒点周期。黒点周期は、活発期は7〜8年、低迷期は13〜15年というように、伸び縮みする。また、ある黒点周期と次の黒点周期では磁場の極性や極磁場の極性が反転するので、これを考慮して22年周期とすることもある。このほか、過去の太陽活動の動きをスペクトル解析すると、87年周期、208年周期、あるいは、510年、710年といった周期も検出されている。1500年から2300年といった周期の可能性を主張する研究者もいる。
必ずしも太陽活動と関連するかどうかは確定していないが、氷期の間の気温の変動をみると、5万年前以降約1500年ごとに温暖な時期があったとされている。これが、ダンスガード・オシュガー・サイクルと呼ばれるもの。[ダンスガード・オシュガー・サイクル(Dansgaard-Oeschger cycle):ダンスガード(Willy Dansgard: 1922〜2012年)はデンマークの古気候学者で、氷床コア研究の先駆者。オシュガー(Hans Oeschger: 1927〜1998年)はスイスの気候学者で、氷床コアの分析から、氷期−間氷期の大気中の二酸化炭素濃度の変化を初めて測定し、氷期の二酸化炭素濃度が現在の半分くらいだったことを明かにして、大気中の二酸化炭素濃度の増加による地球温暖化を警告した人。彼らは、グリーンランドの氷床コアの酸素同位体比の解析から、最終氷期において、急激な温暖化と緩やかな寒冷化が何度も繰り返されていることを明らかにした。数十年で5〜7℃(ときには10℃近く)上昇し、その後500年から2000年以上かけて緩やかに寒冷化するというような気温変動が24回も確認されたという。このうち、2000年以上の長い周期の9回の気温変動は、南極のボストーク基地の氷床コアでも確認されるという(
最終氷期における気温変動-Dansgaard-Oeschgerサイクルとハインリッヒ・イベント-)。
最終氷期が終わった後についても、ボンド・サイクルと言われる周期的な変動があると言われている。北大西洋の海底の堆積物を掘って、その中に含まれる、陸地から海洋に流れ込んだ氷山が運んだ岩屑の数を調べてみる。岩屑が多い年代は、より多くの氷山が北大西洋に流れ込んだと解され、この年代は寒冷だったろう。そして氷期が終わった完新世以降、1000年ごと(かつては1500年ごとと言った)に、周期的に岩屑が増加する時期があった。そしてその時期は、太陽活動の低迷期と一致していると言われている。
過去4500年間の太陽活動の特徴をみてみると、寒冷だったり温暖だったりの時期がそれぞれある。ホメロス極小期:紀元前850〜前500年ころ。[ギリシア極小期:前440〜前360年ころ。]ローマ極大期(温暖期):前250〜400年ころ。[中世極小期:640〜710年ころ。]中世極大期(温暖期):950〜1250年ころ[この中に、オールト(Oort)極小期:1040〜1080年ころがある]。[ウォルフ極小期:1280〜1340年ころ。]シュペーラー極小期:1420〜1530年ころ。マウンダー極小期:1645〜1715年。[現代極大期:1780〜。その初めに、ダルトン(Dalton)極小期:1790〜1820年があった。]以下、特徴的なことをいくつか紹介する。
●ホメロス極小期
炭素14の大量の生成が、前850年ころと前300年ころにある。前800年から前700年ころは、氷河の前進によってザルツブルクの塩の鉱山が閉鎖され、貿易が衰退したりする。ブリテン島でも、森林帯が草原に変わったりした。ギリシア文化も変容が見られた。人物像の姿を見ると、ミケーネ文明やミノア文明の陶器?には半裸体、服を着ない姿が多い。ギリシア古典期になると、羊毛を用いて暖かい衣服を着るような姿が見られるようになる。また住居の屋根は、古典期以前は平らであったのにたいし、パルテノン神殿もそうだが、三角屋根(ペディメントと言う)も採用されている。積もった雪を滑り落とすために、このような屋根になったとも言われている。オリンポス山に雪が積もるという現象もこのころから。
また、北欧神話に「フィンブルの冬」というのがある。このことについて、スウェーデンの気象学者トール・ベルシェロン(Tor Harold Percival Bergeron: 1891〜1977年)は、1つのアイディアを出している。ベルシェロンは20世紀前半を代表する気象学者で、雲の中での雨粒の生成[雲の中に小さな過冷却水滴と氷晶が共存すると、氷晶の回りに過冷却水が蒸発した水蒸気が次々に付着して急成長し雨粒になるというもので、ベルシェロン過程と呼ばれる]や、低気圧の急速な発達について業績を残した。ベルシェロンは、スカンジナビア氷河の前進や後退を分析した。そして、2800年前に大きく前進したことに注目。それは、14世紀や19世紀の小氷期[14世紀から19世紀半ばまで続いたとされる寒冷な期間。原因としては、太陽活動の低下や活発な火山活動があるようだ]の時代と同じくらい前進したのではないか。ベルシェロンは、この寒冷期は民族にとって重要なものではないかと考えた。北欧神話は、13世紀のアイスランドの詩人スノーリ=スツルソン(1178〜1241年)の書いた「エッダ」が現在残っている。この北欧神話の中に、「ラグナレク」(「ラグナロク」とも)伝説というのがある。その冒頭に出てくるのが「フィンブルの冬」というエピソード。その中に、「風の冬、剣の冬に続き、狼が太陽も月も星も呑み込み、暴風とともに雪が舞い、 3回の冬がやってきて、その間に夏はなかった」という言葉がある。「ラグナレク」はもともと「神々の暗闇」という意味で、リヒャルト・ワーグナーのオペラ「神々のたそがれ」のタイトルはこれに因んでいる。
ホメロス寒冷期は混乱もあった時代で、民族の移動もあった。中央アジアでは、ステップ草原で気候の寒冷化と旱魃が続いて、モンゴル系の遊牧民が東は中国に、西はドナウ川盆地まで進出している。中国の周王朝が混乱したのもこの時期だし、中国に馬が伝来するのもこのホメロス寒冷期。いっぽう、この時代の民族の衝突が人間の精神世界に影響を与えたという意味で、精神革命が起きたと言われている。
●ローマ温暖期
ちょうどパックス・ロマーナと言われる時代で、グリーンランドの氷床コアの気温分析では温暖な時代を示している。小麦・キビなどの生産に適した地中海性気候の地域がアルプス以北にまで拡出した。このことが、ローマ帝国の植民地経営が容易になる理由だったと言われている。ケルト人の住むガリアにも進出して、ローマ式の農業を普及させた。シルクロードの交易が活発化したのもこの時期。また、アルプス以北でもワインの生産が活発に行われるようになる。気団の位置関係をみると、3300年前からBC300年まではヨーロッパは大陸性気団がほぼおおって、地中海性気団はあっても中東あたりまでだった。ところがBC300年からAD300年になると、地中海性気団は大陸、フランス全土まで北上する。こうして温暖な時代がおとずれることになる。
●マウンダー極小期
1645〜1715年。イングランド中央部の年平均気温でみると、非常に寒冷な時期が70年ほど続いている。イングランドでは20世紀と比較して農産物の成長期間が5週間短かった。1683〜84年は厳冬になって、イングランド南西部で地下1メートルまで氷結したという記録が残っている。1697年には、フィンランドでは飢饉で人口の3分の1が死亡したと言われている。
マウンダー極小期はこのように寒冷化でたいへんな時代だったが、今日我々にすごい遺産を残してくれたというエピソードもある。それは、弦楽器のストラディバリウス。アントニオ・ストラディバリ(Antonio Stradivari)は、1644年ころイタリアのクレモナに生まれ、1737年に亡くなっている。クレモナの町の北辺にはトウヒ(唐檜)の森が広がっている。トウヒはマツ科の常緑針葉樹で、これがバイオリンなど楽器の材料になる。90歳を越えるまで、70年以上の長期にわたって製作を続ける。このストラディバリが作った弦楽器がストラディバリウスで、アマティやグァルネリと並んで最高品質の弦楽器とされている。現存するストラディバリウスは、バイオリン約520本、ビオラ約20本、チェロ約50本、合計約600本。中でも1700年から1720年が黄金期とされていて、三大ストラディバリウスと言われるものは、1714年製作のドルフィン、1715年製作のアラード=バロン・ヌープ、1716年製作のメサイア。(メサイアは、オックスフォードの美術館に展示されていて、まれにしか演奏されない。ドルフィンは諏訪内晶子が使っている(日本音楽財団から貸与))。
ストラディバリウスの音はなぜよく響くのか。いくつかの理由が提唱されてきた。伐採後長く保存し乾燥させたことが、硬い材質の由来だとする説がある。ところが、ストラディバリウスの板の年輪から生育年を調べることができ、生育年と製作年を比較するとだいたい7年から31年で、かならずしも古く乾燥度の高いトウヒを用いたわけではない。また、ストラディバリが用いた木が、当時のトウヒでなく教会建築などの古い建材を再利用したのではないかという説も、このように年輪を調べることにより否定された。秘密のニスが塗られているのではなどといった説もあるが、最近の紫外線やX線などを使った研究で否定されている。
注目したいのは、ストラディバリが生きた時代は、小氷期の中でももっとも寒さが厳しかった時代だったということ。ストラディバリウスが名器になったことには、気候の寒冷化が関係しているのではないか。コロンビア大学の気候学者ロイド・バークルとテネシー大学のアンリ・グリシノ=メイヤーが2003年に「Stradivari, violins, tree rings, and the Maunder Minimum: a hypothesis」という論文を書いた。ヨーロッパ5ヶ国の山岳地帯16箇所の年輪を採取して、各年の年輪幅を指数化すると、とくに年輪幅が狭い時代が長く続いたのが、このマウンダー極小期だった。極寒の時代の気候により年輪幅が狭く、その期間は70年ほどに及んだ。このことが、ストラディバリウスの材料となったトウヒ材を強く密の高いものにした。バークルとメイヤーは、今日のバイオリン製作者は技術的には当時のストラディバリとまったく遜色ないが、材質面からストラディバリウスに匹敵するものはけっして作れない、と書いている。[この論文のサマリーによれば、この時期、毎年冬が長くまた夏も寒くて、木の成長速度はゆっくりでしかもほぼ均等(ふつうは温度の高い夏は成長が速くそれだけ年輪幅が広がる)で、細かい均一な年輪幅になる。ストラディバリはその製作の後半期数十年間は、マウンダー極小期の間に成長したトウヒ材を使った。このことが、トウヒ材の産地の標高や土壌条件などともあいまって、ストラディバリウスをその時代でしか作れない名器にした。]
◆第13回【現代の気象災害と将来】
近年は世界各地で気象災害が多発しています。今回は2014年から2018年まで、どのような気象災害が起こったのかを振り返る中で、増加の原因や特徴を紹介し、この先どういった気象災害が起きることが想定されるのかその可能性を考えます。さらに気候変動は武力紛争の原因になり、難民を生み出すこともあります。気候変動と武力紛争の関係性についても考えていきます。