10月21日、服部緑地にある「日本民家集落博物館」にMさんと一緒に行きました。地下鉄(北大阪急行)の緑地公園駅から歩いて10分弱、散策にもちょうどよい日和で、途中コスモスの大群生(とてもよいにおいもした)、ヤナギやススキ、大きく広がった松などに触りました。
日本各地、10箇所余ほどの民家が移築され、多くは建物の中に入って見学でき、また民家内の道具類などにも一部触れることができて、久しぶりに小さいころのなつかしい記憶もよみがえりました。
まず最初は、大阪堂島の米蔵。壁は漆喰で厚さは30cmくらいもありました。壁はひんやりとした感じ、きっと内部も涼しく気温変化が少なかったのかもと思いました。この中に米俵を積んでいたのでしょう。
次に、馬屋兼物置?のようなもの。3棟並んでいて、それぞれの前に長四角い木製の飼い葉おけがあります。大きなものは幅1mくらいもありました。馬屋の中には、耕運機のようなもの、足踏みの脱穀機、千歯こき(鉄の歯を数十本くしの歯のように並べて、それに稲穂を通して引き籾をはずす。江戸中期以降に広まり、大正時代に足踏脱穀機が普及するまで使われた)が置かれていました。
この馬屋兼物置?は、日向(宮崎県)椎葉村の民家に隣接しているもののようです。椎葉の民家の中に入ってみると、煙のにおいがし、その方向に行くとボランティアでしょうかおじさんがおられて、いろりに火がたかれています。囲炉裏の上には自在鉤(上からつりさげられた鍋などの高さを調節する道具)があり、その他かまどや鍋や釜なども触って、小さいころ住んでいた家を思い出しました。おじさんとむかしの話をし、また説明もしてもらいました。大きな細長い家のようです。多くは板敷ですが、床板はとてもきれいで堅そうです。広い「でい」と呼ばれる所(客間)では、12月の夜に神楽が行われ、村人たちが集まったそうです。
次は、秋山郷の民家です。 秋山郷は、新潟県と長野県の境付近の山深い集落で、以前は豪雪地帯として有名で交通の便もとても悪かった所です。ここに移築保全されているのは、長野県側のものです。(この山深い山村に、1940年代まで瞽女さんたちが定期的に回ってきたそうです。私は、もう10年近く前になりますが、国立民族博物館で行われた「瞽女文化にさわる」というプログラムに参加して、秋山郷の民家の復元模型に触ったことがあります。)
建物は中門造りとか言う形式で、主屋から門が突き出たかたちになっているようです(門と主屋の間は物置や馬をつなぐ所として使われていたらしい)。主屋の入口は低くちょっとしゃがむようにして中に入りました。なんか寒い感じ。下は地面がそのまま続いています。寝所以外は床はなく、地面の上に茅や藁を厚く敷きその上にむしろを敷いていたそうです。いろりがあるので、ずうっと火を絶やさなければ近くの地面は暖まり、また茅や藁は保温性がいいのでそれなりには暖かかったとは思いますが、それにしてもなんか貧しい感じがします。さらに、周囲の壁を触ってみると、これもすべてヨシか茅のようです。屋根も茅葺のようです。なんか掘立小屋を寒さをしのげるようにしたという感じがしました。18世紀半ばの建築だそうですが、北陸から東北にかけては、江戸から明治にかけてはこんな掘立小屋に近い民家もふつうに見られたのかもしれません。
次に、大和十津川の民家。家の中から何人もの話し声がし、なにかと思ったら撮影が行われているとのこと。確かに古いおもむきのある民家ですから、撮影の場としてはうってつけの所なのだろうと納得。でも、ちょっと中には入れず、外壁などを触りました。吉野杉の産地でもあり、杉板が壁や屋根にふんだんに使われているようです。私が触った壁やまどの辺りもすべて薄い板のようで、とくに窓の所だと思いますが、数mmくらいまで薄く削った杉板も使われていました。軒先には、下に50cm?くらいの幅で垂直に杉板を並べて囲むようにしてあるそうです(横殴りの雨風を防ぐためだとか)。
次に、越前敦賀の民家。雪深い湖北地方に見られた民家だそうです。入ってみた感じは、なんか古い形態をとどめているなあという印象。まず土間があり、少し高くなって台所になりいろりもあります。さらに高い所に寝室などの部屋が並んでいます。土間には藁などを敷き、台所との間にはまったく間仕切りはなくそのまま入れて続きのようになっています。土の間から床板を張る形式への移行期の形態だろうということです。壁は土壁でかなり厚いようです。
次に行ったのは、奄美大島の高倉で、かなり変っているなあと思いました。3m近くの4本?の柱の上に、小さな倉庫のようなのがあるそうです。壁は薄く削った竹を組み合せたもので、風通しがよいようです。亜熱帯の気候下で湿気を避けて、米をはじめ、着物やその他大事な物を保管するためのものです。柱にはイジュというツバキ科の堅い木が使われていて、ネズミが爪をかけて登れないようにしてあるとか。1本の丸太に刻み目を入れただけのはしごがあり、これで高倉に上り下りしたそうです。古代の高床式倉庫とも関連があるのかなと思ったりしました。
次は、摂津能勢の民家。能勢と言えば、私が住んでいる所からそんなに遠くありませんが、これもやはり古いなあという感じ。入口を入ると、中は大きく2分されていて、左側が土間、右側が座敷や部屋などになっています。土間の奥にはかまどや流しがありました。
次は、飛騨白川の有名な合掌造りの民家です。分厚い茅葺の屋根が手を合わせたような形になっているものですね。建物はかなり大きくて、幅10m弱、奥行は30m近くもあるようです。屋根は2mくらいの高さからはじまり、50度以上の急勾配になっていて、高さは15mくらいもあるでしょうか。
中に入ってみると、1階はかなり広い感じで、生活用具などがいろいろ置かれています。その中に、赤ちゃんを入れておくための、藁?でつくった高さ50〜60cm、直径も50cm弱ほどあるゆりかごのようなものがありました。これは私も赤ちゃんの時に入っていたもので、青森では「えんつこ」と言っていました(記憶がさだかではありませんが、白川では「つぐら」と言うらしい)。この赤ちゃんを入れておくかごのようなのが、なんと7、8個くらいも並んでいることもあるとか。というのも、この大きな家には傍系の家族がいくつも同居していて、30人以上もの人たちが一緒に住み、子供たちも次々生まれてたくさんいたようです。この地方では、嫡男はふつうに嫁をもらいますが、それ以外の男子は日中は自分の家で仕事をし、夜に妻の所に通い、できた子供は妻の家で育てたそうです。妻訪婚と言うらしいですが、古代の日本にあった妻問婚に似ているような気がします。2階も生活の場で、3階以上で養蚕をしていたそうです。分家をしてゆくだけの十分な土地がなく、このような大きな家の中に大家族が住み、手のかかる養蚕業を共同でしていたということでしょうか。
私たちが見学した建物はこれだけですが、博物館の敷地内にはその他、北河内の茶室(大阪府)、南部の曲家(岩手県)、小豆島の農村歌舞伎舞台(香川県)もあります。また、建物ではありませんが、船と石像にも触れました。船は、丸太をくりぬいたくり舟で、私は奄美のすぶねと呼ばれるくり舟に触りました。長さ3mくらい、幅は60〜70cmくらいでしょうか。木の表面はかなり荒れているような感じで、少し細くなった前の部分の左側の一部が朽ちてしまっていて、内側から補強されていました。その向こうには、触ることはできませんでしたが、島根県の中海で使われていたというそりこ舟がありました(長さ5mくらい、幅1mくらいと大きく、前のほうは上にそり上がっている?らしいです)。石像は、茨木市の佐保で見つかったもののようで、20〜30cm前後の石像がおそらく百体以上ずらあっと並んでいました。茨木の佐保と言えば、隠れキリシタンの墓碑などが見つかっている場所、たぶんそれに関連した遺物かもと思ったり。
民家内では一部の生活用具などにも触れることができましたが、どの道具がどの民家にあったものか、残念ながらよく覚えていません。印象に残っているのは、木製のひき臼のようなもの。米や豆をひいて粉にするのは石製の臼だとばかり思っていましたが、木製のものもありました。直径50cmくらいでしょうか、2つの木製の円柱が重なっていて、上の円柱の下面と下の円柱の上面にそれぞれ1cmほどの幅で溝が刻まれています。これを回して米などを砕いたのでしょうが、なかなか難しそう(木の種類は分かりませんが、きっととても堅い木なのでしょう)。それから、イヌガヤの実を搾って油をとったという搾油器?がありました。2本の木の間に搾木(しめぎ)があり、この搾木と木の間にくさびを槌で打ち込んで、搾木の下にあるイヌガヤの実などをつぶし、出てきた油が下の穴から出てくるもののようです。(むかしは燈火用に魚油や植物油が使われていましたが、調べてみるとイヌガヤの実から出てくる油は不凍性で、とくに冬の燈火用として重要だったようです。)その他、唐臼(てこの原理を使って、杵についている長い棒の端を足で踏んで杵を上下させる)、唐箕(軸の回りに50cm四方ほどの大きさの羽板があり、軸についているハンドルを回し、風で穀物と籾殻などのゴミを分けるもの)などにも触りました。
今回の日本民家集落博物館、ただ古い民家を移築して集めているというだけでなく、実際に中に入ってむかしの雰囲気を体感し、また実際に使われていた道具類などにも一部触れることができて、とても楽しかったです。ただ、民家全体の形や間取りなどは少し中に入って見学しただけではなかなかとらえにくいものです。それぞれの民家の小さな模型のようなものがあれば、なおさらよかったです。
(2020年11月8日)