ラジオで展覧会:聖徳太子と法隆寺

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 5月15日の午前1時台のラジオ深夜便は「ラジオで展覧会 聖徳太子と法隆寺」というタイトル、そのタイトルにひかれて聞いてみました。テーマは、6月20日まで奈良国立博物館で開催されている「聖徳太子1400年遠忌記念 特別展 聖徳太子と法隆寺」で、アンカーの中村宏さんが聞き手・進行役となり、 奈良国立博物館 主任研究員の山口隆介さんが解説するという形式で行われました。図録や写真も見ずに聴いているだけですし、もともと背景となる知識もほとんど持っていないので、十分に理解できたとはとても言えませんが、具体的に作品の雰囲気が伝わってくることもあり、以下に放送内容をほぼそのまま書き起こしてみました。
 
中村: 奈良県斑鳩町にある法隆寺は、推古天皇の15年(607年)聖徳太子によって創建されたと伝えられている。太子は、仏教の真理を追求し、また冠位十二階や憲法十七条などの制度を整えた。展覧会の会場には、法隆寺が守り伝えてきた寺の宝(寺宝)を中心に、飛鳥時代以来の貴重な文化財が展示されている。
 この展覧会について、奈良国立博物館主任研究員山口隆介さんに電話で話をうかがった。新型コロナウイルスの感染拡大で外出が難しい状況。ラジオでお聴きの皆さんも、会場で展示品を見ながら解説を聴いているような気になってください。
 
●展覧会の趣旨について
山口:今年は、法隆寺を建てた聖徳太子の1400年遠忌、つまり聖徳太子が亡くなってから1400年の大きな節目ということになる。これを記念して、奈良国立博物館では「特別展 聖徳太子と法隆寺」を開催している。
 聖徳太子は、用明天皇の第二王子として生まれ、推古天皇の時代に、蘇我馬子らとともに政治を補佐し、仏教を中心とした国造りを行った。冠位十二階であったり、憲法十七条などの制定、また遣隋使の派遣などによって、政治制度を整えるとともに、仏教を深く研究することで、我が国の文化を大きく飛躍させたことで知られている。
 今回は、百年に一度の遠忌だからこそ実現した、法隆寺をテーマとする最大規模の特別展と言っても過言でない。法隆寺において守り伝えられてきた寺の宝物を中心に、太子その人と太子信仰に迫る内容となっている。今回は、国宝35件、重要文化財75件をふくむ約170件を展示している。
 
中村:私も先日展覧会を見てきた。たくさんある展示品の中から、山口さんに事前に何点か選んでいただいたので、改めて図録を見ながらお話をうかがう。
 
●展示番号 1 「御物 聖徳太子二王子像」 奈良時代 8世紀
中村:よく見る聖徳太子の姿。紙に描かれた色付きの絵で、縦およそ1m、横およそ54cm、それが掛け軸に張られている。真ん中の聖徳太子は、ゆるやかな曲線のひだが入った淡い赤紫の衣装に身を包んで、手には笏(しゃく)を持っている。頭には黒い冠を被り、唇には赤い色が塗ってある。黒いひげが、鼻の下には八の字に、顎には長く伸びている。腰から、飾りのついた直刀を下げている。両脇に二人の王子がいる。それで、二王像と言う。王子たちは、髪の毛を耳のあたりでくるっと巻いたみずらを結っている。
山口:聖徳太子を描いたとされる最古の肖像画。かつて1万円札の顔だった姿で、ある世代以上の方であれば多くの人が思い浮かべる聖徳太子のお姿だと思う。中心に聖徳太子像が描かれていて、向って左に弟の殖栗王(えくりおう)、右に息子の山背大兄王(やましろのおおえの王)とされる人物が描かれた、三尊構成をとっているという点に特色がある。日本では、例えば阿弥陀如来の両脇に観音菩薩と勢至菩薩というようなかたちで、三尊像というのは礼拝の対象としておまつりされることがしばしばあるが、この絵も三尊で描かれているということから、この絵がたんなる肖像画ではなくて礼拝の対象としておまつりされたということを物語っているのだと思われる。法隆寺では、明治時代に入って、明治11年にこの肖像画をはじめとする数百件の宝物が皇室に献納された。これも、江戸時代までは法隆寺でおまつりされていて、明治時代以降皇室の管理となり、今宮内庁で所蔵している。法隆寺献納宝物の大部分は、現在東京国立博物館の所蔵として、法隆寺宝物館のほうで管理されている。
 
●展示番号 54 国宝「灌頂幡(かんじょうばん)」 飛鳥時代 7世紀 法隆寺献納宝物で、東京国立博物館蔵
中村:「かん」は灌漑の灌、「じょう」は頂で、「灌頂」は、頭に水を注ぐことの意味。「ばん」は八幡の幡で、「幡」は、旗・のぼりという意味。長さ 5m 10?cmの長ーいはただが、布ではなく、陶板に透かし彫りをして鍍金(金メッキ)をほどこしたもので、天人の姿が彫られている。
山口:この灌頂幡は、儀式の時に高い柱からつり下げて飾られたもの。金銅製の板を彫り透かしてつくられた極めて豪華なのぼりで、天井から仏を讃嘆して舞い降りる菩薩の姿がたいへん雄大にあらわされている。法隆寺の記録によると、片岡御祖命(かたおかのみおやのみこと)という人物によって奉納されたと記録されており、これは聖徳太子の娘である片岡女王のことと考えられている。今は文化財として大切に保管されているので、これをつり下げて見ることは難しいが、おそらくつくられた当初は、お堂の近くに高い柱を立て、そこへつり下げて、きっと風が少し吹くとたいへんすずやかな音があたりに響いただろうことも想像される。
中村:今回の展示では横に置かれている。
山口:横に寝かせた状態で展示しているので、表面に彫りあらわされた天人の姿をつぶさに見ることができる。
 
●展示番号 112 国宝「聖徳太子絵伝」 平安時代(1069年) 
中村:秦致貞(はたのちてい)筆。全10面。縦およそ140cm、横およそ190cm。綾本(りょうほん)著色と言って、彩衣に色を付けている。山や川、木、宮殿、寺などとともに、聖徳太子にまつわる様々な場面が描かれている。
山口:現存する聖徳太子絵伝の中では、最古にして最大規模、そして最高傑作として名高い一作。そもそも、聖徳太子絵伝というのは、平安時代の中ごろ、四天王寺の周辺で聖徳太子にかかわる様々な言い伝え・伝記の類がまとめられて「聖徳太子伝暦(でんりゃく)」が成立する。そこには聖徳太子が、例えば何歳の時にどういったことを行ったというようなかたちで、聖徳太子にまつわる様々な言い伝えや物語りが記録されていて、その聖徳太子伝暦にもとづいて、それを絵画化したのが「聖徳太子絵伝」。ここに展示されている「聖徳太子絵伝」は、もともとは法隆寺の絵殿(聖徳太子絵伝をおまつりするために造られた)という建物の内壁にはめる障子絵だった。つくられた時代がはっきり分かっていて、摂津の国の絵師秦致貞が、1069年に描いたことがはっきりわかっている。これも、明治時代になってから法隆寺より皇室に献上されて、現在は東京国立博物館の所蔵になっている。たいへん大きな画面で、そこに美しい自然の景観が描かれた作品。全10面からなっていて、この10面を一挙に公開する機会はなかなかないが、今回の展示では久しぶりの里帰りということもあって、全10面、太子の生涯の様々な出来事60の場面で絵画化したものを一挙公開している。
中村:お寺に行くと、幅の広いふすまがあるが、それくらい大きいものが10面だああーと並んでいて、たいへん壮観な光景だった。
 
●展示番号113 国宝「観音菩薩立像」(別名「夢違(ゆめちがい)観音) 飛鳥時代 7〜8世紀 法隆寺蔵
中村:銅像で、鍍金(金メッキ)がほどこされたということだが、今はブロンズの色。高さが87cmで、全体的にややふっくらした体形で、顔もふっくらして穏やか鼻筋が通って、眉は弧をえがき、微笑みをうかべている。上半身はほぼ裸で、ゆたかな肉付き、天衣(てんね)という衣が曲線を描いて下半身に垂れ下がっている。右手を胸の高さまで上げて、手のひらを前に向けている。下におろした左手は、親指と人差し指の間に水を入れる小さな瓶(水瓶(すいびょう))を持っている。この像は、ぐるっと360度から見ることができる。
山口:この夢違観音という名前が、たいへん印象的だ。名前のごとく、この像に祈れば、悪い夢が良い夢に変わる、こうした伝承から夢違観音という名称が付けられた。この像は、鋳型(金属を鋳造する時の型)に溶かした銅を流し込んでつくった像。1mほどの立ち姿の像で、(金属でつくられているので)重くて持てないのではと思いきや、成人男性であればよいしょと持ち上げることができ、おそらく像の中は空洞なのではと推測される。この像のいちばんの見どころは、なによりも、すんだ純真であかるく朗らかな表情にあると思うが、こういった顔立ちは、飛鳥時代後期、7世紀後半ころの日本の仏像の典型的な姿を示している。いっぽうで、頭の上に結ったもとどりという大きなまげ、それから胸や腹のゆたかな肉付け、さらには体に密着した薄い衣の質感、こういったところには、次の時代、奈良時代の要素があらわれているように思う。軽やかな天衣、あるいは繊細な指先の表現にいたるまで、随所に洗練された造形感覚が発揮された名品と言える。
中村:私もこの像の前で、5分くらい見とれていた。
 
●展示番号 114 重要文化財「聖徳太子坐像(伝七歳像)」 平安時代 1069年 法隆寺蔵
中村:木像、彩色。 7歳と伝わる聖徳太子が、像を安置するための箱、厨子の中に入っている。像の高さおよそ58cm。赤い衣装をまとっている。ふっくらした顔で、静かに前を向いていて、鼻筋が通って、いかにも利発そう。長い髪の毛を顔の両端でまるくするみずらを結って、左手には柄の長い団扇を持っている。
山口:この聖徳太子坐像は、法隆寺の東院伽藍の絵殿に安置されていた像で、江戸時代には7歳のころの姿と伝えられていた。つまり、この像はつくられた当初から7歳の像としてつくられたわけではない。実は、童子の像としてつくられている。法隆寺の東院伽藍は、聖徳太子が住んでいた斑鳩の宮の跡に建てられたもので、聖徳太子信仰の中心地となった。この像は、聖徳太子の遺徳をたたえる法要として知られる聖霊会[聖徳太子の忌日に行われる法会]の本尊で、円快という仏師が制作し、秦致貞が彩色している。1069年の制作だということがはっきり分かり、現存する聖徳太子像としてはもっとも古い作品として重要だ。実は、この像は聖霊会という法要の際に、神輿にのせて動かされたという、動く聖徳太子像だった。像は、太子を穏やかな風貌の少年の姿であらわしているという点に特徴がある。
 
●展示番号 149 国宝「聖徳太子および侍者像」 計5体 平安時代 1121年 法隆寺蔵
中村:木造、彩色・截金。聖徳太子坐像は、両手で笏を持って、目尻を上げてきりっとした表情をうかべている。衣の曲線が美しく、表面には赤い色が残っている。頭には、中国の皇帝が被るような、きらきらした金属製の飾りが下がった冠を被っている。そばにひかえている侍者は、丸顔の子供が2人、年上のお兄さんだろうか1人、そして僧侶の4人。
山口:この群像は、 5体ワンセットの像で、中央の聖徳太子像、それから、聖徳太子の子にあたる山背大兄王(やましろのおおえのおう)、太子の弟にあたる殖栗王(えくりおう)と卒末呂王(そまろおう)、さらには聖徳太子の仏教の師匠にあたる高句麗出身の恵慈(えじ)法師という方の5体。いずれも、法隆寺聖霊院の秘仏本尊で、法隆寺の外で公開されるのは27年ぶり。1121年、聖徳太子が亡くなられてから500年の遠忌の年に制作された。実はこのころ、聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりであるという信仰が生まれていた。この聖徳太子像のお腹の中には、法華経、維摩経、勝鬘経という三つのお経をおさめた容器があり、その上に蓬莱山の山頂に銅製の立つ観音菩薩の像が安置されている。そしてさらに興味深いのは、このお腹の中の観音菩薩像の顔がちょうど聖徳太子の口の高さに来るように設計されている。これは、観音の化身とされる聖徳太子が、法華経、維摩経、勝鬘経という三つの経を講説していることを意図した表現と考えられている。いずれにしても、平安時代後期における聖徳太子にたいする信仰のたかまりを背景に造られた傑作だと言ってよい。
 
●展示番号 170-1 国宝「薬師如来坐像」 飛鳥時代 7世紀 法隆寺蔵
中村:像の高さは、68.3cm。銅でつくられ、鍍金(金メッキ)がほどこされているということで、顔のあたりに一部金が残っている。右手を胸の高さまで上げて、手のひらを前に向けている。左手は膝の上まで下げて、人差し指と中指を前に向けている。身に着けた衣が台座までおおっている。
山口:この像は、飛鳥時代、7世紀につくられた、法隆寺金堂東の間の本尊。口元に微笑みをたたえた神秘的な表情、流麗な衣のひだに、飛鳥時代の美意識があらわれた傑作。ふだんお寺に参ると、金堂内の高い所におまつりされているが、今回の展覧会では観覧者の目線の高さで拝んでいただくことができるよう、展示を工夫した。その卓越した像形を間近に感じることができるまたとない機会になるだろう。この薬師像が発する光を表現した光背が背中に取り付けられているが、この光背の裏に銘文があって、そこには用明天皇が自らの病気平癒のために寺の建立を発願したものの、ほどなく亡くなったため、その意志を次いだ推古天皇と聖徳太子がこの薬師像を完成させた、という由緒が記されている。まさに、法隆寺というお寺のはじまりを示す仏像ということができる。
 
●展示番号 180 国宝「玉虫厨子(たまむしのずし)」 飛鳥時代 7世紀 法隆寺蔵
中村:木像、漆塗り、彩色。高さおよそ 2m 27cm。 2階建ての背の高い建物のようなかたち、黒い漆が塗られ、側面には人物などが描かれている。そして、屋根には 1対の鴟尾が乗っている。
山口:厨子というのは、貴重品を収納し、建物の中に安置される小さな建築塔のことで、お寺では仏像や仏を描いた仏画、あるいは釈迦の遺骨にあたる舎利、こうした物をおさめるために仏殿を模したもの。この玉虫の厨子は、上方の宮殿(くうでん)を飾る透かし彫り金具の下に玉虫の羽根の装飾があることが、この名の由来になっている。この技法は当時朝鮮半島でも行われていたことが知られており、したがって、この玉虫厨子の制作に朝鮮半島から渡来した技術者がかかわったと考えられている。この上方の宮殿は、軒下の組み物まで緻密に再現されていて、その建築様式は世界最古の木造建築として名高い法隆寺金堂よりも古いとされている。厨子の表面には、仏教に関する様々な絵が描かれている。内容には不明な点もあるが、正面には舎利を供養する図、後ろ側には仏教世界の中心にそびえるとされる須弥山という山、あるいは龍が住まいする龍宮の図、両側面には釈迦の前世にまつわる物語りの図が描かれでいる。まさに、日本の古代仏教工芸を代表する作品としてよく知られた存在で、今回四方から余すところなく鑑賞できるようになっている。
中村:私もぐるっと一周して鑑賞した。
 
●展示番号 201〜204 国宝「塔本塑像 羅漢坐像」 奈良時代 711年 法隆寺蔵
中村:塑像、粘土でつくった像で、彩色、色が塗られていたそうだが、今は白い色。高さがおよそ36cmから42cmの羅漢の像が4体。上を向いて、あるいは下を向いて、口を開けて、はげしく嘆き悲しむ羅漢像。
山口:これらの群像は、法隆寺五重塔完成の後、和銅4年(西暦711年)に完成した。五重塔の初層には、心柱を中心に土で山岳風景がつくられていて、その周囲に仏教教典の4つの場面があらわされている。この塔本塑像は、法隆寺の泣き仏の名でも知られている。お釈迦様が涅槃に入る、つまり亡くなられる場面をあらわしているのが北面で、そこにあらわされた羅漢像は、迫真の感情表現がたいへんすばらしいと言える。これらの像は、芯となる木に、粘土を盛り付けてつくられている。そのため、運ぶのがたいへん難しく、今回は奈良会場のみでの展示ということになっている。
 
中村:国宝、重要文化財がずらあっと並んでいて、迫力もあった。ずいぶん力の入った展覧会だった。
山口:百年に一度の遠忌だからこそ実現した、まさに法隆寺をテーマとする最大規模の特別展と言ってもよいと思う。法隆寺は、日本の仏教の歴史と言っても過言でないお寺。今回の展覧会は、聖徳太子の理想に思いをはせる絶好の機会となるだろう。
 
 (この展覧会は、東京国立博物館でも、7月13日から9月5日まで開かれる。)
(2021年5月21日)