国立民族学博物館で開催中の特別展「ユニバーサル・ミュージアム ―― さわる!“触”の大博覧会」

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国立民族学博物館の特別展示館で、 9月2日から 11月30日まで、特別展「ユニバーサル・ミュージアム ―― さわる!“触”の大博覧会」が開催されていて、私は9月7日と14日に見学しました。
 この特別展は、もともとは昨年秋に予定されていたものですが、コロナ禍のため1年延期されて、今回感染防止対策を徹底してようやく開催されました。とは言っても、私も楽しみにしていた盛りだくさんの様々な関連イベントは、9月中のものはほとんどが中止あるいは一部オンラインでの開催となり、10月以降についてもどうなるのかはわかりません。今は触ることに対して抵抗感ないし忌避感が蔓延していて、そういう社会・文化状況のなか、人間活動の本質の一部だと言える「触」に焦点を当てたこの「触」の大博覧会の意義はとても大きいと思います。
 この特別展は、2009年から、国立民族学博物館の広瀬浩二郎先生を中心に行われているユニバーサル・ミュージアム研究会の一つの大きな成果と言えるものです。この研究会の活動のポイントは、「さわる」行為が、見えない人たちなど特定の人たちに限らず、人間だれもに本来備わっている世界とのかかわり方の一つであって、そういう視点で、これまでの美術館や博物館、さらには広く社会のあり方まで問い直そうとしています。今回の特別展でも、すべての展示物に触れられるという点で私のような見えない者にはとても良い機会ですが、展示されている内容からは、見える人たちにもなんとか実際に触ったり体感したりして「触」の深さ・可能性に気づいてほしいという意図が伝わってきます。会場内は、セクション5までは展示物に光を当てず薄暗くなっているそうです。
 
 展示は、触察の導入としての「試触コーナー」と、6つのセクションから成っています。200点以上展示されているということで、もちろんすべてに触っているわけではありませんが、以下順に紹介します(各セクションでは、初めに概説パネルのキャプションを引用しました)。私は見えない者として書いていますが、ぜひ見える人たちの詳しい見学記も読んでみたいものです。
 
●「試触コーナー−なぜさわるのか、どうさわるのか」
 まず、「国宝・興福寺仏頭レプリカ」です。(これは以前奈良で開かれた「古都奈良をあじわう」という展覧会で触ったことのあるものでした。)高さ1m近くもある大きな堂々とした頭部の銅造です。きれいに通った鼻筋、切れ長の目、ちょっとふっくらした感じの整った顔です(眉間の間には、直径2cmくらいの窪みがあり、たぶん白毫だと思う)。しかし、この像の頭の上部は大きく無くなっていて縁がぎざぎざで中が空洞になっています。また、右耳は耳たぶが下に長く垂れていますが、左耳の下あたりは欠けていてかなり損傷しているようです。これは、7世紀後半、白鳳時代の作ですが、火災など何度も災厄をくぐりぬけて伝えられてきたものだそうです。
 次は、「さわれる立体地図」が2点。まず、おなじみの「富士山立体地図」(縮尺:18万分の1 比高1.7倍)。東西40cm、南北65cmくらいの大きさで、富士山周辺とともに伊豆半島まですっぽりおさまっていました。宝永山や宝永火口も確認できるのではと思って触ってみると、富士山頂のすぐ南南東にそれらしき窪みとぶつぶつがありました。伊豆半島の根元付近、海岸近くには、東西に連なる箱根山らしきものもあって、中央には深い谷が続いているようです。次が、どでかい「立体世界地図」(縮尺:2000万分の1 比高8倍)。横は2m以上、縦も1m弱くらいあり、私はオーストラリアから上に向って触って行って、インドネシアの島々、マレー半島、ベトナムや中国、そして朝鮮半島や日本にたどりつきました。日本も10cm以上はあって、山脈などもよく分かりました。ただ、私は「立体世界地図」と聞いて、もしかして海底の地形も示されているのではと期待しましたが、残念ながら海はただの平面でした(海底の地形は、地震や火山、プレートテクトニクスなどを知るのにとても役立つはずです)
 次は「触れるひと」という人物像です(片山博詞作、FRP樹脂)。実はこの像、この特別展のプロデューサーでユニバーサル・ミュージアム研究会の代表でもある広瀬浩二郎さんがモデルだとか。膝のあたりで左手でなにかを押えているような感じで、その下をよく触ってみると、そこには人の顔がありました!しかも、押さえつけられたためでしょうか、横じわのようなのが多数入りゆがんだような顔でした。
 次に、あの有名な「耳なし芳一」の大きな木像(材料はクスで、右手だけシリコン樹脂)で、近づくと楠のにおいがします。ほぼ等身大で、目はつむり、両耳ともすぱっと切り取られていて、鼻は高いですがなんかのっぺりした感じです。身に着けている衣は、全体にふっくらした感じです。左手には杖を持ち、右手は下げて指をふわっと曲げています。この右手、なんかゴムのような感じで、指も手も少し動くかもと思うほどです。また表面はちょっと湿ったような感じで、その上の木の腕からまったく異質の物が生え出ているような印象でした。回りには小さな音で琵琶法師の平家物語が流れ、床面に書かれた経文が上からの光で照らし出されているそうです。これらともあいまって、この異質のシリコンの手は異世界を想起させるようです。
 
●「セクション1 彫刻を超克する」
【概説パネル】 「ユニバーサル=誰もが楽しめる」を具現する方法として、もっとも有効なのが「さわる展示」だろう。触覚は全身に分布しているので、手のみでなく、身体の他の部分でも事物に触れることができる。多種多様な素材・手法によって制作された作品に、全身で触れてみよう。作品に触れると、視覚的な鑑賞では見落とし・見忘れがちな情報に気づく。手を動かし、身体を動かすことによって、従来のミュージアムの常識を超克する豊かな体験をお楽しみいただきたい。
 まず、『ひとのかたち』(片山博詞作)というシリーズの作品が5点ありました。いろいろな人の姿で、材料も多様なようです。「時の流れ」は顔が前に飛出ている感じ(素材は石膏で、ちょっとさらっとした手触り)。「Air(アリア)」は、なんと言っても首が長いのが特徴で、左肩にはリンゴがちょこんと乗っていました。頭の上の髪の毛をまとめたかたちも印象的です。髪を中央で分け、その上でまとめているのですが、そのまとめた髪の毛の形は長さ30cmくらいもある大きな卵を横に置いたような感じで、向って左側はしゅっととがり、右側はずんぐりと膨らんでいます(この像の素材は、FRP樹脂だそうです)。「不屈のひと(大関魁皇頭像)」は、高さ50〜60cmもある大きな、ぼこぼこ凹凸の多い顔。鼻が大きくて高く、頭の上には中央から後ろに向って細長く髷もあります。この頭像、素材がブロンズということもあるのでしょうか、なんだか、内部から力と言うかエネルギーのようなのがみなぎっているようです。「見えないものに目を注ぐ」は、腰かけている大柄の女性の像です。脚が長いのが目立ちます。お腹の筋肉が張っているようで、若さを感じます。この人も、首がやや長く、左手は下げて指でつまむようにしてリンゴを持っています。「渇くひと」は、筋肉質の男の人なのでしょうか、表面が全体にぼこぼこした感じです。台に腰かけていますが、顔は下を向き、腕はまったくなく、脚も途中までしかありません。
 次に、『つながる石彫』(冨長敦也作)の展示です。「Love Stone Project 2014-15」は、ハート形の石を、日本(大阪、兵庫、長野、山梨、北海道など)や世界(ニューヨークなど)各地で、現地の人たちがそれぞれ磨いたもので、それらが床に数十個も並んでいました。ハート形と言っても、大きさや形は様々で、30cm弱の小さなものから1mくらいもある大きなものまであり、形も、中にはとがった頭とかわいいお尻の動物が臥せったようなものまでありました。磨かれた上面はつるつるで触って心地よいですし、石の種類の違いもあるのでしょうか、表面の感触や冷たさに微妙な違いがあるようでした。使われている石は、トラバーチンや大理石や御影石など、たぶんその地方で手に入りやすい石材のようです。さらに、近くの壁面には大きな日本地図と世界地図があり、この石磨きのワークショップをした場所が示されていました。「Ninguen」と言う作品は、ミイラなどの石棺を思わせるような形の石材が床に置かれ、発掘現場なのでしょうか、スコップで土をさらうような音も聞えていました。石材は、ちょうど人間が1人その上に寝ることができるくらいの大きさで、足のほうは幅60cmくらい、頭のほうは幅30cmくらい、長さ2m弱くらい、厚さ30cmくらいです。全面ざらざらした手触りでなんとなく時間が経っているなあという感じ。この石は、イタリア産トラバーチンだということです(トラバーチンは、湧泉や温水中に溶けていた石灰分が沈澱して堆積したもので、堆積の跡がしばしば平行な薄い縞状になり、見た目にきれいな石材のようです)。(屋外にも、たぶん開催予定だったワークショップのためなのでしょう、大きなハート形の石が3個ありました。)
 次は『イメージする形』(高見直宏作)というテーマで、2種類展示されています。「叢雲−エクトプラズムの群像」と「群雲−エクトプラズムの群像」というセット作品は、それぞれ、肩までの3人の人が背中を寄せ合うようにくっついて立ち、頭の部分は、幾重にも細かく群がり重なった、花の様と言うか雲の様と言うか、なんだかよく分からない1つの大きなかたまりになっています。タイトルの「エクトプラズム Ectoplasm」はギリシア語由来で、ecto は「外」、plasm は「物質」の意で、心霊現象で霊媒の体から出てくるとされる物質様のものだそうです。この作品の頭の部分の大きなかたまりは、その下の体から粘っこい物がぐにゅぐにゅと溢れ出して固まったものなのでしょうか?(一緒に行った人は、「脳内の爆発だ」と言っていました)。この「叢雲」と「群雲」のセット、全体の大まかな形はほぼ同じですが、「叢雲」はとても丁寧に細かく作られていて着色もされているのに対し、「群雲」のほうはまだ荒削りのような感じで一部木の割れ目のような所には接着のためでしょう樹脂が詰められていました。もう1点の「ニューホライズン1」という作品は、多量のガスを噴射して飛んでいるロケットの姿です。ロケットは水平に設置されていて、先端は直径5cmくらいの円錐形ですが、すぐその後ろから噴射ガスのもこっとしたかたまりが後ろに1mくらい伸び、さらに外側に大きく広がって直径1mくらいのもこもこしたかたまりになっています。小さな本体から出てくる、その何万倍もあるもこもこした噴射ガスのかたまりは、内部から産み出される莫大なエネルギーを感じさせます。
 続いて、『動物彫刻』(田代雄一作)が 4点ありました(素材はいずれもクスノキ)。この展示のコンセプトは、「リアルに見えるもの」「癒されるもの」「普段さわれないもの」だそうです。私は見えないので、生きている動物にはほとんど触ったことがないし、触ったとしても動物はすぐ動いて形を変えるので、全体の形を把握するのはとても難しいです。「おいらの名前は野良猫とら」は、長さが40cm弱なのにたいし高さが30cmくらいもあり、背が高く、胴はかなり太っている感じがします(私が触ったことのあるネコのイメージと比べてみると、触ってリアルだとはあまり思いませんでした)。「たまごからうまれたかったコアラ」は、直径20cm弱の卵の上からコアラが顔を出しています。耳が円くて、縁がぎざぎざになっていました。「たまごからうまれたかったカピバラ」も、同じような大きさの卵の上にカピバラが乗っています。手の指の爪が鋭くとがっていて、耳が小さく、きれいな毛並みがとくに印象に残っています。(コアラやカピバラは、模型なども含めて私は触ったことがない。)「僕はたまーに立派カエル」は、50cmくらいもあるとても大きなカエル。なんと言っても直径4cmくらいもある大きな丸い目とその内側にあるとがった角のようなのが印象的で、また背のほうにあるたくさんきれいに並んだいぼいぼも触り心地よかったです。そして、腰の回りに太い横綱や化粧まわしのようなのを着けているのも、なにか微笑ましいです。
 最後に「時空ピラミッド」(北川太郎作)。触った第1印象はとにかく痛々しい感じ。5mmほどに薄く切られた石板が高く高く無数に積み上げられています。各石板の大きさは数cmくらいで角張ったいろいろな四角形のようです。その石板を延々と積み上げて作られています。大きいのと小さいのがあって、大きいほうのものは、高さ2mくらい、太さ20cmくらいのものが5本ほど集まり、小さいほうのものは、高さ150cm余、太さ15cmくらいのが10本近く集まっています。それぞれ先端のほうはやや狭くなっていて、中は空洞になっているそうです。エジプトのピラミッドを造るのもたいへんな作業だったでしょうが、この時空ピラミッドもそれに匹敵するほどかもしれません。(屋外にも同作家による、手が届かないほど大きな石彫があった。下のほうにはのぞき見したくなるような大きな孔が貫通し、上のほうはなにか方向を指し示すような斜めの壁になっていた。)
 
●「セクション2 風景にさわる」
概説パネル】 人間はいつから視覚に頼るようになったのだろうか。たしかに、「より多く、より速く」情報入手・伝達できる視覚は便利である。しかし、視覚には「見るだけでわかった気にさせる」危うさも内包されている。風景とは、目で見るものではない。全身の感覚を研ぎ澄まし、「目に見えない世界」を体感しよう。「見る/見せる」ことから離れる非日常体験は、いつの間にか視覚を相対化し、僕たちの日常生活を変えていくに違いない。
 『感じる信楽』(矢野徳也・さかいひろこ、ユニバーサル・ミュージアム研究会)。ユニバーサル・ミュージアム研究会は、これまで信楽の陶芸の森でさまざまなワークショップを実施していて、その成果の一部がこの展示になっています(私も何回か参加しました)。初めに、陶製の立体的なさわる地図が3点あります。「信楽全体」では、花崗岩地帯、粘土の層(古琵琶湖層群)、低地の違いが示され(花崗岩地帯が多い)、粘土の産地や窯跡も示されています。「散策路」は、陶芸の森を中心とした散策路や川などが示されていますが、散策路は触ってほとんど分かりませんでした。「陶芸の森」では、各施設の位置や形が示されています。登窯の小さな模型もあって、これはよく分かりました。また、信楽の伝統的な焼物として、大きな壺や茶壺、タヌキ(高さ50cm余もある大きなもので、左手に通い帳、右手に徳利、頭の後ろに傘があった)、火鉢(70〜80cmもある大きくてりっぱなもの)なども展示されています。つぎさやというのもあり、これは直径20cm、高さ30cmくらいの円筒形のたぶん中が空洞になっているもので、火鉢など大きな陶器を窯に入れて焼く時にその台にするもののようです。溶けたさや壺と古杉碗(割れた茶碗となにかのかたまりが一緒になっている。さやつぼは、小さな陶製品を焼く時に保護するために入れておく大きな壺)や登窯の内側の面も展示されていて、焼き物の現場を連想させます。
 「信楽射真作品」は、2019年7月15日に信楽で行われたワークショップの成果物です。午前中に窯元を散策して、各自これはと思う物に粘土を押し当て型を取り(フロッタージュの1方法と言える)、それを持ち帰って午後に各自作品にしました。参加者は40名以上、作品もそれくらいは展示されていたでしょう。(「射真」とは、たぶんユニバーサル・ミュージアム研究会の代表である広瀬さんの造語で、視覚で写真を撮るのではなく、五感で物の真の姿を射るように(触覚の場合は物の1点に手を伸ばして)写しとることのようです。)露面をはじめ登窯や建物の壁などの型を取り、それを持ち帰って各自まち歩きの印象も盛り込んで作品にしました。実に多様な作品たちでした。歩いた道や回りの建物や登窯などとともに、タヌキまで取り入れた作品もかなりありました。登窯からいろいろな作品が流れ出てくるような作品や、中には、靴底を合わせた精巧な靴で、実際の歩きを連想させるかわいい作品もありました。(私は、道標の文字をフロッタージュし、また参加者が喜々として制作にいそしんでいるすがたを、酒壺をいっぱい重ね合せたもので表わしてみました。)
 
 次の「LIFE works @大阪 #2020-2021」(酒百宏一作)は、フロッタージュの方法で大阪のまちをとらえたものです。擦り減った路面や板塀などに紙を当てて色鉛筆で強くこすり出して写す方法で、実際に触ってみると、板塀らしき平行ないくつもの縦線や、路面のがたついている感じが触って分かりました。
  *フロッタージュと言えば、現在福島県須賀川市に住んでいる鎌田清江さんという方が、ふるさと大熊町に通って、帰還困難区域にある石碑や塚などをフロッタージュで構成に残す活動をしています(福島第一原発の敷地となった 「捨石塚」が伝えるものとはなど)。石碑などを記録に残す場合ふつう拓本が使われますが、放射線量が高いこの地域では短時間しか滞在できず、フロッタージュが適しているとのことです。フロッタージュだと、実物の大きさのままで、また素材のあじわいのようなのも残せるということです。
 
 「貝塚の樹と地層にさわる」(企画制作:安芸早穂子)は、私がこの特別展で一番心魅かれる作品です。福島県南相馬市小高区浦尻に大規模な貝塚があり(浦尻貝塚は、2006年に国指定史跡になっている)、その周辺の風景と、そこで営まれた縄文の人たちの暮らしの様子をあらわした絵です。そしてこの絵は、触って分かるように浮き出しにするなど工夫されており、さらに関連する地図や縄文の暮らしの道具も展示されています。この地は、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われ、さらに直後に起きた福島第1原発(浦尻から南南東10kmくらいの所)の事故で5年以上住民は避難を強いられました。2016年に避難指示は解除され(とは言っても実際に帰ってくる人は少ない)、復興計画が進行中で、浦尻貝塚史跡公園整備事業も行われています。
 浦尻貝塚は、約5700〜3000年前(縄文時代前期〜晩期)の長期間の集落跡で、南北に延びる舌状の段丘上にあり、竪穴住居、柱穴群、貯蔵穴、土坑墓などが確認され、4ヶ所に最大厚さ1.8mもある貝塚があるそうです。浦尻貝塚を中心とした1万分の1と2千分の1の触地図がありました。1万分の1の地図では、太平洋に面して大きく深い入り江になっていることが分かります。入り江の南側のやや高い所に浦尻貝塚があり、その部分が2千分の1の地図で拡大されています。貝塚はちょっとした台地上にあり、周辺には幾本か川が海に流れていて川と海の境界が分からないような感じになっています。貝塚から出てきたいろいろな貝と木の根を組み合わせた、貝塚のはぎ取り標本を思わせる作品もありました。幅20cmほど、高さ50cm余くらいの大きさで、真ん中から下にわたっていろいろな大きさの貝がたくさん入っていて、上にある木の根が貝塚を貫くように下までたくさん伸びています(「貝塚の樹」が象徴的にコンパクトにあらわされているようです)。
 絵本体は、高さ2mほど、横幅は2つの画面を合わせて5m以上もあるでしょうか、かなり大きいです。向って右から左に、山側から海に向って風景が描かれ、画面の下のほうは、いくつもの地層のようなものや水脈のようなのがゆるやかに海のほうに傾斜して描かれているようです(水脈の先は、海岸近くで泉になっている)。いちばん右側には、土深く根を生やし枝葉を広げた太い幹の木があります。枝には、猿や、バッタなどの虫もいて、空には鳥もいます。この太い木の隣の木の高い枝に人が這うように上っていて、弓を構え、遠くの獲物を狙っています。続いて、木を切り倒そうと石斧を振り上げている人、山から木を担いで運んでいる人たち、その木を建てて家をつくるためでしょう、穴を掘っている人もいます。また、走っている獣たちや矢を持った人たちも描かれ、木の枝でカモフラージュした落とし穴に犬に追い立てられたイノシシが落ちかかっています。その左からは縄文の村近くの様子なのでしょう、屈んで木を植える人、芽生えた木、成長した若木が描かれています(栗の木は村周辺に植えていたらしい)。実もたくさん成っていて、長い棒を持った人が実を落とそうとしています。さらに、村内では、掘り棒で穴を掘っている人、大きな穴からなにかが入った籠のようなのを引き上げようとしている人、土器をつくっている人、薪の上に土器を乗せ採った魚をそれに入れて料理している人、頭に水の入った土器を乗せて運んでいる人など、生活の様子が描かれています。海岸近くに大きな貝塚があり、その上にも枝を大きく広げた木があります。貝塚の崖の上には親子がいて、舟で魚とりに出た人に手を振っています。
 この絵の途中には、レプリカの掘り棒、石斧とそれで切られた実物の木(切り口はぎざぎざした繊維状になっている)、フレコンバッグ(中に瓦礫と、そこから成長した木が入っている)も展示されていました。また、この絵のすぐ隣りには、大きな布に世界の岩絵に描かれた人たちのすがたを多数刺繍したものが展示されており、その布の向って右端には上にゆるやかな弧状の数本の線と、2本の掘り棒のあるきれいな形の古代人の女神のイメージ像がありました。
 この絵のすごいところは、縄文の時代から現代まで人々がつむいできた歴史を、未来へとつなぐことだと思います。縄文時代以降も、浦尻周辺では、古墳がいくつか造られ、磨崖仏が彫られ、野生の馬が原野に放たれて「相馬野馬追い」につながり、江戸時代からは水田も開発されて各地から人々が入ってきたようです。東日本大震災の津波の後、海が深く内陸まで入ってきて、縄文のころと同様に湿地帯や原野が広がり、そこに瓦礫を入れた土嚢が積み上げられ、今ではそこに木も生えているそうです。そういう歴史の上に、この地に戻ってきた人たち、また新たに入ってきた人たちが未来へと向ってあゆもうとする時、私はこのような作品が果たすシンボリックな役割をとても感じています。
 
●「セクション3 アートで対話を拓く」
【概説パネル】 展示物との対話、自分との対話、来館者同士の対話。展示された作品・資料に触れることから、多様な対話が始まる。本特別展の目的は、優しく、丁寧に人・物に接する「さわるマナー」の普及・定着である。ユニバーサル・ミュージアムには、さまざまな手が集う。この特別展の展示を体感すれば、「健常者=手助けする人」「障害者=手助けされる人」という二項対立の常識を乗り越えるヒントが得られるだろう。
 まず、「くっつける住処」(加藤可奈衛作)。これは単純で、子どもたちも喜びそうな作品です。高さ1m余、横幅2m弱、厚さ3〜5cmくらいのものが、半円形くらいに少しまるまった状態でいくつも立っています。触った感じは、分厚い大きな梱包材のようながさがさした感じで、かなり自由に曲がります。そして、この中に身体を入れてこの梱包材様のものを自分に巻き付けると、すっぽり身体が包み込まれてまるで自分の住処になります。(私は面白くて、ついいくつもしてみました。)この素材は、工業用でんぷんから作られる梱包用緩衝材で、水分だけでどんどんくっつけることができ、使用語は土に戻せるとのことです。
 次に、『触覚によるかたちの合成、線の表現』(前川紘士作)。「かたちの合成from両手」は、左右2つに別れた紙袋の中にそれぞれすべすべした陶の立体が入っていて、それぞれの袋に左手と右手を入れて、頭の中で2つの立体を合わせてイメージしてみようとするものだそうです。実際にいくつかしてみましたが、左右の立体は直接関連したものではなさそうで、そのまま2つを合わせるのではなく、私は間に別の立体を入れてつなげてみたりしました。「触る線のドローイング(ボリューム2)」は、A3サイズくらいの大きな薄いボードの上に、立体コピーで浮き出した多数の線が描かれていて、それをたどってみようとするものです。いろいろな曲線、幾何学的なかたち、模様などが次々にあらわれ、私はつい夢中になってしまいそうです。こういうのがたぶん10枚くらいはあったでしょうか、時間があったらいつまでもぼんやりと触って過ごしたいものです。
 次は『様々な仮面』(守屋誠太郎作)です。ちょうど顔の高さくらいに様々な仮面があり、その下に自分の身体を入れて仮面を着けたような状態を体感できるようになっています。仮面はどれも動物のようなもので、ツノ状の突起物がすべてについています。実際の角のように先が数本に分かれたもの、横や斜めに長く伸びたもの、先端もとがったものからずんぐりしたものまでいろいろです。作品のタイトルはすべて「attitude」で、Tから順に番号がついていて、8点ほどありました。これらの仮面に示されている Attitude は、それを着ける人の態度(社会や生に対する姿勢)と関連するのかもしれません。
 「思考する手から感じる手へ、そして…」(宮本ルリ子作)は、ちょっと意味深な作品のように思いました。箱が並んでいて、その中に手を入れて触るようになっています。1番目から5番目の箱にはするうっとした手触りの「手」(左手だったと思う)が入っていて、いずれも掌をこちらに向け、指を立てていますが、指の立て方・形が少しずつ異なっています。そして、よく触ると、1番目から4番目の手には、点字で順に「さ」「わ」「る」「て」と書いてあり、5番目の手は、4番目の手とまったく同じ形ですが、点字はなにも書かれていません。(手の指の形は指文字になっているとのことですので、点字と同じく「さ わ る て」をあらわしているのかも知れません。)そして、6番目の箱は、なんと空っぽです。ここには、鑑賞者が考えて、新たな「手」を創造するのでしょうか?(この手の素材は磁土となっていて、磁器に適した原料ということでしょう。)
 「境界 division - m - 2021」(島田清徳作)は、会場内に上から無数とも言える長い布切れ(2000枚使っているそうです)が下がっていて、その中を通り抜けてみるというものです。布はつるつるした手触りで、化繊でしょうか、それらをかきわけるようにして進むと、顔や体に触れてさらさらしたような音(化繊擦れ?)もします。目の見える見えないにかかわらず、この空間の中に入ると、この化繊擦れの音で他の人たちの気配を感じるのかもと思ったり。私も通り抜け終わると、なにか開放感のようなのを感じました。
 「龍脈を求めて−Kinesis No.743 (dragon vein)」(間島秀徳作)は、とても大きな日本画?のような感じで、実際に触ることができます。高さは2m以上はあるのでしょう、上のほうはまったく届きません。横幅は、4枚並んでいて、合せて10m近くあるでしょうか。腕と手をいろいろ動かしながら端から端まで歩いて全体を触るのは、まるで身体運動をしているようです。スルスルした面、サラサラした面、ざらついた面、たまに数mmのとがった小石かガラスのようなのも入っていてちょっと痛々しい所もあったり。ゆっくり左右に触って行くと、なんか山らしい所や、水の長い流れを思わせる部分など少し分かります。具体的に何が描かれているのか、どんな色使いなのかはよく分かりませんが、身体を動かして大きく触っていることが、なにか開放感のようなものを感じさせますし、この絵のスケールの大きさを感じます。
 「つやつやのはらわた」(松井利夫作)は、触察の特徴が生かされた作品のように思いました。高さ40cmくらい、長さ70cm弱ほどの動物の胴体で、短い4本の足もついています。おそらく陶製で、表面は少しざらざらしていてこれといった特徴はありませんが、内部は大きな空洞になっていて、手を入れて隅々まで触ることができます。中は全面どこもつるつるです。壁の厚さはどこも2cmくらいでしょうか、外の形と内側の空洞の形はほぼ同じで、足の所まで空洞になっています。このつるつるは、なにか内臓の手触りを連想させますし、またこのつるつるの空間にいろいろな内臓や筋肉や骨まで入っているのだなどと想像したりしてみました。
 
●「セクション4 音にさわる」
【概説パネル】 種々雑多な「音」は、「目に見えない世界」への入口となる。しかし、ろう者は本セクションの展示を直接楽しむことができない。では、音は耳で聴くものではなく、身体でさわるものだと、発想を転換してみよう。音の波動を触覚的にとらえる試み、オノマトペを駆使して音の感触を言葉で表す解説文作成など、さまざまな可能性を探る。何を伝えたいのかを明確に定め、そのためにどんな方法があるのかを多角的に検討する。ユニバーサル・ミュージアムは福祉の枠組みを超えて、人類の思考力と開拓精神を鍛える。
 まず、「笛吹きボトルの音色」(亀井岳)、協力:真世土マウ)。これは、2019年度に、大阪北視覚支援学校中学部で5回行った「笛吹きボトル」をテーマとする美術の授業の成果物だとのことです。10点以上も展示されていて、中には動物と人の顔が一っ緒になったような作品やあれこれ模様をほどこしたような作品もありました。また、映像で授業の様子?や、実際に鳴っている「ピー ピー」というような、少し高めのやわらかな笛の音も聞えていました。笛吹きボトルは、アンデス地域の文化圏でよくつくられていたもので、数年前備前市日生にあるBIZEN中南米美術館で似たようなものを触っていたことを思い出しました。どのようにして音が出るのか、その機構を私は十分に分かっていませんが、基本の形は、牛乳瓶より一回り大きな2つの瓶を長さ10cmくらいの管でつなげたものです。片方の瓶は口が開いていて水を入れ、もう一方の瓶は口が閉じていてその中に笛玉(小さな孔があいた中が空洞の球で、その小さな孔に空気の流れが当たると音が出る)が入っており、水の入っているほうの瓶を揺らすと、水の動きに連動して空気の流れが管を通して別の瓶に伝わり、音が出るようです。近代以前のどこか楽し気な文化を、私もいつかワークショップで体験してみたいものです。
 次に「実の音」(渡辺泰幸作)。これは、単純ですが、かたちと言い音色と言い、とても気に入った作品です。細い紐が上から弧状に垂れ下がっていて、その紐に10cm弱くらいの間隔でピンポン玉ほどの大きさの小さな鈴が10個くらいでしょうか付いており、そういう弧状の紐が何本もたくさん、角度を変え長さも変えながら上から下がっています。鈴は、半球を2つ合わせたような形で、片側が少し開いていて、中に小さな玉が入っています。この鈴の形もなんともかわいいです。この作品の中に入ると、顔や手が鈴に触れて回りから小さなすんだ音が連続して聞こえてきます。弧がいくつも組み合わさったかたちを想像しながらこの音色にひたっていると、なんとも心地よいです。同作家の「土の音」は、中が空洞の陶製の器を細い棒(撥)でたたいてみるものです。器は、直径30cm前後の球形、あるいはそれを押しつぶして平べったくしたような形で、器のつなぎ目のような所に細長い隙間がつくられています。これを撥でたたくと、器によってはもちろん、同じ器でもたたく場所によって、音が大きくあるいは微妙に変化します。両手に撥を持って、リズムを考えたりしながらし始めると、つい止まらなくなりそうでした。
 「音の絵はがき」(資料提供:日本点字図書館)は、1970年代から20年以上にわたって、日本点字図書館が発行する月刊録音雑誌『つのぶえ』に連載されたもので、全国各地をリポーターが訪ね、その地で聞こえてくる実際の音を集めたものです。全国百数十箇所の当時の音が記録されているので、資料としても貴重だと思います。サピエ(全国の視覚障害者がオンラインで利用できる図書館)にもアップされていて、私もいくつか聞いたことがあります。
 「音で感じるスポーツ」(制作協力:芦屋大学・JBS日本福祉放送)は、いろいろなスポーツで動きに伴って出る実際の音を収録したものです。野球、サッカー、バレー、バスケット、柔道、空手道などありましたが、私はサッカー、柔道、空手道を聴いてみました。サッカーや柔道は、若い時にほんの少しですが経験があるので、身体の動きや状況が音から想像できましたが、空手道はまったく経験がないし、ほとんど具体的にどのような動きなのか想像できませんでした。見えない人がスポーツ観戦する時はやはり競技中の音が手がかりになるもので、例えば今回のオリンピックの卓球でも、激しいラリーやスマッシュ、ネットにひっかかった時の音、鋭い靴の音など、なかなか迫力がありました。
 
●「セクション5 歴史にさわる」
【概説パネル】 ユニバーサル・ミュージアムは、「触文化」研究の拠点である。触文化とは、「さわらなければわからないこと、さわって知る事物の特徴」と定義できる。触文化の探究は、質感・形状などの表面的理解から、さまざまな文物の背景を探る内面的考察へと進む。博物館で展示されるモノを創り、使い、伝えてきた人々の「物語」をどうやって、どこまで想像・創造できるのか。人類の「創・使・伝」の集合体である歴史を手探りしてみよう。
 まず、『縄文遺物と現代アート』(堀江武史)は、縄文の遺物の修復と関連したアート活動の紹介のようです。「服を土偶に」は、新潟県津南町から出土した土偶の複製品に、現代の人が服を着せてみるという、ちょっと変ったワークショップの成果物のようです。もともとは5つに割れ、一部は欠損していたものだそうです。その複製品は高さ15cmほどの小さなほぼ十字型(両腕は斜め上に伸ばしている)のもので、その土偶たち数点が、簡単なエプロンのようなもの、胸側と背中側に布を垂らしたようなもの、高価そうな毛の服などを着たもの、ビーズなどでつくった飾りのようなのをたくさん着けたものなどあって、私にはなんだかよく分からないというか、ちょっと違和感を感じてしまいました。でも、このようなワークショップに実際に参加してやってみると、縄文の人たちがつくったものと手で対話しながらの、いろいろ創造的な楽しい活動になるだろうと思います。「太陽の面」(Side A, Side B)は、縄文土器・文化から強い影響を受けた前衛的?アーティストの岡本太郎が制作した太陽の塔をモチーフにした作品です。ともに高さ30cm余で、太陽の塔の顔に面をかぶせたようなものですが、片方は白の面で正面を、もう一方は黒の面で裏面をあらわしているそうです。面の形もほぼ同じですが、顎と額にある上下に伸びる隆起した線が、正面のほうは真っすぐなのにたいし、裏面のほうは向って右側に少し湾曲していました。でも、この作品、私にはなんだかよく意味が分かりませんでした。
 『触れる仏像』は、いずれも以前に触ったことのある仏像たちで、久しぶりに触って、なつかしく思い出しました。(最後の1点を除き、4点はいずれも吹田市立博物館所蔵でレプリカ。)「雲中供養菩薩像」(京都・平等院、南21号)は、雲が向って左側に長くなびき、幅は60〜70cmくらいあるでしょうか、雲の右側に高さ30cmくらいの正面を向いた座像があります。左膝を立て右膝は横に広げて、右手で笙を持ち左手はそれに添えています(笙は、長さの異なる割り箸のようなものを10本ほど束ねたような感じ)。(平等院で、蓮台を持って雲の上に座している北25号の檜造りの模刻像にも触ったことがある。)「聖観音菩薩立像」(兵庫・鶴林寺)は、高さ1m近くあったでしょうか、顔はふっくらした感じで、頭の正面と左右に小さな3つの冠のようなのがあり、正面の冠には小さな観音の座像も触ってなんとか分かります。身に着けている衣や飾りのようなのもきれいで、右手は掌を前に向けて立て、左手は下げて衣を持っていました。「阿弥陀如来坐像」(大阪・四天王寺)は、高さは60cm余くらいあったでしょうか、直径30cm余の半球状の台(その仮面の手触りからつい笊のようなのを連想した)の上に結跏趺坐の姿勢で座っています。頭の上には直径5cmほどもある大きな盛り上がり(肉髻)があり、衣のひだなどがくっきりと彫られているようです。右手は掌を前に向け、左手は掌を上に向けて、それぞれ親指と人差し指で輪をつくっていました。「聖観音菩薩立像」(奈良・薬師寺)は、高さはゆうに2m以上はあるのでしょう、肘くらいまでしか届きませんでした。立派な衣と飾りのようなのをたくさん着け、足元では大きな足が分かりました。最後に、「ふれ愛観音」。これは、仏像彫刻で著名な西村公朝氏が目の見えない人たちも触って拝める仏像として制作し、全国60箇所ほどに安置されていて私も以前触ったことがあります。蓮台の上に合掌して坐している像で、全体にふっくらとボリュームのあるきれいな流れるようなかたちです。表面の手触りはつるつるで、金ぴかだそうです。
 「古墳をひっくり返す−リキッド・ボディ・トレーシング」(岡本高幸作)は、前方高円墳の形をそのまま丸ごと上下ひっくり返して、凸の形が凹の形になっているものです。全体の大きさは縦が1.5m余、横1m弱、深さ10cmほどで、ちょうど、後円部に頭を入れ、前方部に背中から腰を入れて、膝を立てた状態で寝てみてもいいのではと思ったくらいです。表面はつるつるした手触りで、斜面の石積みの部分も細かいきれいな段々になっています。驚いたことに、この古墳の底面はなんか生暖かい感じがして、さらに寝心地がよさそう(下から電気で暖めているようです)。あの巨大な古墳をまさに身体で感じられる作品になっています。
 「縄文の腕輪」(資料提供:石原道知)は、埼玉県北本市デーノタメ遺跡から出土した、漆塗腕輪のものと思われる小さな破片から推定してつくられた複製品です。ツノガイが使われていたらしく(図録によれば、腕輪の材料としてではなく、腕輪に付ける飾りとしてのようだ)、千葉県産の3〜4cmくらいの小さなツノガイが数個展示されていました。その隣りにはおそらく出土した2cmくらいの小さな破片の複製が置かれているはずなのですが、当日私が見学した時は運悪く展示されていませんでした。その隣りには、小さな破片を多数組み合わせてつくったのでしょうか、直径6cmくらい、太さは1cmもない小さな腕輪があります。さらにその隣りには出土した破片の拡大模型があって、どんなつくりになっているのか示されているようです。いくつか角張って段のようになった所など分かりますが、固定されていて十分には触れないし、専門的な詳しい説明がないとちょっと私には理解できそうにありませんでした。
 次に「中東地域の女性用仮面」にたくさん触りました。ペルシャ湾岸を中心にイスラム地域では数十年前まで女性は顔を隠すブルカまたはバトゥーラと呼ばれる仮面を着けていましたが、現在では若い人たちを中心に一種のファッションとして簡易なつくりの個性ある仮面(飾面と言うらしい)を着ける女性もいるそうです。私が触ったのは、顔の中心の鼻筋の所に硬い棒のようなもの(中にはアイスクリームの棒もあった)を使い、その左右にいろいろな手触りの布や厚めの紙を使って顔の一部をおおうようになっていました。顔の大部分が露出するようになっているものが多く、顔を隠すという役割よりも、それぞれかっこいい?と思えるものを着けているという感じでした。
 最後に、陶板による「キトラ古墳壁画」(複製)です。天井の天文図と東壁(部分)の2点です。天文図は50cm余四方の大きさで、中央部に縦に長い亀裂が入っていました。表面には星なのでしょう、直径3mmから5mmくらいの数種の大きさの異なる円が少なくとも数十個は触って分かりました。円い星の表面はつるつるしていて、もしかしてここには金が使われているのかもと思ったり。東壁(部分)は60cm余四方ほどの大きさで、向ってやや右側に大きな割れ目があり、壁面もそこでずれています。面上には右側を中心に、何本も細い凸線が交差したり交わったりして引かれています。なにか動物らしいようにも思いましたが、はっきりとは分かりません(調べてみると、東壁には青龍と寅が描かれているそうです)。
 
●「セクション6 見てわかること、さわってわかること」
【概説パネル】 絵画・絵本など、世の中には見ることを前提に創作された視覚芸術が多い。本セクションで紹介する「さわる絵画・絵本」は、単に視覚情報を触覚情報に置き換えるものではない。原作者が見ている世界を翻案者が再解釈・再創造し、触覚的に表現する。視覚芸術の新たな魅力を引き出すのが「さわる絵画・絵本」なのである。特別展の締め括りでは「見てさわる・さわって見る・見ないでさわる・さわらないで見る」など、多様な鑑賞を体験できる。見る人、さわる人の自由な交流から、相乗効果が生まれることを期待したい。
 まず『触察玩具』(わらべ館所蔵)は、とても面白くてつい熱中してしまいました。触って考え、考えながら触るを繰り返すという、触察のいわば基本が体験できる展示です。歯車など、からくり・機会を動かす基本の装置たちがいろいろありました。「ピン面歯車」は、上に水平に歯車、その左右に垂直に歯車が立っていて、上の歯車を回すと、左右の垂直の歯車が互いに反対方向に回ります。「クラウン歯車」は、ふつうの歯車(平歯車)と、回りの歯が直角に曲がった歯車(この形がクラウン?)が、垂直の位置関係で組み合っています。「ゼネバストップ」は、四角い板の4箇所の角が深くくぼみ、その間はゆるやかなくぼみになっているものの上に、一端が固定され他端の先が曲がった棒が乗っていて、四角い板が1回転すると、上の棒は4回上下運動します(連続的な回転運動を完結的な上下運動に変えるものらしい)。「確動カム」は、歯車の中心とはずれた所に軸の棒があり、回転運動を上下あるいは往復運動に変えられるのだと思います。「送り爪機構」も回転運動を往復運動に変えるもののようです。その他、遊星ギア(大きな歯車の回りに大きさの異なる歯車が4個くらいあった)、平歯車がいくつも連なったものなどありました。
 私がこれは良いと思ったのは「玉送り」です。一端が固定され他端が半円状のくぼみになっている棒が何十本も並んでいて、その上に玉が乗っています。ハンドルを回すと、棒の他端が順番に上下運動をし、その上の玉がその動きにつられて次々に送られてゆきます。この連続した上下運動ですが、これは水の波などが伝わり広がっていく原理を説明するのに使えそうです。波はふつう触ってはなかなか把握しにくいですが、これだと理屈でよく理解できそうです。また、磁石を使った玩具も数点ありました。私はつい「タッチテスト」という触感合わせゲームで遊んでしまいました。盤上に9個の円形のくぼみと、それと同じ大きさの9個の円盤があり、その表面の触感は、砂、ゴム、コルク、木、樹脂様などいろいろあって、くぼみの触感と円盤の触感を合わせてみるものです。私は最初は2、3個間違えてしまいました。
 
 「想像開花模様」(Yoko-Sonya)は、北タイ山岳民族モン族の古い伝統衣装の一部(帽子のようなもの)で、触ってとてもよい作品に思えました。3点展示されていて、いずれも直径40cm弱、厚さ3cm前後の大きな円盤状です。古い布を多数かたくしっかり数ね合わせ、表面にはとても細かい模様や飾り付けがされています。初めのものは、細かい模様の上に直径1cm弱の薄いひらひらしたものがたくさんついていました。次に触ったのは、中心部にひまわりの種を思わせるような堅くてこまかなつぶつぶが円形に並び、その回りをひらひらの花びらのようなのが取り囲み、さらに帽子の縁の半周にはプリーツのような大きなひらひらがついていて、とても花やかな感じがします。3点目は、中央はかたいざらざらで、その回りを植物のいろいろな大きさの実らしきものを多数重ねくっつけた小高い丘のようなのが取り巻き、さらにその外側にはちょうど牛乳瓶のふたくらいの大きさのちょっとざらざらした薄い円盤状のものが広がっていて、なにか自然の風景のようなのを感じます。これらは、1年かけて行われる女性の手仕事だということですが、木の遠くなるような作業とともに、女性たちの心の平安のようなものが伝わってきます。
 
 「彫刻『神奈川沖浪裏』−北斎の世界観に触れる」(戸坂明日香)は、あの有名な「神奈川沖浪裏」を彫刻で表現してみた作品です。幅は70〜80cmほどもあったでしょうか、かなり大きな作品です。上は大きな波が巻いていて、平べったいすべすべの薄板をくるうーと丸めたような感じです。その下は空洞になっていて、そこにゆるやかな円錐形の富士山がありました。富士山の手前には、ちょっとぎざぎざした小さな波が連なっています。(波間の舟は、どこかにあったのかもしれませんが、私は触っていません。)この作品は、大波や富士山などリアル感は十分ありますが、私がそれなりに知っている神奈川沖浪裏とはちょっと違うような感じがしてしまいます。北斎の絵を再解釈した彫刻作品だということだと思います。
 
 京都市立芸術大学ビジュアル・デザイン専攻の学生たちが制作したという『さわる名画』が10点以上展示されていました。多くの人たちが一度は見たことのあるような名画を立体的に翻案して、触ってもそれなりに鑑賞して楽しめるようにとつくったもののようです。学生たちがこんな活動をしているとはなんとも頼もしいこと!ぜひ見えない人たちの美術鑑賞に生かしてほしいものです。
 中でも、ゴッホの「画家の寝室」は触ってとてもよく分かりました。部屋の向って右側にベッド、左手前に椅子、左奥に花瓶や果物などが乗ったテーブル、その奥の壁面に絵が2点、右奥は開き戸のような窓になっていて、その下(ベッドの奥)に椅子、ベッド脇の壁面に絵が4点かかっていて、配置がよく分かります。また、遠近法に従って、部屋も内部の家具なども、奥に向って狭くつくられています。同じくゴッホの「夜のカフェテラス」も遠近法的につくられていて、手前に段ボールを細かく切って並べた石畳?の道、向ってその左にカフェのテラス、その上には街灯?、向って右には家並みがあり窓や屋根も細かくつくられ、左上奥にはいくつか星も配されています。
 ルネ・マグリットの「ゴルコンダ」は、ふしぎな感覚を喚起する面白い作品でした。背景は、上は空、下は建物で、その前に画面いっぱいにおそらく百人以上の人たちが、遠近法的に、前景の人は大きく、中景の人は少し小さく、後景の人は小さく配されています。前景の人や中景の人は実際に浮いたような状態になっていますし、上から下に真っすぐたどってみると、人が下に落ちているように連なっています。遠くから全体を見ると、雨滴の連なり、雨模様のように見えるのかもと思ったりです。マグリットの「白紙委任状」は、森の木々の間を婦人の乗った馬が進んでいます。馬の体の2箇所が木で隠されていることが触って分かりますが、この情景、よく見ると馬の移動とともに見え隠れするはずの木々と馬の関係がおかしくて混乱してしまうそうです。同じくマグリットの「大家族」は、中央に、翼をひろげて飛んでいる鳥をあらわしているという横長の深い窪みがあり、その中は青空の色だとか。空高く飛んでいる鳥をあらわしているのでしょうか?手前には海の波らしきのがあります。
その他、エドゥアール・ヴュイヤールの「ベッドにて」(シーツをかけて顔を出しているだけの人がベッドに横たわっている。シーツの感触はよかった)、ムンクの「叫び」(画面右側のざらざらした感じの崖のような所に両耳に手を強く当てた人がおり、向って左に伸びている道にはふにゃっとした細長い体の人が陰?のように立っている。道の向こうは水面のようにつるつるした手触りになっていた)、カラヴァッジオの「聖トマスの懐疑」(聖トマスと思われる人の指が、キリストの傷口と思われるお腹のあたりの窪みを指している)、ピーテル・ブリューゲルの「バベルの塔」(円形の段が4、5段積み上げられた上に、さらに四角い壁が数枚立っていて、建設中のようだ。その横には綿のようなふわふわした雲の大きなかたまりがあって、雲を突き抜けて天まで届く塔をつくろうとしていることが想像される)、ジョルジュ・デ・キリコの「通りの神秘と憂愁」(画面の右・左に家があり、その手前に道がある。道の向って右には前が大きく開いた荷車のようなのがあり、左のほうには女の子が両手を前に出して大きな輪のようなのを転がして?いる。向って右側の家の左側にはなにか人らしき影がある)、フェルメールの有名な「真珠の耳飾りの少女」、鴨居玲の「出を待つ(道化師)」(とがった針のようなのが多数並べられていて、その輪郭は大まかに人の顔・胴・脚のようになっていた)などありました。
 
 『陶板名画』(大塚オーミ陶業株式会社所蔵)は、陶板に絵を焼き付けたもので、何が描かれているのか触ってはほとんど分かりませんが、とにかく破損などまったく心配することなくしっかり触れるのが良い点です。ゴッホの「ヒマワリ」は、分厚いタッチで、太い斜めの線や、ヒマワリの花の輪郭に対応するのでしょうか、一部円い輪がいくつか重なったような所も感じられます。「日傘の女」は、縦に何本も強いタッチが感じられます。加山又造の「風」は、大部分はスルウーとした手触りですが、回りにさらさらしたような線がうねっていて、鳥の大きな羽の輪郭をあらわしているそうです。(もう20年近く前になりますが、徳島市の大塚国際美術館に行って、陶板画を多数触ったことがあります。陶板画に実際に触りながら、触っている場所に何が描かれているか、どんな色なのかをたずね、また形を指でなぞってもらったりすると、絵のイメージが頭にできやすくなります。そして、時々ですが、陶板上のわずかな凹凸や手触りの違いが参考になることもあります。)
 『さわれないものをさわる(ポップアップ絵本)』(桑田知明作)は、さわるしかけがいろいろ組み込まれた本です。10冊近くありましたが、その中から私がつい夢中になった2点を紹介します。「はっぱ」は、本を開くと、ページの間からごく薄いつるつるの硬そうな紙が広がり出てきて、なにか音、サワサワとか、カサカサといったような音がします。風に吹かれている葉とか、枯葉が舞っている音のようです。耳をすませて何度も繰り返しました。本を開くと、音とかにおいの出てくるものもいいですね。「Ontology」は、各ページに、折り線の入った厚めの紙があって、その側にその折り線を折ってできる立体の低面が入る切れ込みがあり、実際に折り線に沿って紙を起こしていろいろな立体をつくってみるというものです。(立体は三角形を面とするものが多かった。)折り線を触り、立体の入るべき切れ込みの形を触りながら、こんな立体ができるかもと想像しながら、時には紙の角度を慎重に変えながら、やってみます。触って考え、考えながら手で確かめ動かしてにるというもので、触察の力を高めるのにとてもよい教材のように思いました。
 フランス製の「さわるポスター」は、幅3m以上、縦2m近くもある大きなもので、あちこち触って行くと、新発見の旅をしているようで楽しかったです。全体は海の風景でしょうか?、画面左上にボート?があり、下のほうは海中のようです。ボートの大きな帆のようなのを開くと中から小さなバナナのようなのが出てきたり、ボートからは釣り糸のように紐が垂れていてその先にも小さなバナナのようなのがあったり。海中には、たくさんのイワシやフグのような魚(フグの膨らんだ体を触って、初めはふわふわのパンかと思った)や、ヒトデなど海の生物がいるようです。ほかにも、上の布を開くと中からなにかが出てきたり、ファスナーを思わせるような縫い目があってつい開けてみたくなったりします。イベントのテーマに合わせて、こんなさわるポスターがあったら、出かける楽しみがふくらみますね。
 
 その他、さわる絵本が多数あり、立体コピーで変体仮名を示したもの、さわる写真、触察本、触図入りのカレンダーなどもありました。
 
 *10月17日、知り合いと3人でこの特別展を見学し、私は京都市芸大の学生の『さわる名画』など前2回ではあまり触っていなかったものを中心に触り、一部追加・修正しました。
 
(2021年9月20日、10月19日更新)