岐阜ミニ旅 ー 金華山のチャートの露頭に触る

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 4月15日から16日、岐阜に1泊して周辺を見て回りました。15日は金華山と岐阜県美術館、16日は大垣に行って輪中館と大垣城を見学しました。
 
●金華山
 昼前に在来線を使って岐阜駅に到着、昼食後、駅からバスで10数分で岐阜公園へ、そこから少し歩いて金華山のロープウェイに乗り数分で金華山頂近くに到着、そこからやや急な坂道や階段を10分弱歩いて山頂にある岐阜城に着きました。
 金華山(「きんかざん」と読むそうだ。宮城県牡鹿半島沖にある金華山は「きんかさん」)は、たぶん多くの人と同様私も稲葉山、そして斎藤道三の稲葉山城として知っているものです。織田信長が稲葉山を金華山と呼ぶようにし、斎藤一族滅亡後、稲葉山城を拡張して岐阜城として居城とし、城下には楽市・楽座を設けてにぎわったとか。関ヶ原の戦いの後は廃城になっていました。
 金華山は、海抜329mと、そんなに高くない山ですが、回りには濃尾平野が広がり、城の北側には長良川が蛇行しながら流れ、南側は平野で、広々とした風景の中に目立って見えるようです。山頂にある現在の岐阜城は、戦後城址に天守を模して建設された4階建の建物で、内部は織田信長関連の資料が展示され、最上階からの展望はとても良いようです(その日は曇天で、遠くははっきり見えていなかったようですが、北側を流れる長良川が蛇行しているのがよく分かると言っていました)。
 私にとって良かったのは、金華山のチャートだけの露頭に触れたことです。山頂に向って歩き始めて間もなく、金華山についての説明板があり、それによれば、金華山は全山チャートで出来ていて、そのチャートは、2億年以上前に赤道付近の海底に放散虫がゆっくり堆積し珪化してできたものだというようなことが書いてありました。そして、近くにはチャートの褶曲した地層も見られるということで、ちょっと探してもらいましたが見つけられませんでした。しかし、石垣の隣りがチャートの露頭になっていて、触ってとても分かりやすかったです。厚さ1cm前後から3〜4cmくらいの層まで、斜めに30度くらいの角度で、まるで何枚もの厚さの異なる板を少しずつずらして重ねたように、真っすぐ平行にきれいに重なっています。各層の境界は少しずつずれていて、各層が明瞭な階段状になっていて、触ってとても分かりやすかったです。全体がどのくらいの高さがあるのかよく分かりませんが、私の手の届く範囲は、下から上まで全部チャートだけの露頭でした。各層の表面の手触りも、さらさら、するするした硬質な感じで、チャートであることがよく分かります(色は全体に赤っぽいようです)。ふつう露頭の地層は、異なる岩石種から成っているはずですが、この露頭はチャートだけのようで、間には別の層らしきものは見つけられませんでした。チャートの層の間に2mmくらいの隙間が走っている場合もあって、この場合は、チャートとチャートの間の泥岩のような軟かい層が後で風化して隙間になっているものと思われます。さらに、別の所では、平行なチャートの層の傾きが、垂直に近い70度くらいになっていました。
 チャートは、海洋底に長い時間をかけて降り積もった放散虫などが珪質化してできた岩石で、その放散虫の種類が分かれば、おそらく時代や場所がある程度特定できると思います。金華山のチャートは、古生代のペルム紀後期から中生代の三畳紀中期(約2億6000万年前から2億3000万年前)に赤道付近の海洋底で形成されたもののようで、それが数千万年かけて海洋プレートとともに日本近くまで移動して大陸プレートに付加されたもののようです。1年ほど前に大垣市の金生山化石館に行きましたが、金生山も同じころに南の浅い海でできた石灰岩が海洋プレートの移動で大陸プレーとに付加されたものでした。この辺美濃一帯に広がる地層には、古生代末から中生代初めにかけて南の海でできた地層が海洋プレートの移動で中生代ジュラ紀に大陸に付加された地層が多く、美濃体ないし美濃-丹波体と呼ばれています。美濃体にはもちろんチャートだけでなく多くの岩石種が含まれていますが、この辺りでは長期間の主に河川による浸食で泥岩や砂岩など軟か目の岩石が除かれてほとんどチャートだけの山が残されたのでしょう。また、チャートの層が、水平ではなくかなり斜めになっているのは、大陸プレートに付加される時に上へ上へと非常に強い圧力で押し上がるように付け加えられていったためだと思われます。
 
●岐阜県美術館
 金華山から岐阜駅まで戻り、そこからバスで岐阜県美術館に行きました。私は岐阜県美術館には10年以上前2、3回行っていますが、2年余前にリニューアルオープンしたということで、1度行ってみたいと思っていました。ただ、私たちが訪れた日は、企画展などはなくて所蔵品店だけでした。
 受付で、視覚障害であることを伝え、触れたりして鑑賞できるものはないかなどたずねてみると、触図入りの「所蔵品ガイドブック」を2冊持ってこられました。以前見学した時に触った記憶のあるものでした。でも、このガイドブックに掲載されている彫刻作品などは今の所蔵品展ではどれも展示されていないということで、やむなく展示室で椅子に座りながらゆっくり読みました。懐しく作品をある程度思い出しましたが、やはり実物に触らないととても鑑賞した気分にはなれないものです。
 家内が展示を見終わった後、一緒に庭に出ていくつか彫刻に触りました。ただ、多くの作品は大きかったり、台上にあったり、池の中にあったりで、あまり触ることはできませんでした。
 大成(おおなり)浩の「風の影」は、形が気に入りました。高さ4〜5mくらいの柱のような石(白御影石)の作品です。根元の辺は径が1mくらいで、高さ60cmくらいの所から、2つに別れ、片方は、長径が50cm、短径が20cm余くらいで長径の両端がすうっととがっている楕円の柱、そこから20cmほどの空間を隔てて、先ほどの楕円の柱をちょうど90度回転させて同じ形の楕円の柱が立っています。この2つの楕円の柱の間の空洞は風の通り道になり、また2つの楕円柱が互いに投影しあっているようにも感じられます。全体の形はシンプルですが、なにかデザインがいいなあと思いました。
 触ることはできませんでしたが、池の中の台座の上に、マイヨールの「地中海」というブロンズの作品があるとのこと。座っている女性の像で、左膝を立てその上に左肘を乗せ、顔は下を向いていて、なにか悩んでいるような感じだとか。
 天野裕夫の「バオバブ・ライオン」は、触ってもなにかよくは分かりませんでしたが、面白そうでした。(天野裕夫の作品は、以前岐阜美術館で「ティオティワ亜カン」と「重厚円大蛙」、および3年ほど前に土佐堀川沿いの遊歩道・中之島緑道に設置されている「十魚架」に触ったことがある。)高さ2mくらい、上のほうの直径も2mくらいはあるでしょうか、全体の形は、上のほうが広がり下のほうが狭まった、円錐台を逆さにしたような形です。一番下には足のようなのがあり、穴が開いていて中は大きな空洞になっているようです。空洞をのぞくと、ゾウが見えまた建物?ないし街らしきのが見えるとか。外側の両側面には大きな耳のようなのがあり、全体は大きな頭のようにも思えます。上のほうには、なにかよく分からないいろんな動物?のようなものもあり、怪物っぽくも思えます。様々に想像がふくらむ作品です。
 ルノワールの「勝利のヴィーナス」は、以前に触ったことのある作品でした。台に乗っていて、胸くらいの高さまでしか届きませんでしたが、お腹とお尻がたっぷり大きくて、とてもヴィーナスのようには思えないような裸婦の立像です。右手は、肘を曲げて手を前に出し、手のひらの上にリンゴを乗せています。左手は横に伸ばして、布の束のようなのを下げています。右手に乗せているリンゴは、3女神が美を争うパリスの審判の話に出てくるリンゴかも知れませんが、このような豊満な女性が美を制していいの?と思ったりです。
 その他、作家も作品名もはっきりしませんが、40cm四方くらいで高さ30cmほどの石の台のようなのが真っすぐ数列並んでいて、それぞれの台のつるつるの表面に、幾何学的な線を組み合せていろいろなテーマを表現したもの(例えば、折紙の鶴とか、教会のような建物らしきものとか)がくっきりと彫られていました。ほかにも、館外にはまだまだ作品はたくさんあるようでした。
 なお、野外の彫刻作品については、数名の参加者が作品について感想を述べ合い鑑賞するという「〜ながラジオ」が視聴できます。岐阜県美術館ではほかにもいろいろ楽しそうな企画やイベントをしているようで(その中には、イタリア式のパイプオルガンの演奏会もある)、次はそういう企画に合わせて行ってみようと思います。
 美術館からの帰り道にも彫刻1点に触りました。ベンチの上に2点並んでいました。右側には、分厚い開いた本の右ページの上に猫がちょこんと座っています。左側には、男の人が右手でサキソポンを持ち吹き、左手はかるく握って人差指だけを斜め上に伸ばして拍子をとっている感じです。(私はサキソフォンを知らなかったので、形を知ることができてよかった。)
 
●輪中館
 次の日は、岐阜から東海道線で大垣へ、大垣駅で養老鉄道に乗り換え10分ほどで友江駅へ、そこから5分余歩いて輪中館へ着きました。
 輪中がつくられ出したのは江戸時代になってからで、初めは集落の上流側に堤をつくったそうです。しかしそれでは、増水すると下流側から逆流して洪水になるので、下流側にも堤をつくるようになり、集落全体を囲うようになったとか。江戸時代末から明治初めには、この辺一帯で100以上もの輪中があったとか。輪中の景観で特徴的なのは、回りの堤とともに、堀田(ほりた)という独特の水田です。湿地の泥を掘り上げて高く盛り上げて田んぼの面をつくり、掘り上げた跡は水路になって、クリーク状に縦横に走る水路と短冊状の田んぼがきれいに並んでいるような風景だったそうです(干拓などが進んで、昭和40年代までにはこのような景観はなくなったそうです)。
 輪中は洪水から生活を守るためにつくられますが、輪中がたくさんできてくるとそれだけ水の行き場がなくなって洪水が起りやすくなってきます。それにたいしては少しでも輪中の高さを高くすればいいのですが、ある輪中の高さが増すと、回りの輪中はますます洪水に襲われやすくなり、集落間の争い事になります。それで隣接する輪中間で輪中の高さを一定にするように話し合われ、その高さの基準として定杭(じょうくい)を堤の横に立て、違反していないか5年ごとに検査をしたとか。
 輪中内の農業はなかなかたいへんそうです。女の人が胸まで泥につかりながら作業しているとか、牛に鋤のようなのを引かせて泥田掻きをしている(牛もたいへんそう)、いろいろ写真もありました。私がちょっと触ったのは、苗舟と長鋤簾、足踏揚水車です。苗舟は、深さ10cmくらい、長さ1m弱ほどの長方形の平たい箱のようなもので、これに苗を乗せて泥水の中を往復して運び田植えをしたようです。長鋤簾は、長さ2mほどの棒の先に30〜40cmくらいもあるかなり大きな塵取り?のようなのが付いていて、これで水路から泥をすくって田んぼのほうに積み上げていたそうです(放っておくと、水路と田んぼの区別がなくなるほどになるとか)。足踏揚水車は、直径2m近く、羽根も十数枚はある大きな水車で、これを人が足で踏んで水をくみ上げるもの。夏に晴天が続くと、輪中内の田んぼでも水が少なくなり水路から水をくみ上げねばならなかったとのこと、暑いなかの長時間の作業はたいへんそう!その他、田舟なども展示されていました。
 私が意外に思ったのは漁業。川や水路では、フナ、コイ、ウナギ、モロコ、タニシ、カラスガイなどいろいろ獲物があったようです(この後に行った輪中生活館では食の模型が展示されていて、その中には魚料理も多かった)。「うえ」という漁具に触りました。高さ10数cm、直径20cm余の円錐台の形で、竹のようなので編んだものです。側面の片側の下から半分くらいまでが開いていて、その開口部には内側にだけ動く細い棒が何本も下がっています。魚が開口部から棒をすり抜けて中に入ると、棒に遮られて外に出られなくなります。これは一般に「うけ(筌)」と呼ばれている漁具の1種だと思います(私は以前、栗東歴史民族博物館で、これとは構造の異なる筌に触ったことがある)。その他、直径7〜8cm、長さ30cmくらいの筒状のものもあって、これにはウナギなどがよく入るようです。
 浸水に備えた工夫もいろいろありました。上げ仏壇は、ふつうの仏壇ですが、上に滑車が付いていて、ロープを引いて2階を上げれるようになっているそうです。軒先や天井には避難用の上げ舟がつり下げられていたそうです。私がちょっと触ったのは、長さ6mくらい、幅130cmくらい、深さ40cm余はあるかなり大きなものでした。「どんど橋」と言って、主屋から、土盛りあるいは石垣の上に建てられた水屋にゆく渡り廊下のようなものもありました。
 もちろん、水害を防ぐための治水工事も古くから行われてきました。有名なものに、1753年(宝暦3年)に幕府の命令で行われた1000人近い薩摩藩士による宝暦治水があるとのこと。さらに、明治6年に来日していたオランダの土木技師デレーケ(Johannis De Rijke: 1842〜1913年。日本に30年間も滞在し、各地で詳しい調査をして、日本の近代的な河川砂防技術の基礎をつくったとされる人)が、明治11年から16年にかけて現地を詳しく調査し、それに基いて木曽三川の分流を中心とする報告所を書き、それに従って明治20年から4期にわけて25年の歳月をかけて大規模な治水工事が行われます(詳しくは、輪中のパラドクス)。この工事終了後には毎年のように起こっていた水害は激減し、その後も治水・土地改良工事などが行われて輪中は次々に減っていったようです。
 輪中館のすぐ近くには、輪中生活館があります。大垣輪中の豪農だった旧名和邸を保存したもので、明治初年に建てられ築後150年くらいは経っている(平成3年までおばあちゃんが1人で住んでいたとのこと)ようですが、とてもきれいでよく手入れが行き届いているように思いました。上げ舟や上げ仏壇もありましたし、日常や祭りの時の食べ物、台所の品々や農具などもありました。また、主屋のほかに、水屋や倉庫のようなのもありました。
 
●大垣城
 輪中館から養老鉄道で大垣駅に戻ってから、10分ほど歩いて大垣城に到着しました。大垣城は、金華山頂にあった岐阜城とは異なり、平城でゆ街中にあり、すぐ近くまで行かないと見えないようです。関ヶ原の戦いで西軍の石田三成が本拠とした城として有名で、江戸時代には戸田氏の城になったとか。昭和11年に国宝に指定されましたが、昭和20年7月29日の大垣空襲で消失し、昭和34年に4層4階の天主が再建されたそうです。内部は資料館になっていて、火縄銃やいろいろな槍、甲冑など、それに戸田氏関係の資料などが展示されていました。とくに触れるものはまったくなく、私は建物の大きな柱のようなのが中心に向って内側に傾いていることから、なんとなく城の形を想像したりしたくらいです。4階は回りが展望でき、私は音声で回りの地形の説明や、西軍と東軍の配置などを聴いて、少しは参考になりました。
 大垣城では触れられるものもほとんどなくてちょっと不満足なこともあり、大垣駅までの帰り道、道沿いに彫刻たちも設置されているということで、いくつか手の届くものに触ってみました。足元までふんわりとした衣を着けている女性のブロンズ像、何匹もの鯉たちをうまく並べて水の流れのようなデザインにした石のレリーフ、3人の赤ちゃんが石の台の上で異なったポーズ(手を口にくわえているもの、手をついてはいはいしているもの、石の台に両手をかけてつかまり立ちしているもの)をしている石彫などです。
 
 今回の岐阜ミニ旅では、事前に美術館等に連絡せずに行ったこともあって、すべて十分に見学できたわけではありませんが、なんと言っても思いがけなくも金華山のチャートの露頭に触れられたのがよかったです。
 
(2022年4月22日)