座間味の一族の歴史から考える――民博のウィークエンドサロンから

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 3月5日、国立民族学博物館で行われたウィークエンドサロンに参加し、「海を渡った一族──沖縄の座間味島をめぐる移動史」を聴きました。午後2時半からわずか30分のお話でしたが、いろいろ考えさせる内容でした。(今回は数年ぶりで民博までの往復を1人歩きでしました。身体も感覚も衰えているなか、どうなるかちょっと心配でしたが、何人かの手を借りながら、時には見守られるような状態でなんとか果せました。)
 講師は、藤本透子先生。長年カザフスタンの草原で頻繁に移動しながら生活している人たちの研究をしてきたとのことで、論文・著作も多いようです。それがなぜ沖縄かと言うと、先生の父方の祖父の名字は藤本ですが、それをさかのぼってみると、宮里、翁長、そして蔡(中国系の名前)にたどりつき、その過程には沖縄・座間味の人たちの移動の歴史があり、調べるようになったそうです。そこには、沖縄を取り巻く中国・日本・アメリカを中心とする国際秩序の中で、しばしば海を渡って生活していった一族のすがたが見えてくるようです。スライドを使って写真やおそらく家譜など多くの文字資料も示しながらのかなり詳しい話でしたが、私に理解できた範囲で概要について書いてみます(不正確な点や間違い?もあるかも)。
 琉球では11世紀以降中国などとの交易が行われるようになり、また沖縄島では鉄器の使用や農耕が始まって、各地にグスクを中心にした勢力が台頭・割拠するようになります。14世紀中半には、沖縄島の南山・中山・北山の3つの小国がそれぞれ明に朝貢するようになり、その後19世紀中半まで約500年間琉球は明・清の冊封体制に服します。17世紀初めには薩摩藩が事実上琉球を支配するようになりますが、中国との朝貢貿易でもたらされる大きな利益を失わないよう、琉球が独立国として明・清の冊封体制に組み込まれた状態が続きます。明治になって、1872年新政府は琉球藩を設置、さらに1879年には廃藩置県を強行し沖縄県として完全に日本領とし、琉球王国は滅亡します。第2次大戦末米軍が上陸して苛烈な地上戦が行われ、アメリカに占領されアメリカの支配下になります。1972年に本土復帰しますが、日米安保の下特別の役割を負わされ続けます。
 藤本の先祖である蔡氏は、14世紀初めに福建省の泉州から座間味島にやってきたようです。座間味島は、本島の那覇の西30〜40kmほどに連なる慶良間諸島の1つで、中国への進貢船の風待港ないし避難港として使われていたそうです(進貢船は那覇と福建省の福州を結ぶ)。琉球王朝成立後蔡氏は通訳官や交易にかかわる仕事で王宮に仕えるようになり、本島に移り住んだようです。時期ははっきりしませんが、蔡氏の1つの分家として翁長になったようです(その間のことは、戦争で焼かれるなどして失われてしまったのか、資料が欠落しているとか)。
 ここで興味深かったのは、琉球の(おそらく上級の)人たちの名前です。琉球の人たちは、唐名、大和名、童名という3つの名前を持っていたそうです。唐名は姓と諱を並べたもので、主に中国との関係で使われます。大和名は家名(多くは地域名)と称号と名乗(日本の武士に倣ったものらしい)を合わせたもので、主に日本との関係で用いられたようです。童名(ドーナ、ワラビナー)は、ふだんの生活で使われる通称だそうです。(スライドには多くの実例が示されていたようです。)名前にも、独立国として中国の冊封体制に入りつつ、他方では薩摩藩を通して幕藩体制に組み込まれていたという、国際的な秩序の中の琉球の立場があらわれています。
 19世紀になって、翁長家のある人に子供が13人もいて、その3男と5男が1850年ころ?座間味島に移ったそうです(確かではありませんが、この時に養子に入って宮里になったのでは)。そのころ沖縄周辺には外国線がしばしばあらわれ、その情報をいち早く早船で薩摩藩に知らせるのが座間味の人たちの仕事になっていたとか。しかし沖縄県の設置とともにそのような仕事はなくなり、さらに日清戦争で清が負けて心もすっかり清から日本に移ったとか。20世紀に入ると座間味の人たちは新たにカツオ漁業を始め、さらに鰹節の生産も始めて栄えます。しかし昭和に入るとカツオの不漁が続き、当時日本の委任統治領だった南洋群島に座間味の人たちも移ります(男約200人、女約100人。それまでは女性は海に出て仕事をすることはなかったが、南洋群島では女性も漁業に携わったとか)。また少数ですが(30人くらい?)本州に移った人もいたとのこと。第2次大戦末には南洋群島からの引き上げ千が撃沈されて女性や子供が犠牲になり、また米軍が45年3月26日に慶良間諸島に上陸すると日米両軍のはざまで心理的にも追い詰められた住民数百人が集団自決するという悲惨なできごとが起こります。
 戦後、南洋群島にいた座間味の人たちも(たぶん一時米軍の収容所に入った後)引き上げてきますが、沖縄と本州に別れて住むようになります。沖縄はアメリカの支配下だったので、沖縄と日本の間の交流は難しく、同じ島の出身者が分断されることになります。沖縄の人たちは日本に来るのにパスポートが必要で、座間味の人たちの中には本州にいる親族を頼ってパスポートを持って日本に来た人もいるそうです。しかし、本州に来た座間味の人たちは、沖縄の言葉は使えないしいろいろ差別もあって、中には養子に入ることで名前を変えた人もいたとのこと。藤本はたぶんその例のようです。沖縄の復帰前後から本州に住んでいた人たちの沖縄訪問が始まり、久しぶりに南洋群島に一緒に住んでいた人たちと会えたそうです。その後、座間味の人たちの中には教育とよい職を求めて沖縄や日本に移る者が多いようです。最近は、きれいな海、ダイビングやホエールウォッチングなど観光で注目されるようになり、本州から座間味に新たに移り住む人もいて、また新たな地域社会になっていっているようです。
 今回の話では、中国、日本、アメリカの力関係の中で、座間味の人たちが、時には生活圏を大きく変えながら、柔軟に強く生き抜いてきたことがよく分かりました。今は世界のどの場所も(南極を除いて)どこかの国の領土になっていて、必ずどこかの国の住民として生きるしかありません。一番楽なのは同じ国にずうっと住み続けることでしょうが、戦争や紛争、飢餓や極端な貧困、災害などで、国を越えて生きざるを得ないあるいはそうしたいと望む人たちは多くいます。日本はそのような人たちには寛容でない社会・制度で、入管や難民などに関わる問題はなかなか改善されませんし、また歴史的にみても、沖縄など南方の人たちやアイヌなど北方の人たちへの評価と位置付けがもっと検討されるべきだと思います。

(2023年3月17日)