古代メキシコ展を見学

上に戻る



 3月27日、国立国際美術館で開催されている特別展「古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティワカン」を友人と見学しました。平日の昼時だったのですが、かなり込み合っていました。展示品は全部写真撮影OKということで、あちこちで撮影の音がし、またしばしば子ども連れの若い人たちも見受けられ、異なった文化・文明をゆっくり楽しんでいる様子でした。
 触れられる展示はまったくなく、友人の説明を聴きながらメモしたので、以下にそれを参考に記します。なお、同展が九州国立博物館で開催された時のYoutubeの解説特別展「古代メキシコ」じっくり解説がとても参考になりました。またメモが不十分だったためネット上のいろいろなページも適宜参考にしました。
 まずイントロダクションということで、メソアメリカを中心にした地図と年表がありました。地図には各文明の範囲や各遺跡の位置などが示されていたようで、そういうのが見られずに残念でした。今回の特別展の地域はメキシコで、そこで展開されたマヤ、テオティワカン、アステカの各文明がテーマです。これら3文明の母体となったとも言われるオルメカ文明がメキシコ湾岸で紀元前1500年ころから起こったようです。紀元前12世紀ころから主にユカタン半島付近(現在のメキシコ南東部から、グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ベリーズにかけて)でマヤ文明が始まり、紀元前1世紀ころから各地に都市国家のようなものが成立し、多い時にはおそらく100以上の都市国家が相争うほどになりますが、16世紀にスペイン人の侵攻で衰退します(最後のマヤの王国タヤサルが亡んだのは1697年)。マヤ文明は、初期には低地南部で都市が栄えますが、9世紀ころには衰退し、その後は主に北部低地や高地で都市が栄えるようになります。この地域は熱帯雨林気候で、雨期と乾期が明瞭で雨は多いですが、石灰岩のカルスト地形が多く、そういう地域では雨はすぐに地下に染み込んでしまい、トウモロコシなどの栽培では河川水よりも直接雨に頼らざるをえないようです。
 テオティワカンとアステカは、メキシコ中央高原で発達した文明で、テオティワカン文明は紀元前1世紀から6世紀まで、その後トルテカ文明をはさんで、14世紀からアステカ文明が始まり、16世紀にスペイン人に征服されるまで続きます。この地域は2000m以上と高度が高く、また3方を東・西・南の各シエラマドレ山脈に囲まれているため、雨は回りの山脈の麓で多く降り、内側の中央高原では少雨になり乾燥した気候になります。この地域では、天水に頼るだけでなく天然の泉や湖沼から水路で水を引いて灌漑農業も行われ、都市人口を支えたようです。時代としては、テオティワカン文明はマヤ文明の初期と、アステカ文明はマヤ文明の末期と対応することになり、それぞれの文明間でも影響を与え合ったようです。
 
 続いて、各文明の特徴を示すと思われるような展示がいろいろ並んでいました。
 まず、オルメカ文明の石偶が数種展示されていました。材料はヒスイのようです。半人半ジャガーの幼児像(紀元前1000~前400年、セロ・デ・ラス・メサス出土)は、高さ10cm弱、頭が大きく(三頭身くらい)、両腕を前に出し、足はかるく開き、口をぱかっと開けているとか(回りの人たちからは「かわいい」というような声も)。ジャガーは中南米では古くから宗教・呪術的な図像に用いられているモチーフで、民博で説明してもらったチャビン・デ・ワンタルのランソン像(大きな石像)や名古屋市美術館のフリーダ・カーロの「死の仮面を被った少女」のことなども思い出しました。
 次に、テオティワカン文明の香炉台を飾った型作りのマスク。10×25cmほどの横長で、顔の両側にお皿のような耳飾り?が広がっているとか。神官か戦士を表しているらしいですが、よくは分かりません。
 マヤ文明の貴人の土偶(600~950年)。高さ30cmくらいはありますが、顔は数センチで細長く、大きなつばのある帽子を被り(大きなつばはめくれ上がっていて顔は見える)、鮮やかな青のコートを着けています。この青はマヤ・ブルーと呼ばれる独特の顔料(インディゴに近い植物染料とパリゴルスカイトという鉱物を混ぜたものらしい)で、千年以上経った今もその色がしっかり残っているとか。
 アステカ文明の装飾髑髏(1469~81年、テンプロ・マヨール、埋納石室11出土)。20~30歳の成人男性の胴体から頭蓋骨を切り離し、頭蓋骨の前面に穴をあけて毛を差し込み、目のくぼみに貝と黄鉄鉱をはめて、マスクにしたものだとか。頭蓋骨は現在でもメキシコなどでは図像やおもちゃのようなものに取り入れられているモチーフですね。
 マヤ文明の土器で、フクロウ、ジャガー、クモザルをかたどったものがありました。フクロウの土器は蓋付きで、蓋の取手の部分がフクロウの頭になっているとか。展示解説によれば、フクロウは死を預言する地下世界の使者だったとか。ジャガーは、権威の象徴で、不思議な力をもつとされた動物だとか。クモザルは敏捷な動きを連想しますが、トリックスターとして神話に登場するとか(目には黒曜石が使われている)。
 
 メソアメリカ地域の人たちにとってトウモロコシは主食で、生活になくてはならないもの。トウモロコシは神としてもあらわされ、また人物像にも反映されているようです。頭が後ろに長く伸びた人物像が多いそうですが、それは小さいころに後頭部に平たい板を付けて頭の後ろが平らに上に伸びるように頭蓋変形させていることによるらしいです。そして頭の髪の毛も、トウモロコシの先の毛のように、わさわさとした感じてくるんと巻くようになっているとか。
 アステカ文明のチコメコアトル神の火鉢(1325~1521年、メキシコシティ、トラワク地区出土)。高さ1mもある大きなもの、香炉のよう?に見えるとか。「チコメコアトル」は「7の蛇」を意味し、熟したトウモロコシの女神をあらわしているとか。実際、両手にトウモロコシを2本持っています(これは身分の高い人が持つ笏らしい)。顔は赤くて黒い線が入り、大きな耳飾り?のような飾りが両側についています。
 テオティワカン文明のメタテとマノ(250~550年)。これは主食のトウモロコシを粉にする道具で、いずれも玄武岩製。メタテは長さ30cmはある台つきの大きな皿のようなもの、マノは長さ50cm近く、直径3cmくらいもある棒で、これでトウモロコシを磨り潰してトルティーヤのようなのをつくったのでしょうか。
 
 天文や暦、文字や碑文などもいろいろ展示されていました。一番分かりやすかったのは、マヤ文明の金星周期と太陽暦を表わす石彫(800~1000年)で、チチェン・イツァの「金星の基壇」と呼ばれる建物を飾っていたものだとか。左右に別れていて、左側が金星、右側が太陽暦の年をあらわし、左側には5を示す縦棒があり、右側には8を示す8個の円があるとか。これで、太陽暦の365日の8年と金星周期の5回分が同じであることをあらわしていて(584×5=365×8=2920)、金星の周期が584日であることを知っていたということになります。
 アステカ文明の夜空の石板(1325~1521年、メキシコシティ出土)は、安山岩製で、中央に鷲と2人の戦士、両脇に金星と星が描かれているということですが、見てもよくわからなさそう。アステカでは、戦争や生贄で亡くなった戦士の魂は、太陽と共に天球上を旅しなければならなかったとのこと。
マヤ文明の暦の文字(647年頃、パレンケ、忘れられた神殿出土)は、パレンケのパカル王が築いた神殿の碑文の一部で、左は数字、右は暦の単位をあらわし、西暦647年3月5日にあたるとのことですが、見てもなにか模様のようにしか見えないとか。
マヤ文明の96文字の石板(783年、パレンケ、応急の塔付近出土)は、長さ1m余もある石灰岩の石板。パレンケの最盛期をもたらした第11代キニチ・ナハーブ・パカル(在位615~683年)の曾孫第16代キニチ・クック・バフラムの即位20周年に彫られた碑文で、654年にパカル王が建てた宮殿の近くで見つかったとのこと。パカル王から自分までの歴代の王の即位など業績が浮き彫りで書かれているとか。
 
 マヤ文明の球技をする人の土偶(600~950年、ハイナ出土)は、ちょっと目を引く展示のようでした。腰でゴムボールを打ち合うようですが、防具のようなのを着けているのか腰のあたりがとくに太くて、帽子を被り、体をひねって、目で球を追っているらしいです。マヤの各都市には球技場があり、このような球技がよく行われていたとか。(球技に使うゴムボールと、ユーゴという防具も展示されていました。)
 今度はちょっとぞっとするような展示です。アステカ文明のシペ・トテック神の頭部(1325~1521年、玄武岩製)。シペ・トテックとは穀物の神で「皮を剥がされた我らが主」という意味だとか。生贄にした人の皮を纏う神で、よく見ると口の所が二重になっていて、生贄の人の皮の内側に本物の人(王や司祭?)の顔があるようです。実際、王は戦争時に、司祭は豊作を祈る祭りで、生贄の人の皮を被ったようです。アステカでは皮を剥ぐなど生贄の技術が発達していて、儀礼用だということですが皮を描ぐナイフ(黒曜石)も展示されていました。
 
 次からはテオティワカンの展示が続きます。テオティワカンは、紀元前100年ころから550年ころまで、メキシコ中央高原に栄えた文明です(現在のメキシコシティの北東50kmくらい、北緯19度41分 西経98度51分。高度約2300m)。テオティワカンは大規模な都市で、20キロ平方メートル余の中に10万人以上の人々が住んでいたとか。中央に死者の大通りという、幅45m、長さ4km近くの直線道路がほぼ南北に通っていて、その一番突き当り北側には月のピラミッド(高さ47m、底辺140m×150m)があります。月のピラミッドの少し南側の、大通りの東側には太陽のピラミッド(高さ65m、底辺222m×225m)が立っていて、太陽が沈む西側を向いています。さらにその南側に、羽毛の蛇神ピラミッド(高さ23m、底辺65m四方。羽毛の蛇神は後のアステカ文明のケツァルコアトル神に対応)があり、ピラミッドの側面は羽毛の蛇神とシパクトリ神の彫刻がほぼ交互に配され装飾されているとか。そしてこれらが、テオティワカンの三大ピラミッドと言われます。さらに死者の大通りの周辺には、大小数百の神殿や2000もの集合住宅(上流階級、庶民、職人、異民族など別々の住宅になっていたようだ)、黒曜石加工所などが配され、また貯水池や下水道も整えられていたとか。なんともすごい都市遺跡です。
このような大規模な都市をつくったテオティワカンの人たちですが、文字らしきものは見つかってはいるものの未解読なこともあり、どんな言葉を使っていたのか、どんな民族だったのかについては分かっていないとのことです。ちなみに、テオティワカンという言葉ですが、13世紀に廃墟になっていたこの地を訪れたメシカ人が、人間業とも思えないようなその巨大さに驚いて名付けたもので、「神々の都」という意味だそうです。そして死者の大通り、太陽のピラミッド、月のピラミッドもメシカ人による命名だとのことです。
 まず、太陽のピラミッド付近から出土したという「死のディスク石彫」(300~550年)。安山岩製で、直径1m以上、厚さ30cm近くもある大きなもの。中央に髑髏があり、これは死んだ太陽をあらわします。そこから放射状に線のようなのが回りに伸びていますが、片側にはそれが欠けているようだとか。テオティワカンの人々は、太陽は西に沈む(死ぬ)と、地下世界をさまよい、夜明けとともに東から上って生き返る、つまり太陽は毎日死と生を繰り返すと考えていたようです。
 太陽のピラミッドの頂上部付近から最近(2012年)に見つかったという「火の老神石彫」(450~550年)。安山岩製で、頭に火鉢を乗せていて、火をたいたそうですが、腰が曲がっていてなんとも重そうに見えるとか。太陽のピラミッドの頂上部で行われた火や太陽に関わる儀式で使われたのでしょう。
 
 月のピラミッドからの出土品では、「耳飾りを着けた女性立像」(200~250年、月のピラミッド、埋葬墓2出土)。ヒスイ製で、頭が長く大きな耳飾りを着け、3頭身くらい。黄鉄鉱や貝も使われているとか。これは埋葬墓2からの出土品ですが、そこからは両手を後ろで縛られた生贄、ピューマやオオカミ、ガラガラヘビ、鷲などの動物も見つかっているとか。月のピラミッドは紀元100年くらいに建てられ、その後50年おきくらいに計6回増築され、その度に多くの生贄が捧げられたそうです。
 モザイク立像(200~250年、月のピラミッド、埋葬墓6出土)は、高さ30cmくらいの立像で、胴体は蛇紋石とヒスイの小片できれいに覆われているようです。12人の生贄とともに埋葬された奉納品らしいです。
 月のピラミッドからは、テオティワカン文明と前期のマヤ文明との関係を示すようなものも出ているそうです。耳飾り、首飾り、ペンダントのセット(300~350年)があって、これは月のピラミッドの埋葬墓5から出土したものですが、この埋葬墓5からは生贄3体が見つかっていて、そのうちの中央の人物が身に着けていたものだとのこと。そしてこれらの装飾品は、テオティワカンのものではなくて、マヤ様式のものだとのこと。つまり、月のピラミッドの増築のさいにマヤの都市から3名の人が連れてこられて、それが生贄体としてピラミッドの中に埋葬されていると考えられます。この3人はあぐらをかいた姿勢で埋められていましたが、あぐらをかくというのは、当時のメソアメリカの風習からすると、位の高い人物にしか許されない姿勢だったらしい。ですので、おそらくこの3名はマヤの王族あるいは貴族で、テオティワカンに連れてこられて月のピラミッドに生贄として捧げられたということになりそうです。ちなみに、月のピラミッド埋葬墓3出土の、あぐらをかき大きなつばの帽子を被った小座像(250~300年、緑色岩製)も展示されていました。
 生贄に関係ありそうな展示で、錐(200~250年、月のピラミッド埋葬墓6出土、ヒスイ製)が展示されていました。生贄には貴族など身分の高い人たちもなったようですが、さすがに王はそれはできず、放血(自分の身体を傷つけて血を流す)の儀式が行われ、そのさいに使われたもののようです。
 月のピラミッドからの出土ではありませんが、もう1つマヤとテオティワカンの交流を示す展示がありました。表面に図像が描かれた土製の「鏡の裏」(450~550年)というもので、この反対側に黄鉄鉱でできた鏡を貼っていました。鏡の裏の表面には、フクロウあるいは鷲のような羽根を広げた鳥が、盾や投槍とともに描かれているそうです。テオティワカンからマヤのティカルという都市に侵入した人物として投槍フクロウという人物の息子がいるということが、ティカルという都市国家の歴史記録にあり、投槍フクロウはテオティワカンの強大な王で、ティカルはその息子の軍隊に負けてその息子を王様にいただくことになったということです。このフクロウあるいは鷲のような鳥と投槍が描かれている鏡の裏は、投槍フクロウというテオティワカンの王あらわしているかも知れないということです。
 
 羽毛の蛇神ピラミッドは、その側面が多くの羽毛の蛇神石彫とシパクトリ神の頭飾り石彫(いずれも200~250年)に覆われていたそうです。羽毛の蛇神石彫は、長さ2m近くもある横長の大きなもので重さは1トンを越え、金星と権力の象徴と考えられるとか。シパクトリ神の頭飾り石彫も、150cmくらいある横長のもの。シパクトリ神は時(暦)の始まりを象徴する創造神で、羽毛の蛇神の波打つ胴体に、創造神シパクトリの頭飾りを配するモティーフが繰り返し彫られているとか。
 羽毛の蛇神ピラミッドにも地下トンネルが見つかっていて、神殿というだけでなく、王墓でもあったようです。
嵐の神の土器(150~250年)は、その地下トンネルから出土したもの。嵐の神は、トウモロコシなどの成長に欠かせない雨を司る神で、テオティワカンでは重要な神。それをあらわした水差し容器だそうです。頭に山形の飾りがあり、ぎょろんとした目、大きな牙が目立ち、足を踏ん張って、右手に持った稲妻を今にも投げ下ろそうとしているようだとか。ちなみに、この神は後にアステカ文明で雨の神トラロク神となります。
 嵐の神関連で、嵐の神の屋根飾りと嵐の神の壁画(いずれもサクアラ出土)もありました。屋根飾りは土製で、大きな目と鼻、長い牙だけの簡略なつくりの顔で、顔の前で両手を大きく広げたような感じで、なんかかわいいとか。壁画は漆喰性で赤など顔料で彩色されており、トウモロコシがいっぱい入ったかごを背負い、左手に香袋、右手にトウモロコシを持ち、口からはなにか吹き出しのようなのが出ていて、まるでトウモロコシのキャンペーンをしているみたいに見えるとか。
 羽毛の蛇神ピラミッドの地下トンネルの最奥部からは、巻貝の先端を切り取って吹き口にした多数のトランペット(150~250年)が出土しており、展示されていたものには、投槍器を持った人物とワニに似た神が描かれているとか。
 テオティワカンからはその他にも貝を使った物が出ていて、鳥形土器(250~550年、テオティワカン、ラ・ペンティージャ出土)は、貝や色石で装飾した土器。なにかユーモラスな見た目のようで、発掘者が「奇抜なアヒル」と名付けたとか。この土器は貝を使った多くの副葬品とともに出土していて、この地域にメキシコ湾岸との交易を行う貝商人の存在したことをうかがわせるものかも知れないということです。
 三足土器(450~550年、テオティワカン、テティトラ出土)は、当時行われていた生贄儀礼の様子が示されていて、神官か戦士と思われる人物が右手に心臓が突き刺さったナイフを持ち、その前に生贄犠牲者の心臓から発せられる言葉のサインが描かれているとか。三足土器は、円筒形の胴部に3つの脚部がついたもので、テオティワカンやその周辺の王や貴族層の墓からよく出土するものだそうです。
 
 次は、マヤ文明です。ここにはこの特別展のメダマと言えるパレンケの赤の女王関連の展示があります。パレンケは、現在のメキシコ南東部のティアパス州に位置(北緯17度30分 西経92度3分)し、200年ころ成立して、7世紀パカル王の時代に最盛期を迎え、8世紀末に滅亡した都市です。
 1952年に碑文の神殿(パレンケのピラミッドで一番高く、底辺50mくらい、高さ23mくらい)の地下の墓室から、緑のヒスイの仮面など多くの装飾品などとともにパカル王の遺体が発見されていました(レプリカですが、パカル王とみられる男性頭像も展示されていて、頭が長く、トウモロコシを連想させるような飾りになっているとか)(複製)マヤ文明 620?683年。さらに、1994年に碑文の神殿の隣りの13号神殿内部の石棺から、多くの装飾品とともに女性の遺骨が発見されました。それらは鮮やかな赤の辰砂(硫化水銀 HgS、水銀朱)の粉で全面が覆われ赤く染まっているほどなので、赤の女王(スペイン語でレイナ・ロハ)と呼ばれるようになったそうです。この女性について、当初はパカル王の母とも言われていたようですが、DNA鑑定やX線撮影、頭蓋骨からの顔の復元などいろいろな調査の結果、パカル王の妃イシュ・ツァクブ・アハウ(612ころ~672年、パカル王と結婚したのは626年)だということがほぼ確実になったそうです(50~60歳、身長約154cm。骨粗鬆症を患いほとんど歩けない状態だったらしい。歯はかなり残っていてあまり擦り減っておらず、やわらかく調理された物を食べていたと思われる)。
 今回の展示では、墓室の雰囲気を出すためなのか、暗い空間に真っ赤なマネキン?が置かれ、
その副葬品である赤の女王のマスク、冠、首飾り、頭飾り、胸飾り、腕飾り、ベルト飾り、足首飾り、貝と小像、針、小マスクが展示されていました。副葬品の一部について、解説文から引用します。
  マスク: クジャク石の小片を組み合わせて作られたマスク。瞳には黒曜石、白目には白ヒスイ輝石岩を嵌めている。
  冠: ヒスイ輝石岩の平玉からなり、頭蓋骨の首位に配置されていたことから、二重の髪飾りであったと考えられている。
  頭飾り: マヤ神話の雨神チャフクを表現する。頭の上に結わえた髪の正面を飾った。(補足:この頭飾りはかなり大振りで、雨神チャフクは鳥の顔?のよう、とくに瞳は渦巻くようになっているとか。マヤ神話の雨の神チャフクは、テオティワカン文明の嵐の神、アステカ文明のトラロク神に当たる。頭飾りの材料は、ヒスイ・貝・石灰岩の小片。)
  首飾り: 管状と球状の玉髄のビーズを組み合わせた首飾り。死後も役立つようにと、彼女の遺品の一部として墓に納められたのであろう。
 その他、胸飾りと足首飾りはヒスイ、ベルト飾りは石灰岩、腕飾りは緑色岩、小マスクは多数の緑玉髄と黒曜石・貝を組み合わせたものだそうです。実際にどんなものなのか私には分かりませんが、ヒスイなどとても貴重な物(ヒスイの産地は現在のグァテマラの南東部に限られる)をたくさん使っているようですし、その加工技術も優れたものだったと思います。また、貝と小像は、ウミギクガイの中に小さな石灰岩の像をおさめたもので、この像は、小さくてよく見えなかったようですが、赤の女王の生前の姿をあらわしているらしいとのこと。肉体が滅びても、女王であることが分かるようにということでしょうか。針は緑色岩製ですが、なにかを留めておいたのか、糸を紡いだり縫うのに使うものなのかよくは分かりません(紡錘や紡錘車も展示されていましたし、機織りをする女性の土偶もありました)。
 
 パレンケともしばしば抗争を繰り返したトニナ出土の石彫などの展示もありました。トニナはパレンケの南70km付近に位置(北緯16度54分 西経92度1分)し、687年にパレンケに敗れますが、711年にはパレンケを攻撃して王を捕虜にしたとか。その他にも各都市との抗争が多かったようで、展示されていた石彫(石板)にはカラフムルやポモイの縛られたりした捕虜の姿が描かれているようです。
 また、トニナ石彫171(728年頃 トニナ アクロポリス 水の宮殿出土)は、球技の場面をあらわした石板で、大きなボールをはさんで防具を着けた2人の男が向い合っているとのこと。頭飾りも豪華なようで、解説文によれば、右がカラクムルの王、左がトニナの王で、両国の外交関係を象徴するものと考えられるとか。猿の神とカカオの土器蓋(トニナ出土)は、径が30cmくらいもある土器の蓋に猿の神が描かれていて、猿も好きなカカオの実が首飾りになっているそうです。カカオを飲むのに使ったと思われる円筒形土器も展示されていました。カカオは身分の高い人たちだけでなく庶民の飲料ともなり、とくにマヤ低地南部はカカオが重要な交易品となり、後には通貨にもなったとのこと。
 
 マヤ文明では、パレンケとともに、チチェン・イッツァ出土の展示品も多いようです。チチェン・イッツァは、メキシコ南部、ユカタン半島の付け根に位置する遺跡(北緯20度41分西経88度35分)で、6世紀ころから13世紀ころまで続いたようですが、詳しいことはあまり分かっていないようです。チチェン・イッツァなど北部低地は石灰岩地域で、石灰岩が陥没して地下水が露出しているセノーテと言われる泉がほとんど唯一の水源になっているようで、都市はセノーテを中心に形成されることが多かったようです。そしてそのセノーテには、生贄として人や動物、財宝などが投げ込まれました。
 チチェン・イッツァで有名なのは、カスティーヨと呼ばれるククルカンのピラミッドで、底面55m四方、高さ24m(頂上の神殿部分は6m)。(ククルカンは羽毛のある蛇の神の姿で、アステカのケツァルコアトルに対応)4つの側面にはそれぞれ急な91の階段があり、これらと最上部の神殿の1段を合わせると、365段になるとのこと。そして、私にはよく分かりませんが、春分と秋分の日の夕方、階段に上から下に向ってジグザグの光と陰があらわれてそれが下の蛇の頭部像につながり、まるで大蛇が天から降りてくるように見えるとか。
 モザイク円盤(900~1000年)はこのピラミッドから出土したもので、トルコ石をはじめサンゴや貝、黄鉄鉱などもちりばめたきれいなもので、戦士が腰の後ろに着けた鏡の飾りだとのこと。
 メソアメリカで広く見られるチャクモール像(900-1100年、チチェン・イツァ、ツォンパントリ出土)も展示されていました。チャクモールは、仰向けの姿勢で、肘をつくようにして上半身を起こしかけて顔を横に向け、腹の上に乗せた皿を手でおさえているような姿の像です。この皿の上に生贄の人から取り出した心臓を乗せたとか。
玉座を支えるアトランティス像が展示されていました。チチェン・イツァのアトランティス像(900~1100年 チチェン・イツァ、戦士の神殿出土、石灰岩製)は、玉座の下に置かれた、両手で玉座と王を支える人物像だとのこと。トゥーラのアトランティス像(900~1100年 トゥーラ、建造物B出土、玄武岩製・彩色。トゥーラはチチェン・イッツァの東千キロほど、北緯20度04分 西経99度20分)は、解説文によれば「宮廷人の姿をとるチチェン・イツァのものと異なり、本作は防具を着けた戦士を表している」とのことですが、両手を上げてバンザイのようなポーズをしていてなんかかわいいとか言っていました。
 また、チチェン・イッツァのグラン・セノーテから出土したという、カエル形装身具(金銅合金)、サンダル(銅と金めっき)、鈴付き甲羅形ペンダント(銅と金めっき)なども展示されていました。
  
 最後にアステカ文明です。アステカの人たち(メシカ人)は、もともとはメキシコ北西部に住んでいた狩猟民でしたが、神託により各地を放浪するようになり、14世紀半ばに当時は広い湖だったテスココ湖上の小さな島にテノチティトランをつくって定住します。15世紀半ばから回りの都市を支配するようになり、15世紀末にはメキシコ中央高原だけでなく、ユカタン反島や太平洋岸のマヤの地域まで勢力を拡大し、大量の食料や様々な貴重品を貢納させ、また生贄になる人たちも広く集めるようになります。12~15平方キロメートルの狭い地域に最大20万人が居住し、彼らはすべて非農耕民だったそうです。しかし、1519年にスペイン人が侵入すると、その支配に不満を募らせていた回りの多くの人たちがスペイン側について戦ったこともあり、1521年に王国は滅亡します。金製品など多くの財宝が略奪され、テノチティトランは徹底的に破壊されて、その上に現在のメキシコシティが建設されます。そのため地上部にはテノチティトランの建造物はまったく残っていなかったのですが、1978年道路工事の時に地下から、アステカの神話で重要な月の女神コヨルシャウキを彫刻した直径3m以上の大きな石板が発見され、これをきっかけに大規模な発掘調査が行われるようになり、テノチティトランの詳細が明らかになってきました。
 アステカの神話によれば、メシカ人が北の古地から南下するようになったのは、彼らの主神ウィツィロポチトリ(太陽の神)の次のような神託によるものです。岩の上にウチワサボテンが生えている。サボテンの上に鷲がとまっている。鷲が蛇をくわえている。その土地に都をつくると繁栄する、と。これにもとづいて見つけたのがテスココ上のテノチティトランということになります(現在のメキシコ国旗の中央には、ウチワサボテンの上に蛇をくわえた鷲がとまっている図が描かれている。なお、メキシコ Mexico もメシカ人 Mexica に由来する)。さらに、主神ウィツィロポチトリの母は、父がいない状態で妊娠します。それを知った長女コヨルシャウキは、不義の子であると疑います。そんな恥知らずの母と子はいらないということで、400人の弟たちを引き連れて母の所に行きます。母はあわてて逃げて聖なる山コアテペク(蛇の山)に行きますが、そこにちょうどコヨルシャウキが来て、またちょうどその時ウィツィロポチトリが完全武装した状態で母のお腹から生まれてきます。そして彼はコヨルシャウキと400人の弟たちを皆殺しにし、さらにコヨルシャウキの首と手、足を切って、聖なる山から投げ落とします。メシカ人が生贄を欠くべからざるものとして繰り返すのは、このような神話を信じているからなのでしょう(もちろん生贄の風習はメソアメリカに広くあった)。
 テノチティトランで有名なのはテンプロ・マヨール(スペイン語で、「主神殿」「大神殿」の意)。何度も造築が繰り返され、底面82m四方、高さは40~50mくらいになったようです。太陽神ウィツィロポチトリと雨神トラロクが祀られ、多くの生贄や奉納物が捧げられました。テンプロ・マヨールからの出土品がいくつも展示されていました。
 まず、鷲の戦士像(1469~86年 テンプロマヨール、鷲の家出土)。土製で、高さ2m近く、幅も1m以上もある大きなもので、どのようにして作ったのだろうと思いましたが、いくつかの部分に分けて作ってからつなげているようです。まるで人が鳥の着ぐるみをつけているようで、膝下に鉤爪が見え、両手は翼を広げたようになっていて(翼の縁の曲線がいい感じだとか)、開いたくちばしからは顔が見えているそうです。勇ましく戦死して鷲に姿を変えた戦士の魂、あるいは太陽神の姿をあらわしているという説もあるとか。
 次に、トラロク神の壺(1440~69年 テンプロ・マヨール、埋納石室56出土)。これは、もちろん実物には触れませんが、ミュージアムショップにそれらしき土器が販売されていて、それに触りました(価格は2万円だとか)。径が10cmほど、高さ10数cmほどの壺で、表面に顔があらわされています。左右の目の上に眉毛のようなのが途切れることなく長く伸び、その下にまん丸の目の穴、その下に鼻、その下に口が少し開いていて、上顎から2本の太い牙が下に伸び、その左右の牙の外側に大きな長い耳飾りのようなのが垂れています。実物とどの程度似ているか分かりませんが、トラロクは、太陽神ウィツィロポリトリとともに重要な雨の神で、解説文によれば「ウィツィロポチトリと共に大神殿に祀られ、多くの祈りや供物、生贄が捧げられた。水を蓄える壺にトラロク神の装飾があり、雨や豊穣の願いが込められたものと考えられる」
 エエカトル神像(1325~1521年 メキシコシティ出土、玄武岩制)は、体育座りのような座り方で、全体は猿のようにも見えるが、口はペリカン?のようなくちばしになっているとか。エエカトル神は風の神で、アステカ神話では創造神の1つであるケツァルコアトル(羽毛のある蛇の姿)の分身とされ、生と豊穣を司る神だとのこと。
 マスク(テオティワカン文明 200~550年 テンプロ・マヨール埋納石室82出土 蛇紋岩、黒曜石、貝)は、アステカの人たちとテオティワカンとの関係をよく示しています。メシカ人がテオティワカンの遺跡から蛇紋岩製のマスクを掘り起こして、それを磨き、額や耳に穴を開けて黒曜石や貝で目や歯、耳飾りなど装飾を施して、テンプロ・マヨールに生贄の首とともに埋納したものだそうです。メシカ人はテオティワカンの品々は自分たちとは違う神々や巨人がつくったものと思って崇敬し、神聖なものとして奉納したのでしょう。なお、マスクは、広くメソアメリカでは特別な意味・力を持つと考えられ、儀式などでは、神官や王たちが神と融合し神の代弁者になるために使われました。
 このころになると疲れてきて、メモはタイトルだけになってしまい、内容については定かではなくなってしまいました。以下の展示品については、解説文から引用します。
 トラルテクトリ神のレリーフ(1325~1521年 テンプロ・マヨール出土 玄武岩製):「大地の主という生の側面と、戦争や人身供犠という死の側面をもつ神。カールした頭髪と手足に鋭い爪をもち、歯をむき出しにした口元からは火打ち石のナイフをつきだす」。
 ミクトランテクトリ神の骨壺(1469~81年 テンプロ・マヨール、埋納石室6出土 緑色岩製):「痩せこけた姿と骸骨のような顔は、死者の世界の主を表す。火打ち石の斧やナイフをもち、生贄の心臓を抜き出す神でありながら、一方で生を与える役割も併せ持つ」
 テスカトリポカ神の骨壺(1469~81年 テンプロ・マヨール、埋納石室14出土 土器):「煙を吐く鏡を意味する、万能の神テスカトリポカを描いた骨壺。背景にはケツァル鳥の羽毛をまとった蛇がみられる。内部に一部が焼かれた男性の骨が納められており、戦死した指揮官と考えられる」
 シウコアトル(1325~1521年 テンプロ・マヨール出土):「火打ち石の表面に、青緑色のトルコ石のモザイクや黄鉄鉱の装飾がある。シウコアトルとは「火の蛇」という意味で、太陽神ウィツィロポチトリなどの神々が手にする武器であった」
 プルケ神パテカトル像(1469~81年 テンプロ・マヨール、埋納石室6出土 玄武岩製):「リュウゼツランの発酵酒プルケは、アステカの儀礼で重宝された。パテカトルはその発行を促す植物オクパトリを発見した神」 (このリュウゼツランはマゲイというもので、樹液の蜜水からプルケがつくられるほか、茎などを発酵させ蒸留してテキーラがつくられる。)
 アステカ文明の最後は、いずれもテンプロ・マヨールの埋納石室から出土したという金製品です。巻貝形ペンダント、人の心臓形ペンダント、テスカトリポカ神とウィツィロポチトリ神の笏形飾りなど小さ目の金製品数点が展示されていました。

(2024年4月22日)