8月3日午前、立命館大学国際平和ミュージアムで開催されていたギャラリー企画展示『昭和初期の和服柄に宿る戦争』のプログラムの一つ「視覚に障害のある方と付き添いの方対象トーク」に参加しました。参加者は10人前後、全盲は私1人、弱視の方もおられたようです。
この展覧会を企画したのは、大髙幸さん(放送大学客員准教授)で、当日のトークも担当されました。展覧会の趣旨としては、頂いた資料から引用すると、
「 残存する昭和初期(1926-40年)の成人男女や男児の和服の戦争関連柄を、教科書、年賀状、玩具、煙草パッケージ等とともに当時の文脈の中で展示して紹介し、太平洋戦争の「戦前」であった当時、戦争関連和服柄が存在した事実、柄の特徴を紐解き、世界各地で戦争中の今日も見受けられるミリタリー・ルックについても考えていただくきっかけになれば幸いです。」
講師のお話を聴き始めてまず驚いたのは、豪華な?柄が、成人の羽裏の裏(羽裏)や襦袢という外からは見えない部分に描かれているということです。(襦袢は肌着なので、表に描いていても外からは見えない)。そしてこれは、日本人の心のありようの1つである「粋」と関係しているらしいということです。内面の心意気や思いを、そのまま表面にあらわすのではなく、背中とか裏地といった、ふつうは見てはもらえないが場合によっては気付いてもらえそうな所にあらわすということでしょうか。その例として、火消半纏を挙げておられました(無事に鎮火できた時には、互いに裏の派手な絵柄を見せ合ったと言う)。なお、ふつうには見えない所に目を魅くような柄を配するというのには、江戸時代に何度も出された贅沢禁止・倹約令も関係していると思います。
和服柄が実際にどんなものなのか、1例だけですが、触ることができました。50cm四方ほどの絹の生地で、すべすべした、ややひんやりとしたような手触り。その生地の上に、まず大きな扇のような輪郭が描かれ、その左側に富士山のような大きな山、中央の下やや右に茶筒のような円筒形の容器、その右上に大きな茶碗のようなのが描かれていました。どれも伝統的な、典型的なモチーフのようですね。これらが触ってもかなりはっきりと分かりました。
絹は高級で戦時下ほとんど使われなくなり、それに代ってモスリン(縦糸は綿、横糸はウール)などが使われるようになったとかで、モスリンの子供用の服にも触りました。ちょっとざらついたごわごわした感じの手触りで、柄は描かれてはいないということでした。そして、太平洋戦争開戦後は物資不足のため戦争関連柄が描かれた和服などの製作はほぼ困難になったようです。
講師のお話はいろいろな柄などを映像で示しつつ進みましたが、その中の5点の柄について立体コピー図版が用意されていて、私はそれらを触りながら聴きました。以下、その5点を中心に書きます。(これら5点の触図版のうち4点は、点字の解説とともに持ち帰り資料として頂きました。)
●日露戦争時の騎馬将校とロシア兵との戦闘場面等(絹の帯揚げ、20世紀初頭)
図版中央に、大きな馬に乗り長い軍刀を持った軍人(将校)が描かれています。触図版ではよく分かりませんが、画面左には崖のようなのが見え、その辺りで兵士が敵兵と戦っているようですが、騎馬将校はそちらを見るでもなくなにかのんきそうに見えるとか。この騎馬将校の柄は、近世までの合戦画に描かれた騎馬武将の流れを汲む近代でも重要なモティーフだとのこと。和装柄に敵が満州事変以降は、総力戦を反映して、柄のモティーフは騎馬将校から少年騎兵や歩兵などに代わっていくそうです。(この図版は会場でのみ触った。)
日露戦争と言えばなんと言っても東郷平八郎が有名ですが、昭和初期の戦争関連柄にも東郷平八郎の揮毫(肉筆の書)の柄が頻出するとか。
●古賀聯隊長(モスリンのきれに描かれたもの、昭和7(1932)年ころ)
古賀連隊長とは、古賀伝太郎(1880~1932年)のことで、すでに日路戦争で騎兵として戦功を挙げ、1931年に始まった満州事変時には騎兵第27連隊長として参加、1932年1月9日、錦州(中国東北部・遼寧省西部)を巨点にした戦いで、軍旗(連隊旗)が多勢の敵に奪われそうになったところ、敵中に突っ込んで軍旗を守ろうとして自らはは戦死した人です。図版では、中央に大きく円(たぶん太陽、軍旗に描かれている旭日をあらわす)が描かれ、その円から上下左右ともはみだすほど大きな馬に、長い軍刀を掲げた人が騎っています。画面右下には2艘ほど帆のある船が描かれています(大陸に渡って行っていることを示しているのでしょう)。そして、「忠勇義烈」「錦州」といった文字も書かれているそうです。この古賀連隊長の軍旗を守る行動は、国内では多くの新聞や雑誌で美談として大々的に伝えられたそうです(その後すぐ起こった肉弾三勇士の話とも共通しているのだろう)。
軍旗がなぜ命をかけてまで守らなければならないものかについてです。歩兵連隊や騎兵連隊では、その設立時に天皇から各連隊旗が下賜され、軍旗がそれぞれの連隊のいわば魂のようなものになっていたようです(どの軍旗でも菊花紋や旭日は共通している)。
●荒鷲(絹羽裏、昭和13(1938)年ころ)
荒鷲は、旧陸海軍の飛行機やその搭乗員を比ゆ的にあらわした言葉。「荒鷲の歌」という勇ましい軍歌があり、調べてみると、東条英機のただ精神論だけの訓示などとともに聴くことができます(
護れ大空 荒鷲の歌)。(私も若いころ「荒鷲の勇士」といった言葉を何度も聞いたことがある。)
図版では、画面いっぱいに両翼を広げた大きな鷲が下向きに描かれています。脚の鉤爪と鉤形のくちばしが反対向きになっていて、頭部をめぐらしているのでしょうか。鷲の下には雲らしきものが描かれていて、上空からなにかを狙っているように見えます。この絵が描かれている羽裏には、日路戦争の英雄東郷平八郎(1847~1934年)の「皇国が栄えるも廃れるもこの一戦にかかっている 皇国の各員は一層奮励努力せよ」という意味の漢文が書かれているとか。
●桜井の訣別(絹羽裏、昭和12(1937)年ころ)
桜井の訣別は、時代をさかのぼって、『太平記』に書かれている楠木正成・正行(まさつら)父子の別れの場面(私は『太平記』を中学の社会の時間だったと思うが、担任の先生に読んでもらった)。建武新政(1333~1336年)が行き詰まり、九州から足利尊氏らの大軍が京を目指して攻め上ってくるのを兵庫の湊川で新田義貞の部隊が迎え撃つことになります。楠木正成は、新田義貞の軍勢ではとても足利軍に対抗できないことを知りながらも、後醍醐天皇の命に従って、死地と覚悟してわずかな手勢とともに湊川に向かうのですが、その途中桜井駅でまだ10歳にも満たない正行と今生の別れをします。図版では、向かって左側に、正成が烏帽子のようなのを着け手に扇お持ち、胡坐のような姿勢で大きな敷物の上に座し、向かって右側に、四角い茣蓙のようなものの上に正座のような姿勢で小さな正行が座り、対面しています。画面右端には川面に波立つ流れのようなもの、左端には菊花の一部のような模様があります(楠木氏の家紋は菊水)。
後醍醐天皇は結局南朝方になったわけですが、にもかかわらず、あるいはそれだからこそ、楠木正成・正行父子の行為は、何が何でも天皇に忠義を尽し潔く死を受け入れる国民(天皇の臣民)の模範とされたのでしょう。
そしてこの和服柄には、場所はどこかよく分かりませんが、「海行かば」の歌詞が一部書かれているそうです。「海行かば」は、勇ましい軍歌といったものではなく鎮魂歌のようなもので、奈良時代の『万葉集』の大伴家持の長歌の一節を借用したものだそうです。(「海行かば」はメロディーもふくめなかなかよい曲で、私も若いころ何度も聞き、合唱したこともあります。)参考のため、以下に歌詞を記します。(
「海行かば」の音源もありました。)この歌の趣旨としては、当時としては、どこで死すとも天皇のお側で死ぬと思えるなら本望だ、といったところで、楠木父子の行為と符合していると言えるでしょう。
海行かば 水漬く(みづく)屍(かばね) / 山行かば 草生す屍 / 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ / かへりみはせじ
●橋弁慶(絹羽裏、昭和初期)
これも、さらに時代をさかのぼって、『義経記』に書かれている、五条大橋での牛若丸(幼少の源義経)と弁慶との出会いの場面からつくられた、能の曲目です。触図版では、大きな満月の下、画面中央に橋の欄干にある大きな擬宝珠、画面右上に、空中高く(擬宝珠の高さくらい)跳び上がった、小太刀を持った牛若丸、画面左下に少し広げた扇(軍扇。扇面には円い輪がある)を持った弁慶が配されています。この出会いで、弁慶は牛若丸の太刀遣いに圧倒されて主従関係を結ぶことになり、それは幾多の試練を経て最期まで続きます。この話は、上官さらには天皇にたいする絶対服従の範とされたのでしょう。
桜井の訣別や橋弁慶は、当時学校で教えられ、子どもから大人までだれでもよく知っていた話で、それが天皇などへの絶対的な忠義の例として使われたわけです。その他にも、だれでも知っている話が戦争を煽り、あるいは耐え忍び頑張りぬくといった宣伝に使われたようです。例えば、おなじみの桃太郎の話も、鬼が島(海外)に行って悪い鬼を退治して戦利品を持ち帰った日本一の孝行者・忠義者として、和服柄だけでなく、和菓子の木型や年賀状などいろいろなものに描かれていたそうです。
トークの最後に、講師の大髙さんから、和服柄について「プロパガンダでしたか、そうではなかったですか」という問い掛けがあって、私は敢てプロパガンダではないと応えました。結果としてプロパガンダとして使われただろうことは間違いないとは思いますが、プロパガンダだと言ってしまえば、それでなにか問題が終わってしまうような気がしたからです。当時のふつうの人たちの行動はおそらくほとんどが戦争遂行という目的のために仕向けられ、結果としてはプロパガンダに役立つものだったでしょう。個人的にいろいろ思うところがあっても、戦争体制下で実際に生活してゆくためにはそうせざるを得なかったと思われます。(当時見えない人たちも、ただ飯食いとか穀潰しなどと言われながら、一方では、戦闘機を献納するための募金とか、航空兵のマッサージとか、アメリカの飛行機の音を聴き分ける訓練を受けて防空監視所ではたらくとかしていました。)和服柄の製作についても、その作業をした職人たちは、もちろんいろいろ考えたでしょうが、注文に応じて仕事として製作に携わったのでしょう。このようなことは現在でもまったく同様で、多くの人たちは現在の制度の下多量の情報の流れに合わすように行動している、あるいは行動せざるを得ないでしょう。今回のトークは、世界各所で戦争が続き、また戦争に供えるべきとの風潮が蔓延するなか、いろいろ考えさせるプログラムでした。
(2024年9月20日)