2月6日、アートな美の企画による視覚障害者向けの鑑賞会に参加し、愛知県美術館で3月16日まで開催されている「パウル・クレー展 ── 創造をめぐる星座」を、アートな美の方の案内で見学しました。
雪による電車の遅延を心配して、予定より30分余前に自宅を出ましたが、まったく遅れはなく、9時半には待ち合せ場所の地下鉄栄駅に到着。しばらくしてアートな美の方と一緒に愛知県美術館に向かいました。参加者は、視覚障害の方が8名、アートな美の方が10名くらい、それに美術館の学芸員が3人、計20人余でした。
まず初めに、美術館の方が今回のクレー展について、クレーの生涯や見どころなどをごく簡単に紹介してくださいました。
クレーは、1879年12月、スイスのベルン近郊の町の音楽一家(父は音楽教師、母は声楽)に生まれます。幼いころからバイオリンをし、11歳でベルンのオーケストラに在席するほどで、絵を始めてからも長くバイオリンを弾いていたそうです。また文学にも興味を持ち、詩など書いたりし、画家になってからも画業についてなど膨大な資料を残しているようです。結局、画家の道を選び、20歳ころミュンヘンに出て美術学校で学びますが、1年で退学、その後イタリアを見て回ったとか。25歳でピアニストのリリーと結婚、翌年に息子フェリックスが誕生、画家ではほとんど収入はないため、妻リリーがピアノ教師として家計を支え、クレーは育児をはじめ家事をしたとか。1910年ベルンで初個展、1911年からは作品目録を生涯書き続けます。1912年、カンディンスキー(1866~1944年)とフランツ・マルク(1880~1916年)が前年に結成した前衛画家集団「青騎士」に参加。1914年青騎士のメンバーらとチュニジアを旅し、色彩に強い関心を持つようになりました。同年第1次世界大戦が勃発、青騎士メンバーのアウグスト・マッケ(1887~1914年)やフランツ・マルクが戦死、1916年3月クレーもドイツ軍に招集されます。敗戦後の混乱を経て、ワイマール共和国の新体制が成立。1920年ミュンヘンで大回顧展、1921年から31年までバウハウスで色彩論やフォルム論などを教授。1929年にはベルリンのフレヒトハイム画廊やニューヨーク近代美術館などで生誕50周年記念展を開催します。ナチスが台頭し、1933年政権を掌握すると、クレーの作品も退廃芸術とされてまったく活動できなくなり、同年末には妻とともにベルンに亡命します。1935年強皮症(膠原病の一種で自己免疫に関わる難病)を発症、その後この難病に苦しみながらも死の直前まですごいエネルギーで画業を続け、1940年6月末ロカルノの療養所で亡くなります。
今回の展覧会では、クレーの作品が全体の3分の2(約70点)で、その他はカンディンスキーやフランク・マルクら関連の作品や資料を展示し、クレーの画業をより広い観点で捉え直してみようというのが趣旨のようです。
その後、各ペアごとに展示室内で適宜巡りながら鑑賞しました。私は10点くらい(いずれもクレーの作品)説明してもらいました(その内4点については立体コピー図が用意されていて参考になりました)。以下、私が鑑賞した作品たちです。制作年順に並べてみました。
●「破壊された村」(1920年。立体コピー図あり)
縦30cmくらい、横20数cmの大きさで、油彩ですが、下地はアスファルトだそうです。全体に暗い色調で、両側が山の斜面で、その間の谷のような所にある村のようです。村の中央には教会でしょうか大きな建物があり、その上に先端に十字架のある塔が高くそびえていますが、右側に傾いています。画面左上には大きな円い太陽がありますが、赤黒くほとんど光を発しておらず、回りも暗いということです。その下には燭台がありますが、蝋燭の火は消えています。画面左下に大きな建物がありますが、左に大きく傾いています。教会のある辺りからわずかに明るくなっていて、その右側にも建物がいくつか並んでおり、立体コピー図で触ると中央に穴の空いた小さな四角が縦横にきれいに並んでいて分かりやすいです(これはもちろん窓でしょうが、つい砲弾などで穴の開いた小さなブロックのようなのよを連想してしまいました)。建物の中には少し右に傾いたものもあります。画面下には大きな木(その中央は大きな上向きの矢印になっている)がありやや右に傾いています。所々黒く焦げたような所も見えるとか。
クレーは1916年3月に徴兵されますが、父親の尽力やバイエルン王の配慮で前線に送られるようなことはなく、事務的な作業をし絵も描けたようです。この絵はおそらく、敗戦後に目にした様子なのだろうということです。なお、この作品の近くに、「徴兵中隊み所属するパウル・クレー」というようなタイトルの写真があり、上級の指揮官の下、髭面でベレー帽を被った兵士の1人として写っているそうです。
●「女の館」(1921年。愛知県美術館蔵。立体コピー図あり)
縦40cmくらい、横50cmくらいの大きさで、中央上に小さな三角屋根、その両側にも大きな三角屋根があります。中央の三角屋根の下が女の館のようで、カーテンが両側に開き、その裾に薄い青の服を着けた女性が見えるようです。女の館の回りには、棒の上に円を乗せたような単純な形で何本も木が並んでいます。全体に、青や緑、赤などが使い分けられ、色彩豊かのようです。立体コピー図を触ってみると、横に破線が何本も少し波打つように引かれており、建物や木はほとんどこの横方向の線にきっちり合せて描かれていることが分かります。形も描き方も幾何学的だと思いましたし、またもしかすると波打つ何本もの横線は楽譜のようにも見えるかもと思ったり。
●「蛾の踊り」(1923年。愛知県美術館蔵)
縦50cm余、横30cm余の大きさ。地は青を基調とする縦横の格子模様になっていて、回りほど濃く、中央に向かうほど淡くなるグラデーションになっており、中央の上下2箇所は色が塗られておらず、その間に黄色の横筋が通っています。この上下の空白部辺りに、蛾=擬人化した女性が見えているようです。女性は両手を広げ身体をのけ反らして浮上しようとしているような感じ(蛾が翼をばたつかせて飛び上がろうとする感じかな)、しかし胸には矢が刺さり(昆虫標本のピンを連想)、目にはバツ印があり、さらに体の各所に下向きの矢印が付いて、上への動きをしっかりと押しとどめているようです。蛾=女性の周辺には小さな黒いよごれのようなのが点在していて、蛾の鱗粉かもと思ったり。
クレーはユングなどの著作も読んでいて、この作品はユングの『変容する象徴』に出てくる精神異常の女性ミラーの詩「太陽に向かう女性」をヒントにしたものだとか。ぎりぎりの状況での様々なせめぎあいのようなことを感じさせます。なお、クレーは各作品にランク付けをしていて、この作品は手元に置いておくものに次いで、売るものとしては最高位のランクだとか、いわば代表作と言ってよいもののようです。
●「ある音楽家のための楽譜」(1924年。立体コピー図あり)
縦25cmくらい、横30cm余のやや横長の作品で、淡く水彩で、細かく横線が多数引かれ、また斜めにもジグザグにたくさん線が引かれていて、見た目ではすぐ楽譜のようと思うようです(私は点字の楽譜は少し知っているが、ふつうの楽譜は知らない)。立体コピー図を触って私がよく分かったのは、右端のほうに描かれたS字を斜めに倒したようなターンの記号(装飾音の一種、ドイツ語ではドッペルシュラーク)で、何本もの横線を貫くように描かれていて、それらの横線を繋ぎ止めているようにも感じました。クレーは小さいころから音楽に親しみ勤しんでいて、音楽を題材にした絵も多いようです(1年近く前、国立国際美術館で開催されていた「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」に行きましたが、クレーのコーナーもあって10数点展示されており、通り過ぎただけですが、一緒に行った友人が「きれい、音楽みたい、リズムのようなのを感じる」と言っていました)。
●「北方のフローラのハーモニー」(1927年)
方眼のように縦横に区切られた各面に、赤、青、緑、黄などの色が配されているとのこと。すぐ近くで見るとあまりよく分からないが、少し離れて見ると、きれいなお花畑のように見えるとか。モンドリアン((1872~1944年、新造形主義)のような感じにも見えると言っていました。なお、詳しくは分かりませんが、この絵(油彩画)の下地は白亜で、額は手作り?らしいです。
●「殉教者の頭部」(1933年)
水彩で、縦30cm弱、横20cmほどの小さな作品ですが、下地は石膏で、厚紙にガーゼを張り、その上に描いているとか。人の顔が少し浮き上がっているように見え、肌はめくれたようにざらざらした感じ、口は開いていて歯が抜け落ちているとか。この口ですが、ローマの有名な「真実の口」を連想させるとのこと。(真実の口:ローマのサンタマリアインコスメディン教会の外壁にある海神トリトーンが浮彫りされた石造の円盤で、その口に偽りの心をもつ人が手を入れると抜けなくなるという伝説がある。) 1933年はナチスが政権を取り、クレーのアトリエまで家宅捜索され、ベルンに隠棲した年です。
●「子供と伯母」(1937年。徳島県立近代美術館蔵)
縦70cmくらい、横50cmくらいの油彩ですが、キャンバスではなく、ジュート(袋や敷物などに使われる粗布)の上に石膏で下地したものに描かれているそうです。一見すると、線と色面がなにかパズルとも思えるように不規則に配されているようですが、じっくり見ていくと、2人の人物、画面右下に子供、画面左側に女性の姿が見えてくるようです。そして、全体にゆるーい、穏やかな感じがするとか。子供はちょっとうつむき加減でやさしそう、女性はイカのような顔?と言っていました。また、子供から女性(伯母)に向かっている線は、子供と女性が手でつながろうとしている感じかな?ということです。私にはぜんぜん分かりませんが、この作品に描かれている線は、ゲルマン諸族の古い文字であるルーン文字のようなものだとか。
クレーは1933年末にベルンに移って以降、ナチスによる監視を恐れたこともあったのでしょう、ほとんど引きこもりの状態になり、また35年には強皮症が発症して精神的にも落ち込み、あまり絵は描けなかったようです。37年になると、ようやく健康状態も少しよくなったこともあったのか精神的にも安定したようで、以降どんどん絵を描くようになります。この作品は、ちょうどその頃の作品ということになります。(クレーは、1937年には264点、38年には489点、39年にはなんと1253点、40年にもアトリエにいた5月初めまでに366点を描いている。)
●「回心した女の堕落」(1939年。愛知県美術館蔵。立体コピー図あり)
縦50cmくらい、横40cm弱の大きさで、人体のいろいろな部分が切り離されて描かれています。各部は太い輪郭線で描かれ、触っても分かりやすいです。画面上部には、顔のようなのが大きく描かれ、その中には両の目、鼻、口らしきものが、斜めになったり偏ったりして配されています(口は角張った形で、大きく開いて歯も見えているかも)。顔の下には首のようなのが続き、その下には小さな円が5つきれいに並んでいて装飾を思わせます。顔の両側には、手を下向きにして太い腕のようなのが配されています。また、顔の下、画面中央から下部には、胸部とそれにつながった上腕部だけのようなのが大きく描かれています。胸部の中央には太く赤の十字架の印があり、その下には小さな乳房のような円もあります。この胸部と上腕部のまとまりですが、よく触っていると、両腿を大きく開いて、お尻を下に向けて屈んでいるような姿勢にも思えてきました。そうならば、この十字は性器を指し示しているのかもと思ったり…。画面の一番下には、横に倒した状態で脚部と腰部らしきものがあり、その間も切り離されています。
タイトルの「回心した女の堕落」についてです。文字通りには、信仰に目覚めた人が結局は信仰心を失ってしまうということでしょうが、私はこの絵にはドイツ国家の変容が反映しているようにも思います。第1次大戦後、革命が起こりそうなほどの混乱を経て、ドイツは、帝国から、民主的な、ある意味理想的とも言えるようなワイマール憲法の下、民主的で自由な国家として再出発します。クレーも、総合的で意欲的な芸術の学校バウハウスで教えるなど、自由に活動できました。しかし、国内外の厳しい状況もあり、結局国民のかなりの支持も得ながらナチスが台頭し、1933年には政権を取り、芸術も含め自由な活動が許されなくなり(バウハウスも閉鎖)、独裁的な政治、さらに国民生活の維持・向上ということで戦争に向かいます。芸術家や学者の中には新たな活動の場を求めてアメリカに渡る者も多かったですが、クレーは同じドイツ語圏のベルンに隠棲します(哲学や文学などでドイツに対する思い入れのようなのがそれだけ強かったのかも。ベルンでも最初のうちはナチスの監視もあったようだ)。この作品には、もしかするとクレーのそのようなドイツに対する想いが反映しているのかも知れません。
●「恐怖の発作Ⅲ」(1939年)
絵の大きさは縦70cm、横40cmくらいですが、外側の額はかなり大きく120cm×80cmくらいだとか。画面全体に身体各部が部品のように散在しているとか(部品の並びは整っているよう)。右上のほうに、口を大きく開けてなにか叫んでいるような顔らしきものが分かり、そのすぐ下には手が1個あるらしいです。その他、手、腕、足をはじめ、記号のようにも示されたいろいろな身体各部がばらばらに配されているようです。身体各部はばらばらになっているのに、顔は叫んでいる、生きているように見えるとは恐怖ですね。
●「無題(最後の静物画)」(1940年)
縦1mくらい、横80cmくらいの大きな作品のようです。一見して、色がパキッとしていると言っていました(黒の背景に、輪郭線で区切られて緑・黄・青・赤といった色が塗り分けられている)。画面中央上に黄色の満月。画面右側の下に黄色の円いテーブル、テーブルの面には植物のような模様(いろいろな色の花が落ちているのかも)。テーブルの上には、右側に片手を揚げている女性の彫像(腕の先は切断され目は閉じている)、左側に緑の水差し。画面左下には、画中画で白地に線で描かれた「天使は、まだ醜い」が貼られ(デフォルメされているが、羽、顔、手、脚などが分かる)、その臍辺りに十字架の印があるとか。画面左側には、赤い台の上に細長い花瓶ないし壺のようなのが数個あります。一番右側の青の花瓶には赤い花が2本挿されていますが、この2本の花は、クレーが「車輪に乗って逃げる」に描いた人物たちを上下に反転したもの(頭が花の根、腕が葉、車輪が花)で、人が逆さに頭から落ちていくようにも見えるとか。またこの青い花瓶の右側には、死んだなにかの動物ないし内臓のようなものが浮いています。左側の黄色の花瓶の先端は小さな太陽のようになっており、その奥には緑の花瓶があります。
クレーは、1940年6月29日、南部の温暖なロカルノの療養所で亡くなりますが、ベルンのアトリエには作品番号の付けられていない作品が32点残っており、この作品はその中の1点だそうです。そして、「最後の静物画(Last still life)」というタイトルは、息子のフェリックスが付けたものだとのことです。この作品には、それまでにクレーが制作した作品やモチーフ、また技法が集約されているようにも思います。死に向かう印象も受けますが、なにか穏やかできれいな感じもします。
以上、全体のごく一部ですが、私が鑑賞した作品を紹介してきました。一緒に鑑賞したアートな美の方の説明を中心に、学芸員の方の補足的な説明、所蔵先の愛知県美術館と徳島県立近代美術館のそれぞれの作品解説、「無題(最後の静物画)」については図録のテキストなどをを参考にし、またクレーについては、
パウル・クレー《海のカタツムリの王》──境界線上の生命体などが参考になりました。なにしろ直接作品を見ることなく書いていますので、無理解や誤解、また勝手な解釈や想像も多いと思います。私が鑑賞したのはクレーが40歳くらいからのものだけですが、クレーの生涯や時代状況と合わせてクレーの作品に少しふれたような気がします。
(2025年2月16日)