山梨県立美術館に行ってきました:ミレーとバルビゾン派

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 6月7日午後、ミレーの展示で有名な山梨県立美術館に行きました。この美術館では、以前からミレーの「種をまく人」と「落ち穂拾い」の触図版を用意し、さらに最近「種をまく人」のレリーフ版もつくったということで、それらも参考に鑑賞しようと思い、事前に電話で予約し、スタッフによる解説をお願いしました。
 まず、美術館の入口の手前に、ブールデルの堂々としたブロンズ像「ケンタウロス」(1914年)が設置されていました。高さ3mくらいはあるようで、像の下のほうを触っただけですが、そのボリューム感というか、エネルギーのようなのを感じました。馬のモリモリとした脚、大きな曲面のお腹、お尻の上に乗っている竪琴など。馬の頭の部分は人の胸から上の部分になっているとのことですが、それには触れませんでした。
 美術館に入って受付をすると、すぐ解説の方が来られ、早速ミレーの展示室のエントランスのような所に置いてある触図版とレリーフを触りました(ここは来館者が通る場所なので、興味有り気に触図版やレリーフを見ている方もいました)。触図版は、上に触図、その下に図の凡例があり、触図版の左側には点字で詳しい解説文があります。
●「種をまく人」(1850年。 99.7×80.0㎝)
 夕暮れの沈みゆく陽のなかに、画面に大きくぼんやりと(輪郭線はあまりはっきりしないようだ)農夫が描かれています。帽子をかぶり、左肩に種のいっぱい入った布袋のようなのを下げ、左手で袋の口あたりを抑えています。足には木靴?のようなのを履いて、右脚を大きく前に踏み出し、上体をひねって右手で種をまこうと右腕を振り上げています。(レリーフ版では、後ろ斜めに伸びる左脚と前斜めに伸びる右脚でつくられる二等辺三角形がきれいに感じられた。)農夫の左肩の上あたり、画面のほぼ中央の奥には遠くに見える牛と人物が描かれています(レリーフ版では農夫の肩のすぐ後ろに牛があったので、ついすぐ近くに感じてしまった。またレリーフ版では、牛が鋤のような耕具をつけ、その耕具を人が足でしっかり抑えているらしいことも分かった)。画面の左上には、まかれた種を狙っているのでしょうか、たくさんの鳥が描かれています(これもレリーフ版で分かった)。
 ミレー(Jean-François Millet: 1814~75年)は、1849年6月パリでコレラが大流行し、また政治的な混乱もあって、当時すでに芸術家たちが集まっていた、パリの郊外、フォンテーヌブローの森近くのバルビゾン村に移り住みます。「種をまく人」はそこで描いた農民画の大作で、1850年末にサロン出品、入選しますが、当時の政治状況を反映して、その貧しいが力強く働く農民の姿は右派からも左派からも議論の的になったとか。なお、私は10年ほど前、名古屋ボストン美術館で開催されたミレー展で、ボストン美術館所蔵の「種をまく人」を鑑賞したことがあります(山梨県美のものとほぼ同じですが、遠景には牛が2頭描かれていたと思う)。
●「落ち穂拾い 夏」(1853年。38.3×29.3cm)
 画面上部には遠くの風景が描かれていて、2人の農夫が刈り入れの終わった農地で実のった穂のついた麦藁を高く高く積み上げています。画面中央から下部には、近くの風景、刈り入れ後の畑に残されている麦の穂を拾い集めている3人の女性が描かれています。向って左と中央の女性は、腰を深く曲げ手が地面に届いています。右側の女性は背をこちらに向け腰を少し曲げて立ち、手に落ち穂を持っているようです。
 当時麦畑では実った麦の穂を長い鎌で薙ぐように刈り、落ち散らばった穂をフォークで集めてから脱穀していたとのこと。そのさい、裕福な農民は落ち穂を全部集めてしまうのではなく一部を残しておき、それを土地を持たない貧農や寡婦、孤児、異国人等がいわば権利として拾うことができたそうです。このような人道的とも言える規定は、旧約聖書の申命記やルツ記、レビ記に書かれています(例えば、レビ記19章:9 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。 10 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。)。ミレーは、フランス北西部ノルマンディーのシェルブール地方のグレヴィル村格式高い農家の長男に生まれ、熱心なカトリックの祖母から強く影響を受けたとのこと、ただノルマンディー地方は寒くやせた土地なので落ち穂拾いのような監修はあまり見られなかったかも。それが、パリ近郊(パリの南50km余)の農村で聖書に規定された落ち穂拾いが行われていることにミレーは感動したのかも知れません。なお、落ち穂拾いには監視・警備の人がつくこともあって、1857年の「落ち穂拾い」(オルセー美術館蔵)では、馬に乗った監督者も描かれているようです。
 
 以下は、スタッフの方に解説のみしてもらったミレーの作品です。
 「ポーリーヌ・V・オノの肖像」(1841-42年頃 73.0×63.0cm): 若いミレーは最初、生活のため主に肖像画を描きました。ここに描かれているのはシェルブールの仕立屋の娘、ポーリーヌ・ヴィルジニ・オノ。細身で、顔色はあまりよくなく、病弱そうに見えるとか。彼女はミレーと1841年に結婚、夫婦はパリに移りますが、彼女は3年後、22歳で亡くなります。
 「眠れるお針子」(1844-45年 45.7×38.1cm): 椅子に座って縫い物をしていた女性が気持ちよさそうに眠っています(ポーリーヌと比べると、とても健康そうに見えるとか)。ここに描かれているのは、シェルブールの実家で家政婦をしていてミレーの2番目の妻となったカトリーヌ・ルメール(1827~1894年)。彼女は貧農の出であったため、実家の祖父や母たちが反対して結婚は許されず、1845年末一緒にパリに出ます。以後30年、彼女はミレーを支え9人の子供を産み育てました((正式に結婚が認められたのはミレーの晩年)。
 「ダフニスとクロエ」(1845年頃 82.5×65.0cm):『ダフニスとクロエ』は、古代ギリシャの詩人ロンゴスによる牧歌的な恋愛物語で、この作品はその1番面を描いたもの。少年ダフニスと少女クロエは、ともに幼い頃にエーゲ海に浮かぶレスボス島に棄てられ、心優しい牧人たちに育てられます。成長するにつれて 2人はお互いに愛を育み、やがて結ばれることになります。本作品では 2人は幼い子どもとしてあらわされ、ダフニスは森の中で横笛を吹いており、クロエは彼にもたれかかりながら釣り竿をたれているとか。(国立西洋美術館所蔵の「春(ダフニスとクロエ)」(1865年)では、春の花々や緑のなか、 2人は少し成長した若者として描かれているそうです。)
 「鶏に餌をやる女」(1853-56年 73.0×53.5cm): 石の壁でできた家の戸口で、女性がエプロンの中から餌を取り出し、右手で鶏に餌をやっています。鶏は8羽くらい描かれていて、餌のほうに駆け寄ってくるものもいますが、気付かずにのんびりしているものもいるとか。壁には農具が立てかけられており、また柵の向こう側には仕事をしている男性も見えています。ここに描かれているのは、もしかするとミレーの生家の裏庭の風景で、女性はカトリーヌかも知れないということでした。
 「無原罪の聖母」(1858年 79.0×45.0cm): この作品は、ローマの鉄道省は、教皇ピウス9世(在位1846~78年)のお召し列車の礼拝室を飾る聖母マリア像・無原罪の聖母の制作をミレーに依頼して描かれたものだとのこと。無原罪の聖母は、神の子であるキリストが宿る以上聖母マリアも原罪を犯すことなく生を受けているはずと考えられ、崇高なマリア像を期待されるが、この作品のマリアはなにか少女っぽい印象もあるとか(ただし、聖母マリア像に典型的な、頭の冠に12の星が見え、エデンの園で人間を堕落させた知恵の実=りんごと蛇を踏みつけ、純潔を表す三日月の上に立っているそうです)。そんなこともあってでしょう、ピウス9世には不評だったとか。
 「角笛を吹く牛飼い」(制作年不詳 38.1×27.9cm): 夕暮れ時、牧人が笛を鳴らし、それに応じて、大きな岩など散在するなか、牛の群がゆっくりと帰りかけています。フォンテーヌブローの森での風景だとのこと。制作年は不詳だが、ミレーの作品の中で、自然の表現が豊かになっていった1850年代中頃以降の作品ではないかとのこと。
 「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」(1857-60年 53.5×71.0cm): 帽子をかぶり、厚手のマントを着込み、杖を持った羊飼いに導かれて、後ろに羊の群れが続き、羊の群れの横には言が付き添っています。村に定住せず牧草を求めて移動する羊飼いは、農民などからは身分の低いものとして蔑視されることもありますが、牧草だけでなく薬草などにも詳しく、地理をよく知り、天候も予想するなど、とくに旅人などには賢者とみなされていたようです(聖書でも、羊飼いは賢者・指導者・保護者などと評価されることが多い)。また、杖(羊の指揮、ときには防御具)、マント(防寒具、日除けや雨除け)、犬(羊を監視)の3点は、羊飼いのアイテムとされているそうです。
 「古い塀」(1862年頃 50.8×61.6cm): この作品には人物は見当たらず、古びた塀の奥に鬱蒼とした森、塀の手前に明るい原っぱ?が描かれています。森には鹿がいて、塀の間から顔をのぞかせているようです(鹿の角は木の枝のようにも見え、回りの風景からはあまり目立たないよう)。明るい陽が射している手前のほうでは、右下に蛙が池に飛び込むのかな?というような感じ描かれ、またたんぽぽやその綿毛などが見られるとか。ミレーが(人物のいない)風景を描くようになったのは、この頃からだそうです。
 「冬(凍えたキューピッド)」(1864-65年 205.0×112.0cm): とても大きな作品。パリに新築する銀行家トマ邸の食堂の暖炉の上に飾るために制作されたものだとのこと。雪道を裸の男の子(キューピッド)が寒そうに歩いてきます。寒さのためでしょうか、肌は黒ずみ、背中の羽も黒ずんでいるよう。頭にはアイビー?の葉の冠?のようなものが。この冷え切ったキューピッドを、暖炉で暖まっている家の戸口で老人と女性が迎え入れ、女性がキューピッドを抱きかかえています。この絵は、前6世紀の古代ギリシャの詩人アナクレオンの詩が下地になっているそうです。元の詩では、暖まって元気になったキューピッドがいたずら心で老人=アナクレオンの胸に黄金の矢を射てしまい、召使の女性と恋に落ちてしまうことになっているとか。この絵でも、雪道に矢が落ちていました。
 「グレヴィルの断崖」(1870年 24.0×33.0cm): グレヴィルは、ミレーの生まれ故郷。1870年7月普仏戦争が始まり、戦火を避けるため翌月家族とともにパリ近郊のバルビゾンを離れシェルブールに疎開します(戦中は野外で写生することも禁じられ、ミレーは写生中にスパイ容疑で3回くらいは捕まっとか。緑色を帯びた茶色い急な斜面、その下に曇り空の光に照らされた岩場の海岸、そして波が右下の前景から中央で岩場の海岸に激しく打ち寄せ、さらに遠くまで波立ち続いています。この海は英仏海峡ですね。
 
 以上、ミレーの作品でした。その後、バルビゾン派と呼ばれる人たちの作品を10点くらい解説してもらいました。
 ピエール=エティエンヌ・テオドール・ルソー「フォンテーヌブローの森のはずれ」(1866年 76.0×95.0cm): テオドール・ルソー(1812~1867年)は、早くから自然の風景を描き、1830年代以降はフォンテーヌブローの森の東北端のバルビゾンに長期滞在、さらに定住して、風景画を描き続け、バルビゾン派の代表・中心的人物とされています。とはいえ、フォンテーヌブローの森の風景などのルソーの絵は、サロンに何度出しても評価されず、落選王と揶揄されたとか。この作品は、フォンテーヌブローの森のアプルモン渓谷の風景で、岩だらけの渓谷の頂に牧草地が広がっているとのこと。手前が暗く、奥になるほど明るく描くことで、遠近をうまくあらわしているとか。手前の水飲み場?のような所には、人や犬も見えているそうです。なお、1840年代には、バルビゾン村から10kmくらいの所に鉄道駅ができるなど、開発の波がフォンテーヌブローの森にも押し寄せ、木の伐採も始まります(フォンテーヌブローの大きな樹や岩にはそれぞれ名前が付けられていたとのこと)が、その時ルソーは「無実の存在の虐殺」(Le Massacre des Innocents, 1847)を描くなど強く抗議、バルビゾン派の画家たちも協力して、結局1861年一帯は芸術保護区に制定され、今もむかしながらの自然が保護されているそうです。
 コンスタン・トロワイヨン「近づく嵐」(1859年 113×145cm) トロワイヨン(1810~1865年)は、磁器職人の子として生まれ、早くから磁器工場で働いて絵付職人から絵を学んだとか。1843年にはルソーと知り合い、フォンテーヌブローの森で制作するようになります。その後オランダに1年滞在、主に動物画を描くようになりました。この作品は、急に雲行きがあやしくなったため農作業を終えて帰ろうとしている様子を描いているようです。空には暗雲が立ち込めていますが雨はまだ降っていないようです。干し草を積んだ荷車とそれを引く馬、馬を追い立てるようにお婆さんと子供?、大きな牛、作業の片付け?をしている男性と女性など描かれているようです。同じくトロワイヨンの「市日」(1859年頃 115.4×175.5cm)は、動物の売買も行われる定期市の様子で、そこに集まった家畜たちをそれぞれ細かく丁寧に描き分けているという。なお私は、名古屋ボストン美術館の「ミレー展」で、トロワイヨンの「身構える猟子」を鑑賞したことがあります。
 ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「大農園」(1860~65年頃 55.2×80.8cm): コロー(1796~1875年)は、 パリの裕福なラシャ商に生まれ、家業を継ぐことを期待されますが、画家の道に進み、1825年から3年間ローマに遊学、その後もフランス各地(バルビゾンも)をはじめ、イタリアやスイス、イギリスを旅して主に自然の風景を描きました。コローの絵の特徴は銀灰色だとのこと、私にはよく分かりませんが、全体に薄靄に包まれているようにも見えつつ、やわらかな輝き・透明感のようなのを感じ、なにか詩情ゆたかな印象を受けるとか。この作品は、コローがしばしば訪れていたパリの西郊外の小さな町ヴィル=ダヴレーに残っている田園風景だとのこと、緑の草地が広がるなか、白、黄、赤、青の粗末な服を着けた4人の女性が見え、手前の草地に同じ色の点点が見えているとのこと(鴨の点描なの?とか言っていました)。私はコローの作品では、2021年末大阪市立美術館のメトロポリタン美術館展で「遠くに塔のある川の風景」(1865年)、2014年名古屋ボストン美術館のミレー展で「フォンテーヌブローの森」(1846年)を鑑賞したことがあります。
 シャルル=フランソワ・ドービニー「オワーズ河の夏の朝」(1869年 68.6×100.3cm): ドービニー(1817~1878年)は、古典的な風景画を描いていた父に絵の手ほどきを受け、1835~36年にイタリアに旅行、またライスダールなどオランダの風景画を研究、主に戸外で風景画を制作するようになります。1843年以降はしばしばバルビゾンを訪れ制作するようになり、また水辺の風景を好んだ彼は1857年以降アトリエを備え付けた小舟「ボタン号」をセーヌ川やマルヌ川、オワーズ川に浮かべて制作旅行したとか。戸外で明るくすっきりした風景画を描いた彼は、バルビゾン派の中では後の印象派にもっとも強い影響を与えた画家だそうです。この作品は、オワーズ側の夏の風景。対岸には家々が見え、画面右下には洗濯をする女性が2人、また水面には鳥が数羽浮かんでいます。川には小舟も見えますが、白い蒸気を上げていて、小さな蒸気船のようです。のどかな水辺の風景の中にも、当時の近代産業の象徴とも言える蒸気船が描かれています。
 ギュスターヴ・クールベ「川辺の鹿」(1864年頃 73.0×92.0cm): クールベ(1819~1877年)は、スイス国境近くのオルナンの富農に生まれ、1839年にパリに出て独学、当時の理想的・ロマン的で物語性もふくむ画とは異なり、見たままをそのまま描くレアリスムを実践、人物画ばかりでなく、風景画や狩猟画などでも秀作を残します。逸話で、ある人が天使を描いてくださいと言ったところ、では天使を連れて来てください、そうすれば見たまんまを描きます(天使は見えないから描けない)と言ったとか。1871年のパリ・コミューンでは裁判を受け一時入獄、75年にスイスに亡命、そこで間なく亡くなります。この作品は狩猟画の1つで、狩人に追われて逃げ場を失って、暗い森から川に飛び込もうとする(撃たれた?)鹿の一瞬の姿が描かれているとのこと。跳ね上がろうとする鹿の首筋や背中には強い光が当たり輝いて見えるとか。同じくクールベの「嵐の海」(1865年 54×73cm)は、ノルマンディーのエトルタの断崖付近の海の様子。22歳で初めて海を見たクールベは、1860年代何度もノルマンディーを訪れ見たままの海の風景画を描きます。この作品では、断崖に激しく打ち寄せる波、沖の
波間に見える小さなヨット、そしてヨットの中の人間の小ささがとくに際立っているとのことです。
 シャルル=エミール・ジャック「森はずれの羊飼いの女」(制作年不っ詳 81.2×66.3cm): ジャック(1813~1894年)は、パリに生まれ、1830年から5年間軍役に服し、その後独学で風景画や農民の生活を描くようになり、1849年パリでコレラが流行したさいミレーとともにバルビゾンに移住したとのこと。ジャックは、家畜、とくに羊を描くのを得意としたとかで、この作品では、森のはずれでマント?を羽織った羊飼いの少女がくつろいでいる様が描かれ、羊の毛並みなども細かく描かれ、また真っ直ぐ伸びる樫の木の目立つようです。同じくジャックの「森の中の羊の群れ」(1860年頃 49.0×118.0cm)も、横長の画面に、森の牧草地で草を食べたり、歩いたり、休んだりしている羊たちが大きく描かれ、それぞれの羊は毛波や表情?まで丁寧に描かれているようです。

 以上、バルビゾン派と呼ばれる画家たちの作品でした(クールベはふつうバルビゾン派には含まれず写実主義とされるが、バルビゾン派の人たちと交流があり、フォンテーヌブローの森の風景画も描いている)。ちなみに、ジャン=フランソワ・ミレー、カミーユ・コロー、テオドール・ルソー、ジャン・フランソワ・ドービニー、コンスタン・トロワイヨン、ナルシス=ディアズ・ド・ラ・ペーニャ(1807~1876年)、ジュール・デュプレ(1811~1889年)の7人が、バルビゾン派七星と言われるそうです。
 
 *私は山梨県立美術館所蔵の米倉壽仁「ヨーロッパの危機」(1936年)と深沢幸雄「凍れる歩廊(ベーリング海峡)」(1978年)も解説してもらえればと思っていましたが、残念ながらこれらの作品は今回は展示されていませんでした。また、舟越保武のブロンズ像「EVE」が展示されていましたが、これには触れられませんでした。
 
(2025年6月24日)