京都国立近代美術館の「若きポーランド」展

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 6月27日、京都国立近代美術館で開催されていた「〈若きポーランド〉-色彩と魂の詩(うた) 1890-1918」展を家内と一緒に見学しました。私はポーランドの美術はまったく初めてで、フランスやスペインなどの絵とは異なる、ポーランド独自のアイデンティティのようなものを感じさせられました。
 タイトルにある「若きポーランド」について、京都国立近代美術館のページより引用します。「19世紀後半、ポーランドの歴史や文化的逸話を大きなスケールで描き名声を博したのがヤン・マテイコです。クラクフ美術学校校長を務めた彼のもとからは、数多くの若き芸術家たちが巣立ちます。彼らは、祖国の独立を願いつつ、そこに自らの個人としての心情を結びつけ、象徴性に富み色彩豊かな独自の芸術を、絵画のみならず応用芸術や文学をも含む広い分野で展開しました。〈若きポーランド〉と呼ばれた彼らは、印象派など当時西欧で新しく生まれた芸術の動向を貪欲に吸収し、浮世絵を主とする日本美術を参照する傍ら、地方に残る伝統文化を発見・再解釈しながら、ポーランドの国民芸術の在るべき姿を模索しました。本展では、ヤン・マテイコを前史とし、〈若きポーランド〉が生み出した芸術を包括的に、日本で初めて紹介します。」
 ポーランドは歴史上、西スラブのポラニエ族(ポラニエはポランの複数系で、平原の民の意)のミェシュコ1世が10世紀後半ポーランド公国ピャスト朝を建てたのに始まるようです。その後支配地域を広げ、ボレスワフ1世が1025年ポーランド王として戴冠、ポーランド王国が誕生(クラクフが首都)。14世紀末にはリトアニア大公国と同君連合を結び、北はバルト海、南は黒海北岸、東はウクライナまで領域を拡大し、1569年ポーランド・リトアニア共和国が成立します。その後は、内紛が続いたり、ロシア、オスマントルコ、オーストリア、プロイセンといった周辺諸国の干渉を受け、次第に勢力を弱め、18世紀後半にはロシア、オーストリア、プロイセンによる3度にわたる分割を受け、1795年ポーランドは国家としては地図上から消滅してしまいます。19世紀には何度も主権の回復を求めて蜂起が行われますが、その都度鎮圧され、ポーランドが国家として独立を回復するのは第1次世界大戦後の1918年です(第2次世界大戦中も、西部はドイツ、東部はソ連に分割戦領され、それぞれ激しい弾圧と虐殺が行われた)。この間、政治的には激しく抑圧されますが、かえって民族としての意識が高揚し、言語や文学、音楽、美術など多方面で、西欧や日本の文化要素も取り入れ吸収しつつ、質の高い文化が花開いたようです。
 
 会場に入ってまず魅かれたのが、アルトゥル・グロットゲル(1837~1867年)の原画による連作「ポロニア」。いずれも 23×28cmくらいの大きさで、次の9点です。「ポーランドの寓意」、「夜半の徴兵」(夜、女性が行かないで、と引き留めているよう)、「武器製造」(大きな鍋の中で刃物のようなのを溶し叩いている)、「戦い」(戦闘場面)、「負傷者のための避難所」、「宮廷の防衛」、「惨状」(室内が荒らされ、4人が死んで倒れ、赤ちゃんも死んでおり、男性が顔を覆って立っている)、「戦いの後」(森でたくさんの人が死んでいる)、「悲報」(ハンカチで顔を覆って悲しんでいる)。この連作は、1863年1月に始まったロシアに対する蜂起をベースにしたもので、戦争の悲惨さ、ポーランドの人たちの悲しさが伝わってきます。原画は黒のクレヨンで描いているそうですが、髪や衣服の襞などまでとても繊細に描かれているとのことです。
 
 ヤン・マテイコ(1838~1893年)の「〈スタンチク〉草稿」(1861年 44.5×55cm)。スタンチクは、16世紀にポーランドの3代の王に仕えたという宮廷道化師ですが、知性に富み、しばしば本質を見抜くような風刺をしたとか。本作では、スタンチクは1人椅子に座り、眉間にしわを寄せ深刻な表情のようです。別の部屋では、そういうことと関係なく遊び興じて?いる人たちもいるとか。解説では、スタンチクは国境の要塞がモスクワ大公国に落ちた手紙を読み、悲観に暮れている様子だとのこと。19世紀、他国支配下にあったポーランドと、ポーランドの将来を案ずるスタンチク(あるいはマテイコ自身かも?)の姿が重ね合わされているようです。
 マテイコは、古都クラクフに11人兄弟の9番目の子として生まれ、生涯のほとんどをクラクフで過ごします。1846年のクラクフ反乱と48年のオーストリア軍によるクラクフ包囲戦を体験、2人の兄が戦いに参加し、三兄ジグムントが亡くなります。52年からヤギェウォ大学の芸術専門学校(後のクラクフ美術学校)で学ぶようになり、早くも歴史上の事件を題材にした絵を発表するようになります。58年にミュンヘン美術アカデミーで、さらに59年から翌年にかけてウィーン美術アカデミーで学びんでクラクフへ帰郷、その後は生涯クラクフで過ごします。1860年代半ば以降、ポーランドの繁栄と没落の史実を題材にそれに彼の心情を盛り込んだ画は、パリなどで高い評価を受けるようになります。1873年にクラクフ美術学校の初代校長となり、この学校の出身者が19世紀末の「若きポーランド」と呼ばれる一大潮流の担い手となりました。
 以下、マテイコの作品が続きます。なお、これらの作品の一部については、英語版のWikipedia がとても参考になりました。
 「盲目のファイト・シュトスとその孫娘」(1865年 155.5×140cm)は、私にとってはとても印象に残る作品です。かなり大きな画面。画面やや右側に、目を閉じ黒のコートを着けた年老いた男性(ファイト・シュトス)が、なにか回りをまさぐるように両手を広げて立っています。画面左には黒髪の若い女性(孫娘)が立ち、シュトスの右手に自身の左てを重ねるようにしてやさしく触れているようです。画面の右上、シュトスの伸ばした左手の上辺りに、脚のようなのが見えています(家内はこれを一見して、キリストの磔刑?と言っていました)。画面全体は暗いようですが、画面右上から光がさし、中央の2人の手が重なった辺りが少し明るく照らされているようです。絵全体の意味合いはよくは分かりませんが、なにかとても象徴的、宗教的なものを感じました。ファイト・シュトス(Veit Stoss: 1447年頃~1533年)はドイツの彫刻家で、ニュルンベルクで活動後、1477年から1496年の間はクラクフを中心にポーランドで活動、クラクフの聖マリア教会には、「ファイト・シュトスの祭壇画」と呼ばれる巨大な彩色木彫祭壇画(高さ13m、幅11m)があるとのこと。クラクフ生まれのマテイコはこの祭壇画に幼少期から親しんでおり、シュトスの肖像画も数枚描いているそうです。
 「ボナ王妃の毒殺」(1859年 78×63cm)は、16世紀のポーランド王ジグムント1世の2番目の妃ボナ・スフォルツァが毒殺される場面を描いたもののようです。画面中央のテーブル(テーブルの上には王妃の愛用品でしょうか、宝石箱のようなものなどがある)を前に、十字架を着けたボナ王妃が立ち、年取った男性が差し出すグラス(毒入り?)を受け取ろうとしています。王妃の背後のカーテンの向こうには隠れるように2人の女性がいて、成り行きを見守っているようです。全体に、張り詰めた緊張感のある画のようです。
 「カジミェシュ大王の墳墓内」(1869年 60.5×47.5cm)は、1869年に14世紀の王カジミェシュ3世(大王)の墓を発掘し修復する作業が行われますが、その時に目撃された墓の内部の様子だとのことです。手前に老朽化した煉瓦の壁があり、その奥には、棺がすでに朽ちてしまったのでしょう、大王の遺骸がばらばらになった状態で見えているようです(宝石がちりばめられた王冠を戴いた頭蓋骨、顎の骨などいくつもの骨、だいぶ離れて足など)。向こうには墓の中を覗き込んでいる男性がいて、そこから光が出ていて、一点透視図法で描かれているそうです。この墓の発掘・修復のために、クラクフ学術協会の会員が委員会を設けますが、マテイコはそのメンバーの1人になっています。
「ミコワイ・コペルニク:〈天文学者コペルニク、あるいは神との会話〉のためのスケッチ」(1871年 41.5×52.5cm)は、天文学者コペルニクスが、バルコニーのような所に立って、望遠鏡やコンパスのような機器を用いて天文観測をしているようです。地動説で有名なコペルニクスですが、彼自身聖職者でもあり、当時教会に権威付けられ絶対視されていた天動説に対して、どのように考え公表したらよいのか、神と対話し悩んでいるのかも知れません。なおこの作品はスケッチで、1873年には「Astronomer Copernicus, or Conversations with God」というかなり大きな絵を完成させています。
 「1683年、ウィーンでの対トルコ軍勝利伝達の教皇宛書簡を使者デンホフに手渡すヤン3世ソビェスキ」(1880年 58×100cm)は、1683年のオスマントルコ軍による第2次ウィーン包囲軍に対する勝利の場面。ソビエツキはポーランド軍司令官としてウクライナのコサックの反乱の鎮圧に活躍し、1674年ヤン3世としてポーランド王・リトアニア大公に即位、1683年のオスマン軍によるウィーン包囲戦に参戦、オスマン軍を撃破し、ヨーロッパに名声を博したと言います。この作品では、伝書を使者に渡す国王、戦いを終えた将軍や兵士たちの表情や動きが劇的に描かれているようです。
 「ミコワイ・ズィブリキェーヴィチの肖像」(1887年 121.5×88.5cm)は、当時クラクフ市長だったミコワイ・ズィブリキェーヴィチの依頼で描かれたもので、とても威厳にあふれた人物として描かれているようです。(マテイコは、1878年クラクフ市長のジビュブリキェーヴィチから、民族の精神的指導者として錫杖を授かったこともあり、そのままの姿ではなく、本人にできるだけ喜んでもらえるように、背景や装飾やポーズなど威厳たっぷりに描いたようだ。)
 
 続いて、ヤツェク・マルチェフスキをはじめとする「若きポーランド」と呼ばれる人たちの作品です。マテイコの1世代後の人たちで、同時代の印象派や象徴主義ばかりでなく、浮世絵のような日本文化、さらにはポーランド各地に伝わる伝承・民俗なども取り入れて多様な作品を展開したようです。
 マテイコが過去の歴史的な出来事を劇的・英雄的に描いてポーランドの人たちを鼓舞したのにたいして、ヤツェク・マルチェフスキ(1854~1929年)は、歴史を踏まえながらも、当時の人々の心情を象徴的に表現するような絵を描いたようです。以下にまず、ヤツェク・マルチェフスキの作品から紹介します。
 「白い盛装の自画像」(1914年 93×78cm)は、ヤツェク・マルチェフスキの自画像で、白いスモック、白いネックスカーフ、幅広の白いベレー帽を着け、顔は仮面?のようで表情はあまり読み取れないようです。なんだか心の内を隠そうとしているような、あるいは外からのものをすべて白で反射しているような感じがします。
 「画家の霊感」(1897年 79×64cm)は、印象的な作品でした。画面やや左にキャンバスがあり、画家(マルチェフスキ自身)が中央に立ち、画面右端のモデルの女性を見ながらなんとかキャンバス上に描こうとしているようです。この女性は、ポーランドないしポーランド国民を象徴する女神像ポロニアですが、当時の状況を反映しているのでしょう、ポロニアはぼろ切れを身に着け、足には枷を着け、愁いを帯びた表情で何か訴えようとしているようにも見えます。このポロニアに去来するインスピレーションを画家(マルチェフスキ)は、なんとか見に見える作品に仕上げたいと苦闘しているのかも知れません。
 「連作『ルサウキ(ルサールカたち)』」が5点展示されていました。ルサウキはルサールカの複数形で、ルサールカは、スラヴの伝承や神話に登場する水の精霊(ニンフ、妖精)で、多くは水辺で亡くなった若い女性の霊と考えられ、魅惑的でありながら危険な存在のようです。ルサールカはよく知られているようで、絵ばかりでなく、文学や音楽でもテーマとされることがあります(ドヴォルザークのオペラ「ルサルカ」など)。この連作は油彩画で、いずれも縦40cm前後、横が1m前後の横長で、制作は4点が1888年、1点が1887年で、次の5点です。「彼と彼女」(湖で魚を採ろうとしている男性を女性が誘惑して引き込もうとしている)、「憑依」、「モウズイカの妖精」、「妖精に抱かれた浮遊者」(沼地で魚を採っている人が引き込まれて溺死し妖精に抱かれて浮いている)、「死を面白がって」(タイトルの英語は Tickled to death. くすぐりなぶられて死に瀕しているのか?)。
 「春」(1898年 240×116cm)は、縦長の大きな作品。後ろ向きの女性が、身体に蔦?を絡ませ、羽を広げて、鳥などとともに空に浮き飛び立とうとしているようです。女性の足元は水面になっていて、冬眠から目覚めた生き物たちが描かれ、さらに奥には(ポーランドの)平原が広がっています。この女性像は、春の到来、さらにはポーランドの春の到来を象徴しているのかも知れません。
 
 ユゼフ・パンキェーヴィチの「干し草を積んだ荷馬車」(1890年 50.5×69.2cm)は、具体的にどんな作品だったのか分かりませんが、印象派を思わせる作品だとか。
 日本の浮世絵と並べて展示している作品もありました。ユリアン・ファワトの「冬景色」(1915年)と歌川広重の『金沢八勝図』より「内川暮雪」、および同じくファワトの「オシェクからの冬景色」(1911年)と同じく広重の『名所雪月花』より「井の頭の池 弁財天の社雪の景」です。ユリアン・ファワト(1853~1929年)は、初めはベルリンで宮廷画家として歴史画などを描いていましたが、1895年にクラクフに戻って以降印象派の影響も受けて主に風景画を描くようになり、とくに冬景色を好んで描いたとか。これらの作品では、画面の大部分を占める白い雪の上に反射する眩しい太陽光がとてもうまく描けているようです。(ファワトは、若いころには中国や日本にも旅行したことがあるとのこと。)
  スタニスワフ・カモツキ(1875~1944年)の「チェルナの僧院の眺め」(1908年頃 95×114cm)は、チェルナ村の外れにあるカルメル会の大きな修道院を高い視点から描いたもののようで、回りを樹木に囲まれた中に、上が丸い大きな建物が見えているそうです(このカルメル会修道院は17世紀に設立された跣足(せんそく)修道会)。近くには、北斎の『冨嶽三十六景』より「東海道程ヶ谷」が展示されていて、松並木の間から富士を望む構図と比べられるようになっていました。ちなみに、このように前景に木々などを配して、前景越しに風景や建物などを際立たせる方法を「すだれ効果」と言うらしいです。スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(1869~1907年)の「夜明けのプランティ公園」(1894年 100×201cm)も、展示解説によれば、すだれ効果が用いられた作品だとのこと。プランティ公園はクラクフにある公園で、薄暗がりのなか、古都クラクフの象徴ヴァヴェル城を、木々の枝越しに遠望する構図で描かれているそうです。なお、ヴィスピャンスキは、画家としてだけでなく、劇作家・詩人としてより有名なようです。
 ヴォイチェフ・ヴァイスの「橋上の音楽家たち」(1904年 95×70.5cm)は、橋の上を辻音楽史らしい人たちが疲れた様子で歩いています。隣りには、広重の『名所江戸百景』第76図 「京橋竹がし」が展示されていました。
 
 ユゼフ・メホッフェル(1869~1946年)の「暖炉の上の小物たち」(1895年 66×60cm)は、日本っぽい感じの静物画のようです。部屋の中で、上に金箔の額縁に入った鏡、その下に暖炉があります。暖炉の上には、枝をくちばしでくわえた鳥(トキ?)の像、その隣りに蓮の花、お盆、チューリップの鉢?、花瓶などが見えます。同じくメホッフェルの「クラクフ美術友の会建物フリーズ装飾『自然と芸術』のためのデザイン」(1901年 145×353cm)は、壮大な作品で、上に鶴、天女とその羽などが見え、少女がひまわりを持ち、芸術家っぽい少年などが見えるとか。(メホッフェルは画家としてだけでなく、ステンドグラスなど多くの装飾作品を残している。)
 フェルディナント・ルシュチツ(1870~1936年)の「冬のお伽噺」(1904年 132×159cm)は、中央に黒い池、その回りに白い雪に覆われた木々が見えて、幻想的なようです。
 その他、ヤン・スタニスワフスキの「水辺のポプラ」(1900年)(ポプラが水面に映っている)、コンラット・クシジャノフスキの「フィンランドの雲」(1908年)(海辺で、だんごのような雲がもくもくと)、エドヴァルト・オクンの「紅葉」(1912年)など、どこか日本の絵のような感じのものもかなりありました。
 スタニスワフ・ヴィトキェーヴィチの「冬の巣」(1907年113.5×96.5cm)は、ポーランドの雄大な自然を思わせる風景画で、手前に針葉樹の森(枝には雪が見える)、遠くに雪を頂いた山々の連なりが見えます。この山地は、ポーランドとスロヴァキアの国境付近に東西に伸びるタトリ山地だそうです。
 
 ヴワディスワフ・ポトコヴィンスキ(1866~1895年)の「葬送行進曲」(1894年(未完) 83.5×119.5cm)は、印象に残る作品でした。この作品は、ポーランドの作曲家ショパンの有名なピアノ曲葬送行進曲に基づくコルネル・ウジェイスキの詩から連想したものだとのこと。画面は暗く、漆黒の夜空に、月光でしょうか、木々や鳥たちがかすかな光の中に浮かび、画面左側では、翼を持つ天使たちが開いた棺(中に横たわっている死者がもやあっと見えるようだ)を担いで行列し、画面中央では、右手は空に向け左手は脇の下に下げ、口を大きく開けて驚き?つつ悲嘆にくれている男性が見えます。さらに後景には、暗く(弔いの)鐘が聳え立っているとのこと!男性は友の死に驚き悲しんでいるようですが、ポーランドと重ねて見ることもできそうにも思います。なお、ポトコヴィンスキは1895年1月5日に29歳で亡くなっていて、この作品は遺作だそうです。
 
 以上のように、若きポーランドの芸術家たちの作品には、浮世絵など日本文化の影響も感じられるわけですが、これにはフェリクス・ヤシェンスキ(1861~1929年)の貢献が大きいとのことです。ヤシェンスキは日本の美術工芸品の無類のコレクターで、浮世絵、掛け軸、屏風、鎧、兜、刀剣、漆器、着物、印籠などを集め、それらを若きポーランドの人たちをはじめ広く公開したそうです(彼は、1920年国立クラクフ博物館に6500点ものコレクションを寄贈)。さらに、ヤシェンスキは若きポーランドの画家たちの作品を積極的に購入して彼らを支えたそうです。マルチェフスキをはじめ幾人もの画家によるヤシェンスキの肖像画が展示されていました。また、写真で「日本の屏風の前で三味線を持つフェリクス・ヤシェンスキ」が展示されていて、彼の回りには三味線や屏風のほか、刀、花瓶、帯など日本の品々が見えているようです。
 女性画家のオルガ・ボズナンスカ(1865~1940年)もヤシェンスキの肖像画を描いており、さらに彼女の作品10点くらいがまとめて展示されているコーナーがありました。オルガ・ボズナンスカはクラクフで絵を学んだ後、1886年にミュンヘン、1898年にパリに移り活動していますが、「日本女性」(1889年)、「和傘をもつ肖像」(1892年)など日本との関わりを思わせるものもありました。私が説明してもらったのは、次の3点です。
 「フローリスト」(1889年 65×85cm)は、室内で3人の女の子がテーブルの上の花で花飾りのようなのをつくっている場面で、せっせと静かに作業をしているようです。壁には団扇、窓からは外の家が見えているようです。
 「アトリエにて」(1890年頃 136.8×108.4cm)は、パレットを持った画家(たぶんオルガ自身)が帽子を被った女性と話し、向こうにはモデルの女性、壁には番傘のようなのが見えます。
 「菊を抱く少女」(1894年 88.5×69cm)は、少女が真っ直ぐ正面を見つめ、両手で白い菊の花束を抱えています。この作品は、この展覧会のチラシにも載っていて好評のようですが、私にはあまりよくは分かりません。見つめる黒い瞳がとくに印象的と言っていました。白い菊には清らかさとなにかはかないような感じ、見つめる黒い瞳からは少女の内面を感じるのかも知れません。
 
レオン・ヴィチュウコフスキの「スタンチク」(1898年 98×138.5cmは、人形劇場のシーンで、舞台上にはたくさんの人形が並び、左手前に涙を流しているスタンチクがいます。人形はクラクフの人たちをあらわしており、クラクフの人たち=ポーランドの現状を見て、宮廷道化師スタンチクが嘆き悲しんでいるのでしょう。
 
 最後に、第1次世界大戦の終結が見えはじめポーランドの独立が現実味を帯びてきたころの作品が数点ありました。
ヤツェク・マルチェフスキの「ピューティアー」(1917年 210×110cm)は、縦長の大きな作品。ピューティアーは、ギリシア神話でデルフォイの神託を伝える巫女です。下から白い雲のようなものが盛り上がり、その上の台座にギリシア風の服を着けた女性(ピューティアー)が座り、その前には上半身裸の男性が俯せになっています。ピューティアーは頬杖の姿勢で遠方を見据え、なにか決然とした表情のようです。ピューティアーの神託に託して、ポーランドの復活を象徴しているのでしょう。
ヤツェク・マルチェフスキの「義勇軍のニケ」(1916年 196×99cm)は、ギリシア神話の有翼の勝利の女神ニケが、軍服を着たまま倒れている男に手ー=シュロの葉を差し伸べています。シュロの葉は、永遠の生命、復活や勝利の象徴であり、ポーランドの再生と重ね合わせつつ、戦いで亡くなった兵士を慰撫しているのでしょう。
ゾフィア・ストリイェンスカ(1891~1976年)の「復活:連作「過越」より」(1917-1918年 71×96cm。グワッシュで描かれている)は、キリストの復活とポーランドの再生を重ね合わせた絵のようです。洞穴(=墓)に倒れている人がおり、洞穴から出てきた白っぽい感じの少年に、右上から光が当たっています。
 
(2025年7月6日)