4月29日、大阪市立自然史博物館で開催されていた第55回特別展「貝に沼る —日本の貝類学研究300年史—」を Kさんと一緒に見学しました。
私は以前貝に魅了された時期があり、近くの貝類専門の博物館や貝をテーマとした展示を見学に行ったり、興味のある貝を専門店から購入して集めたりし、また京都大学総合博物館の夏休み学習教室で貝を使ってワークショップをしたこともあります。今回の特別展は、資料中心だし触ってたのしむことはできないでしょうが、貝の魅力にはそれなりにふれられると思って行ってみました。
まず一緒に行った Kさんが驚いたのは、江戸時代では「貝」ではなく「介」の文字が使われていたこと(明治時代でもほとんど「介」の字が使われ、「貝」が広く資料で使われるようになったのは1913年の平瀬貝類博物館創設以降のようでした)。調べてみると、「介」には「外側から覆って中身を守るもの。よろいや甲殻の類」の意味もあり、それが転じて、そのような殻やこうらのようなものをまとう貝類をはじめ、エビやカニなどの甲殻類、ウニなどの棘皮動物も指すものとして使われたようです。考えてみると、今でも「魚介類」と言えば、魚類とともに、貝類やイカ・タコ、エビやカニ、ウニなど広く海産物を指して使われていますね。
江戸時代の貝類に関する資料としては、まず木村蒹葭堂(1736~1802年)のものが展示されていました。
木村蒹葭堂は、江戸中期の大阪の町人ですが、いわば市井のエンサイクロペディア、知の巨人とも呼べるような人で、文学や書画から、本草学などに通じ、オランダ語ばかりでなくラテン語まで解し、また物産にも詳しく、鉱物や動植物などの標本も収集し、その知を求めて全国から多くの人たちが訪れたとか。展示されていた貝に関する資料は、木村が残した膨大な資料のほんのごく一部のようです。「奇介図譜」(1775年)は、和紙に黒い墨で各貝の輪郭が細かく描かれているとのこと。(以下貝の名前は原物の文字表記が分からないのですべてカタカナ書き)ベニマキガイ、イトカケガイ、タカヤサンガイ、ギンナンガイ、キンギョガイなどが見えているようです(私が聞いたことのあるのは、イトカケガイとキンギョガイくらい)。
続いて、木村蒹葭堂の貝類標本が展示されていました。7段の漆塗りの箱で、重箱のように持ち運べるようになっており、各箱は3cm四方くらいの小区画に仕切られ、そこに貝をはじめ、ウニやフジツボ、コケムシなどが、計400種収められていたとか。多くは日本近海の貝類ですが、モミジソデという、地中海から北海にかけて分布するヨーロッパ特産の小さな巻貝も含まれているとのこと、どのようにして蒹葭堂までやってきたのでしょうか?(蒹葭堂には、貝類標本だけでなく、同じように6段の重箱で、鉱物や岩石、化石を集めた奇石標本もあり、その化石の中には貝化石もあるそうです。)詳しいことは分かりませんが、蒹葭堂は、平賀源内の蔵書の「紅毛貝譜」(オランダ語の『アンボイナ島珍奇物産集成』の訳)の一部を模写して収集した貝の分類の参考にし、また実際アンボイナガイなど南海のイモガイ類も所蔵していたようです。
次に、幕末から明治にかけての大阪の市井の博物家堀田龍之助(1819~1888年)の貝標本が展示されていましたが、具体的にどんなものなのかは分かりません。
幕末と言えば、ペリー提督率いる艦隊ですが、ペリー艦隊は日本に開国を迫る交渉とともに、生物調査などのための人員も乗船していて、琉球をはじめ日本各地の動植物、とくに魚類や貝類についての詳しい調査をし、『日本遠征記』の中にその報告があるそうです。貝類については、J C ジェイの「貝に関する報告書および日本産貝のリスト」(1856年)があり、カラーの写真のようにきれいな二枚貝の表と裏の絵が展示されているとのことでした。
明治以降の貝類学では、まず平瀬与一郎(1859~1925年)です。淡路島に生まれ、1887年一家で京都に出て、種苗や家畜、薩摩焼や水晶などを扱っていましたが、アメリカ人宣教師で同志社で博物学の教授をしていたマーシャル・ゲインズや同じく宣教師で貝類研究家のジョン・ギューリックらと知り合って貝類研究に興味をもつようになったそうです。とくにアメリカの貝類学者ヘンリー・ピルスブリー(1862~1957年)に文通指導を受け、自邸を平瀬介館と名づけ、国内外の数千点にのぼる標本を集めて、ピルスブリー博士らの協力を得て海外の雑誌に寄稿、多くの新種(700余!)を記載したとのこと。(平瀬介館の販売標本なるものが展示されていました。ハナイモガイ、ハナワレイシ、リュウテンサザエ、ヌノメアカガイ、クロシギノハシなど。)『介類雑誌』(1907~1909年)を発刊、そして1913年には京都市岡崎に念願の平瀬博物館を開設(1919年閉館)し、『貝千種(ちぐさ)』(1914~1922年)なども著して、貝類研究の普及に貢献、彼の元から後の貝類研究者が育ちます。
黒田徳米(1886~1987年)も淡路島出身で、小学校卒業後間もなく京都に出て1901年から平瀬の下で働いき指導を受けて貝類の研究をし、1921年には京都帝国大学理学部地質学鉱物学教室助手になります。その後、1928年の日本貝類学会設立に参画し、1948年から1963年まで同学会館長を勤め、多くの論文を発表し、後継者の育成にも尽力したとのことです。
舞子介類館の標本が展示されていました。舞子介類館は矢倉和三郎(1875-1944)が1908年に垂水区舞子浜の自宅に設けたもので、1930年まで開館していたとのこと。シュモクガイ(長さ20cmくらいの細長いT字型の二枚貝)、ツツガキ、マドガイ、テンニョノカムリ(アッキガイ科で、ひらひらのようなのがある巻貝)、リュウキュウツノマタなどです。これらの舞子介類館の標本は樟蔭学園に保存されていたもので、それが大阪市立自然史博物館に寄贈されたものだそうです。
化石貝類の展示もありました。上にも書いた木村蒹葭堂の奇石標本で、計175種あり、鉱物や岩石が多いそうですが、化石が33種、その内化石貝類が20種だとのことです。この奇石標本のものかどうかは分かりませんが、ナノナビス類(白亜紀の殻の厚い二枚貝。貝塚市産)、エゾキンチャクガイ、トウキョウホタテ、アリサンマイマイなどの化石が展示されていました。
その他、貝の水産業として、トリガイやマガキの養殖、真珠養殖が紹介されていました。マガキの養殖では、産卵期に海底にホタテの貝殻を沈めておくと、孵化したカキの幼生がホタテの貝殻に付着して小さな貝(種ガキ)になり、そのホタテの貝殻を海に吊るしておくと種ガキは回りのプランクトンを食べて成長するので、楽に養殖できるようになったそうです。また、貝類学の研究や普及にはアマチュアの活動も大きいということで、大阪の小学校教員で寺の住職だった吉良哲明の『原色日本貝類図鑑』なども紹介されていました。さらに、貝の研究にどんな方法や道具類が使われているのか、また貝の研究者になるためにはどのようなことをすればよいのかなども紹介されていました。
最後に、珍しい貝、完品がめったに見つからない貝、ごく稀にしか採集されない貝などが紹介されていました。カサゴナカセは、甑島沖で釣ったユメカサゴの胸鰭や腹鰭に付いていたものだとのこと。寄生の関係なのか私には分かりませんが、魚と貝との珍しい関係のようです。ビードロタイラギは、高知県沖の島沖の深場から採集されたもので、生息数が少ないうえ、殻がとても脆く割れやすくて完全な形のものの採集は極めて難しいとのこと(二枚貝で、見た目は水あめのようなものを伸ばしたようなものだとのこと)。マボロシリュウグウボタルも、鹿児島県種子島付近のかなり深い砂礫底に生息している小さな巻貝?で、完品の採集例は数例のようです。このような、珍しくまぼろしの貝とも言えるものが計27種も展示されているとのこと、1種でもいいですから実際に触れてみたいと思いましたが、もちろん叶わぬ夢ですね。
(2025年7月23日)