奥州市訪問記―常磐小学校、奥州宇宙遊学館、牛の博物館、正法寺など―

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 8月26日夕から8月27日にかけて、Sさんの案内で奥州市を訪問しました。(奥州市は、2006年に、水沢市を中心に、江刺市、前沢町、胆沢町、衣川村の 5市町村が合併してできた市です。人口13万、面積は千平方キロもあります。)
 Sさんは地元で点訳活動をしておられる方です。点訳だけでなく、いろいろな施設が視覚障害者にもできるだけ使いやすくなればと活動してこられたようです。奥州市の大きな触地図を作ったり、正法寺という有名なお寺を視覚障害者にどのようにすれば案内できるのかをチェックして点字のパンフレットなどを作っています。私も以前からぜひ正法寺に来てみてくださいとお誘いを受けていたのですが、ようやく今回、東京経由で十和田市の実家に帰る途中、奥州市を訪問することができました。
 (以下の記述に当たっては、各施設・館のホームページやパンフレット類、ネット上で使える辞書類も参考にしました。)
 
●南岩手交流プラザ
 東北新幹線の水沢江刺駅に着くと、ホームまでSさんがわざわざ出迎えてくれ、早速駅構内にある南岩手交流プラザを案内してくれました。ここでは地元の伝統的な産品や文化が紹介されているようです。
 まずは有名な南部鉄器。作家名入りの作品 3点に触れました。容量が一斗もある大きな鉄瓶。表面に小さな粒粒が規則正しく並んでいます。龍が浮彫りで描かれた直径40cm以上もある大きな皿。皿一杯に龍の頭から尾まで、細かく力強く描かれています。「峠」というタイトルの、高さ40cmくらいの花器。山がいくつも重なっている様子や、峠道を思わせる段段になった道らしきものもよく分かりました。いずれも鉄を感じさせないような手触りです。
 その隣りには、岩谷堂(いわやどう)箪笥と呼ばれる、奥州藤原氏にまで遡るという豪華な箪笥類が所狭しと並んでいました。開け閉めも自由にでき、彫金の飾り模様や鉄の金具など、ついいろいろと触ってしまいます。車の付いた箪笥もありました。
 さらに、かなり広いスペースを割いて、日高火防祭(ひたかひぶせまつり)の展示があります。江戸時代から続く火防祈願の祭で、毎年 4月末に各町総出で行われている、京都の祇園祭を模した華やかな祭のようです。各町からは「町印」「内囃子(トットコメー)」「囃子屋台」の三種の屋台が繰り出されるとのことで、一部の町印や囃子屋台に触れ、また祭の様子も音で聞きました。
 
●常磐小学校
 その後、常磐(ときわ)小学校に向い、副校長先生の案内で地形のジオラマ?を楽しみました。もう 5時ころでしたが、先生や子どもたちもまだかなりいるようで、活気を感じました。実は、Sさんは常磐小学校出身で、子どものころ学校にあった地形の模型のようなものでよく遊んだというような話を聞き、もしそれが残っているようだったらぜひ行ってみたいという私の要望で、Sさんが学校と連絡を取ってくれたわけです。
 地形模型は、縦 8m、横 4mくらいで、いくつかの山や火山、それらに発する小さな支流が合して大きな流れ(北上川?)となり、海まで達する様子を立体的に表したものです。中に入って山に上ったり川の流れを歩いたり、典型的な岩石などを自由に触ることができます。
 山頂近くには、溶岩(硬くて緻密な感じの物から細かな穴がたくさんあるような物まで)、花崗岩などの火成岩類(花崗岩は、大きな結晶がけっこうよく分かった)、名前はよく分かりませんが緑色をしたいろいろな岩石、蛇紋岩、角閃石などがありました。海の近くでは、垂直に立った粘板岩(1mmくらいの層の重なりがよく分かる)、水平に広がった砂岩(5mmくらいの層の重なりがよく分かる)、さらに、泥岩や砂岩が熱による変成で変化したホルンフェルスが水平にやや湾曲して広がっています(これはとても硬い感じで、5mmないしそれ以上の厚さの層が積み重なっているのがよく分かりました)。また、立派な珪化木や、磁鉄鉱や黄銅鉱も立っていました。
 この地形模型は、作られてからすでにおそらく五十年くらいは経っているため、風化がかなり進んで、本来の流れの窪みのほかに、自然の雨水によって後からできた窪みなどもあって分かりにくくなっている所もあります。しかし、岩石は風化によって硬い所だけが残って、石の層や一部の結晶などは触ってかえって観察しやすくなっていました。
 この学校も以前は木造だったのですが、鉄筋コンクリートの新しい校舎に建て替える時に、この地形模型だけは記念に残しておくことになったそうです。こうして、私にとってももちろん幸運だったのですが、子どもたちも日常的にこのような模型が見られる環境にいることは幸せだと思います。(Sさんは、小学生のころ、山頂付近から砂を巻き、さらに水を流して遊んだとのこと、砂がどんな風に流れて行くか、観察できたようです。今の子どもたちはどんな遊び方をしているのでしょうか。)
 
●奥州宇宙遊学館
 翌日は、9時前に私の宿泊していたホテルまで迎えに来てもらい、早速奥州宇宙遊学館に向かいました。
 まず、この施設の由来などについて解説がありました。奥州宇宙遊学館の前身は、1899年に設立された水沢緯度観測所ですが、その最新の光学的な観測設備も技術の進歩とともに次第に取って代わられ、1988年には閉館となります。その後施設は解体されそうになったのですが、市民の間で保存運動が起こり、施設が奥州市に移管されて、2008年4月NPO法人イーハトーブ宇宙実践センターが指定管理者になって「奥州宇宙遊学館」として再スタート、天文を中心に、各種の社会教育・文化活動を始めているとのことです。
 1880年代に地球の回転軸に小さなふらつきがあることが分かり、1898年の国際測地学協会の総会で、そのふらつき(極運動)を詳しく調べるために、北緯39度08分上に位置する世界の 6箇所(イタリアのカルロフォルテ、アメリカのゲーザーズバーグ、シンシナティ、ユカイア、日本の水沢、ロシアのチャルジョウ)に観測所を設けることが決まります(地球の回転軸のふらつきは星の見かけ上の位置のずれとなるので、同緯度上での詳しい観測結果から極運動の詳細が分かるらしいです)。
 1899年水沢に臨時緯度観測所が設けられ、東京から木村榮(ひさし。1870〜1943年)が赴任してその年の12月から観測が始まります。半年ほどして観測結果をドイツのポツダムにある中央局に送ると、日本の観測は一番精度が悪いという報告が返ってきました。木村博士は入念に観測方法や機器を調べ直しますが、問題ありません。そこで観測結果は正しいとして、当時極運動を示す計算式(経度と時間の関数として表される)に新たな項(Z項)を加えると観測結果によく合うことを1902年に発見します。これはその後国際的にも正しいことが確かめられ、日本の観測技術が優れていることも評価されることになります。このZ項が何を意味するのか長らく謎だったのですが、地震波の詳しい解析で地球内部の層構造が明らかとなり、1970年代になって水沢緯度観測所の若生康二郎が、Z項は地球の流体核(外核)が地球の回転運動に及ぼす影響(自由核章動)を現していることを見出します。
 なお、1941年まで水沢緯度観測所の所長を勤めた木村博士は、天文学ばかりでなく、岩手県最初の幼稚園(水沢幼稚園)の設立に尽力するなど、地元の教育・文化にも貢献したとのことです。奥州宇宙遊学館のすぐ近くに木村榮記念館があり(そこには木村榮の銅像もあり私もそれに触れ、また1941年にラジオで放送されたという子供向けの「科学する心」のレコードでその肉声も聴きました)、また市内にはZ項のZを冠した施設などがいろいろあるとのことです。
 緯度観測所を引き継いだ現在の国立天文台水沢VLBI観測所は、石垣島、鹿児島県入来島、小笠原の父島にある電波望遠鏡と連携して銀河系の詳細な地図を作ったり、地球潮汐の詳しい測定などをしているとのことです。
 
 展示室には、天頂儀や子午儀、望遠鏡など、いろいろな装置がありました。とくに、眼視天頂儀と浮遊天頂儀には興味を持ちました。
 眼視天頂儀の接眼レンズのほうには、星の位置を確認する目安としてクモの細い細い糸が10本くらい張られていたとのことです。この 1ミクロン以下のクモの糸を採集しレンズに貼り付けるという大切な仕事を 40数年もしていたのが地元の平三郎(たいらさぶろう。1908〜1969年)さんという方で、その名人芸ともいうべき技と労苦にたいして第1回芳川栄治文化賞が1967年に授与されているそうです。浮遊天頂儀は触った感じは大きなドラム缶を二つ重ねたような感じで、よくは分からないのですが、たぶん外側の容器のほうに水銀を入れ、内側の本体部分が自由にスムーズに回転できるようにしたものだと思います。大きな水銀入れもあり、つい水銀蒸気による健康被害は……などと考えてしまいました。
 
 2階の展示室には、ちょっとした体験コーナーがありました。石質隕石と鉄隕石の小片、それにテクタイトが置かれています。テクタイトは、隕石の衝突による熱でいったん溶けた物が固まって出来たガラス質の物だとのことですが、確かに触ってもガラスのようなつるつるした面がありました。
 「宮沢賢治と緯度観測所」のコーナーには、風の又三郎の像がありました。大きなマントを風になびかせている感じで、又三郎のイメージ通りでした。宮沢賢治は緯度観測所を訪れ、木村博士や職員とも会っていたようで、『風の又三郎』の初期形『風野又三郎』(1922年ころ)には次のような文章があります(青空文庫の『風野又三郎』より引用)。
 「……その前の日はあの水沢の臨時緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入梅だったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本当は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で『大丈夫です、すっかり乾きましたから。』と云う声がするんだろう。見ると木村博士と気象の方の技手とがラケットをさげて出て来ていたんだ。木村博士は瘠せて眼のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなわない、まるっきり汗だらけになってよろよろしているんだ。……」
 展示室には、この中の文章を浮出しの文字で書いた板があり、それに紙を当てて強くこすると、紙に文字が浮出してくるようになっていました。
 
●奥州市牛の博物館
 奥州宇宙遊学館は 1時間くらいで切り上げ、通称牛の博物館に向かいました。牛の博物館は、牛の進化や生殖技術など生物学関係のことから、鋤など農耕具や乳製品、カウベル、牛に関わる民俗など、牛のことなら何でも分かりそうな博物館でした。
 この当たり(前沢区付近)は以前は浅い海だったとのことで、400万年前のカキなどの貝化石、マエサワクジラ(ナガスクジラ科の仲間で 5mくらいはあるとのこと)、ミズホクジラ(これは絶滅種だとのこと)、骨質歯鳥という大きな鳥の複製骨格模型が展示されていて、貝の化石やマエサワクジラの一部分に触れることができました。マエサワクジラの触れた部分は、上顎と下顎、そして前の鰭?です。前の鰭はまず大きく三つに分かれ、その先にそれぞれ十数個の小さな骨が長い指のように連なっていて、とくに印象に残っています。
 いろいろな牛の剥製も展示されていて、私はハイランド種と黒毛和種(雄と雌)に触りました。ハイランド種は、寒い地方の品種だからだということですが、長い毛がふさふさしています。黒毛和種(とくに雄)は、私が思っていた牛よりもかなり大きく胴がずんぐりしていました。
 牛の胃の標本も展示されていて、その大きさは私が十分すっぽり入る以上の大きさだとのことで、まずその大きさにびっくりしました。 4つに分かれているわけですが、第1胃が一番大きく、第3胃が次に大きいようです。私は 2胃と 3胃の切り取った実物標本に触ることができました。 2胃には細かなひだやつぶつぶのようなのがたくさんあって、それは蜂の巣に似ているとのことで「蜂の巣胃」とも呼ばれるそうです。2胃は、1胃と食物をやりとりしたり、反芻するときに食物を食道の下まで送り出す役割をしているそうです。3胃は、大きな薄い舌のようなのがたくさんあって何とも言えない感じです。3胃は水と栄養物の吸収をするとともに、たくさんのひだで餌を篩い分けて大きな固まりは1胃・2胃へと戻し、4胃に入る餌の量を調節しているそうです。実際に胃液で消化しているのは 4位だけだとのことです。
 
 その他、いろいろな動物の歯(頭蓋骨)や角の標本も展示されていました。牛の上顎は奥歯だけで、前歯も犬歯もなく硬い歯茎だけになっていることには驚きました。
 歯の標本としては、ピューマ、ミシシッピワニ、アメリカビーバー、イノシシ、イエネコなどがありました。ピューマとイエネコは、大きさは違いますが、どちらも肉食?からでしょうか、歯の形はよく似ているようです。ビーバーは、リスと同じように、前歯だけがとくに大きくなっていました。
 角の標本としては、オグロヌー、インパラ、プロングホーン、そしておなじみのニホンジカなどの角もありました。インパラの角は円弧を描くようにゆるくカーブし、斜め線が何本も規則正しく並んでいてきれいでしたし、プロングホーンの角もとても立派でした(袋のようなのが被さっていたように思います)。
 
 牛と人のかかわりを示す展示では、インドネシアのスラウェシ島の山岳部に住むトラジャ族に関する展示が素晴しかったです。トラジャ族では、とくに水牛がとても重要な意味を持っているようです。女性用の棺として豚の形の物が、男性用の棺として水牛の形の物が展示されています。そして牛の形の棺は屋根付きの小さな家のような台(霊柩台?)に乗っていました。水牛は農耕などに使われるのではなく、葬送などの祭の時に犠生にされ、また集まった人たちに盛大に振舞われるとのことです。葬式の時にどれだけの牛を犠牲に出来たか(集まって来る親族たちも犠牲に供す水牛を連れてくるそうです)が、その家族の富や地位を象徴することになるようです。さらに、犠牲にされた水牛の角は伝統的な高床式の家トンコナン(Tong Konan)の棟持ち柱に飾られるとのことです。博物館にはトンコナンの 1/3の模型も展示されており、牛の角のほか、壁面にはたくさん模様のような飾りがありました。
 
 その他、世界各地の鋤や、乳を加工する様々な技術も紹介されていました。とくに世界のカウベルを集めたコーナーは、音も形も重さも楽しむことができ、いつまでも遊んでいたくなる場でした。スイス、フランス、イタリア、ドイツ等ヨーロッパの国々のカウベルばかりでなく、アフリカやアジアで使われている物もあり、また金属製ばかりでなく、竹製の物や陶器製?の物もありました。(ミュージアムショップにもカウベルはけっこうありましたが、小さめの物が多く結局買いませんでした)。
 実はまだまだいろいろな展示があり、1日いても飽きないほどだろうと思いましたが、 2時間くらいで切り上げ、午後の訪問先の正法寺に向かうことにしました。
 
●正法寺
 最初にも書きましたが、Sさんたちのグループは、数年前に正法寺でどんな所だったら見えない人たちも触って観覧できるかをチェックして点字のパンフレットを作ったり、弱視者用の拡大版のパンフレットを作ったりし、また正法寺のほうも見えない人たちが来られることを歓迎しているとのことで、今回の訪問になりました。正法寺は、永平寺、総持寺に次ぐ「曹洞第三の本寺」としての格式を持ち、東北地方の曹洞宗の中心的なお寺のようです。僧堂では現在も日々厳しい修行が行われているとのことです。
 Sさんが事前に案内をお願いしてくれ、手違いで約束の時間よりは遅れたのですが、K和尚の心のこもった案内で思いもかけないほどいろいろな物に触れ十分に鑑賞することができました。
 
 まず、広くて天井がとても高い庫裡を案内してもらいました。紅葉(もみじ)の大木の火鉢の大きさにびっくり、触りながら一周りするのにだいぶかかりました。次に、賓頭盧(びんずる)さま。びんずるさまは、釈迦の弟子で、十六羅漢の一人だとのことですが、庶民の間では撫で仏(信者が病気している部分と同じ部分をなでると平癒するという)として、だれでも願いを込めて触っている仏様だとのことです(このびんずるさまはとくに膝の部分が一番つるつるしているようでした)。高さはたぶん20センチ余の木製の坐像で、頬はふっくらした感じで、胸の前で合掌しています。周りにはお賽銭も置かれていました。
 お地蔵様にも触らせてもらいました。高さ40センチくらいの銅?製の立像で、右手に長い錫杖(上端には何枚もの円い薄板のようなのが通されていて、杖を振るとこれが鳴るのでしょう)を持ち、左掌には宝珠(先端がとがった玉で、人々の願いをかなえてくれるそうです)を持っています。全体になにか凛とした雰囲気が感じられ、体が少し前に傾いているからでしょう、こちらに向かって今にも進み出してくるような思いにとらわれるほどでした。
 
 本堂(正式には法堂(はっとう)と言って、本来は住職が仏に代わって説法する道場のことだとのことです)は、総畳数166畳、入母屋造、茅葺屋根で、とくに高さ26メートルもあるその茅葺の大屋根は有名だとのことです。まず、ご本尊(如意輪観音。1年に1度開帳されるとのことです)の前で、K和尚が鐘を撞くなか、お祈りをさせてもらいました。その長く残響する余音の中に、身体が包み込まれ抱かれるような思いでした。
 次に、千手観音には触れられます、との思いもしないようなお誘いがあり、感謝と喜びの気持いっぱいでそちらに向かいました。高さ170〜180センチくらいの一木造の立像です。お顔までは届かず触れられませんでした(半眼でやや下を向き、数えてもらうと十一面あるそうです)が、堂々とした感じでした。胸の前で合掌し、体の左右にはそれぞれ十本以上の腕があり、それらのほとんどの手は、斧、弓、矢、経文、宝珠、水の入った壺など、いろいろな宝具を持っています。これらの宝具で、人々を守り、悩みから救い、願いを成就してくれるのでしょう。さらに足元まで、また背中側にも、衣の襞を表わしているのでしょうか、幾何学的な曲線が多数浮彫りされています。鑿の痕も分かるほど木の面は新しい感じで、50年前に作られたとのことですが、これまでほとんど触れられることはなかったかもしれません。
 また、釈迦三尊坐像(中央に釈迦如来、向かって右に獅子に乗る文殊菩薩、左に象に乗る普賢菩薩)があり、これには触れられないが、坐禅堂の文殊菩薩には触れられるとのことで、坐禅堂に向かいました。坐禅堂には、畳の間に坐禅用の座布団がたくさんあり、その向こうに、修行している人たちを見下ろしているかのように、台の上に文殊菩薩が安置されていました。そのままでは届かないので、和尚さんが踏み台を持ってきてくれ、その上に上がって触ります。文殊菩薩は、獅子の頭の上に右膝を、獅子の腿の当たりに左膝を乗せています。記憶がさだかではありませんが、右手に長い筒のような経文を持っていたと思います。顔は厳しそうな感じで、坐禅している人たちを見守っているのでしょう。木製で80年ほど前に作られたということですが、たぶん多くの人たちに触れられてきたのでしょう、表面はかなりすべすべしていて硬いような感じで、真新しい感じの千手観音とは感触がかなり違います。
 
 その他にも、正法寺の七不思議といわれる物のうち、文福茶釜、片葉の葦、虎斑の竹に触れました。片葉の葦(よし)は、本当に向かって左側にしか葉がなくて、奇妙な感じでした。実際、境内の西側には今でも片側のみに葉が茂る葦が生えているそうです。
 K和尚さんは、文化財などに指定されていなくて触れられる状態にあるものにはほとんど触らせてくれたと思います。もちろん触れさせるだけでなく、詳しく説明もしてくれましたし、触れられないものでも、建物についてや、釈迦涅槃図などについてもいろいろと解説してくれました。もっと時間をとって詳しい解説を聴きたかったです。今回の訪問ではK和尚の御配慮により、予期せぬような素晴らしい機会に恵まれました。本当にありがとうございました。
 
*この後、予定ではキューポラの館にも立ち寄ることにしていましたが、正法寺に魅せられて時間がおしてきたため、そこには寄らずに花巻にある宮沢賢治記念館に向かいました。私の好きな宮沢賢治ですが、この記念館では資料はすべてガラスケースの中、賢治の作品に出てくる多数の鉱物・宝石類も展示されていましたが、まったく触れることもできず残念でした。その後、新幹線に乗るために新花巻へ、駅前広場には宮沢賢治の作品『セロ弾きのゴーシュ』をテーマにした大きな石の彫刻がありました。中央に大きなセロを抱えているゴーシュ、ゴーシュの右にボールのような物(トマトだそうです)を持った猫、ゴーシュの左に、棒きれ(太鼓のばちのようです)を持った狸、窓を背景にかっこう、野ねずみの親子とパンが浮彫りされています。とてもくっきりとしていて触って分かりやすかったです。それぞれ別の石で彫刻されているとのことでしたが、磨き上げられていたため触っては区別はつきませんでした。また、チェロの演奏で、トロイメライと、賢治が作詩作曲したという「星めぐりの歌」も流れていました。
 
 今回の訪問では、26日夕から27日夕までの丸 1日、Sさんご夫妻にずうっと車で案内してもらいました。そしてSさんは、私が訪れる奥州市と花巻市の触って分かりやすい地図も作ってくれました。おかげで、賢治作品の私の好きなイギリス海岸の場所(花巻駅の東で、大きくうねった北上川の右岸。残念ながら白亜紀の地層が露出することは滅多にないそうです)も知ることができました。また、各館・施設では、事前に連絡してお願いしていたこともあって、係の人に案内・解説してもらい、さらに思いのかけないような物にまで触れさせてもらいました。Sさんはじめ、各館・施設の皆様、本当にありがとうございました。
 
(2010年9月13日)