6月4日、堺市立泉北すえむら資料館に行きました。資料館に電話してみると、最寄の南海高野線泉が丘駅からは道に迷いやすいので迎えに行きますとのこと、お言葉に甘えて泉が丘駅から学芸員のMさんに案内してもらいました。資料館に向かって歩き始めると早速解説が始まりました。
この当たりは、今から1600年ほど前(古墳時代中期)から平安時代初期まで500年間くらい須恵器生産の一代拠点で、この泉が丘駅付近を中心に、東西15km、南北9kmほどの広範な地域に1000基とも言われるくらい多くの窯が築かれ、日本最大の須恵器の生産基地となったということです。資料館までの道は確かに上り下りがあり、このような斜面に、谷から吹き上がってくる風をうまく利用できるように、窖窯が築かれたとのことです。須恵器の窯を登り窯と呼んでいる人もいるが、登り窯はふつう大部分が地上に出ているのにたいして、須恵器の窯は大部分が地下で、窖窯と呼ぶのが正しいとのことです。須恵器の窖窯は、天上部分だけが地上で90%は地下になっていて、還元焔焼成法に適した構造になっているそうです。資料館近くには窖窯が復元されています。長さ13m、幅2m、高さ1.5mくらいで、角度が25度もあって(窯の上と下の高低差は5m以上もあることになります)、ようやく人が上れるかどうかというほど急なようです。
*酸化焔焼成と還元焔焼成:土器や土師器は、野焼きあるいは地面に小さな坑を掘って、密閉されない、空気(酸素)が十分に供給される状態で焼かれる(酸化焔焼成)。粘土中の鉄分は酸化第二鉄 Fe2O3になり、そのため土器や土師器は赤みを帯びる。これにたいして須恵器は、最初は空気が供給される状態で焼くが、その後に窯を締め切って密閉された状態で1000〜1100度くらいの高温で焼かれる(還元焔焼成)。酸素量が不十分なため火焔中に一酸化炭素や水素が発生し、それが粘土中の酸化第二鉄から酸素を奪って(還元して)酸化第一鉄 FeOに変える。色も、酸化第二鉄の赤色から酸化第二鉄の青みがかった灰色に変わる。資料館にあった須恵器片の断面を見てもらうと、真ん中の部分は赤茶色で、表面に近い両側の部分は灰色になっているとのこと、須恵器の焼成法がよく分かる。
資料館に入ると、まず高さ 1.5mほど、幅も1m以上はある大きな物がありました。一部はすべすべした石膏で補強されており、ばらばらになった焼物の断片を組合わせて復元した物のようです。これは、寺院など大きな建物の大棟(おおむね)の両端に飾りとして付けられた鴟尾(しび)だとのことです。表面には、幅10cm弱、長さ 1m近くの曲面が弧を描くようにいくつも平行に並んでいます。これは鳳凰の尾を表しているのではとのことです。また、その周辺には、直径 5cmくらいの円が一列にきれいに並んでいますが、この円にはどれも中心に孔のようなのがあって、コンパスのようなのを使って同じ大きさの円を描いたであろうことがよく分かりました。須恵器用の窯とともに、注文に応じて瓦などを焼く窯も作られていただろうということです。
須恵器の展示品は、型式ごと、時代ごとにガラスケースの中に入っていて、触れられる物はありませんでした。それらについてもMさんに少し解説はしてもらいましたが、受付で頂いた点字の「常設展示の手引」という資料に須恵器の型式の変遷や代表的な展示品についてかなり詳しく説明されていましたので、この文章の最後にその内容を掲載することにしました。
私が実際に触れられたのは、ケースの外にあった数点です。まず、直径 1.5mほど、高さ 1mほどもある大きな甕です。小さな破片を組合わせて復元したものですが、こんなに大きな器なのに厚さが 2cmくらいしかないことにはちょっと驚きました(実際に粘土で少し大き目の器を作ろうとすると、私の場合どうしても壁面が厚くなってしまいます)。こういう大きな甕は、水を入れるとその重さで割れることがあるので、土の中に埋めて置いていたとのことです。
次に、焼成中に何かの事故で窯が壊れてしまった時の残骸のようなのに触れました。いくつもの坏の実や蓋がくっついていたり、皿のかけらのようなのがぎゅっと積み重なっていたり、ちょっと凄い光景のように感じました。また、窯の壁面の一部にも触れましたが、壁にもいろいろ破片のようなのがくっついていました。
資料館には須恵器のほかにも、堺付近で見つかった江戸時代までの遺物がいろいろ展示してあります。とくに茶道に関係する資料が多いようです。私は大きな備前焼の甕と茶臼(葉茶をひいて抹茶にするための石臼)に触れました。
この資料館で一番良かったのは、須恵器と、土器や土師器をしっかりと触り比べられたことです。私はこれまでにも何度かこれらの破片に触ったことはありましたが、触ってその違いはよく分かりませんでした。Mさんにそのようなことを話すと、叩いてみれば簡単に分かるでしょうと言って、それぞれの破片を軽く叩き合わせてみました。すると、須恵器はすんだ響きのある高い音(陶磁器類を叩いた時と同じような音)がするのにたいし、土器や土師器ではくもった響きのない音しかしません。私も試みてみましたが、簡単に分かります。叩いた時の音の違いのほかにも、同じような大きさの物を持ってみると、須恵器のほうが土器や土師器よりも重いです(土器と土師器とはあまり重さは変わらない)。また、表面を触った感じも、よく注意してみると、土器や土師器ではさらさらした粉のようなのがあるのにたいし、須恵器では表面は硬くてそのようなのはありません(私がこれまで別の博物館で須恵器と土器などの破片をいっしょに触った時は、土器の表面の粉のようなのが須恵器のほうにも付いてしまって違がよく分からない状態になっていたようにも思います)。こうして触り比べてみると、土器と土師器は同じような種類であるのにたいして、須恵器はそれらとは違う種類で、陶器類と同じような種類であろうことが分かります。焼く温度が違うため、土器や土師器は多孔質で軽く、須恵器は緻密で重いということになるのでしょう。
古墳時代から平安時代初期までは、土師器と須恵器が共存していたことになりますが、日本の伝統的な土器の手法を受け継いだ土師器は日常の器として、また煮沸具として広く庶民の間で使われたのにたいして、朝鮮から伝わった新しい手法の須恵器は、初めは主に、古墳の副葬品、および寺院・宮廷の祭祀用などとして使われ、次第に一般にも普及していったようです。平安中期以降は、須恵器の技術の一部は、各地方ごとに芽生えてきた陶器(釉薬を使うようになったため須恵器より見た目はだいぶ好ましくなったでしょう)生産に受け継がれていったようにも思います。
以下、点字版の「常設展示の手引」を、だいぶ編集し、一部は加筆などして普通の文字に直して掲載します。普通文字のパンフレットとも比べてみましたが、各器の解説などはまったく点字オリジナルのようです。(点字から普通文字にするため、一部漢字の使い方が不正確な所があるかと思います。)なお、点字の資料では「大阪府立泉北資料館」のままになっていました。(現在の堺しすえむら資料館は、2010年4月に大阪府立泉北考古資料館が大阪府より移管されたものです。開館は1970年で、すでに40年以上も経過して、建物は老朽化し雨漏りなども頻発しているようです。)
◆陶邑窯跡群
大阪府南部の堺市・和泉市・大阪狭山市に広がる泉北丘陵の東西15km、南北 9kmの範囲には、須恵器と呼ばれる土器を焼いた窯跡が約1000基分布しており、古墳時代中期(5世紀)から平安時代初期(10世紀)にかけての大規模な窯業地帯であった。
この窯跡群の立地する泉北丘陵の地域一帯が『日本書紀』崇神天皇7年の条に書かれている「茅渟県陶邑」(ちぬのあがたのすえむら)に当たると考えられることから、須恵器を焼いた窯跡群を「陶邑窯跡群」と名付けられている。
須恵器は、粘土を轆轤で整形し、乾燥させ、丘陵の傾斜地に築かれた、長さ10m、幅2m、高さ1.5m前後の半地下式のトンネル状の窯を用いて1100度以上の高温で、灰色もしくは灰黒色に焼いた硬室の土器で、日本における陶器の源流となった土器である。日本列島での須恵器生産は、5世紀の前半に朝鮮半島より渡来した工人達によって始められた。陶邑は日本で最初に須恵器生産を開始し、大和政権や律令国家の中央工房として、都(藤原京、平城京)をはじめ日本各地に須恵器を供給した。また、各地域で須恵器の生産を始める時、地方に須恵器作り工人を派遣するなど、陶邑は須恵器生産の中心であった。
しかし、平安時代になると、平安京の宮廷の貴族や寺院の僧侶達は、儀式には中国から輸入した青磁・白磁や金属製の容器を使用することが多くなり、そのうえ、都(平安京)に近い現在の京都府亀岡市の篠で須恵器の生産が始まり、都に供給されるようになった。このような変化と、泉北丘陵で燃料となる樹木(薪)を十分供給することができなくなってきたこと等が重なって、陶邑での須恵器生産は衰退していった。
陶邑から出土した須恵器は、形や製作技法の差異から、 5型式 20段階に細分され、古墳時代中期(5世紀)から平安時代初期(10世紀)の遺跡・遺物の年代を決定する物差し(時間の目盛り)として、広く活用されている。
[20段階の区分については、点字の資料では具体的にまったく記載されていなかったので、
「須恵器」より、各型式ごとの段階を引用した。]
◆T型式 (5世紀前半〜6世紀初頭)
5世紀前半に朝鮮半島から陶質土器を作る技術を持った人々が日本に渡来し、泉北丘陵に窯を築き(陶邑)、須恵器の生産を開始した。初期の須恵器は朝鮮半島東南部の新羅・百済・伽耶(かや)地域の陶質土器と形や製作技法がよく似ており、各窯ごとにそれぞれ個性の強い須恵器を製作していた。この一群には樽型はそう、耳坏、筒形器台等、これ以後作られない器種がある。
T型式の中頃以降は、須恵器工人たちが統一・組織化されて行き、窯ごとによる製品の差異が少なくなり、須恵器の形が定型化され、日本の生活習慣に適合した形の製品が生産されるようになった。この時期の製品は、作りが丁寧で優秀な製品が多く見られる。
●主な展示品
壺、甕、樽型はそう、耳坏、筒形器台、蓋坏、高坏、はそう、甑、把手付き椀、器台
*壺と甕の違:壺と甕はその形の違い(主にすぼまり方の違い)によってふつう区別されていますが、解説してくれたMさんによれば、使われ方によって区別したほうがすっきりするようです。壺は1人で持ち運んで使うのにたいして、甕は持ち運んだりせずに固定した場所に置いて使うものです。とくに大型の甕は、水などを入れるとその重さで破損しやすいので、土中に埋めて使うということです。
*樽形はそう(瓦に泉)(たるがたはそう):高さ18cm、横幅20cm前後の横置きにした樽形の体部中央に口径約8cmラッパ口状の口を付けた壺の一種。体部中央に直径1cmほどの孔があり、竹管を差込み、液体を注ぐのに用いた。
*耳坏(じはい):長径26cm、短径21cmの楕円形の浅い皿型の容器。左右に耳の形の把手がつくので、耳坏と呼ばれる。底部に約4cmの短い脚が4箇所に付く。
*筒形器台:直径10cm、高さ20cmの細長い円筒の脚部が付く器台の一種。小型の壺等を乗せるのに用いた。
*蓋坏(ふたつき、がいはい):飲食物を盛るのに用いた椀形の器で、かぶせ蓋とセットで作られる。坏は口径12cm、高さ5cm前後で、時期が新しくなると浅くなる。須恵器の中でもっとも生産量が多い。
*高坏(たかつき):坏に脚をつけた物。蓋が付く物(有蓋高坏)と付かない物(無蓋高坏)がある。
*はそう:体部に直径 1cmほどの小さな孔を開けた壺。孔に細い竹管を差込み、液体を注ぐのに使用した。
*甑(こしき):食物を蒸すために用いる炊飯具。口径 30cm前後、底部径 15cm前後、高さ 30cm前後の底部が狭まった円筒形の体部で、側面に角型の把手が 2箇所付く。底部には、蒸気を通す円形や半円形の孔を数個あけている。そこに布または網状の用具を敷いて使用した。後の蒸篭に当たる。
*把手付き椀:直径 9〜15cm、高さ 10cm前後の現在のコーヒーカップに似た器。
*器台:壺等底の丸い容器を乗せる台。口径 40cm、深さ 18cm前後の鉢形の坏部に、底径 27cm、高さ 20cm前後の円筒台形の脚部が付く。
●段階区分
第1段階:定まった形が無く、各地域性が現れ出ているままである。
2段階:蓋坏では形が定まりつつある。これは陶邑内でのまとまりを示していると思われる。
3段階:完全に統一形状で生産されるようになる。蓋坏が主流である。
4段階:土師器的要素がほとんど無くなる。又、この頃になると地方窯が誕生し始める。
5段階:徐々に器形が簡略化・小型化・粗悪化してくる。
U型式 (6世紀前半〜7世紀初頭)
須恵器の需要が高まり、量産化がはかられるが、それに伴って製作過程が省略され、作りがT型式より雑になる。
U型式後半には、各地で古墳が数多く築造され、死後の世界での生活に使用する容器としての多量の須恵器が副葬品(冥器)として古墳に死者とともに副葬された。そしてまた、須恵器を使用することのできる階層が増えたことと相俟って、須恵器の需要が増加した。それにともない陶邑では、窯がたくさん築かれ、須恵器生産はピークに向かう。
■主な展示品
蓋坏、有蓋高坏、無蓋高坏、はそう、把手付き壺、台付き長頸壺(ながくびつぼ)、甕、提瓶、蛸壺、捏鉢
*提瓶(ていへい):壺を両側から押しつぶして扁平にしたような形で、高さは15〜20cmほど。平たい円形の体部の一側に小さな口を付け、ふつう肩部に2個の環状の吊り手(耳)が付く。この吊り手に紐をつけて携帯用の水筒として使われたと考えられる。(「さげべ」ともいう。)
*蛸壺:イイダコを捕る漁具。口径 6cm、高さ 10cm前後のコップ形の土器で、底部に環状の下げ手を付けている。
*捏鉢(こねばち):直径約 9cm、高さ 3cm程度の円盤を底部として、口径・高さともに 15cm前後の体部を有する鉢。底部の裏には卸し金状の滑り止めが施されている。
●段階区分
第1段階:粗悪化の一途の一方、少し大型化する。
2段階:蓋坏の口径が最大化する。他は1段階と特に大差ない。
3段階:この時期、群集墳の増加により須恵器の需要が広がり、それに伴い蓋の稜やたちあがりが退化していく。
4段階:須恵器大量生産に迫られ、作りが雑になる。蓋坏の口径が小型化。稜は消滅。ヘラ削りが雑になる。
5段階:蓋坏のあらゆる面が省略された最高の段階と言える。
6段階:器形の矮小化が著しく進む。たちあがりの認められる最後期。
◆V型式 (7世紀前半〜7世紀後半)
古墳に死者とともに副葬するために生産されていた須恵器が減少して、それに代わって盤・皿・平瓶等や寺院等の儀式で使用される須恵器が出現し、須恵器の形に大きな変化があった。蓋坏では、蓋の中央に宝珠の形をしたつまみが付くようになる。
V型式の須恵器は、大量生産による省力化のため、全体として作りがさらに粗雑になっていく。
●主な展示品
蓋坏、無蓋高坏、盤、平瓶、捏鉢
*盤(ばん):食物を盛る平たい 30cm前後の皿。 2cm程度の低い台の付く物もある。
*平瓶(へいへい):体部が扁平な球形で、その上面に中心を外して短い口を付けている。上面に片手で持ち運びができるような把手が付く物もある。酒等を入れた。小型の物は水滴として用いられた。
●段階区分
第1段階:須恵器生産の転換期。高台など新器種が出現する。又、蓋と身(坏)が逆転して使用され始める。
2段階:新・旧の両要素がバランスよく組み合わさる時期。
3段階:蓋内面の反りが短くなる。器種が多種多様になっている。
◆W型式 (7世紀末〜8世紀末)
陶邑は、当時の最大の消費地である平城京に近いという立地条件により、大量に須恵器が生産され、また、いろいろな形の須恵器が生産されていた。新たに水瓶・鉄鉢形土器等仏具や、金属製の壺や金椀(かなまり)(銀製・銅製等の金属製の椀形容器)を真似て丁寧に作られた須恵器や、円面硯等、特殊な製品も生産されるようになった。
●主な展示品
蓋坏、盤、広口壺、水瓶、鉄鉢型土器、円面硯
*水瓶(すいびょう):低い台が付いた、直径 15cm程度のほぼ球形の体部に、長さ 10cm、口径 3cm前後の細長い口を付けた水を入れる壺。(水瓶は、仏教で、比丘の必需品、大乗僧が持つ十八物の一つ。)
*鉄鉢形土器:僧侶が托鉢の時に用いる鉄の鉢を真似た、口径 20cm前後、高さ 15cm前後の尖り底の鉢形土器。
*円面硯(えんめんけん):直径約 20cmの円形の硯。真中に円形に陸の部分(ここで墨をする)があり、その周囲に墨をためる環状の海の部分がある。
●段階区分
第1段階:蓋内面の反りが消滅。この形式は陶邑最後の繁栄期に当たる。
2段階:1段階と大差はないが、器種が増加する。
3段階:丁寧な作りの蓋坏がある一方、従来の粗雑な蓋坏もある。
4段階:器種の急減少(陶邑の実質的衰退)。
◆X型式 (9世紀初頭〜10世紀)
この時期になると、陶邑では、轆轤を回転させながら、糸で製品を轆轤から切り離す新しい技術(糸切り技法)が導入され、椀・皿・瓶子等小型の須恵器が生産されるようになった。
●主な展示品
坏、壺、瓶子、蛸壺、花瓶
*瓶子(へいし・へいじ):酒等を入れて注ぐのに用いる細長く口の狭い、高さ 10cm前後の徳利形の壺。
*花瓶(けびょう):脚付きの壺形土器で、体部は球形に近く口部と脚部とほぼ同形でラッパ口状で、高さ 25cm前後ある。仏前に花を供える仏具。
●段階区分
第1段階:糸切り底の出現。器種減少・窯跡減少。廃絶直前と言える。
2段階:須恵器というより中世陶器の特徴を有する。陶邑の最後。
◆特殊な製品
陶邑窯では、器としての須恵器だけを生産していたのではなく、寺院と関係の深い瓦・瓦塔・磚・土鈴や陶棺・糸を紡ぐ紡錘車等も生産していた。瓦には、寺院に瓦を寄進した人の名前が箆で書かれている物もあり、陶邑周辺に住んでいた古代人の名前の分かる貴重な資料である。
●主な展示品
文字箆書き瓦、文字箆書き壺、文字箆書き陶棺、土鈴、磚、紡錘車、ミニチュア土器、獣脚円面硯、瓦塔の水煙
*瓦塔(がとう):陶磁器で作った五重塔、または、三重塔のミニチュア。
*磚:寺院の床に敷いたり、古墳の遺骸を納める部屋の壁として積んだり床に敷いて用いた。現在のタイルや煉瓦に当たる。
*陶棺(とうかん):土器で作った棺。寄棟造りの屋根形の蓋が付く。
*紡錘車:糸に縒りをかける道具の一部分。円錐形の頭部を切った形やそろばん玉形の物が多く、中央に貫通孔があり、直径 3〜5cm程度である。
*獣脚円面硯(じゅうきゃくえんめんけん):獣の足を表現した脚部を付けた円形の硯。
*瓦塔の水煙:(すいえん):瓦塔の先端を飾る火焔型の装飾。高さ約 60cm、幅約 28cm。
(2011年6月18日)