12月24日、新幹線と高速バスを使って松山まで日帰り旅行しました。行きと帰りにそれぞれ6時間余を使い、現地にいたのは3時間くらいの、なかなかハードな旅でした。
主な目的は、ミウラート・ビレッジ(三浦美術館)の見学でした。そこには凹凸のある陶板画があるということで、それに一度触ってみたいと前から思っていたのです。見学が予定より早く終わったので、飛び込みで松山市考古館にも寄ってみました。急な訪問にもかかわらず、学芸員の方の解説で思いもかけないような物にまで触れることができ、とても満足しました。
◆ミウラート・ビレッジ
この美術館は、三浦工業の創業者三浦保(1928〜1996年)が、国内外から収集した美術品や、晩年に自ら創作したミウラートと呼ばれる陶板画などを展示する美術館です。三浦保氏は、事業ばかりでなく多方面に関心を持っていたようで、美術品の収集だけでなく、長年茶陶をはじめとする陶芸をし、また書をしたり能を舞うなどもしていたということです。この美術館も生前に企画していましたが、その完成(1998年)を見ることなく亡くなったということです。
松山駅からJRで堀江(無人駅)に行き、タクシーを利用して行きました。運転手に入口らしき方向を教えてもらったのですが、なかなか玄関が分からず、あちこち歩き回っていたら、館員が声をかけてくれてようやく入館できました。館内では今は陶板画の展示はなく、早速学芸員の方と庭園に出て陶板画などに触れて回りました。
まず初めに触ったのが「赤と黒」という作品。幅70cmほど、高さ180cmほどの陶板が10枚連なって並んでいます。触ると次々にいろんな手触り、いろんな形の浮出しが飛び込んできます。形の輪郭もしっかりたどることはできるのですが、なにしろ抽象作品なのでうまく説明できませんし、また頭の中にイメージがほとんど固定できません。釉薬の部分は盛り上がっていてつるつるしていますが、色によってそのつるつるの具合が少し異なるようです(赤がとてもつるつるしていました)。また、ぽこぽこと多数つるつるした丸が飛び出していて、これはガラスを付着させたものだとのことです。全体は赤と黒を基調としているようですが、ガラス部分は青系統のようです。
次に「都会のリズム」。これも上と同じ大きさの陶板が8枚?連なった作品です。「赤と黒」では、釉薬の盛り上がりは平面的に広がっていましたが、この作品ではつるつるの線が縦・横・斜めなどいろいろな方向に伸びています。地の、ちょっとざらざらした感じの部分が、この作品のほうが広かったように思います。
次に触ったのが、キューバの現代芸術作家ネルソン・ドミンゲス(1947年〜)の「生命の光」。三浦保の晩年にお互いに影響を及ぼし合って、ドミンゲスが陶芸に挑戦し、陶板画も制作したようです。これも、同じ大きさの陶板が4枚連なっています。この作品では、一部形が触って分かる所もありました。女性が手を伸ばしている様子で、指先がよく分かりましたし、説明してもらうと肩や顔の部分も分かりました。
次が、洋画家の野見山暁治がミウラート・ビレッジで制作したという陶板画「気軽な訪問者」。筆遣いを感じさせるような、釉薬が流れ滴ったような何本もの線が印象に残っています。
三浦保の初期の陶板画として、「四角の構成」がありました。これは 1辺が60cmくらいの、これまでの陶板画よりずっと小さい作品群です。陶板の上に、不等辺四角形の粘土板がいくつか部分的に重なって載っているような構成です。粘土板の厚さは1cm以上もあり、かなり出っ張っている感じです。手触りは全体にザラザラした感じで、所々つるうっとした盛り上がりがあります。
庭園にはいくつか彫刻作品もありました。速水史朗作の「ながれのかたち」は、幅60cm前後、厚さ10cmほどの黒花崗岩のつるつるした石がずうっと連なった作品です。小さな滑り台がいくつも連なったようになっていて、とくに、高くなった部分の下のトンネルのようになった空間が面白く感じました。「空のかけら」という作品は、不等辺・不等面の八面体の石の作品群です。つるつるした面とざらざらした面があり、同じ形なのですが、どの面を下にして置くかによって、上から見える形も触る手触りも変るようになっています。
庭園はもちろん外ですし、とくにこの日は風が強く時々小雨混じりになったりして、とても寒い日でした。体は冷え切ってしまいましたが、陶板はよく触ってみると意外と暖かかったです。時々射す陽の光を吸収しているからでしょうか、陶板で冷たい手を暖めてみたりしました。
寒さに絶えかねるようにして館内に入り、現在開催中の展覧会についてもざっと説明してもらいました。館内には四つの展示室が続いて設けられていて、奥に行くにしたがって天井が高くなっているそうです(一番奥の部屋では声の響き方からもそう感じられました)。さらに、奥の部屋の外側の壁は外側に向って斜めに傾いているとのこと、三浦保の好みだった「不等辺四角形」のコンセプトが美術館の概観にも生かされているということです。
北海道の自然を幻想的にやわらかく日本画で描いた関口雄揮の作品、ローマングラス、愛媛県出身の画家の古茂田公雄・守介兄弟の作品、木村忠太、ポール・アイズピリ、アンディ・ウォーホルなどの作品が展示されているとのことです。私はガラス作品が好きなのでローマングラスについあこがれてしまって、そのようなことを話すと、ローマングラスは「銀化」していて触るのはちょっと難しいでしょうということでした。「銀化」というのは、ガラス製品が長く地中に埋もれていると起こる現象だとのことです。ガラスの成分と周りの土の金属分が化学変化を起こしてガラスの表面に薄い皮膜ができるようになり、それが長期間になると多層の膜になって、それに光が当たるといろいろな色にきらめくようです(この現象には湿度や気温なども関係するようで、人工的には再現できていないとのことです)。普通は銀色に輝くので「銀化」と呼ばれますが、「金化」もあるとのことです。こんな説明を聞くと私はますます触ってみたくなります。
私がミウラート・ビレッジを訪れたのは、陶板画で「さわる絵」が可能なのかもしれないと思ってでした。手触りも凹凸も色も変えることができるからです。ミウラート・ビレッジで展示されている陶板画はいずれも現代作家の抽象作品で、私が思っているような「さわる絵」ではありませんでしたが、原理的にはこの方法で「触る絵」は製作できそうだということは分かりました。
◆松山市考古館
予定よりもだいぶ早くミウラート・ビレッジの見学を終えたので、土器などをさわるコーナーがある松山市考古館に行ってみることにしました。料金がちょっと心配だったのですが、タクシーをお願いしました。タクシーの運転手は松山市考古館は知らないようで、会社に電話して位置を確認して向かったのですが、考古館の看板は見つけられても入路が分からず、フェンスの回りをぐるぐる回っているようです。結局タクシーを降りて、運転手の案内で公園のような所をぐるうっと200メートルくらい早足で歩いてようやく玄関にたどり着きました(もちろん玄関まで車で入る道はあったのですが)。
受付で、土器など触ったりできる展示コーナーがあると思うのでそこまで案内してほしい旨伝えたのですが、そういう展示コーナーがあることはよく分かっていないようで、係に電話してようやく常設展示の1コーナーまで案内してもらいました。そして間もなく学芸員の方が来られて、それからはその方の案内と解説で大いに楽しむことができました。事前にまったく連絡せずに見えない人が1人で博物館や美術館に行くと、受付ではどう対応してよいのか分からず戸惑ってしまうことが多いと思います。今回は私が事前に松山市考古館には触れられる展示品があることを知っており、また運よく学芸員の方に解説してもらえたので、本当にうまくゆきました。
●土器と瓦
まず最初に、煮炊きに使ったという、実物の縄文土器と弥生土器に触りました。縄文土器は高さ30cmくらい、上のほうが広がっていて直径30cm近くあり、粘土の縒り紐のようなのが表面に付けられ、また表面にもいろいろ文様があります(点字の表示があり、東京都世田谷区大蔵遺跡と書いてありました。寄贈された物だとのことです)。これにたいして弥生土器のほうは、高さは30cm近くありますが、直径10cmほどの細長い円筒形で、表面にはほとんど文様のようなのは触ってはっきりとは分かりません。
次に、直径1m近く、高さ60〜70cmほどもある、大きな甕のようなのが2つありました。土器のたくさんの破片をつなげていて、失われた箇所は石膏のようなつるうっとした面になっています。実物とそうでない部分の違いが触ってよく分かります。何に使われたのかははっきりとは分からないようでした(後で松山市考古館のホームページをみてみると、「亡くなった人を納めるための土器」らしいです)。
屋根瓦がいくつかあって、比較できるようになっていました。奈良時代ころに松山にあった来住廃寺(きしはいじ)の軒平瓦(30cm四方くらいの大きさで厚さが5cmくらいあり、持ってみようとするととても重そうだった)、松山城の軒丸瓦(前面の円い部分は直径10cm余で、渦巻きが二つ組み合わさったような文様)、そして、愛媛県で有名な菊間瓦(前面には5弁の花がくっきりと浮出ている)がありました。手触りも違っていて、来住廃寺の平瓦がさらあとした感じ(素焼きに近いためらしい)なのにたいし、松山城の丸瓦や菊間瓦は硬くすべすべした感じでした。
●石と鉄の道具の比較
弥生時代から古墳時代にかけての石製と鉄製の道具がありました。
まず、石斧と鉄斧に触りました。斧の先は実物だとのことです。それを取り付ける木の柄は推定復元だということですが、なんかそれらしい手触りでした。直径20cmの丸太を伐るのに、石斧だと30分、鉄斧だと5分だとのこと、やはり鉄器が圧倒するのは当然のようです。
鉄器としては他に、小刀(錆びた状態で復元されていた)や、木の板を削って平らにする原始的な鉋のようなもの(私はちょうなだと思いました)などにも触りました。
●復元された石室と子持ち壺
葉佐池古墳2号石室が復元されていました。この石室は未盗掘で、写真を元に復元したとのことです。横が開いていて、中に入ってみるとかなり広いです。全長5m余、幅も高さも2m余あるとのことです。周りは、入口部分もふくめ、いろいろな大きさの石が積み重なっています(石と石の間には小さな石もはめられている)。
副葬品として須恵器や馬具やトンボ玉などが見つかったそうで、その一つとして「子持ち壺」が石室の中に置かれていました。高さ30cmくらい、直径15cm弱ほどの、全体につるうっとした感じの壺で、肩の部分に高さ3、4cmの小さな壺が2、3個付けられ、さらに、小さな壺の跡のようなのも触って確認できます。この跡は、わざと小さな壺を割り取ったものだとのことです。
類似の物は他にもあって、エントランスの土器パズルのコーナーには、直径30cmくらいのお皿の上に、中央に1個、その回りに6個、直径10cm弱の浅い椀のようなのが乗った物がありました。また、肩の部分の小さな二つの壺の間に、なにかの動物が配されている物もありました。これらの子持ち壺は、どんな時に何のために使われたのか、気になるところです。
●埴輪
市内の古墳から発見された古墳時代中期から後期の埴輪が展示されていて、私は、普通円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、人物埴輪(形象埴輪の一つ)に触りました。
円筒埴輪は、直径30cm余、高さ60〜70cmくらいの円筒形で、側面にいくつも穴が空いています。その穴はよく触ると、反対側にも対応するように空いていて、棒のようなのをこの穴に通して運んだりするのに使ったのかも知れないということです。朝顔形円筒埴輪は、円筒の上の部分が広がっている形です。
私が触った人物埴輪は、顔の部分は復元で、上の髪の部分が実物だということでした。顔は口・鼻・目がそれぞれ穴になっています。髪は、中央で前後に大きく分け、前の髪も後ろの髪もそれぞれ下側に折りたたんでいるようになっています。女性、とくに巫女の髪形だろうということでした。
●鈴杯
とても魅力的なかわいい杯です。 3つの部分からなっています。上は高さ10cmほどのグラス型。中央は直径5cmくらいの球形で、その球面には数箇所細長い三角形の穴が空いており、中には 2個小さな陶片が入っていて、杯を傾けるとコロコロと良い音色がします。下は高さ3、4cmくらいの台です。古墳時代の物だとのことですが、この杯を使ってどんな場で何を飲んだのでしょうか。
●箱式石棺
松山市北斎院町弁天山古墳出土の箱式石棺を、移築復元したものだとのことです。
厚さ10cm余の緑色片岩の石板を組み合わせて作られていて、天井の石板は幅 1m余、長さ 3m近くありそうです。触ってみると、所々平行な層のようになっているのが分かって、たしかに石板に加工しやすそうです。
この緑色片岩は、一般には「伊予の青石」と呼ばれているもので、中央構造線以南にしか分布していない岩石だということです。松山平野にはこのような箱式石棺が点在していて、松山平野の南を流れる砥部川の流域から数百キロから1トンもあるような緑色片岩の石材があちこちに運搬されたらしいです。
●絵画銅鐸
高さ30cmほど(鈕の部分を含めると40cm近く)、直径は20cm弱で、左右に比べて前後の径が短いやや扁平な形です。中に舌が下がっていて、それに付いた紐を動かすと舌が銅鐸の内側に当たって「カン、カン」というような音がします。いわゆる「鳴らす銅鐸」として展示してあるようですが、私がこの銅鐸で驚いたのは、その音ではなく、表面に描かれたいろいろな絵画です。
大阪に帰ってからこの銅鐸の出土地などについて考古館に問い合わせてみたところ、兵庫県神戸市神岡(かみか)5号銅鐸を参考に復元したものだとのことです。調べてみると、神岡5号銅鐸は、神戸市灘区桜ヶ丘町出土の14口の銅鐸の一つで、4号銅鐸とともに絵画銅鐸として有名なもののようです。
銅鐸の表面に浮き出した文様は、横帯と縦帯によって4区分されたいわゆる「四区袈裟襷文」と呼ばれるものです。各区の大きさは、横10cmほど、縦7cmくらいです。そして、その各区(前後を合わせると計8区)のいずれにも、触ってとても分かりやすい線で絵が描かれていました。私の記憶と、考古館から送られてきた画像データ(その中には簡単な解説文もある)を知り合いに見てもらって説明してもらったことに基づいて、以下にその絵について書いてみます。(各区の位置の左右は銅鐸に向かってのものです。また、A面は手前側、B面は向こう側の面です。なお、○頭は男性、△頭は女性を表しているそうです。)
A面
左上:左上にカエル、その右足から続いてヘビ?(うねうねとした線)が描かれている。カエルの下に円が描かれている。ヘビの下には△頭の人物が棒を持って立っている。
左下:3人の人物(中央に○頭、その両側に△頭)。真中の人物が右手に棒を持っている。中央の男性が、両側の女性を取り成しているようにも見えるそうだが、私にはよく分からない。
右上:カエル、なにかの虫(資料ではクモ)、カマキリ。
右下:○頭の人物が、左手に弓を持ち、右手を伸ばして鹿(枝分かれした角がある)の頭を押えている(狩猟の絵)。
B面
左上:中央に○頭の人物。膝を曲げ、左手にI字形の道具を持つ。人物の右下に魚が3匹描かれている(漁猟を表しているかもしれない)。
左下:首もくちばしも長い水鳥(資料ではサギ)が魚をくわえている。その右側にカメのような物(資料ではスッポン)が描かれている。
右上:左側に大きなトンボ、その右下に小さなトンボ、右側にトカゲらしい物(資料ではイモリ)が描かれている。
右下:中央下に臼、その上に棒のような杵、その両側に△頭の人物が描かれており、 2人の人物は杵に手を当てている(脱穀の様子)。
〔補足:2012年1月6日追記〕
年が明けて、1月5日に神戸市立博物館に行って、4号銅鐸に描かれている絵に触ってみました。ただし、銅鐸そのものの表面に描かれたものではなく、子供たちが銅鐸の絵の拓本を採ってみるための原型の板に浮出しで描かれている絵です。1枚の金属製の板の上部に4号銅鐸のA面とB面、下部に5号銅鐸のA面とB面、計16個の絵が描かれていました。以下に4号銅鐸の絵について書いてみます。印象としては、絵の構成要素は4号・5号に共通のものが多いですが、4号銅鐸のほうが単純で、物語的な内容に乏しいように思いました。また、5号銅鐸では人物が5人(男1人、女4人)描かれているのに、4号銅鐸では2人(ともに男)しか描かれていませんでした。5号銅鐸のほうが生活のようなのを感じさせます。
4号銅鐸
A面
左上:上に動物(イノシシだとのこと。口が地面につくほど頭を下に向けている)が3匹並び、その下中央になにかの虫のようなもの(クモだとのこと。足が4本しかないが、クモは相手を攻撃するときは2本の足を合わせて1本のようにしているとか)。
右上:首が長くクチバシも長い水鳥(サギだとのこと。コウノトリとする説もあり)が魚をくわえており、その下にさらに魚が2匹連ねて描かれている(魚は計3匹)。
左下:○頭の人物が右手にI字形の道具を持ち、膝を大きく曲げている。
右下:○頭の人物が左手に弓を持ち、右てを伸ばして鹿(角がない)の頭を押えている。
B面
左上:中央に大きなトンボ(あまりに直線的で、トンボらしく感じない)。
右上:左側になにかはっきり分からないもの(カマキリだとのこと)、右上にA面左上にあるのと同じクモ。
左下:同じ大きさのトカゲらしきもの(イモリだとのこと)が2匹。
右下:スッポン(背中の模様がとても細かく描かれている)。
(補足終わり)
これらの絵は何を表しているのでしょうか。もちろんこれらの絵から当時の人々の生活の様子を垣間見ることはできそうです。しかしそれよりも、当時の人々にとってこれらの絵が何を意味していたのか知りたいところです。
また、これらの絵は、例えば○頭が男性、△頭が女性、逆三角形が体を表すなど、かなり記号化されているようです。トンボイモリ、、スッポン、クモ、カマキリなども、記号としてそれぞれに対応した特別の意味を持っているようにも思います。また、各区の 8つの絵をうまくつなぎ合わせると、 1つの物語になっていたのかも知れません。この銅鐸の絵は、ぜひもう一度訪問して、しっかり確認し考えてみたいです。
●その他
このほかにも、いずれも復元品で、小鹿の毛皮を2枚つなげて作った縄文時代?の服、脱穀に使った弥生時代の臼と杵、古墳時代の鎧、水筒のように使われた提瓶(壺を両側から押してつぶしたような形で、前後に紐を引っ掛けるような突起もある)などに触りました。帰りの時間が気になってゆっくり触ることはできませんでした。
まだまだ触ることのできる資料はあるようですし、機会があればぜひもう一度ゆっくり見学してみたいです。
今回の松山訪問の主目的は陶板画だったのですが、それよりも飛び込みで訪れた松山市考古館で触った絵画銅鐸が、触ってもよく分かるし、また銅鐸の不思議をさらに感じさせてくれて、とても印象深いものとなりました。遠くまで出かけるのはたいへんですが、実際に体験し発見することの大切さを実感した旅になりました。
(2011年12月31日、2012年1月6日追加)