10月8日、民博のMMPの方々数人と、高槻市にある今城塚古墳公園と今城塚古代歴史館を見学しました。
JR摂津富田駅で待ち合せ、そこからタクシーで今城塚古代歴史館へ。開館の10時少し前に着き、しばらく待ってから入館(入館量は無料でした!)。連絡がうまく伝わっていなかったようで、案内をしてもらえるか心配しましたが、民博のボランティアグループで見えない人たちの案内もしていると話すと、学芸員が快く案内してくれました。とても丁寧な案内と解説で、古墳公園もふくめ、2時間半以上もかけて案内してくださいました。
話はまず、今城塚古墳についての説明からはじまりました。(以下の文章は、
高槻市のインターネット歴史館 なども参考にして書きました。)
10年以上にわたるこれまでの調査で、今城塚古墳は 6世紀前半の大王墓で、531年に亡くなったとされる第26代継体天皇の御陵の可能性がとても高いということが明らかになりました。もしそうだとすれば、天皇陵であるにもかかわらず詳しい調査が行われ、また一般の人たちが古墳の区域内に入ることができるのは、全国でもここだけということになります。
次に、歴史館内の展示を順に説明してもらいました。
2万年前の旧石器時代のキャンプ地(獲物を解体して調理し、次の狩りのために石器をつくり、道具の手入れをした所)の跡らしき所から見つかった様々な石器、4000年前の縄文の村の遺物、弥生時代の安満(あま)遺跡や古曽部(こそべ)・芝谷遺跡などから見つかった品々などが展示されていました。弥生時代の遺物としては、石包丁、石に穴を空けてたぶんそこに稲穂を通して籾だけを取る道具、漆塗りの櫛やかんざし、勾玉などの装身具、さらに鉄製の農具なども展示されているようです。弥生後期の遺跡では、鉄製の武器のようなのもあって、激しい戦いが行われていたことを思わせる展示もあるようです。
古墳が作られるようになったのは3世紀半ばになってからで、3世紀後半に築造されたと考えられる安満宮山古墳(1辺が20mほどの方墳)の出土品が展示されていました。その中には、中国・魏の年号「青龍三年」(235年)の銘のある銅鏡、卑弥呼が239年に魏から贈られた百枚の銅鏡の1つと思われる三角縁神獣鏡など、銅鏡5枚のほか、多数のガラス小玉や鉄刀・鉄斧などがあるとのことです。この古墳に葬られた人物が、当時の邪馬台国政権につながる有力者だろうことを示唆する展示です。
次に、ようやく今城塚古墳の展示です。多くの展示物がありましたが、私が直接触れてみることができたのは、盛土に雨水が浸み込まないようにするための排水溝と、大きな三つの石棺くらいでした。
排水溝はとても立派なものでした。まず、大きさ20cm前後のいろいろな形の石を並べて作られた、傾斜が30度以上はあるかなり急な石の面があります。これは墳丘(たぶん後円墳)の側面で、盛土が葺石で完全に覆われている状態を再現したものです。そしてこの石の面の下のほうに、20cm四方くらいの四角い穴があり、それは緩やかな角度(たぶん十数度)で上に伸びています。内部は、側面も上の面も、表面が平らな20〜30cmくらいの石が並べられていて、とてもきれいな四角のトンネル状になっているようです。
石棺は、墳丘や周濠から石棺に使われたと考えられる3種類の石が見つかっているので、それぞれの石材を使って復元したというものです。ほぼ同じ大きさ・形の石棺が3基ありました。長さ3mくらい、幅1.5m弱くらいの、屋根のある家のような形のものです。石材はいずれも凝灰岩で、兵庫県西部の竜山石(流紋岩質凝灰岩)、熊本県阿蘇地方のきれいなピンク色の馬門石(溶結凝灰岩)、奈良県境の二上山の白石です。触った感じは、竜山石が一番ざらざらして粒も大きそうで、ピンクの馬門石は手触りがやわらかくなり、さらに二上山白石はかなり滑かで粒子も細かくなっているようです(白石の石棺の内部は朱に彩色されているようです)。とくに、阿蘇地方の馬門石は、美しいピンク色だということもあるのでしょう、瀬戸内海を通って近畿地方にまで運ばれて王族級の古墳に使われているそうです。また、同じ凝灰岩と言っても、産地・種類によってこんなにも違うことを触って実感できたのも、私にとっては良かったです。
その他、発掘調査で見つかった多くの埴輪の復元品(埴輪の破片を組み合わせて復元したもの)が展示されていましたが、これらにはほとんど触れることはできませんでした。円筒埴輪の中には、側面に船の絵が描かれたものがあり、それがいくつも並んでいて、継体天皇の勢力下にあっただろう淀川水系の船団を彷彿させるようだ、とのことです。船の描かれた円筒埴輪もふくめ、その後で案内してもらった古墳公園で、いろいろなタイプの埴輪のレプリカに触ることができました。
最後に、7世紀後半(古墳時代終末期)の阿武山(あぶやま)古墳の展示の説明がありました。この古墳は、昭和9年京都大学の地震観測施設建設のさいに偶然発見されたそうです。墓室は荒らされておらず、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺の中から、60歳くらいの男性の人骨が発見されました。側からは、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕や金糸で刺繍した冠帽が見つかっていて、それも展示されていてとてもきれいだと言っていました。これらの副葬品、および、当時撮影されたX線写真の分析から被葬者が背骨と肋骨を骨折していることが分かり、それが文献にある藤原鎌足が落馬したという記録と符合することから、藤原鎌足の墓の可能性が高いということです。
このようにして2時間近く詳しく歴史館の展示の説明をしてもらった後、さらに古墳公園を一緒に散策しながら解説してもらいました。公園では古墳の一部を実際に上り下りしながら歩いて古墳の大きさを体感し、また埴輪祭祀場では多数の埴輪にも触れることができ、とても良かったです。
まず、今城塚古墳の全体の形や大きさについて、実際に触ったいくつかの模型や公園内を歩いた時の印象もふくめて、書いてみます。
堤や濠もふくめた古墳全体の大きさは、幅(南北方向)340m、長さ(東西方向)350mもあるそうです。西向きで、全体の形は前に長方形がありその後ろに半円のような弧が続いた形です。外側から、外堤、外濠(空濠)、内堤、内濠(水濠。今は前のほうだけが水濠で、その他は芝生になっている)、そして墳丘本体です。それぞれの部分はかなり広くて、例えば内堤は幅20mくらい、高さ2〜3mくらいあるようでしたし、内濠も幅20m近くあるようです。墳丘本体は、前の幅が150mくらい、全体の長さは200m近くで、後円墳の直径は100m近くだそうです。前方墳は2段になっていて、高さは10m余だと思います。後円墳は3段になっていましたが、今は3段目が方ぼ崩れてしまって2段だけになっていて、その高さは10m少しといった感じでした(3段目も入れたもともとの高さはたぶん20mはなかったと思います)。古墳に向って左側(北側)の内堤の真ん中あたりに、外濠に向かって突き出した細長いステージのような部分(長さ65m、幅6mだそうです)があります。ここには200個もの埴輪のレプリカがそれぞれ発掘された場所に置かれていて、かつての埴輪祭の場所、埴輪祭祀場だったとのことです。また、前方墳の後ろの、細くなって後円墳に接する辺りの両側(南北)に、内濠側に四角く突き出した部分があります。これは造出(つくりだし)と呼ばれるもので、伝統的な大王墓にはよく見られるもので、儀式が行われた場所だとのことです(造出は実際には地滑り土の下になっていて、南側の造出は発掘で確認されたそうです)。
さらに、内堤上の外側(外濠に面する)と内側(内濠に面する)に、直径40cm前後、高さ1m弱の円筒埴輪が、10cm間隔もないくらい互いに接するほど密にずらあっと並んでいます(この内堤上の両側を円筒埴輪にはさまれた幅20mもある道は、想像してみると極めて特別の道のような気がする)。円筒埴輪はこのほかにも、前方墳と後円墳の各段の回りにもそれぞれ並べられており、その数約6000個にもなるということです。信じられないような数(埴輪の重さを1個平均20kgとすると約120トンにもなります)ですが、それぞれの埴輪列を計算して足してみると、確かにそのくらいにはなります。これらの埴輪列は、俗界と聖域を分け、また古墳内の各区をしっかり区切っていたのでしょう。これら6000個もの埴輪は、ここから1km余離れた新池遺跡の埴輪工房で製作され運ばれたものだとのことです。この埴輪工房は5世紀中半から6世紀中半にかけて操業され、今城塚古墳だけではなく、太田茶臼山古墳(5世紀中頃に作られ、今城塚古墳よりもやや大きくて形も整い、継体天皇陵として公式に宮内庁が指定している)には約7000個もの埴輪を提供しているそうです。もう10年ほど前になりますが、私はこの埴輪工房跡に行ってみたことがあります(
触覚の記憶)。
この今城塚古墳は、古墳を造る時にほぼ平坦な地を選び、そこに生えている樹木などを伐採、野焼きしてから、人海戦術で盛土して造ったそうです。墳丘本体の面積を約2万平方メートル、平均の高さを約10mとすれば、盛土の体積は約20万立方メートルになります。内濠からは土運び用に使ったと思われる40cm角くらいの篭や土をすくったりするのに使う道具?などが出土していて、また、墳丘には人力で積まれたと思われる幅0.3メートルほどの土層がウロコ状に認められているそうです。もし30cm余角の土塊を並べ幾重にも積み重ねてこの墳丘を造ったとすれば、約600万個の土塊が必要になります。1人で1日に何個くらいの土塊を運べたかはよく分かりませんが、例えば1人1日30個運ぶ(たぶん数百mから数km離れた所からも)としても、100人で6、7年はかかることになります。これ以外にも、葺石、堤や濠、埴輪の製造や運搬などもありますので、どれだけ大規模な工事であったかが想像できます。ですから古墳築造は、亡くなってからではまったく手遅れで、生前からしっかり計画し作業を大々的に行わねばならないものだったことになります。
現在の古墳の姿は、築造当時からはかなり変った姿になっているようです。歴史的に見ると、まず、鎌倉時代に盗掘があり、後円墳の3段目にあったと思われる横穴式石室も破壊されたようです。その後戦国時代になって、織田信長が1568年に摂津侵攻のために墳丘上に城砦を築いて陣地としたそうです。そして間もなく大地震による被害を受けます。1596年9月に発生した直下型大地震(慶長伏見地震。M7.0-7.1。伏見城天守閣のほか、京都の多くの寺が倒壊し、大坂や堺や兵庫でも家が倒れたそうです)により、墳丘が大きく崩壊して地滑りを起こし、内濠が広い範囲で埋まってしまったようです。なにしろ、墳丘は大部分30cm角ほどの土塊を無数に並べ積み重ねて作られていたので、盛土全体が一挙にぐぢゃぐぢゃになったのかもしれません。この地震で、後円墳の3段目はほぼ完全に崩落してしまいました。さらに、江戸時代には地震で埋まった内濠の部分まで水田が作られました。こうして、今城塚古墳は当初の姿がはっきりしなくなるほど変形が進んだようです。
私たちはまず、内堤上にある埴輪祭祀場に行ってみました。祭祀場は、東から西に向って(奥から手前に向って)1区から4区に分かれているそうです。一番奥の1区には、祭殿風の家形埴輪や蓋(きぬがさ)形埴輪(身分の高い人にさしかける傘の形をした埴輪)などが置かれていて、大王の近親者だけによる弔いの場、殯(もがり)のようなのが行われた場所だろうということです。2区と3区は公式の祭祀が行われた場所のようで、いくつかの祭殿風の埴輪や多くの巫女の埴輪が見えているようです。
1区から3区までは中に入ることができず埴輪にも触れられませんでしたが、一番西側の4区は中に入って、高さ60〜70cmくらいのいろいろなタイプの埴輪に触れることができました。4区は警護ないし門のような役目があるとかで、まず向って一番右側には水鳥(くびが長い。白鳥?、鴨?)の埴輪が十数羽真っ直ぐに行儀よく並んでいます。後ろのほうには尾羽をふくらませた格好のよい雄鶏の埴輪もありました。その内側には馬形の埴輪(たてがみ、鞍や鐙などの馬具も付いている)が十数個並んでいて、そこには牛の埴輪(角がかわいかったです)も2個ありました。一番左側には、柄のついた棒のような刀?を持った兵士が数人並んでいました。その辺りには、左手に小さな鳥がこちら向きにとまっている鷹匠や、回しを締めた力士のような埴輪もありました。女性のようで、頭の後ろと両耳の所で髪を結び、胸の前で両腕を組むようにしているものもありました。位置はよく覚えていませんが、円筒埴輪もたくさんあって、その中には側面に浮き出しの線で船の輪郭が描かれているものもありました。その船には、2本の帆があり、すうっととがった舳先からは2本綱のようなのが下がっていました。また、いくつか家形の埴輪もあって、2階建てのつくりで、1階は寄棟のような感じ、2階は神社の屋根のような形で、千木(屋根の天辺の横木の両端から外側に斜め上に広がって伸びている)や鰹木(横木の両側に平行に並んでいる出っ張りのようなもの)もしっかり触ってよく分かりました。(別の区には、3階建ての家形埴輪も見えていて、3階の屋根の鰹木の間のすきまは木で結ばれているとか。)大きな盾の埴輪が2点ありました。高さ1m余、上の幅1m弱、下の幅60cm余くらいで、全体に凸の曲面になっていて、表面には三角など幾何学的な線が入っており、1点の盾ではいちばん下に鹿のような動物が線で描かれていました。
このように埴輪祭祀場では多くのいろいろな形式の埴輪に触ることができてとても好かったのですが、一つとても残念なことがありました。兵士の埴輪で、持っているはずの刀が折られ無くなっているものがありました。セラミック製の丈夫なレプリカの埴輪なので、明らかにわざと強い力で圧し折って持ち去ったものと思われます。このような行為がきっかけになって、今まで中に入って自由に触ることのできた場所が、立ち入り禁止になってまったく触ることができなくなるかもしれません。私はずうっと、見えない人たちが触ることのできる場が広がることを望んできましたが、一般の人たちの物の触り方・扱い方が見えない人たちの触る環境にも大きく影響していると思います。見えない人たちの触るマナーももちろん大切ですが、それ以上に見える人たちの触るマナー、物の扱い方がもっともっと良くならなければならないし、またそのような教育も必要だと思います。
その後、私たちは墳丘にも行ってみようということで、後円墳の上まで上ってみました。たぶん10メートル余の高さだと思います。3段目はほとんど崩落していて私たちがいた場所は2段目の上くらいの高さなのでしょう。発掘では石室も石棺も見つかっていませんが、重い石室を支えるために造った石組の基盤が見つかっているそうです。20m弱×10m余の広い基盤の石組ですが、その石組も地震のために大きく折れ曲がって斜めになっているそうです。
地震の痕も確認できるという墳丘の剥ぎ取り標本は歴史館にもあったのですが、内濠と外濠を結ぶトンネルの壁面に同じような地層があるらしい、そこなら触ることができるだろうということで、そこに行ってみました。トンネルの側面に樹脂で固めたような地層の断面があって、触ることができました。本来なら水平な層の積み重ねになっているはずの墳丘の地層が、地震のために幾度も斜めに折れ曲がっているようで、その地層境界の辺りを触ってたどらせてもらいましたが、独りで触ってその境界をはっきり確認することはできませんでした。
今回は今城塚古代歴史館と今城塚古墳公園の両方を案内・解説してもらうことで、今城塚古墳の全体的な様子や構造、そこでどんな祭祀が行われていたのだろうか、また歴史的にどんな変遷を経てきたのだろうか等について、かなりよく分かったような気がします。歴史館では触ることのできる展示はたいして多くはありませんでしたが、古墳公園では実際に歩きながら体感しまたいろいろな埴輪にも触ってみることができました。見える人たちにとってはもちろん、見えない人たちにとっても、この歴史館と古墳公園をセットで見学することで、今城塚古墳の魅力、古代の王族級の人たちの世界にふれることができるように思います。
*2021年10月10日、数人で今城塚公園古墳を見学しました。外堤から、外濠、内堤、内濠を突っ切るように進み、前方部と後円部のくびれ部付近から墳丘に上り、まず後円部に行き、その後前方部へと向かいました。内堤上にある埴輪祭祀場でも、多くの埴輪に触れました。今回気付いたこともふくめて、文章を一部修正追加しました。
(2012年10月14日、2021年10月12日)