●最初 リバティおおさか

リバティおおさか

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 11月3日、リバティおおさか(大阪人権博物館)に初めて行きました。
 現在、第67回特別展「全国水平社創立90周年記念 水平社の時代」が開催中で、この日は学芸員による展示解説があるということで、行ってみました。リバティおおさかは、大阪市・府からの補助金が来年度から全面的に打ち切られる(今年は20%削減)ことになっていて、どのようなかたちで存続するのか話題になっているミュージアムでもあり、この機会に短時間ですがその常設展示についても見学してみました。
 JR環状線の芦原橋駅で降り10分たらずで到着しました。リバティおおさかまでの道は広く、整備されていて、歩きやすかったです。でも、回りには市営住宅などあるらしいですが、人通りがとても少なく、なんかさみしい感じがしました。そんななか、あちこちに太鼓があるということです。私は、リバティおおさかの前で、大太鼓、締太鼓、それに沖縄のパーランクーを桴(ばち)でたたいている人の像を触りました。これらはいずれも、沖縄のエイサーという太鼓踊りの姿を表した像のようです。
 なぜこのあたりに太鼓が多いかですが、以前(江戸時代から)このあたり一帯は「西浜」と呼ばれる皮革加工を業とする人たちが暮らす地域で、靴や太鼓などの皮製品、膠(動物の皮や骨を煮詰め抽出して作る)などが生産され、今も太鼓製造の会社があるからのようです。死んだ動物を扱い、またそれを材料とする生業に就く人たちは、すでに室町時代ころから蔑視されていましたが、戦国時代末になると、革製品は武具として不可欠なこともあって、彼ら皮多(かわた)は各地の大名の支配下に入り、さらに江戸時代になると、士・農工商(支配身分と平民身分)の下に、穢多非人と呼ばれる賤民として、封建的身分秩序の内に組みこまれるようになります。彼らは一般庶民とは居住地も交流も厳しく制限されますが、死牛馬を取得し処理する権利を独占し(当時は屠畜は禁止されていた)、また行刑役や罪人を捕える役も負わされ、厳しい差別はあるものの経済的にはそれなりに生活できていたものと思われます。明治時代になると、賤民解放令(1871年8月。「穢多非人等之称廃サレ候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事」)も出され、形式的には天皇の下で万民平等ということになるのですが、彼らの住んでいる土地にも税が課せられたり既得権を失ったりして経済的に苦しくなることもあり、また社会秩序が動揺するなかで回りの一般庶民からの差別・迫害はかえって増したようです。
 実は、このリバティおおさかも、もともとは、1969年に国会で成立した同和対策事業特別措置法による各種同和対策事業の一つとして、1985年に「大阪人権歴史資料館(愛称 リバティおおさか)」として開設されました。そして、1995年に、現在のような人権問題を広く扱う総合ミュージアムとしてリニューアルしたとのことです。
 
 さて、特別展の学芸員による解説ですが、午前と午後の2回あり、私は午前11時からの解説に参加しました。大部分は団体の方々で、個人参加は数人のようでした。解説は30分余で終わり、実際に触れたりできるものもありませんでしたが、私にとっては知らないこと・視点もありましたので、それらを中心に以下に紹介します。
 全国水平社は1922年3月創立ですが、まず、それまで部落がどのように考えられていたか、また創立までの経緯について話がありました。
 解放令によって平民としての戸籍を持つようになりますが、「新平民」と呼ばれて差別は続きます。1900年代になって、一時期「細民部落」という語も使われますが、「特殊(種)部落」という用語が広く使われ始めるようになります。これは、当時、部落の人たちを、アイヌや沖縄の人たちにたいしてなされた考え方と同様、日本人とは異なる種族だとする学者?の考えを反映した呼称のようです。間もなく部落の人たちを異種族だとする説は学門の世界では消えてゆきますが、一般の人たちの間では異種族視する傾向は続きますし、また当時盛んになってきた優生学の見地から部落の人たちを見るようにもなってきたようです。部落問題には、異種族説や優生学的な背景もあったということを知りました。
 1922年3月、全国水平社創立、西光万吉が起草したというその宣言はやはり良いですね(水平社宣言 )。水平社のシンボルとなった「荊冠旗」についても説明がありました。黒地に赤の荊冠が描かれているそうです。黒の背景は差別のある厳しい世の中を意味し、赤の荊冠は、一般には殉教や受難を意味しますが、この場合はそういう厳しい差別社会で生き抜いてきた人たちの誇りを意味しているとのことです。
 この水平社の運動は、当時植民地とされていた朝鮮の被差別民の運動にも影響をあたえたとのことです。朝鮮には「白丁(ペクチョン)」と呼ばれる被差別民が存在していたそうです。白丁(はくてい)は、本来律令制における無位無官の良民のことで、中国や日本ではその意味で使われ、高麗期の朝鮮でもほぼ似た意味で使われていたようですが、15世紀以後、後宮の女官、狩猟・屠畜・柳器製造などに従事していた人たちを賤視して指す言葉になっていったようです。1894年の甲午改革で身分制度が廃止され、白丁も解放されることになりますが、差別は続きます。1923年、衡平社(ヒョンピョンサ)を結成し、水平社とも協力して解放運動を行ったということです。(衡平社の運動は10年くらい続きますが、その後衰退して融和主義的な団体になっていったようです。現在は韓国には被差別民は事実上いないということですが、白丁は罵倒語としては残っているようです。)
 私が解説でもうひとつ興味を持ったのは、女性の側からの水平運動とのかかわりです。1923年の全国水平社第2回大会で、阪本数枝(水平社の有力な活動家・阪本清一郎の妻。外で運動に専念する夫に代わって家業の膠屋を切り盛りし、家事や育児も担う)が、婦人は目醒め一日も早く水平運動をしなければならないとして、婦人水平社設立の提案をします。女性は、部落民としての差別とともに、「家」制度の下、男性による支配・圧制に忍従しており、二重の差別を受けていたわけです(日常的には部落差別よりも家父長制的な性差別のほうを身にしみて感じていたのかもしれません)。水平社宣言の中にも男性中心の表現があるということで、その例として「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。」の部分を示していました。阪本数枝を引き継いでその後も数人婦人水平を訴える女性は出たとのことですが、その結果については解説ではとくに話はありませんでした。当時の状況を考えると、たぶん主張だけに終わったのだと思います。(阪本数枝が水平運動に関わったのは短期間で、その後については資料はないようです。)
 水平社の活動家たちの中には、西光万吉らのように、当時各地で始まった農民運動・労働運動にも関わり、そういう正党の結成に加わったり、あるいは日本共産党に入党したりする者もあります(西光は1928年の三・一五事件で逮捕され入獄、後転向して国家社会主義的な活動を行う)。そして、部落の問題はこういう農民あるいは労働運動を通じて解決されるとして水平社は必要ないと主張する者、いやそうではなく、水平社独自の役割があると主張する者など、いろいろ路線対立が生じます。また、以前からあった、政府(内務省)あるいは民間の部落改善・融和運動に接近する者も出てきます。そして日中戦争が始まるとそれを容認し、1940年の第16回大会で活動はほぼ停止して、戦時体制下、1941年中央融和事業協会より改組した大政翼賛的な同和奉公会に組み込まれてしまいます。
 
 学芸員解説の後、ざっとですが、常設展示を回りました。広い展示室に、アイヌ、コリアン、沖縄、女性、生殖、職業、水俣病、エイズ、部落や皮革産業、ホームレス、さらに体験コーナーやバリアフリーのコーナーなど、本当に多岐にわたっていました。各コーナーにはスタッフの方がいて、解説もしてくれますし対応は良かったです。ただ、人権という共通項でそれぞれのテーマが展示されているということなのでしょうが、私にとっては次々とテーマが変わっていって、目が回るというか付いて行けないという感じでした。それぞれのテーマを完全に独立した展示室にして、それぞれについてもっとじっくり考えながら見学できるというようになっていればと思いました。
 短い時間でしたが、それでも2、3体験できたこともあります。生殖?のコーナーでは、 6ヶ月の胎児の模型を触りました。胎盤や臍の緒も付いていて良かったです。胎児の段階の模型がいくつかあればもっと良かったと思いました。体験コーナーでは、アットゥシというアイヌの衣や朝鮮のチョゴリを着てみました(アットゥシは、オヒョウやシナノキの木の皮(外皮の内側の柔らかな靭皮)の繊維で織ったもので、ごわごわした感じはしますが、とても丈夫そうで着てみると重く暖かそうでした)。また、チャングという朝鮮の太鼓(細長くて、真ん中で2つの太鼓を逆向きに合せたような形)や沖縄のパーランクー(平べったい小さな、片側だけに皮のある太鼓)を叩いてみたり、ムックリというアイヌの口に当てて鳴らす楽器を試してみたりしました。また、アイヌのコーナーにはアイヌの家が復元されていて、少し中に入って囲炉裏辺の道具類を触ったりもしました。その他、バリアフリーのコーナーにも車椅子など体験できるものがありました。
 時間があれば各コーナーをもっと丁寧に見、またスタッフの解説も聞くことができたと思います。ただ、先にも書いたように、それぞれ心に突き刺さってくるような深刻な問題をかかえたテーマなのに、それを次から次に展示してあるのには、私はちょっとしり込みするというか、馴染めませんでした。やはり少なくとも、部落とか女性とか、主要なテーマは2、3にしぼってより深めた展示にし、その他は関連としてごく一部にするとかの工夫があったほうが良いように思います。来年以降、どんなかたちで存続して行けるのか気に懸かるところです。
 
(2012年11月13日)