4月29日、民博のMMPの皆さんと、高槻市上土室(かみはむろ)にある国指定の史跡「史跡今城塚古墳附新池埴輪製作遺跡」(平成5年7月、史跡今城塚古墳に追加指定)に行きました。(この「土室」という地名ですが、『日本書紀』欽明天皇二十三年条にある新羅人の子孫が住むという「摂津国三島郡埴廬(はにいほ)」にあたると考えられるそうです。)
JR摂津富田駅に集合し、バスに乗り上土室で下車、そこからはガイドボランティアのFさんの案内と解説で見て回りました。遺跡は「ハニワ工場公園」としてよく整備されていますが、すぐ近接してマンション群や住宅、遊具まであって、ちょっと?という感じでした(マンションの屋根は、復元された工房の茅葺屋根の形に合わせて、三角屋根になっているとのことでしたが)。遺跡の面積は3ha近くもあるらしいですが、実際に歩いて回った感じはそれよりはだいぶ狭くて、たぶん一部はマンションや住宅になっているのでしょう。
初めに、ゆるやかな斜面に復元されている窯です。斜面の下が1m弱の焚口になっていて、そこから斜面にそって低い茅葺が続いていて、その中に地面から半円状に盛り上がっている窯の天井部分があるようです(わざわざ茅葺をつけたのは、見た目のためなのでしょうか、保存のためなのでしょうか、でもそのために窯そのものの姿をはっきり確認できないのは残念です)。その屋根が10mほど続いて、斜面の上の所に20cm弱ほどの小さな煙出しがあります。1号、2号と呼ばれる2つの窯がこのように復元され、3号の窯は発掘された状態が見られるようです。これらの窯は、斜面に溝を掘り、その上に粘土で天井を作った簡単な登り窯です。この斜面には、全部で18の窯が確認されており、後の時期の窯は、地中にトンネルを掘って作った、たぶんより高温で焼くことのできるものになっているそうです。(なお、登り窯は、5世紀に朝鮮半島から須恵器の技術とともに伝わってきた画期的な最先端の技術でした。)
この斜面の上は平坦になっていて、そこに 2棟の工房(埴輪を成形する作業場)が復元され、また 1つの工房の発掘跡があります。復元された工房は、10m四方くらいもある大きな竪穴式の建物です。高さ1m余の所に杉の木の皮を多数重ね合せて作った屋根があり、さらにその上に茅葺の屋根があります。中は、地面から60cmくらい掘り下げた広い土間になっていて、そこに、2本で1組になった柱が、縦・横とも2〜3m置きに、3組ずつ、計9組あります。そして、この2本の柱のうち1本は下の杉の皮の屋根を支え、もう1本は上の茅葺屋根を支えているそうです。(ただし、このような建物の構造はあくまでも発掘状況から推測して造ったもので、本当のところはどうなのでしょうか?)もう1つの工房の発掘跡には、楕円形の中に小さな円が2個接するような形で、2個1組の柱穴が示されていました。なお、この遺跡の小さな模型があって、斜面に連なる窯跡、斜面上の工房跡や職人の住居跡、池や川の位置関係なども分かって、なかなかよかったです。 1回にどれくらいの埴輪を焼くことができるか尋ねてみると、30くらいということです(私が思っていたよりかなり多く感じました)。
18個確認されている窯跡のうち、一番北側の18号と呼ばれる窯跡が、ハニワ工場館に発掘された状態で保存されています。ここでは触れられる状態ではありませんでしたが、1号や2号の窯よりはかなり大きくて、幅は2m以上、長さは10mくらい、煙出しも1m近くあるようです。窯の側面や床面がよく見られるようです。窯の中は、燃料の薪を燃やす部分と、成形した埴輪を置いて焼成する部分に分かれているそうです。このように燃焼部と焼成部を分けることで、薪と埴輪を一緒にして焼く野焼きの時にできる黒い斑点がつかなくなったようです。
Fさんの解説やその他の資料によると、この埴輪製作所は、西暦450〜550年の約100年間、主に次の 3期に断続的に稼動していたようです。
450年ころ:太田茶臼山古墳のために、窯3基(A群)と工房3棟、住居7棟で埴輪の製作が開始されます。埴輪製作は3チームで行われ、各チームはそれぞれ1つの窯と1つの工房を持っていて、互いに競争するように操業していたのではということです。 1チームは、リーダーの下に10〜15人の埴輪職人、窯焼き職人が5人と助手がいて、みんなで30人くらい、3チームで100人くらいだったのではということです。
480年ころ、新たに窯5基(B群)と住居7棟がつくられ、番山古墳などに埴輪を提供します。
530年ころ:今城塚古墳のために10基の窯(C群)が作られ、埴輪生産がピークに達し、数万本の埴輪が作られました。工房も5棟発掘され、住居兼用のものもあるそうです。そして、550年ころには近くで大きな古墳が作られなくなり、埴輪生産は終わります(これにはたぶん、長年の埴輪生産で原料の粘土も木材も枯渇してしまったことも関係しているでしょう。)
なお、埴輪作りの職人の住居跡からは東海地方や関東地方で作られた土器類が見つかっており、太田茶臼山古墳や今城塚古墳を造るために中央の政権が各地から職人たちを強制的に動員した、あるいは各地の有力者が新しい埴輪技術を取り入れるために職人を派遣したのでは、ということです。もしそうだとすると、登り窯を使った埴輪生産技術がこの新池遺跡から全国各地に広がっていったのかもしれません。(ちなみに、近畿地方では埴輪や前方後円墳が作られなくなる6世紀後半以降も、関東地方では盛んに埴輪が作られています。)
ハニワ工場館を出て、最後に、この新池の埴輪工房で作られたとされるいろいろな種類の埴輪が並んでいるハニワロードを歩きました(本当はこの道を通ってハニワ工場館に入るようになっているので、私たちは逆の順序で埴輪を見ていったことになります)。全部で20点くらいあったと思います。それぞれに、どの古墳にあったものかも書いてありました。まず鶏形埴輪、これと同じようなのは昨年行った今城塚古墳の埴輪祭祀場にも置かれていました。家形埴輪は、4点くらいありました。大きさも形もいろいろで、入母屋形(寄せ棟の上に切妻屋根が乗ったような形)や切妻形のもの(そのなかには、屋根の天辺に鰹木のような棒が並んでいるのもあった)、側面に幾何学的な模様のある1mくらいもある大きな家などがありました。動物の埴輪には、馬形(鞍や鐙など馬具を付けたものもあった)、牛形、犬形などがありました。狩人(角笛を持ち、体の前の帯のようなのに小刀をはさんでいた)と猟犬、それと向いあって猪形埴輪が置かれていて、狩猟の様子を表しているらしいです。これら狩猟を表わした埴輪は昼神車塚古墳の前方部にあったものだということです。人物には、狩人のほかに、力士、甲冑を着け鉄刀を持った武人、手を合わせ特有の髪の結い方をした巫女などもありました。
大きな円筒埴輪も数点あって、表面を触り比べてみると、横方向に筋があるのと縦方向に筋があるのがあります。これらの細い筋は埴輪を仕上げる時に付いた刷毛目だということです(「刷毛目」といっても、実際に刷毛を使ったのではなく、木のへらなどで撫で付けた跡らしいです)。そしてこの刷毛目ですが、450年ころや480年ころに作られた円筒埴輪ではすべて横方向なのに、530年ころに作られたもの(今城塚古墳のためのもの)は縦方向でした。埴輪は、粘土紐を輪積みにするか、あるいは螺旋状に巻き上げて全体の形を作り、重なっている粘土紐の境を均してなくすためにまず縦方向にきのへらで撫で付け、さらに丁寧に仕上げるために横方向にも撫で付けるそうです。初め(500年ころまで)は丁寧に仕上げていたために横方向の刷毛目になっていましたが、それ以降は、大量に作らなければならないこともあって、簡単な仕上げになって縦方向の刷毛目になっていったらしいです。
その他に、大きな朝顔形や蓋形埴輪もありました。朝顔形は、私が心合寺山古墳で触ったような円筒の上に開いた形が乗ったようなのではなく、全体としてはちょうど壺のような形で、一番下と真ん中がすぼまり、その間が膨れ、さらに一番上が大きく広がっている形でした(こちらのほうが本来の形のようにも思えます)。表面にもいろいろ文様のようなのがあります。蓋形埴輪も直径70〜80cmくらいもあるかと思うほど大きかったです(全体の形は心合寺山古墳で触ったのとほぼ同じでした)。
今回の見学では、埴輪が実際にどんな風に作られていたのか、また、埴輪の作り方がどのように変わっていったかについても少し知ることができました。もう少し埴輪や古墳について出かけて体験しながら調べてみたいと思っています。
(2013年5月4日)