「瞽女文化にさわる」を体験

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 7月27日、国立民族学博物館で開催された体験プログラム「瞽女文化にさわる」に参加しました。このプログラムは、今年4月〜7月の毎月第4土曜午後に各2回ずつ、計8回行われたプログラムです。
 この体験プログラムは、4月から6月までは、日本の文化展示のエリア内にある秋山郷の復元民家内内で行われていましたが、毎回申し込み者が多くて狭い民家内には入り切らないほど人気があり、今回は定員も8人から35人に増やして第7セミナー室が会場となりました(秋山郷の復元民家は、プログラムの最後に数班に別れて見学)。私は、午後1時受付ということだったので、受付の10分以上前に行きましたがすでに列ができていて40数番目ということで、なんとか2回目のプログラムには参加できました。
 秋山郷は、新潟と長野の県境の山深い集落(現在の行政区分では、新潟県津南町に7集落、長野県栄村に5集落からなる地区)で、豪雪地帯で以前は交通の便も極めて悪く、平家の落人伝説もあるいわゆる秘境と言われた所のようです。明治時代以前は米はとれず、焼畑や狩猟(マタギの南限とされ、熊狩りが行われた)が主で、多くの独特の民俗が残っているとのことです(秋山郷が世に知られるようになったのは、鈴木牧之(ぼくし)の『秋山記行』や『北越雪譜』によってだそうです)。こんな人里離れた貧しい山村にまで、1940年代まで瞽女さんたちが、たぶんいくつもの難所を踏み越えて、定期的にやって来ていたと言います。民博の展示場内にある秋山郷の復元民家は、長野県栄村にあった民家を開館当時に移築復元したものだとのことで、本来はもしかすると瞽女さんたちが訪れていたかもしれない民家内での体験プログラムだったわけです。今回はプログラムの最後に5分くらい民家内に入って見学しただけでした。囲炉裏を中心に、たぶん8〜10畳くらいの広くはない空間で、板敷のような床はなくて土間になっていて、その上にむしろが敷かれていて、その上にござのようなのが敷いてありました(保存のためなのかも知れませんが)。回りには、むしろを編む道具、臼や杵、藁を切る道具などいろいろな道具が置かれ、また神棚もありました。回りの壁は、驚いたことに板などはなくて、茅で作られていました。やはり貧しさを感じます。天井はとても高いようですが、屋根の様子などは触れることはできなくてぜんぜん分かりませんでした。建物全体を知るにはミニチュアの模型が必要ですね。
 
 さて、会場に入るとなにか歌が聞えてきます。瞽女唄と思いきや、メインは男の声です。柏崎地方でよく歌われる「三階節」だとのことで、この成立には瞽女唄が関係しているとか(詳しいことは分かりませんが)。プログラムは、広瀬浩二郎先生(国立民族学博物館准教授)の担当で、進行や解説、また展示物の触るガイドなどは、みんぱくミュージアムパートナーズ(MMP)の方々の協力で行われました。
 プログラムは、高田瞽女[注1]の研究科市川信夫さん[注2]監修で、1971年に撮影された映像をもとに2009年に制作された記録映画「瞽女さんの唄が聞こえる」を視聴しながら、瞽女についてのMMPの方の解説や広瀬先生のコメントを聞くという形式で進められました。記録映画では、高田最後の瞽女親方の杉本キクエさん[注3]、弟子の杉本シズさん[注4]、弱視の難波コトミさん[注5]が、分担して掃除や炊事をするなど、共同で規律正しい日常生活をおくり、また3人の旅回りの様子なども紹介されていました。杉本キクエさんは当時70代半ばですが、とても張りのある声で、5歳で見えなくなった時に母が按摩になるか瞽女になるかと尋ねたのにたいして「三味線弾いて唄をうたう瞽女さんの方がいい」と答えたことや、瞽女になるために親方に弟子入りした時のこと、一人前の瞽女になるまでの修行などについて話されていました。収入は全員分を人数分で割るなど、共同でうまく暮らせるように規律されているようでした。また、規律を破れば破門されるなど、瞽女の世界の厳しさも描かれていました。
 
 [注1]高田瞽女:江戸時代には、幕府や諸藩の保護政策もあり、全国各地に瞽女組織があったが、明治になって盲人へのそれまでの特権がすべて廃止されて各地の瞽女たちは転廃業を余儀なくされた。そのなかで、新潟の高田と長岡を中心とする瞽女組織は盛んに活動を続けた(その活動範囲は新潟にとどまらず、北陸や東北・関東の各件、さらにはときには北海道まで及んだ)。高田瞽女は、町内に親方(師匠)がそれぞれ家を持って弟子を養女として迎え入れ、その親方たちが座を作り、修業年数の多い親方が座元となって座をまとめていたという。1884(明治17)年に親方の家が17軒、瞽女が69人、1904(明治37)年には19軒86人となるが、1922(大正11)年には14軒44人、1932(昭和7)年には23人、1944(昭和19)年頃には3軒と衰退して行く。戦後は、杉本家の3人が1964年まで瞽女として活動した。(長岡瞽女は、長岡の町の「瞽女屋」に住み代々山本ゴイを名乗る大親方が組全体を支配した。長岡の瞽女屋で修業して免許をもらった師匠は、それぞれの在方の集落で弟子を養いその地方で組を作った。明治中ごろには400人以上の瞽女がいたというが、第二次大戦前から戦時中に掛けて70〜80人になり、1945年8月1日夜の長岡空襲で瞽女屋も焼失、瞽女も四散して支配所としての機能を失った。1976年まで、金子セキ、中静ミサオ、手引き関谷ハナの3人が瞽女として活動していた。)
  [注2]市川信夫:1932〜。幼い頃から高田瞽女の杉本キクエらと親しく付き合い、盲学校・養護学校の教諭として障害者教育に携わるかたわら、児童文学作家としても活動、『ふみ子の海』『蓮の愛 ― 良寛と貞心尼』などを著す。「高田瞽女の文化を保存、発信する会」代表。また父の市川信次は、戦前から上越で活動した民俗学者で、瞽女とも交流して瞽女に関する考察を残している。
  [注3]杉本キクエ:1898〜1983年。5歳で麻疹がもとで失明。6歳で高田瞽女の親方杉本マセに弟子入り、マセの養子となる。芸名ハル、後に初梅。23歳で家を継ぎ、親方となる。1970年に重要無形文化財に指定される。1973年には黄綬褒章受章。(名前については杉本キクイとなっている資料も多く、戸籍では「キクイ」となっているそうですが、地元ではキクエさんと呼ばれることが多く、また何よりも本人が「キクエ」と言っていたそうです。)
  [注4]杉本シズ: 1916〜2000年。生まれつき見えなかったらしい。2歳で母親とも死別。満6歳で瞽女になるため杉本キクエに弟子入りして、杉本家の養子になる。親方の杉本キクエのもとで修行に励む。芸名 シズエ、本名 五十嵐シズ。1984年4月、難波コトミさんと共に養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に入る。
  [注5]難波コトミ:1915〜1997年。生来の弱視で、16歳の時キクエに弟子入り。主に手引きを務める。芸名キヨ。キクエ没後はシズとともに「胎内やすらぎの家」で過ごす。
 
 実際に瞽女さんたちが使っていたものにも触れることができました。杉本家で使われていたという火鉢(これはごくふつうの甕型のもの)、シズさんが身に着けていたという臙脂色の半幅帯(幅15cmくらいのしっかりした帯)、キクエさんが縫ったという雑巾(全体としてはふわっとした暖かい感じのもの。縫い目が細かくとてもしっかりしていて、触っても分かりやすかった)がありました。また、実際に杉本さんたちが使ったものではありませんが、瞽女さんたちが旅回りのさいに身に着けていたであろういろいろな舞台衣装にも触りました。「はんちゃ」という綿入れ半纏のようなもの(青森では今も年寄りは着ているし、私も小さいころはよく着ていた)、角巻きという分厚い毛布状の肩掛け、陽射しや汚れを防ぐために腕や脛に付ける布製の手甲と脚絆、褄折笠(直径40cm以上ある平たい菅笠で、縁がぐるうっと下に5cmくらい折れ曲がっている)などがありました。私は、手甲と褄折笠を着けてみました。
 柳澤飛鳥さんの制作したレリーフが3点ありました。まず、たぶん杉本キクエさんと思われる女性が座って三味線を弾いているところを描いたレリーフです。堂々とした感じで、右手に撥を持ち、左手は棹に当てています(棹の端には直角に伸びた長い棒のようなのが3本?あった)。次に、3人の女性が座布団に座っているレリーフです。真中の女性は、三味線を弾き、歌っているのでしょうか?口を少し開けています。向って左の女性は、両手とも握って膝の上に置いています。右側の女性は両手指を組み合わすようにして膝の上に置いています。最後に、3人が1列に並んで歩いている所を表したレリーフがありました(これは、後で触ったブロンズ像で示されていた情景とほぼ一緒のものでした)。3人とも、笠(褄折笠)を被り、背に大きな荷物を背負っています(この荷物はふつう15キロくらいはあったそうです)。先頭の人は前になにか大きな物(ブロンズ像では三味線になっていました)を抱えています(この人はたぶん手引の難波コトミさんでしょう)。後ろ2人は、それぞれ右手に杖(柄は傘の柄のように曲がっている)を持ち、左手は前の人の背の荷物に伸びています。
 
 今回は、参加者も多くて会場もセミナー室となり、私はじっくり瞽女の世界を実感するというわけには行きませんでした。
 
(2013年8月20日、2015年12月8日更新))