ヘレンケラー第3章(3)

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第3章 朝 (3)

 1888年1月、サリバンはパーキンス学院の年報の写しを受け取りました。それはサリバンをあたかも聖人のように吹聴するもので、彼女はそれが気に入りませんでした。サリバンはホプキンズに次のように書いています。「アナグノス氏がヘレンと私のことを述べてくれたその親切心には感謝しますが、彼の度を過ぎた言い方にはまったく閉口しています。……私がハウ博士の高貴な精神をたっぷり吸収して、あの小さなアラバマの人[ヘレンのこと]を暗黒と蒙昧から救い出そうと希望の火を燃やしているなどと言うのは、あまりにばかげています。私はただ、自分で生計をたてなければならない必要にせまられて、ここに来ただけなのです。」
 さらにまずいことに、ボストンの各紙がサリバンとヘレンについての話を載せ始め、それがサリバンの目にとまりました。それらの誇張し過ぎの報告を見て、サリバンは怒っていいのか笑っていいのか分からなくなりました。彼女は「ある新聞は、ヘレンに遊び用のブロックを使って幾何学の問題を解かせました。次に私は、ヘレンが惑星の起源と将来について論文を書いた、という記事を見るでしょう」と述べています。
 5月にアナグノスは、ヘレンとその先生サリバンにパーキンス学院を訪問するよう勧めました。サリバンは喜びました。というのも、この旅行が実現すれば、自らをアウトサイダーと感じざるをえない小さな南部の町から一時的に脱出することができ、またボストンに居る友達に会う機会も与えられることになります。さらにもっと重要なことは、この旅行で、ヘレンがより大きな世界を体験して、他の見えない子供たちと会ったり、パーキンス学院の膨大な教財を利用する機会を与えられるはずだからです。
 ヘレンは、ボストン訪問について先生と同じくらいわくわくしていました。実は数ヶ月前に、彼女はパーキンスの「親愛なるかわいい目の見えない女の子たち」宛てにすでに1通の手紙を書き、彼らに会いに行くと約束していました。その手紙の中でこの7歳の少女は「ヘレンと見えない女の子たちは楽しく過ごすでしょう「と書き、さらに「見えない女の子たちは指を使って話すことができます」とうれしそうに書き添えています。
 5月下旬に、母や先生といっしょに、ヘレンはボストン行きの列車に乗りました。北へ向かう途中、サリバンはヘレンの手の上に休みなく単語を次々と打ち出して、周りの田舎の風景、羊の群、綿畑、そこで働く農夫たちについて描き、ヘレンはそれにすっかり魅了されました。ワシントンで、一行は発明家のグラハム・ベル――彼がパーキンス学院を推薦したことで、サリバンがタスカンビアに来ることになったのです――と会うために下車しました。
 障害者を援助することに人生の多くを捧げたベルは、ヘレンの進歩をずっとフォローしてきましたが、この小さな女の子がとても良くコミュニケーションできるようになったことを発見して、驚きました。「彼女の業績は、聾者の教育において比肩し得るものがない」と彼は公言しました。ベルの賛辞は新聞に掲載され、ヘレンの名声はますます高まるばかりでした。
 実際、合衆国大統領 [3] がヘレンに面会を求めるほど、彼女は有名になっていました。ヘレンは次のように書きました。「私たちはクリーブランド氏に会いに行きました。彼はとても大きな美しい白い家に住んでいます……。クリーブランド氏は、私に会ってとても喜びました」

 [3] 第22代大統領クリーブランド(Stephen Grover Cleveland)のこと。民主党。在位:1885〜1889.ヘレンが大統領と面会した正確な日は、今のところ私は確認できていないが、ヘレン一行がパーキンス学院のあるボストンに着いたのが 1888年5月26日なので、その直前と思われる。なお、クリーブランドは、次の選挙では共和党のハリソンに敗れたが、 1892年の大統領選で再選され、第24代大統領となっている。1期おいて再選された大統領は、他に例がない。

 パーキンスに着いた時、ヘレンは意気盛んでした。一つには、合衆国大統領が彼女に会ってとても喜んでくれたこと――大人たちが自分のことで大騒ぎするのには、ヘレンは慣れていました――がありましたが、それとは別のもう一つの要因は、彼女自身と同じような子供たちと会えたことでした。
 ヘレンは後年次のように回想しています。「彼らが指文字を知っていることに気付いて、私は言葉では言い表せないほどの喜びを感じました。自分自身の言語で他の子供たちと話すのは、なんと嬉しいことでしょう!それまでは、私はまるで、通訳者を介して話す外国人のようでした。ローラが教育を受けた学校、それは私自身の国でした。」
 見えない子供たちは、二重の障害を持つ訪問者をあたたかく迎えました。彼らは、ヘレンにいっしょにゲームをするよう誘ったり、また、ヘレンの手のひらに指でたたいて単語を綴ることで、パーキンスでの生活のことをみな伝えました。パーキンス学院の図書館には、合衆国で最大の盲人のための蔵書がありました。ヘレンはその本の山に飛び付いて、その手をページからページへと熱心に走らせました。
 パーキンスでヘレンはようやく、58歳になるローラ・ブリッジマンに会いました。その時はまだ十分理解していませんでしたが、ヘレンはブリッジマンから非常に多くの恩を受けていました。ヘレンは後年、この盲聾の女性が、「人類と私との間にあった深い割れ目に橋渡ししてくれた」と書いています。さらにヘレンは、もしサミュエル・ハウが「その身体の感覚が封印されている時でも、ローラ・ブリッジマンの不滅の精神は死んではいなかった、ということに想い至るだけの想像力を持っていなかったとすれば、」自分自身の人生はいったいどんなものに成っていたのだろうかと不思議に想うのでした。
 ブリッジマンはヘレンにキスをしました。でも、この向こう見ずな子供が彼女の顔に手を触れると――ヘレンはだれか新しい人と会う時はいつもそうしました――、この盲目の女性は後ずさりしました。「婦人と会って挨拶する時は、前に出てはいけません」と、ブリッジマンは一字一字ぎこちなく書いて説明しました。ヘレンは後にブリッジマンについての感想を次のように描いています。「私にとって彼女は、私が一度ある庭で触ったことのある彫像のように思えました。彼女には動きが無く、その手は冷たくて、それはまるで日陰で成長してきた花のようでした。」
 夏休みでパーキンス学院が閉まった後、ヘレンとケイト・ケラーとアニー・サリバンは、ソフィア・ホプキンズを訪ねてコッド岬 [4] に行きました。ホプキンズとヘレンはすぐ仲良くなりました。ホプキンズがこの少女に海のことを教えると、ヘレンはすっかりその虜になりました。ヘレンは後に次のように書いています。「こんなに長く海辺にいたことは、まったくありませんでした。海の空気は、冷たくて、心を和ますような思考のようでした。そして、水の浮力を持った自在な動きに、私は、えも言われぬ、身の震えるほどの喜びで満たされました。」ヘレンは、海で初めてひと泳ぎした後、「だれがこの水に塩を入れたの?」と質問しました。

 [4] コッド岬(Cape Cod):マサチューセッツ州南東部にあるL字形の大きな半島。 1620年メイフラワー号が当着した所。避暑地・保養地にもなっている。

 ヘレンはその秋にタスカンビアに帰りました。日焼けし、体は健康になり、学習意欲も以前より激しくなりました。《先生》はヘレンの果てしない知識欲にはほとんどついていけないくらいでした。しかしながら、もともと強くはないサリバンの目が、再び彼女を悩まし始めました。間もなく、もう一度手術が必要なことが判明し、そのためにボストンに再度旅立つことになりました。サリバンは、このボストン行きに、ヘレンが 1888年から 89年にかけての冬をパーキンス学院で過ごすことができるよう、彼女をいっしょに連れていくことに決めました。

【キャプション】
 ・盲教育のパイオニアであるサミュエル・グリッドリー・ハウ博士はまた、断固とした奴隷廃止論者でもあった。彼は、「リパブリック讃歌」の作詩者ジュリア・ウォード・ハウと結婚した。[Julia Ward Howe: 1819〜1910年。1843年に結婚。彼女も奴隷廃止論者であり、また平和主義・女性参政権などで積極的に活動。1861年末に北軍兵士を讃える歌を作詩、翌年以降「リパブリック讃歌(The Battle Hymn of the Republic)」として北軍の間で、さらには愛国歌としてひろく歌われるようになる。]
 ・1890年のパーキンス学院の生徒たちが写った写真には、ヘレン・ケラー(左に立っている)とトミー・ストリンガー(下の右)も見える。ヘレンは、5歳の盲聾のトミーをパーキンスで教育するために、募金活動をした。
 ・1900年代初期のパーキンス盲学校の体育の授業。 1人の先生と生徒たちがバスケットボールを投げる練習をしている。その時から今日まで、学校では生徒たちのあらゆる能力を開花させようと試みている。
 ・サミュエルG.ハウの教育を飛躍させた盲聾の被験者ローラ・ブリッジマンが、パーキンス学院で点字を読んでいる。58歳の、冷たくよそよそしいブリッジマンは、 8歳のヘレン・ケラーが「前に出ている」のを叱った。