ヘレンケラー第3章(4)
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第3章(4)
ヘレンはパーキンス学院に正規の学生としては一度も登録されませんでしたが、彼女とその先生は、アナグノスの賓客として、続く4回の冬をそこで過ごしました。ヘレンは粘土細工のしかたを教えてもらい、またフランス語を習い始めました。彼女は、外国語を話すという思い付きがとても気に入って、忙しい校長先生をうまく説き伏せて、彼の母国語であるギリシァ語を彼女に個人教授させました。
パーキンスの先生たちの授業からも得る所はありましたが、ヘレンの教育はなお、文字通り、サリバンの手の内にありました。文字を書くヘレンの指の動きのなめらかさは目を見張るばかりでした。その速さは、1分間に 80語を記録し、彼女に付いて行ける先生は、サリバンだけでした。
パーキンス学院がヘレンの教育において果たしてきた役割をとても誇りに思っていたアナグノスは、行く先々でヘレンのことを言い触らしました。サリバンが反対したにもかかわらず、彼はいつも、ヘレンがほとんど超自然的存在であるかのように話したり書いたりしました。彼はヘレンのことを《世界の第8の不思議》とか《知性の天才》とか《驚異》とか呼びました。
アナグノスは、母国ギリシァを訪問した時、オルガ女王を訪ね、女王にヘレンの手紙を読んで聞かせました。パーキンスの校長によれば、ギリシァ女王はバラ園でヘレンの文章に耳を傾け、涙を流したということです。英国のヴィクトリア女王も、アレクサンダー・グラハム・ベルが彼女に送った雑誌記事を通じて、ヘレンのことをよく知っていました。ヘレンが 12歳になるまでには、彼女の名前は世界中の人々に知れ渡っていました。
主にアナグノスの努力により、ヘレンはボストンの指導的な知識人に会いました。その中には詩人のオリバー・ウェンデル・ホームズ [5] もいて、彼は、ヘレンが英語にとても熟達していることについて、自らの驚きを書きました。ヘレンはそういう人たち皆を魅了しました。アメリカの新聞は、彼女のことを「不思議な少女」とか「奇跡」と呼び始めました。
[5] Oliver Wendell Holmes(1809〜1894年)。医学者、随筆家、詩人。母校のハーバード大学で解剖学・生理学教授を勤めるかたわら、『朝食テーブルの独裁者』等のエッセイや小説を書いて名をあげたが、奴隷問題等の社会的事柄に無関心で、保守的だと批判されたりもした。(なお同名の息子は著名な法律家で、 1902年から 30年間合衆国の最高裁判事を務めた。)
1890年、ローラ・ブリッジマンのかつての先生の1人が、朗報を携えてヨーロッパから帰国しました。彼女は、ヘレンと同じように幼児期から盲聾だったノルウェーの少女に会っていましたが、その子は話すことができるようになっていたのです。ヘレンの発声器官には問題はなく、彼女はすぐに心躍らせて一つの新しい決心をしたのです。ヘレンはサリバンの手に「私はどうしても話せるようになりたい」と書きました。
話し方を学んでも 結局はヘレンにひどい失望感を味わわせるだけに終ることを恐れて、サリバンは最初はその考えに反対しましたが、それでもヘレンは頑固に自分の意見を主張しました。ついに先生のほうが折れて、その生徒を、ボストンのホレース・マン聾学校の校長、サラ・フラーに会いに連れて行くことになりました。フラーはヘレンの意気込みに深い感銘を受けて、彼女に話し方を教えるという仕事を引き受けることに同意しました。
ヘレンは次のように回想しています。「先生は私に先生の顔を軽くなでさせ、先生が発音している時に、舌と唇の位置を私に触らせました。私は熱心にあらゆる動きを模倣し、1時間で発声の6つの要素、 M, P, A, S, T, I を習得しました。」
話し方の習得は、ゆっくりとした、苦しい過程でした。 10回のレッスンの後、ヘレンはサリバンに「私はもう口のきけない者ではありません」という文を唸るように言うことができました。それは一つの成果でしたが、その言葉を理解できるのはフラーとサリバンだけでした。
幼児期にほんの一言か二言話したのを除いて、ヘレンはまったく話したことがありませんでした。ヘレンの声帯は正常でしたが、話しをするには力不足で訓練されていませんでした。今日ならば、ヘレンのような子供には、発声の専門家がまず声を大きくしたり調整する訓練をして、それから実際の話し方の練習に向かわせるのですが、 1890年にはそのような技術は知られていませんでした。
ヘレンはついに明瞭に話すことができるようにはなりませんでした。フラーはヘレンに、話している人の唇と喉を触って読み取る方法を教えましたが、彼女は結局自然な声の調子、大きさ、あるいは明瞭さを獲得することはありませんでした。
ヘレンが話すのを聴いた多くの人たちは、子音だけは聞くことができたと語り、また、発明家のトーマス・エジソンは後に、彼女の声は《蒸気が吹き出すような音》を想起させたと述べています。ヘレン・ケラーの話しを理解するのに支障がないように思われたのは、たぶん驚くほどのことではないでしょうが、子供たちだけでした。
ヘレンが明瞭な話し方を習得できなかったことは、もしかすると、彼女の後の生涯で悔やみの種となるかもしれないものでした。けれども、この失望を除いては、ヘレンはパーキンス学院で幸福で実り豊かな時を過ごしました。彼女は、その知性ばかりでなく天性の寛大さによっても、多くの人たちに賞賛されました。
1890年、ある友人がトミー・ストリンガーのことでヘレンに手紙を書きました。その男の子は5歳の盲聾児で、ペンシルベニア州の救貧院に入れられていたのです。ヘレンは、なんとかしてその子をボストンに連れて来て先生をつけてやろうと思い、多くの友人や新聞社宛に、その子を助けるためのお金を求める手紙を書きました。彼女の努力が実って、 1600ドルもの募金が集まりました。そして間もなく、小さなトミーはボストンに来て、パーキンス学院に受け入れられたのです。
ヘレンの業績は、半世紀前のローラ・ブリッジマンの時よりもさらに多くの注目を浴びました。パーキンス学院の 1891年の年報で、アナグノスはヘレン・ケラーのために丸々 200ページ以上も使いました。けれども、この熱心な校長とヘレンとの明るい関係は、そんなに長くは続きませんでした。
1891年 11月、ヘレンは、彼女の後援者であるアナグノスに、ふんだんに詩的表現を盛り込んだ一編のおとぎ話を送りました。それは「霜の王様」という題で、ヘレンが言うには「私があなたの誕生日のお祝いに書いた短いお話」でした。アナグノスはとても喜びました。そして彼はヘレンのこの労作を《第二の奇跡》と呼び、その作品を出版してしまいました。ところが、アナグノスの喜びは程なく幻滅に変ってしまいました。「霜の王様」が、 1873年に出版されたある物語と驚くほどよく似ていることが判明したからです。
アナグノスは《法廷》を設け、学校の代表8人が2時間ヘレンを尋問する間、彼女にただ独りで受けて立つよう命じました。この哀れな子供は、自分のお話が以前の物ととてもよく似ていることには同意しましたが、でも彼女は、元のお話についての記憶はまったく無いと言いました。結局ヘレンは、そのお話は以前読んでもらったものに違いないが、「そのお話を忘れてしまってから長い時間が経ったために、それが別の精神の所産であるなどとはまったく思えないほどごく自然に、そのお話が私の心に戻って来たのです」という結論に至りました。
ついに、元のお話の写しが、ヘレンが3年前に滞在していたコッド岬の家にずっと在ったことが判明しました。8人の《裁判官》のうち4人は、ヘレンはそのお話が自分自身の物ではないとは夢にも思っていなかったことを信じましたが、その他の4人は、ヘレンは剽窃――他人の作品を盗むこと――の罪を犯したと言いました。
アナグノスは、可否同数に結着をつけるべく、《無罪》の票を投じました。しかし彼はその後自分の立場を変え、ヘレンおよびその先生との関係を切ってしまいました。かれはもう二度と、報告書の中で彼らの名前を出すことはありませんでした。
ヘレンは後に次のように書いています。「[《法廷》が終わってから]その夜私はベッドに横たわりながら、どんな子供もこんなにも泣いたりはしないだろうと思うほど泣き暮れました。とても寒く感じて、朝が来るまでには死んでしまうのではと想像するほどでした。……もしもこの悲しみがもっと歳を取ってからやって来たならば、私の魂は取返しのつかないほど破壊されていただろうと思いました。」
著述家のマーク・トウェーンは、長い間ヘレンのファンの一人でした。ヘレンのお話しの調査について読んだ時、彼は怒るとともに、苦笑いしてしまいました。彼は次のように書いています。「あの《剽窃》という茶番、それは、まあなんと話しにならないくらい滑稽で、ばかげていて、グロテスクなことでしょう。あの真面目くさったロバどもが、無知がゆえのまったくばかげた考えで、幼い少女の心を壊してしまっていることを思ってみてください。」
トウェーンは、裁判官たちを「腐った人間の屑の集まり……子猫を躾けきれいにするのを大真面目に自分たちの仕事とし、ほんの一切れくすねた子猫をつかまえたと思っている、鈍くて老いぼれた海族ども」と呼びました。しかし、このエピソードは、ヘレンにとってはけっして滑稽で済まされるようなものではありませんでした。
剽窃の嫌疑は、ヘレンの人生を長期間暗くしかねない影を落しました。 1902年に書いた自伝の中で、ヘレンは次のように述べています。「私はもう二度と、たんなる遊戯のために言葉をもてあそんだりはしません。実際、あの時以来ずっと、私は自分の書いた物が自分の物ではないという恐怖に悩まされています。」
「霜の王様」事件でみじめな思いをしたにもかかわらず、ヘレンはなんとか平静さを保つことができました。彼女は次のように書いています。「この悲しい経験は私にはかえって良かったかもしれません。創作についての諸問題を私に考えさせてくれたからです。ただ一つ残念なことは、事件の結果、私の親愛なる支援者の一人、アナグノス師を失ったことです。」 11歳のヘレンはできうる限り自分の立場を弁護しました。そしていま、失望はしましたが打ちのめされることなく、タスカンビアに帰って来ました。
【キャプション】
・パーキンス学院の校長マイケル・アナグノスが、1891年半ば、ヘレンを抱き締めている。アナグノスはヘレンを褒ちぎっていたが、その年末までには、ヘレンを剽窃のかどで訴え、友情関係を断ち切った。
・著述家マーク・トウェーンは、ヘレン・ケラーがお話を剽窃したという告発に激怒した。彼は、「ヘレンのお話について冒涜することだと思われて、ぜんぜん眠れなかった」と書いた。
・1891年の剽窃〈事件〉の後、友人のマイケル・アナグノスからははねつけられたが、ヘレン・ケラーは、いつも誠実なアニー・サリバンとともに静かな時を過ごしている。
(第3章終り)