第4章 昼 (3)
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第4章 昼 (3)
ヘレンと先生は、この後2年間、ボストン近郊のレンサムにある友人の所に滞在しました。そして、ケンブリッジ女子校で始めた勉強を終らすために一人の家庭教師もいっしょに働き、 1899年にはケラーはラドクリフ大学の入学試験を受ける準備が整いました。その試験には、その生涯のほとんどの期間盲聾であった 19歳の女性はもちろんのこと、多くの学者をも迷わしかねないような質問が含まれていました。
質問の中には次のようなものがありました――「アルベラ [8]、ダキア [9]、ルビコン [10]、トラジミーン [11]等の場所、および各々について関連する有名な出来事を述べよ」。英語の試験の一部は次のようでした――「『サイラス・マーナー』について1段落ないし2段落書きなさい。『ベニスの商人』について、その中にどんな話が幾つ織り込まれているか、書きなさい」。
[8] Arbela: チグリス川上流の古代都市。アレクサンダー大王がダリウス3世率いるヘルシア軍を敗った。
[9] Dacia: およそ現ルーマニアに相当する地域。紀元前1世紀からローマを脅かすほど栄えたが、2世紀ローマの属州になった。
[10] Rubicon: イタリア中部の小さな川。紀元前49年、当時ローマとガリアとの国境だったこの川を、カエサルが「賽は投げられた」と言って渡りローマに進軍、ポンペイウスを敗った。
[11] Trasimene: イタリア中部の湖。紀元前217年、カルタゴのハンニバルがローマ軍を敗った所。
ケラーはみごとに合格しました。その入学許可証には、「ラテン語は十分上級の成績で合格」と記載されたほどです。大学で教育を受けるのはとても難しいのではと疑問視していたラドクリフ大学側も、 1990年の秋にケラーの入学を認めました。彼女は今や、落着きと自身を持った若い女子学生でした。彼女は、他の人たちができる事――そしてそれ以上の事――をしました。
ケラーは、ラドクリフ大学では、その障害のための特別な計らいをなにも受けませんでした。彼女は優秀な成績を取り、英語の教授は、感動のあまり、ケラーの作文を友人や同僚に見せるほどでした。 1902年には、『レディーズ・ホームズ・ジャーナル』の編集者が、その雑誌のために自伝を書くように依頼してきました。
最初のうちケラーは断りました。他の学生と同じ数の授業を登録していたので、それだけでももうとても忙しかったのですが、ケラーにはさらに、各講義の後すぐに家に走り帰って、サリバンが指文字で書いたことを思い出しそれを点字に書き写すという仕事が付加されていました。
でも、その編集者は執拗でした。彼は、ケラーがすでに大学の課題作文の中で自身の生涯の話――世のだれも聞いたことのない話――をたくさん書いているではありませんか、と指摘しました。そして、それらの課題文を雑誌用にちょっと再編するだけで充分ではないかと言うのです。さらに彼は、雑誌社側はその話のために3千ドル――平均的なアメリカ人が1年間に稼ぐ以上の額――支払う用意があると申し出ました。自尊心をくすぐられやすい若い女性にとって、このような話しはとても説得力がありました。
サリバンに励まされて、ケラーは雑誌社との契約に処名し、『我が生涯』を書き始めました。若きハーバードの講師であり『ユース・コンパニオン』誌の編集者でもあるジョン・メイシーが、この作品の編集を引き受けました。彼は、ケラーの自筆の原稿も考え合せて、この若き盲目の女性の能力に深く感銘しました。
ケラー、サリバン、メイシーの3人は、うまく共同作業をし、『我が生涯」の最初の部分が『レディーズ・ホーム・ジャーナル』に予定通りに郵送されました。雑誌編集者たちは、その内容に満足して、それを 1902年4月に発行しました。その後、4回にわたって連載が続きました。
1903年には、この原稿は1冊の本へと発展しました。その本は、ケラーの伝記、彼女の書簡集、および、メイシーが書きサリバンの多くの手紙やコメントをふくむ、ケラーの教育についての報告の、3部構成になっていました。『我が生涯』は熱烈な論評を受けました。ある批評家が言うには、それは「力と個性と魅力に溢れ」ていました。『サンフランシスコ・クロニクル』誌は、「その書き方は、女子学生というよりも熟練した作家のもののように思われる」と書き立て、また『リテラリー・ダイジェスト』誌は、この本には「病的な暗さあるいは自己憐憫」は見られないと褒めました。
論評者たちはまた、サリバンの役割も認めました。『ニューヨーク・サン』誌は、「ヘレン・ケラーを希望亡き闇から引っ張り出すという偉業を成し遂げたのは、全生活を擲ってただひたすら付き添ったもう1人の女性である」ことを読者に思い出させました。マーク・トウェーンは、この本に「魅せられた」と書きました。彼はケラー宛の手紙で、「あなた方は素晴しい、世界でもっとも素晴しい者です。私が言っているのは、あなたとあなたの伴侶(サリバン嬢)を合せてのことです。なぜなら、欠ける所のない一つの完全体を作るためには、あなたがた2人のペアを必要とする」と語った。欠けた所の無い、一つの完全なものを作るためには、あながた2人が1対になることが必要だからです」と述べています。
有力誌『センチュリー』は、『我が生涯』を「世界の文学において類のないもの」と称しました。一般の人たちにも受け入れられ、この本は今なお 50カ国語で読まれています。
ケラーがラドクリフ大学を卒業する直前、彼女とサリバンはレンサムにある1軒の旧い農家を買いました。『我が生涯』で稼いだお金で購入したのです。あの〈神童〉は今や 24歳になっていました。もう、自分の人生をどんなものにするのか決めなければならない時でした。ケラーはまだどんな職業を持つべきなのかはわかりませんでしたが、ただ一つ「視覚を失って苦しんでいる人たちのために自らの人生を捧げる」ということだけは確かでした。
ケラーのタイプライターは一度も沈黙しませんでした。彼女は、成功した作家としての自信を持って、雑誌記事を次々に書き、失明の防止、盲人の教育、そして彼らが直面する特殊な諸問題を論じました。サリバンは彼女の側で働き、書いた文章を敷衍したり訂正できるよう読み直してやりました。ジョン・メイシーはしばしば2人のもとお訪れ、編集者としての助言を与えました。
もともと強くはないサリバンの目が、ますます悪くなってきました。ケラーはある友人に「ジョンの援助がなければ、私たちはどうにもやって行けないのではないかと心配しています」と書いています。ジョン・メイシーの助けとは、彼女が言うには、「先生が昨年に比べて半分しか目を使わなくて良いようになる」ことを意味しています。こうして、この若い男は、ケラーとサリバンの世帯で重要な役割を果たすようになりました。そしてじきに、ケラーは彼と「先生」が恋に落ちていることをかぎ取りました。
メイシーはサリバンに結婚してくれるよう頼みました。でも、彼女は拒否しました。彼よりも 11歳も年上だし、とにかく、最愛のヘレンをどうしても手離すことはできません、と言うのが彼女の弁でした。彼は求婚し続け、彼女のほうは拒み続けました。彼女はケラーに、結婚なんかする気はありません、と告げました。これにたいしてケラーは、「そんな先生、もしもジョンのことを愛しているのに彼を手離してしまうなら、それは本当に見るも無惨な事のように思われます」と言って応えました。
メイシーはサリバンに、彼女とケラーの仲を裂くようなことはけっしてしないと確約しました。長年にわたって私的な生活を自ら否定してきた先生も、もはや抵抗はできませんでした。 1905年、彼女はメイシーと結婚しました。短い新婚旅行の後、2人はケラーと共にレンサムに落ち付きました。
その後数年間は、ケラーにとってもメイシー家にとっても、穏やかな稔り多い年でした。3人はみな、書くのに忙しくしていました。『ユース・コンパニオン』の仕事を続けていたメイシーはまた、作家エドガー・アラン・ポーについての本を一冊仕上げました。この3人組はかなり快適に暮しましたが、一生懸命仕事をしたにもかかわらず、お金のほうはいつも不足していました。著作は名声はもたらしましたが、現金はあまり入りませんでした。
ケラーの著作はおおむね彼女自身についてのものでした。自分自身の生活は、彼女がもっとも良く知っている主題であるばかりでなく、雑誌編集者や読者が聞きたいと思っているテーマでもありました。 1908年、彼女は『私の住んでいる世界』を出版しました。これは、彼女が視覚と聴覚の欠如を他の感覚を使っていかにして補っているかを説明したエッセイ集です。
この本は、難なく成功しました。ハーバードの教授で、以前ケラーの教師だったチャールズ・t.コープランドは、この本について彼女宛に次のように書きました。「運命は、あなたの住んでいる世界を狭めたが、あなたは運命の束縛を打破し、さらに、我々が世界のことをより良く考えられるようにぬまく工夫してくれました。」批評家たちはケラーを〈天才〉と呼び、また著名な心理学者であり哲学者でもあるウィリアム・ジェームズはこのエッセイ集を〈心理学的古典〉と呼びました。
ケラーは『私の住んでいる世界』があたたかく受け入れられたことは当然喜んでいましたが、自分自身の問題について書くことには次第に厭きてきました。彼女は後に「自分自身という一つの主題にまったく限定されていることに気付き、そして程なく私は消耗し尽してしまいました」と書いています。
1909年、ジョン・メイシーは社会党に参加しました。当時社会党はちょうど人気急上昇中の時期でした。カリスマ的な指導者ユージン・V.デブズ [12] に率いられた社会党は、数千の新しいメンバーを引きつけていました。彼らの職業は農夫から大学教授まで、その所得は数セントから数百ドルまでと、広範囲にわたっていました。
[12] Eugene V. Debs:1855〜1926. アメリカの労働運動、社会主義運動の指導者。1893年、産別のアメリカ鉄道組合を組織。翌年、プルマン鉄道会社に起こったストライキを支援。逮捕・投獄されたが、獄中で社会主義を学ぶ。 98年に社会民主党を組織、1900年にはその大統領候補となった。翌年、アメリカ社会党の創設に加わり、以後4回同党の大統領候補になる。彼の指導下で社会党は着実に支持を広げ、 1912年の大統領選挙では90万票余(得票率6%)を得た。第1次大戦に際し、党内反戦派の立場を貫き、 18年にスパイ防止法違反で逮捕され 10年の禁固刑を受ける。 20年の大統領選には獄中から出場し、 91万票を得た。アメリカ史上、最も人気のあった民衆指導者の1人とされる。
ケラーは、貧困およびそれがアメリカの子供たちにもたらす影響について長い間心を痛めていました。また彼女は、筋金入りの夫人参政権 [13] 論者にも成っていました。メイシーが説明してくれた社会党の基本的な考え方は彼女自身の考えとも近似していましたので、彼女もまた社会党に加わりました。(サリバンは、この3人世帯の中では少数派でした。政治的に保守的だった彼女は、社会主義にも婦人参政権にも不信を持っていました。)
[13] アメリカの婦人参政権: 1869年、婦人参政権協会が設立され、翌年にはユタ州で女性の参政権が認められる。 20世紀に入ると各地で運動が盛り上がり、 1914年にネバダ州とモンタナ州で婦人参政権が認められる。 1919年6月、連邦議会で女性の参政権を認める憲法修正第19条が可決され、各州で修正第19条を批准し、 20年8月、発行、婦人参政権が確立される。
ケラーは今や、女性の権利のような論争の的となる問題について書き始めました。さらに彼女は、性病に起因する幼児の失明のような〈おおっぴらには口にできない〉問題についてさえ議論するようになりました。彼女は「女性の投票権」を求めるデモ行進に加わり、経済改革や労働者階級の状態について講義したり書いたりしました [14]。
1909年、アメリカがインフレに襲われると、レンサムの家の人たちは、家計をやりくりするのがますます困難になっていることに気付きはじめました。それなのに、百万長者の慈善家アンドリュー・カーネギーがケラーに5千ドルの終身年金の給付を申し出た時、彼女はその申し出を丁重に辞退しました。本当に困窮している多くの人たちを目の前にして、自分だけのためのお金を受け取ることは、彼女が新たに習得した社会哲学とは一致するものではありません。ケラーは、「私はすでにかなりの分け前にあずかっていますし、数百万ドルでも彼ら困窮している人たちの正当な取り分としてはまだ少いのです」と書いています。
1913年、ケラーは、社会問題についてのエッセイ集『暗闇から外へ』を出版しました。この本にたいする批評家たちの反応は気乗りしないものでしたし、また一般読者の 反応も同じようなものでした。ケラーは、その社会主義的見解のゆえに、さらには政治的な見解を〈持つこと自体〉のゆえに批判されました。ある評論家は、この本には判断の間違いがたくさんあり、それは疑いもなく「(著者の)発達の限界」がもたらしたものだ、と言いました。
そのうちに、ケラーが女性問題、政治、経済に関する記事を書いても、そういう記事の掲載を拒否する編集者がどんどん増えてゆきました。世の中は、ヘレン・ケラーが自分自身以外の事について何を考えようとも、それらにはいっさい関心を持っていないように思われました。ケラーとその友人メイシー家にとって、金銭が重大な問題になってきました。さらに事態を悪化させたのは、7年になるメイシー夫妻の結婚生活に、危機の徴候がみえてきたことです。ジョン・メイシーはもともと大酒家でしたが、以前にまして酒量がふえてきました。結婚当初はスリムできれいだった妻も、体重が増えてきました。そして病気がちで、よく疲れ切っていました。こうして、レンサムの家は次第に冷えきった場所になっていったのです。
[14]1909年1月、ヘレン・ケラーが、「私は言わねばならない」を「レディーズ・ホーム・ジャーナル」に発表(当時失明原因として多かった新生児眼炎の予防のためには、女性が自分自身や子供たちの健康について正しい認識と知識を持たなければならないと主張)。ケラーは、ジョン・メイシーの影響で社会党に参加し、また彼を通じてIWW(Industrial Workers of the World)の人たちとも知り合ってその活動に共感し、資金カンパをしたりIWWの機関誌に寄稿したりもした。1913年には、ケラーは、ベル夫妻とともに、ワシントンで行われた婦人参政権運動の街頭行進に参加。
【キャプション】
・ラドクリフ大学の学友から贈られた、フィズという名の雄のブル・テリア犬[ブルドッグとテリアの交配犬種]が、主人であるケラーに抱き締められている。ケラーは犬が大好きで、何匹も犬を持ち続けていたが、いつもこのフィズを特別な愛着をもって思い出していた。
・ケラーが、1片の彫刻作品の上でその敏感な手を動かしている。彼女はこのような芸術形式をもっとも好んだ。サリバンはその生徒に自分自身で彫刻をしてみるよう勧めてみたが、ケラーがそれを楽しむことはなかった。彼女は読書のほうを選んだ。
・サリバン(右)がジョン・メイシーの肩の上で本を読み、ケラーが彼と指文字を使って話している。サリバンはメイシーのプロポーズを最初は断ったが、彼は粘り強く求婚し続け、2人は結局1905年に結婚した。
・事業家のアンドリュー・カーネギー――彼が賞賛した有名人にしばしば財政的援助を与えていた――が、ケラーに年金の支給を申し出た。彼女がそれを受け取るようになったのは、サリバンが健康を害したことに驚いてしまってから後になってのみのことである。
・1912年ニューヨークで行われた、投票権を求めるアメリカ女性たちのデモ行進。ケラーは婦人参政権運動の強力な支持者であり、その運動の目的は1920年に達成された。
・ケラーがラドクリフ大学でサリバンとチェスをしていて、真剣にチェスの駒を動かしている。ケラーは大学時代にチェスを覚え、手ごわい相手になった。