第5章 夕 (3)

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第5章 夕 (3)

 サリバンに手伝ってもらいながら、ケラーはその後の2年間の多くを、自伝の第2巻である『流れの直中で』を書くのに費やしました。この著述の仕事はまさに闘いでしたが、彼女はユーモアのセンスを持ち続けていました。彼女は友人宛の手紙で次のように書いています。「『流れの直中で』は私にとっては、新たにたくさんの手紙を書くとか、山のような本にサインさせられるとか、インタビューに答えなければならないとかなどで、中国の葬式よりももっと苦労の種でした。本を出すということは、実際には、私が思いを巡らすどんな葬式―少くとも私たちは死んだ時には他人にどんなに多くの苦労をかけているか知らないのです―よりも最悪なのです。」
 『流れの直中で』は、1929年に出版されるとすぐに、評論家からも一般読者からも高評を博しました。出版後、ケラーとサリバンとポリー・トムソンはヨーロッパへの初の旅に出かけました(その後数回行くことになります)。ケラーは新しい体験に心うきうきしていましたが、彼女の同伴者たちは幾分さめた気持ちになっていました。サリバンは家宛の手紙の中で次のように書いています。「ポリーと私は、ヘレンの内面は鋼鉄の輪にしっかり固定された鋳鉄でできているに違いないと断じました。というのも、彼女は食物や飲物や暑さにあまり影響されていないのです。」

 サリバンの視力が衰えていってさらにもう一度手術を受けなければならなくなり、1936年4月にその手術が行われました。しかし今回はサリバンの視力は改善されず、その手術のために虚弱な60歳の女性の身体はなおさら衰弱しました。そしてその年の秋には、彼女が瀕死の状態にあることはだれの目にも明かでした。
 1936年10月15日、サリバンのベッド際でポリー・トムソンは〈先生〉の最期の言葉となるものを書き止めました。「私は愛されたかった」と彼女は言いました。「私は孤独でした――その時、ヘレンが私の人生の中にやって来たのです。私は彼女に私を愛して欲しかったし、私も彼女を愛しました。それからしばらく経って、ポリーがやって来て、私はポリーを愛し、私たちは何時もみんなとても幸せでした……私の生は尽きようとしていますが、ヘレンが生かされていることを神に感謝します。神よ、私が去る時、私が居なくても彼女が生きてゆけるよう助けたまえ」
 10月20日、アニー・サリバンは亡くなりました。ケラーはもちろん、生涯の同伴者をもうじき失うことになるだろうことはわかってはいましたが、それはそう簡単には受け入れられるものではありませんでした。彼女は情緒的に打ち砕かれてばらばらになるほどでした。彼女は後に「生命の光・音楽・栄光が消え去ってしまいました」と書いています。
 ジャーナリストのアレクサンダー・ウールコットは、サリバンの葬儀に会葬者の1人として参列しました。彼は、棺に付き従っているケラーとトムソンを見て、「トムソン婦人の頬に流れ落ちる涙」のことについて書き記し、さらに、「私は、ヘレンがその手をまるでアマツバメのように素早くひらひら動かしているのを見ました。そうすることで、ヘレンは自分の伴侶を慰められると思っているように見えました」と述べています。
 ケラーの友人や関係者の多くは、サリバンの死がケラーの公的生活の終焉を意味することになるだろうと思っていました。彼らは、ケラーはいまや、故郷に帰って、アラバマにいる妹とと一緒に生活する以外、どんな選択肢もないと考えていました。しかし、彼らは間違っていました。
 悲しみに打ちひしがれたケラーは、まだ自分がするべき重要な仕事があることを知っていました。彼女にはなお、助言者および募金活動担当者としてのAFBスタッフとしての役割がありましたし、また、彼女の側に付き添うトムソンとともに、執筆と講演旅行を続けました。日本の大阪にある盲人のための施設ライトハウスの館長[16]が、日本に来て自国の盲人のために働くようケラーに請うと、彼女はそれを承諾しました。1937年、ケラーとトムソンは東洋に向けて出発しました――それは、その後行われることになる多くの世界巡回旅行の最初となるものでした。

  [16] 岩橋武夫のこと。岩橋武夫:1898〜1954年。大阪生まれ。1916年9月、早稲田大学理工学部に入学するが、網膜剥離のため失明、翌年中退。失明受容の苦しみを母の助で乗り越え、大阪市立盲唖院に入学、キリスト教の洗礼を受け、エスペラントも学ぶ。1919年関西学院英文科に入学、妹や学友寿岳文章の協力を得てミルトンを研究、1923年3月卒業。同年4月より大阪市立盲学校教諭(〜1935年3月)。1925年エジンバラ大学に留学、宗教哲学と英文学を学び、27年7月マスターオブアーツを得て帰国(留学中にクエーカーとなり、以後クエーカーとしても活動)。28年4月、関西学院大学専門部英文学部講師(〜1944年3月)。33年8月、大阪盲人協会会長。35年10月、ライトハウス建設。36年2月、燈影女学院設立、学院長に就任(51年3月大阪府に移管、府立阿倍野高校に合併吸収)。1948年8月、日本盲人会連合結成、会長に就任。52年10月、日本盲人社会福祉施設協議会結成、委員長に就任。54年2月、WCWB日本委員会の委員長に就任。ヘレン・ケラーは、各界の著名人と幅広く交友を持ったが、視覚・聴覚などの障害者とはほとんど交友がなかった。そんななか、岩橋武夫とは、彼が亡くなるまでの20年余、親密な交友があった。

 ケラーは日本においても有名でした。彼女が横浜港に到着すると、政府高官および、全員日本とアメリカの旗を持って振っている、数千の児童生徒をふくむ群集に出迎えられました。秋田ジャーナル[おそらく「秋田魁新報]は、「外国からの訪問者で、これまでにこんなにも熱狂的な歓待を受けた人はいない」と報告しています[17]。

  [17]ケラーは、1937年6月13、14日に秋田を訪問している。ケラーは秋田犬を所望し、一警察官が秋田犬神風号を贈った。

 ケラーは、日本の39都市で97回講演し、世界平和への彼女の望み、および障害者のために必要なことの両方について語りました。彼女は、その行く所どこでも、賞賛されました。外国の訪問客とはめったに接見することのない天皇・皇后両陛下が、彼女を宮殿に招待し、また、古代都市奈良では、大きなブロンズの仏像全面に手を走らせることを許されました。彼女は、この聖なる像に触ることを許可された最初の女性でした。
 アメリカに帰国すると、ケラーは、数年間書き続けてきた新しい自伝的報告書『日記』を、腰を据えて仕上げました。1938年にこの本が出版されると、これまでの本と同様の絶賛を受けました。ある批評家は、「この本は、『ヘレン・ケラーがサリバンなしでこれからどうやって行くのだろうか』という質問にたいする有効な答えになっている」と書いています。
 『日記』の出版後間もなく、ケラーとトムソンは、コネティカット州ウエストポートに引っ越しました。アメリカ盲人援護協会から贈られたこの新居は、ケラーを魅了しました。彼女はある友人に、「これまでにこんなにもお気に入りの住居を持ったことはありません。とくに、書斎にはいくつかの大きな本棚と小さな戸棚が35個もあり、また陽がよく入る窓もあって、とても喜んでいます。」と書いています。
 ヘレン・ケラーは、長い間アニー・サリバンの伝記を書く計画を持っていました。新しい住居に落着くと、彼女は手紙や日記やいろいろな記録類を集めて整理し、その本を書き始めました。ケラーは自由時間はすべてその本を書くのに費やしましたが、結局ほとんど20年もの間、彼女のサリバンへの献身が結実することはなかったのです。(ほとんど完成していた彼女の原稿が、1946年の火災で焼失してしまいました。しかし、そんな不幸にも打ちひしがれることなく、彼女はその本を最初から書き直し始めました。そしてようやく、1955年、『先生――アン・サリバン・メイシー』が出版されたのです。)

【キャプション】
 ・ポリー・トムソンが、1921年、ケラーにダンスのレッスンをしている。有能で気立ての良いトムソンは、ケラーの秘書・付添い人・家政婦・講演助手であり、そして45年にわたる友人であった。
 ・英国の元首相ウィンストン・チャーチルと妻クレメンタインが、1955年、75歳になったケラーを祝している。彼女の誕生日には、世界中の人々から幸を願うメッセージが洪水のようにもたらされた。
 ・ブルックリンの盲人のための作業場で、職員がケラーに作業台を見せている。盲人は自立できるのだと強く主張すると、見えない労働者の訓練のためにケラーがしている資金集めの活動が難しくなるのだった。
 ・ 1948年、ポリー・トムソン(カメラの後ろ)とともに日本を訪問したケラーが、東京で犬の像[おそらく、渋谷駅前にある忠犬ハチ公の銅像)を手探りしている。日本人の動物への愛情は、彼女が言うには、日本人の人間愛を証明するものだという。