●初めに
まず初めに、私がどうして高橋竹山のことを調べるようになったかについて書きます。
まず、ごく表面的なことですが、出身が同じ青森県であること、そして私も幼いころしばしば、からかい半分に「ぼさま」といわれていたこと、さらに、これは後に知ったことなのですが、竹山が私が高校1年まで在席していた青森県立八戸盲学校の卒業生であったことなどです。
私が竹山の三味線を聞き始めたのは、昭和 30年代の後半(小学後学年)からでした。そのころは、成田雲竹の伴奏のほか、木田林松栄などと共に曲引きでも活躍しはじめ、ラジオから流れてくる竹山の力強さと細やかさ・哀調を含んだ演奏に聞き惚れたものです。
さらに、今から7、8年前になるかと思いますが、偶々ラジオで高橋竹山が主に八戸盲学校での色々なエピソードを話しているのを聞き、機会があればもうすこし詳しく調べてみたいと思っていました。
今回『自伝津軽三味線ひとり旅』を点字で読みましたので、その他の本や HP をも参考にして、ごく簡単に高橋竹山の年譜をまとめてみました。
では、津軽三味線をぼさまの門付け芸、あるいは民謡の伴奏という位置から、独奏楽器としての道を開き、芸術の域にまで高めた竹山の足跡をたどってみましょう。
(注: 以下、年齢は数え年。また[ ]内は当時の社会状況。 *印は注記を示す。)
●1910(明治 43)年
6月 18日、青森県 東津軽郡 中平内村 字小湊(現、平内町 小湊)で生まれる。
父は高橋定吉、母はトヨ(「まん」としている資料も多い)で、3男2女の末子。
本名定蔵(さだぞう)。
父は弘前の出身で、歌がうまく、小湊で唄会(興行)をしたこともある。
●1911〜1912(明治 44〜45)年
2、3歳のころ、麻疹をこじらせて半失明(完全失明したのは、 22、3歳のころ)。
同じ年に見えなくなった子供が村に5、6人もいたという。当時は様々な病気で失明する子供が多かったようだ。 [1913(大正 2)年、青森県は三分作の大凶作。]
●1917(大正 6)年(8歳)
小湊尋常小学校に入学。
黒板の字が見えなかったり、学校の行き帰りに見えないことを理由にいじめられたりしたため、3、4日行っただけで、その後は学校にはまったく行かなくなった。
家では、雀負いや馬を放しにいくなどの簡単な手伝いおする以外は、遊んでばかりいた。
10歳か 11歳のころから、ぼさま *1 が回って来れば、興味本位でその後に付いて歩いた。
[ロシア 10月革命]
*1 ぼさま:主に、津軽や南部地方で、各家々を門付けしてなにがしかの金品(主に米)を恵んでもらって生活していた盲人男性。ただし、私の幼少時(1950年代)には、ぼさまとして生活していた盲人はほとんどいなかったと思います。
●1924(大正 13)年 (15歳)
11月、隣り村のぼさま戸田重次郎の住み込み弟子となり、三味線と歌を習った。
●1925(大正 14)年 (16歳)
正月、弟子入りして1ヶ月ほどして、師匠夫婦に連れられて青森周辺を門付けして回る。その後、北海道や秋田方面も一緒に門付けして歩く。函館では、戸田の師匠にあたる梅田豊月 *2 と出会い、その音色に大きな感銘を受けた。
そのころ、盲学校に行って鍼灸を習おうとも思ったが、近くには盲学校はなく *3、また八戸の盲唖学校は学費が高額でとても払えそうになかったので、あきらめた。
*2 梅田豊月:本名は鈴木豊五郎。1885〜1952年。目は見えていたが、とくに手指が短く太棹を独特の手法で操ったらしい。
*3 青森盲学校: 1925年、西蓮寺幸三郎が開設した青森盲人教育所に始まり、 1927年青森盲学校、次いで 1931年青森盲唖学校と改称、 1935年私立から県立に移管された。
●1926(大正 15)年 (17歳)
10月、師匠の許しをえて独立。以後、独りで各地を歩いた。
1930(昭和 5)年まで、北海道、秋田、岩手、青森の各県を門付けして生計をたてた。冬期間は青森市の映画館の楽隊に雇われたり、三味線がだめな時は飴売りや大道売りなどをした。
●1928(昭和 2)年 (19歳)
親の招介で3歳年下の娘と結婚し、子供も生まれるが、生活が苦しいため、1年余りで妻子と別れる。
●1931〜(昭和 6〜)年 (22歳〜)
唄会(興行)の一座に雇われ、山形、宮城、北海道、樺太方面を歩いた。また、座敷打ちと称する小興行で村々を回った。興行のないときは一人で門付けをした。
[満州事変起きる]
●1933(昭和 8)年 (24歳)
3月、岩手県三陸沿岸の村々を回っていた時、三陸大津波(昭和三陸津波 *4)に出会い、九死に一生を得た。
*4 昭和三陸津波:昭和8年3月3日、午前2時半すぎ、三陸沿岸は強い地震に見舞われる。午前3時過ぎより津波に何度も襲われ、波高は高い所では 25m にも達した。死者・行方不明者 3064人、流失・倒壊家屋約 7300戸。
●1934(昭和 9)年 (25歳)
青森県東奥日報社主催の第一回民謡大会で三味線を弾いた。熱狂的な唄会ブームの始まりとなり、以後毎年開かれたが、それには参加せず、門付けを続けながら、浪花節の三味線を独習した。
●1937(昭和 12)年 (28歳)
浪花節の三味線弾きとして座に雇われ、北海道、東北、信州、関西方面を転々とした。
[日中戦争始まる。]
●1938(昭和 13)年 (29歳)
東平内村清水川の亀田ナヨ(同年齢でイタコをしていた)と結婚した。
[国家総動員法公布]
●1939(昭和 14)年 (30歳)
中国満州地方を浪花節の慰問、興行で歩いた。
[米穀配給統制法公布]
●1941(昭和 16)年 (32歳)
成田雲竹の弟子たちの民謡興行に頼まれ各地興行のほか、東京浅草のオペラ館、大阪の浪速座等で働いた。(オペラ館で偶然梅田豊月と再会している)
[太平洋戦争始まる。]
●1944(昭和 19)年 (35歳)
4月、戦争の激化で三味線では生活できなくなり、妻ナヨに説得されて、生計を立てるためにやむなく県立八戸盲唖学校に入学(青森盲唖学校では入学を断られている。また学費は、ナヨがイタコをして稼いだ)。盲唖学校では、勉強の方はあまりはかばかしくなかったが、年長者であったため、生徒や先生の相談にのったり、配給の食料の確保に奔走したりなどした。
[満 17歳以上を兵役に編入。歌舞伎座等閉鎖。]
●1945(昭和 20)年 (36歳)
八戸も空襲を受け、7月には盲唖学校が休校となり小湊へ帰る。終戦後学校に戻り、こんどは進駐軍に請われて三味線の演奏をして、食べ物やお金をたくさん盲唖学校に持ち帰ったりする。
●1949(昭和 24)年 (40歳)
3月、同校中等科を卒業。鍼灸・マッサージの免状を取得。(これには、盲学校側の特別な計らいがあった)
鍼灸・按摩の仕事をするが、客は少なかった。
●1950〜(昭和 25〜)年 (41歳〜)
成田雲竹の伴奏者となり、行を共にする。津軽の古い歌や雲竹の作曲した新曲に三味線の手を付け、津軽民謡の普及に尽した。
雲竹の付けた竹山の号はこのころから名乗った。
●1961(昭和 36)年 (52歳)
日本民謡協会から三味線技能賞を受けた。
●1963(昭和38)年 (54歳)
キングレコードのディレクター斉藤幸二により、『津軽三味線 高橋竹山』が制作される。初の津軽三味線の独奏の集録だったが、発売2年で7万枚を売り上げる大ヒットとなった。
●1964(昭和 39(年 (55歳)
仙台(塩釜)労音の民謡例会に成田雲竹と共に出演。以後、毎年各地労音に招かれて出演している。
雲竹はこの年、北海道に移住、引退し、雲竹・竹山のコンビは終った。
●1967(昭和42)年 (58歳)
内弟子第一号 伊東竹味(現・高橋竹味)が小湊で内弟子生活に入った。
●1971(昭和 46)年 (62歳)
青森県文化賞を受けた。
民放祭コンクールで RAB製作の「津軽竹山節」がテレビ娯楽部門の金賞を受けた。
●1972(昭和 47)年 (63歳)
上の「津軽竹山節」を元にRABスタッフが製作したドキュメント「寒撥」が文化庁芸術祭 TVドキュメンタリー部門の優秀賞を受けた。
東奥日報社の第25回東奥賞を受けた。
●1973(昭和 48)年 (64歳)
青森県褒賞を受けた。
3月、竹与(=二代目高橋竹山)が内弟子に入る。
12月、東京渋谷のライブハウス「ジァンジァン」で演奏、以後引き続き定期的に出演する。
●1974(昭和 49)年 (65歳)
青森市で演奏生活五十周年の記念独奏会を開いた。
五十周年を記念するレコード・シリーズとして CBSソニーから「津軽三味線 高橋竹山」(その1) (その2) (その3)を出した。
日本民謡協会から名人位を贈られた。
●1975(昭和 50)年 (66歳)
レコード「津軽三味線 高橋竹山」(その4)を出した。
4月、第9回吉川英治文化賞を受けた。
9月、第12回点字毎日文化賞を受けた。
11月、『自伝津軽三味線ひとり旅』初版刊行。
●1976(昭和 51)年 (67歳)
『自伝津軽三味線ひとり旅』を元に、新藤兼人脚本・監督で映画化が決まり、撮影に入る。
●1977(昭和 52)年 (68歳)
映画『竹山ひとり旅』完成。モスクワ国際映画祭に日本代表作品として出品される。
同映画祭に参加。海外で初の演奏。
●1978(昭和 53)年 (69歳)
那覇市で初の演奏会を開いた。
レコード「津軽三味線 高橋竹山」(その5 竹山 1978)を出した。
●1979(昭和 54)年 (70歳)
那覇市に続き、宮古島、石垣島で演奏会を開いた。
●1980(昭和 55)年 (71歳)
2月、沖縄ジァンジァンのオープニング・コンサート出演、続いて奄美大島で初の演奏会を開いた。
●1981(昭和 56)年 (72歳)
レコード「津軽三味線 高橋竹山」(その6「竹山 1981」)を出した。
●1982(昭和 57)年 (73歳)
第3回松尾芸能賞を受けた。
●1983(昭和 58)年 (74歳)
CBSソニーのレコードの集大成「津軽三味線 高橋竹山のすべて」(5枚組)を出した。
勲4等瑞宝章を受けた。
●1985(昭和 60年) (76歳)
韓国のソウルで初の演奏会。
●1986(昭和 61)年 (77歳)
初のアメリカ公演。ニューヨーク、ワシントン、ボルチモア、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、ホノルルなど7都市で10回の演奏会。『ニューヨーク・タイムズ』は「まるで魂の探知器ででもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と評した。
●1987(昭和62)年 (78歳)
佐藤貞樹*5 により、青森県平内町夏泊に「竹山記念資料室」が開設される。
*5 佐藤貞樹:1926〜2001年。1955年青森芸術鑑賞協会の設立にかかわり1981年まで事務局長を勤める。1970年代はじめから高橋竹山の三味線を全国に紹介することに力をそそぎ、1981年以降はこの仕事に専念し、竹山死去まで行を共にする。著書に『おらの三味線いのちの音だ』『高橋竹山に聴く-津軽から世界へ』など。
●1988(昭和 63)年 (79歳)
第8回伝統文化ポーラ特賞を受けた。
●1989(昭和 64、平成元)年 (80歳)
6月、前立腺肥大症の手術、入院治療のため 7月から 12月までの公演予定をすべて延期、初めて演奏活動を休む。
●1990(平成 2)年 (81歳)
1月から演奏活動を再開。6月、満 80歳となる。
●1991(平成 3)年 (82歳)
引き続き、全国を回って演奏を続ける。
●1992(平成 4)年 (83歳)
3月、パリ市立劇場で演奏会。
●1993(平成 5)年 (84歳)
2月 21日、生涯支えとなった妻ナヨ死去。
11月、沖縄ジァンジァンのファイナル・コンサートに出演。 14年にわたって毎年訪れた同劇場での演奏会が幕を閉じた。
●1994(平成 6)年 (85歳)
ディスク・ジァンジァンから演奏活動七十周年ライブの CDを出した。
●1995(平成 7)年 (86歳)
演奏を再開した 90年から毎年数十回の演奏会をこなしてきたが、体調をくずし、この年5月以降の演奏活動を一時中断する。
9月、平内町名誉町民の称号を受ける。
●1996(平成 8)年 (87歳)
5月、喉頭癌と診断され、入院。放射線治療を受けて9月退院。
●1997(平成9)年 (88歳)
1月、高橋竹与が二代目高橋竹山を襲名。渋谷のジァン・ジァンでの襲名披露演奏会に病を押してゲスト出演。
●1998(平成10)年 (89歳、満 87歳)
2月5日、平内町の町立中央病院で、喉頭癌のため死去。
歌手、北島三郎さんの話 「生きることの厳しさを音で表現された竹山さんは、青森で津軽三味線の門付け。私は北海道でギターの流し。親しみと縁を感じていた。彼をモデルにした『風雪ながれ旅』を歌っていることに誇りを持っています。これからは『あなたのことですよ』と呼びかけながら歌います」(産経新聞 1998年 2月 6日付)
[補足]風雪ながれ旅(作詞:星野哲郎、作曲:船村徹、1980年9月日本クラウンより発売)の歌詞
破れ単衣(ひとえ)に 三味線だけば
よされ よされと 雪が降る
泣きの十六 短い指に
息を吹きかけ 越えてきた
アイヤー アイヤー
津軽 八戸 大湊
三味が折れたら 両手を叩け
バチが無ければ 櫛でひけ
音の出るもの 何でも好きで
かもめ啼く声 ききながら
アイヤー アイヤー
小樽 函館 苫小牧
鍋のコゲ飯 袂(たもと)で隠し
抜けてきたのか 親の目を
通い妻だと 笑った女(ひと)の
髪の匂いも なつかしい
アイヤー アイヤー
留萌 滝川 稚内
《主な参考文献》
高橋竹山著『自伝津軽三味線ひとり旅』新書館 1997年(初版は1975年)
松林拓司著『評伝高橋竹山 魂の音色』 東奥日報社、2005年
谷合侑著『盲人の歴史』明石書店、 1996年
(2000年6月12日初版。2014年6月19日2版)